photograph.02 ≪6月9日≫

 キュキュッ――キュイッ――


 誰もいない体育館に響くバッシュの甲高いスキール音が気持ちいい。

 先輩たちも顧問の先生もまだ来ていない。

 私は朝の澄んだ空気と、この音が好きだった。

 部員の中には車のタイヤみたいっていやがる子もいるけど、私には鳥の鳴き声のように聞こえる。

 バスケを始めて三か月。

 初めて買った真新しいシューズをおろした日に、まだ馴染んでいない体育館で最初にこの音に出会ってから、すっかり私のお気に入りになってしまった。

 毎朝この音を聞くと、今日も頑張ろうという気になってくるから不思議だ。


 キュキュッ――


 フリースローラインからジャンプと同時に投げたバスケットボールが、放物線を描いて飛んでいく。

 朝日に反射してキラキラ輝く赤茶色のそれは、着地するまでのたった短い時間だけど、まるで宝石みたいに見えた。

 一瞬遅れて、ボールは吸い込まれるようにゴールの中へ……入らずにリングのフチに弾かれてしまう。

 うぅ……まだまだ練習不足だ。

 ちょっとだけ落ち込む。

 失敗したことをからかうようにバウンドするボールを拾いあげて、もう一度チャレンジする。

 さっきと同じ距離から投げたボールが、今度はぱさっという小気味いい音と共に綺麗にリングを通過した。

 シュートが綺麗に決まる日は、一日が上手くいく。

 そんなことないってことぐらいわかってるけど。

 バスケを始めようって決めたときから、私は自分の中でそう思うようにした。

 きっとその方がわくわく出来るって予感があったから。


 キュイッ――


 私のジャンプに併せてまた鳥の声が鳴る。

 その予感はたぶん気のせいじゃない。

 だって今だけは、こんなにも素敵な時間を独り占めしてていいのだから。


   ***


「あ、おはよー彩花あやか

「おはよ智紗ちさ


 教室に入ると、もう着席していた智沙がすぐに挨拶をくれた。


「今日も朝練?」

「うん、先月からずっと」

「毎日大変だねぇ」

「来週にはテスト期間入っちゃうしね」

 

 白南はくなん中バスケ部は男女共にほとんど毎日朝練がある。

 強豪校というほどではないけど、市内で毎年優勝を争う程度には強いのだ。

 ちなみに去年の女バスの先輩たちは県大会まで進んだらしい。

 それでもさすがにテスト期間は全部の部活がお休みになるので、先輩たちはいつも以上に張り切っていた。


「今年も県大会けんたい出るんだーってすっごい気合入ってる」

「うちのバスケ部ってそんなに強かったんだぁ。なら私もバスケ部にすれば良かったかなぁ?」

「そのぶん練習も結構きついわよ?」

「あははー……そりゃそうだよねぇ。私じゃついていけなそう」

「先輩たちは優しいけどね」


 本人は謙遜けんそんしてるが、智紗はこう見えて運動が苦手な子じゃない。

 小さい頃は私と一緒に男の子に交じって外で遊んでたぐらいだ。

 運動部でもそれなり以上に出来たと思うけど、結局吹奏楽部に入った。

 それはそれできっと楽ではないんだろうけど。


「彩花は頑張り屋さんだー」

「智紗だって吹奏楽部すいぶ頑張ってるんでしょ」

「まだまだ全然だよぉ。基礎練習きそれんばっか」


 そう言って机にぐでーっと倒れこむ。


「彩花みたく毎日朝連とか無理。死んじゃう」

「自分で決めたことだしね。できるだけはやってみるつもり」


 倒れたままの姿勢でそうかそうかぁとにこにこ笑顔を浮かべる智沙に軽く手を振って、自分の席に移動する。

 隣からは周防すおうくんたちが何かの話題で盛り上がっている声が聞こえてきた。

 男バスも一緒に朝練していたはずなのに、先に体育館から戻ってきてたみたいだ。

 男の子は支度が楽そうで少しずるい。

 そんなことを考えながら机にカバンを掛けようと前かがみになったとき、周防くんから見られているのに気付く。

 何だろうと顔を上げたが、すぐに視線を逸らされてしまった。


 「?」


 一瞬見えた表情が、何か言いたげに見えて少し気になる。

 朝練のときに挨拶はしたし、今さら教室でおはようもないわよね。

 たまたま……かな?

 まあそもそも周防くん前髪長くて目よく見えないし。

 部活で割と話すようになったけど、彼のことは正直まだわからない。

 言いたいことことあるなら直接言えばいいのに。


「おーし、お前ら席につけー」


 そうしている内にいつの間に岩崎いわさき先生が教室に入ってきたので、私は心の中のもやもやした気持ちを追いだすことにした。

 けれどその日の放課後まで彼の顔が頭から離れず、結局授業にあまり集中できなかった。


   *


 放課後の体育館は活気に満ちた音であふれている。

 ボールが床を叩く音。

 ラケットがシャトルを弾く音。

 誰かがネットを揺らす音。

 そしてバッシュが床を蹴るスキール音。

 さまざまな音と声が入り交じり、部活動特有の雰囲気を感じさせた。


「シュートは腕全体を使ってー!」

「切り返しもっと速く!足止まってるよー!」


 キュキュッ――ダダンッ!


「はーい! 一年生イチネンしゅーごー!10分休憩ねー!」

 顧問の先生の掛け声が掛かる。

 コートの外へと向かいながら、はぁはぁと上下に揺れる肩を、私は大きな深呼吸で抑え込んだ。

 集まったみんなも同じように肩で息をしている。

 やっぱりテスト休み前だからなのか、今日の練習はいつも以上にきつかった。

 私は他の子たちと一緒に壁際かべぎわへと寄りかかると、カバンから取り出したスポーツタオルで流れる汗を拭う。


「のど乾いたから水飲んでくるけど、誰かいく?」


 そう言ってチームメイトを見回してみたが、みんなもう床までへたり込んでいた。


「あたしパース、立ち上がれそうにないわぁ」

「私も無理ぃ」

「いてらー」


 などなど、誰ひとり立ち上がろうとする様子がない。

 しょうがない、ひとりでいくか。

 そう思い、タオルを手に体育館裏にある水道へ向かう。と、そこに周防くんの背中を見つけた。


 ジャ――――


 蛇口の水を出しっぱなしにして、前屈みで頭から水をかぶっている。

 私には気づいてないっぽい。

 男バスも相当ハードな練習をしていたみたいだし、かなり大変だったのだろう。

 白いウェアは、汗と跳ねた水で肌まで透けて見えるほどだった。

 そう言えばと、ふいに今朝、彼に見られていたことを思い出す。

 あれはいったい何だったのだろうか。


「やっべ、タオル忘れた」

「何やってんのよ」 


 前髪から水を滴らせたまま顔を上げ、ウェアの裾で顔を拭こうとしたので、私はしかたなく手にしていたタオルを渡した。


「さんきゅー……ってあれ、椎堂?」

「水浴びするつもりだったらタオルぐらい持って来なさいよね」

「あーわるい、つい」

「別にいいわよ。もう一枚あるし」

「……」

「言っとくけど使ってないやつだからね」


 受け取ったタオルをじっと見つめる表情が何か言いたげに見えたが、私は気にせず蛇口の水に口をつけることにした。


「……そういや椎堂って、朝早いよな」


 ぽつりとこぼすように彼がつぶやく。


「いやみ? 今日はHRぎりぎりだったけど?」

「そっちじゃなくて朝練の方。体育館のカギ開けてるのっていつも椎堂だろ?」

「知ってたの?」

「顧問に聞いた。それと前にひとりで練習してるの一回だけ見たし」


 どうやら周防くんにはこっそり練習してるとこまで見られていたらしい。

 許可は貰ってるし、別に隠してるわけじゃないからいいんだけど……。


「頑張ってんだなって」

「しょ、初心者なんだから練習するのは当たり前でしょ」


 秘密が知られたみたいで、私はちょっとだけ気恥ずかしかった。

 うぅ……なんだか顔が熱くなって困る。

 ストレートに褒めないで欲しい。


「そんとき思ったんだけどさ。誰もいない体育館って、いったいどんな気分なんだろうなって」

「どんな気分……んー、まあ気持ちいい、かな?」

「そっか」


 そういうと口をつぐむ。

 結局何が言いたいんだろうか?

 思い切って顔を覗き込んでみたが、今朝と同じようにまた視線を逸らされてしまった。


「そんなに気になるなら、周防くんも来てみれば?」

「い、いいのかよ」

「いいんじゃない? って言うか、私がダメっていうのもへんでしょ」


 その態度で、なんとなく察した。

 あぁたぶんこの人は、私の邪魔をしたくなくて言えなかったんだ、と。


「なーんだ、そんなことならもっと早くに言ってよね」

「前から言おうとは思ってたんだけど、なんか言い出しづらくってさ……」

「……っぷ、なにそれ」


 拗ねるようにそっぽ向く顔に、つい堪えきれず吹き出してしまう。

 体育館は誰のものでもないんだし、そんなこと別に気にしなくてよかったのに。

 そう思うと彼の気遣いが無性におかしかった。


「っ!……笑うなよ!」

「だって。あはは、あーおかしっ」


 私がなにかに悩むのと同じように、この人も些細ささいなことで悩んでる。

 普段は見せない表情に、私はちょっとだけ彼のことがわかったような気がした。


 笑いすぎてあふれた目じりの涙を指で拭うと、ちょうど顧問の吹くホイッスルが耳に届いた。


「彩花ぁー休憩終わりだってー」

「ごめーん、今行くー」


 遠くから聞こえるチームメイトの声に返事をして彼を振り返る。


「六時半にはいるから! 遅れないでよ♪」


 朝からあったもやもやは、もうすっかりどこかにいっていた。



   ***


 キュキュッ――キュイッ――


 誰もいない体育館に響くバッシュの甲高いスキール音が今日も気持ちいい。

 先輩たちも顧問の先生もまだ来ていない。

 私は朝の澄んだ空気とこの音がやっぱり好きだ。


「おはよう、椎堂」


 光が差し込む扉から、片手を上げた周防くんがゆっくり歩いてきた。

 あれ以来、彼は毎日必ず六時半に体育館に現れる。


「おはよう、周防くん」


 だからこの素敵な時間はもう独り占めではなくなってしまったけれど。

 これはこれでわるくないかなって、私はいつの間にかそう思うようになっていた。

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