第2話

 額の汗が、台に落ちる。滝のように流れる汗をぬぐう間もなく、ピンポン玉が飛来する。スピンのかかった球体は、カーブしながら飛んでくる。コートへ落ちた瞬間、ハヤトから逃げるように真横へと方向転換する。それに何とか追いついて打ち返すが、スマッシュがやってくる……。


「こうやって揺さぶっていたら、あの強烈な一撃は撃てまい」


「くそっ」


「ほらどうした。もっと動け。そうじゃないとわらわのポイントになってしまうぞ?」


 変幻自在なショットによって、ハヤトは右へ左へ動かされてしまう。第一セットはハヤトがもぎ取ったが、この第二セットは終始魔王のペースだった。魔法がかかっているかのように曲がるピンポン玉に、ハヤトは文字通り手玉にとられてしまっていた。


 そして、またハヤトは空ぶった。


「これで、第二セットはわらわのものじゃの」


「くっ」


「さて、ちょいと疲れたことだし、不戦勝というのもつまらんから、小休止でもしようかの。おぬしも休むがよい」


 そう言った魔王は、ラケットをその場へと残し、玉座の方へ。その足元には、台に偽装した冷蔵庫があり、その中からキンキンに冷えたスポーツドリンクを取って、喉を鳴らしていた。ハヤトには、妖精が近づいてきて、魔法を用いて、同様のスポーツドリンクを取り出していた。


「だ、大丈夫……?」


 返事をすることなくハヤトは受け取り、極彩色の液体を口の中へと注ぎ込む。一気に半分ほど飲み干す。


「これまで戦った中で一番強い……!」


 頭の中に浮かぶのは、魔王城へと至る長い道のりの中で戦ってきた好敵手たち。


 自身をラケットにして戦うスライム、何本も腕をはやした千手観音像、魔王が世界を牛耳る以前から生きていたとされる盲目の仙人、幼少期のハヤトにウスイホンを与えたろくでもない幼馴染……。彼らはみな強敵だった。対戦中、一度だって安心できた試合はなかった。


 だが、向こうにいる魔王はもっと強い。


 ――もしかしたら、オレよりも。


「そんなことはない!」


「そうよ。あんなやつ、ハヤトよりも弱いんだからっ」


 スポーツドリンクを握り締めるハヤトの頭上で、パタパタと妖精が舞う。顔中鱗粉まみれになりながら、応援してくれる妖精に、ハヤトは感謝する。


 彼女がいなければここまではたどり着けなかったかもしれない。


「ありがとうな」


「な、なによいきなり」


「この戦いが終わったら、一緒に――」


「だめよ。それ以上は。フラグになっちゃう」


「…………」


 十二年の歴史ではじめて告白をしようとしたハヤトは、なんだかやるせない気持ちになりながら、卓球台へと戻った。



 ハヤトが卓球台へと戻ったのと同じタイミングで、魔王もまたやってくる。


「休憩は終わったかの?」


「終わったけど、一つやりたいことがある」


「なんじゃ」


「ラケットの交換を行いたい」


 ハヤトは、ラケットもといエロ本を卓球台へ置く。読めないようにされていた包装が破れていた。


「これはラケットのラバーの剥がれに相当する」


「確かに。これでは打つのが難しそうじゃな。あいわかった。交換を認めようではないか」


 ハヤトは、バッグへ近づく。中には無数の本が入っている。ハヤトにとっては、本というよりはラケットだったが、とにかく多様な本がその中にはぎっしりと詰まっている。ほとんどはウスイホンをはじめとしたエロ本だが、これはハヤトの趣味や性的嗜好というわけではなく、幼なじみのものである。なので、そのほとんどは幼なじみものなのだが。


 その中の一冊を手に取り、バッグを閉じる。


「これです」


「確認しよう」


 卓球には、使用するラケットに規則があり、選手は相手のものを確認することができる。これは試合直前でも行われ、魔王はハヤトが手にしていた幼なじみもののエロ本を鼻で笑ったものであったが……。


 その本の表紙を目にした途端、鼻血が垂れた。山から水が流れるみたいにあまりに自然で、ハヤトも妖精も、それどころか魔王自身でさえ気が付いていなかった。


「なんじゃこれは! 男がくんずほぐれつしておるが……」


「それはBLっていうやつなんだって、あいつは言ってたけども」


「ボーイズラブね。……あの子はやっぱり、油断ならないわ」


「どの子とかは知らぬが、ボーイズラブというのか」


 なるほどなるほど。


 そうつぶやく魔王の視線は、まっすぐBL本を向いている。その細い指は、喜んでいるかのように震えている。


「あの」


「なんだっ!」


「や。確認は終わったかなって」


「そ、そうじゃったの。べ、別に気になったとかそういうんじゃないぞ」


「気になったのなら、わたしが貸しましょうか」


「本当かっ。妖精に借りを作るというのは癪だが、後で話の続きをしようぞ」


 魔王は名残惜しそうに、本をハヤトへと返す。受け取ったハヤトは首をひねっていた。彼には、この本のよさどころか、何をしているのかさえわからなかったのだ。だから、裸でもたれかかっている姿を見て疑問に思うのは一つで、すっごい腹筋割れてんなあ、くらいだった。


 卓球台を挟んで、ハヤトと魔王は向き合う。


 ここまでは一対一。次のセットを獲得したものが、この勝負の勝者となる。


 サーブ権はハヤト。これまで通りだったら、筒状にしたエロ本で、叩きつけていたことだろう。だが、これまでのセットで体力を消耗していた彼には、残された力はわずか。全力でスイングしても、当てられるかどうか、卓球台の隅を狙えるかどうかわからなかった。


 ゆったりとしたフォームから繰り出されたサーブ。程よくスピンのかかった球が飛んでいく。


「どうしたのっ!? そんな球じゃ、狙われてしまう――」


「いや、これでいいんだ」


 むしろ、これでいいんだ。


 そうつぶやいたハヤトの前で、魔王が手にするラケットが空を薙ぐ。


 魔王は、ハヤトが手にする本を見ていた。


 BL本を見ていたのだ。


 これこそ、ハヤトの作戦だった。魔王の好きそうなものを、ラケットに用いることで彼女の注意を引き付けようとした。


 卑怯な作戦だ。ずるいとはハヤトも思っていたが、それ以上に負けられなかった。


 世界を救うため、というのもある。


 妖精族の秘宝を取り戻し、妖精族が再びラケットを製造できるようにするというのもある。


 それに何より、負けて、魔王のものになってしまうのが嫌だった。何をされてしまうのかわからないし、怖かった。


「ここまで効果があるとは……」


「卑怯だぞ。そのような下品なものを――」


「今下品って言った?」


「じょ、冗談だとも。だが、そんなので集中できないわらわではないぞ」


 ハヤトは二回目のサーブ。これもまた、サービスエースとなった。


「なぜだ。あのエッチなものがちらついて頭を離れん……っ!」


 これなら、勝てるかもしれない。


 だが、しかし。魔王も簡単には終わらない。BL本の表紙を見たいという煩悩と戦いながらも、なんとかサーブを行い、カットしてくる。満身創痍のハヤトはひょろひょろボールに何とか食らいつき、打ち返す。


 これまでのセットとは、様相が変わっていた。これを大昔の人が見たら、なんて試合だ、と憤慨することだろう。こんなので、世界の行く末が決まってしまうのかと。


 そして、決着がついた。


 10対11でハヤトが第三セットを獲得。


 ハヤトの勝利だった。




 そうして、世界に平和が訪れた。


 この世から魔王という存在はなくなり、魔王軍は解散。魔王城は体育館として一般公開されている。その地下の宝物庫にたくわえられていた、狩られたラケットたちは、わかる範囲で持ち主たちのもとへと返却された。わからないものに関しては、やってきた人たちのためのレンタル品となった。


 魔王中心の世界はなくなり、人々による人々のための卓球が行われるようになった。


 めでたしめでたし。




「あの」


「なんじゃ」


「なんで付きまとうんですか」


「そりゃあ行き場がないからの」


「はあ……。ハロワにでも行けばいいんじゃ」


「おいっ、一回勝ったからっていくらなんでも失礼だぞ。わらわは魔王で――」


「元魔王」


「くそっ妖精族にまでバカにされるとは」


「バカにされたくないんだったら、働きなさい。無職の魔王様」


 少女の怒りの声が、街に響く。


 そのかわいらしい声が、魔王のものだと知っているものは彼ら以外にいない。

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魔王にラケットを奪われたなら本でスマッシュすればいいじゃない 藤原くう @erevestakiba

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