煙草と顔の良い女

赤崎弥生

煙草と顔の良い女

「煙草吸う顔の良い女に、ろくなやからはいないんだって」

 いつものカウンター席に腰掛けて人心地ついたばかりの私に、敷島しきしまさんが突拍子もないことを言ってきた。

「なんですか、急に?」

 敷島さんは質問に答える前に、冷えた烏龍茶とたっぷりの氷をグラスに入れて私の前にコトンと置いた。

千星せんぼしちゃん、また別れたでしょ」

 その一言で察しがついた。グラスに口をつけて乾いた喉を潤してから「結月に聞いたんですか?」と訊ねると、敷島さんは頷いた。

「今どき電子じゃなくて紙巻き吸ってる時点で最低。実利よりも上辺の格好良さを気にしちゃってるタイプ。でもそういうところが好きだったんですけどね、とのこと。他にも色々吐露されたけど、聞きたい?」

「聞きません。そういうの一々報告しないでいいですから。嫌味ですか?」

「嫌味と言うより、恨み言かな。お客さんの色恋沙汰に一々首を突っ込んだりする気はないけど、泣き言を聞かされるこっちの身にもなって欲しいなっていう愚痴」

 敷島さんはもう一つグラスを取り出して自分のぶんの烏龍茶を用意すると、私の右隣の席へと置いた。カウンターからぐるりと回って客席に腰を下ろすと、隅に置かれていたノートPCを手前に持ってきて、何やら作業をし始める。常識的に考えればマスターが客の隣でパソコンを弄りだすなど言語道断なのだけど、今は平日の昼下がり。開店時間前なので他の客の姿はないし、そもそも今日の私は客として店に来たわけでもなかった。

「本当、千星ちゃんって長続きしないよね。三ヶ月以上、続いたことってあったっけ?」

「なかったと思います」

 敷島さんと知り合ってからは、と心の中だけで付け足す。

「告白されるのも別れを切り出されるのも相手から。千星ちゃんの恋愛って、いつもこのパターンだよね」

 顔はPCに向けたまま、目線だけを私の方に向けてくる敷島さん。私はまあ、と曖昧な返事をしながら、視線を机の上へと落とす。

 そのとき、敷島さんのスマホに着信が入った。敷島さんは一言断りを入れてから電話に出ると、普段よりも真剣味の増した声で、はい、ええ、と相槌を打ち始める。

 通話は一分ほどで終わった。敷島さんはスマホを耳から話すと、申し訳無さそうな表情を向けてきた。

「ごめん。なんか電車が人身事故で遅延してるらしくて三十分くらい遅れるみたいなんだけど、大丈夫?」

「そのくらいなら問題ないです。待ちますよ」

 敷島さんは近いうちに店内のテーブルや食器を新しくするつもりらしく、その調達をプロのインテリアデザイナーに依頼していた。今日はデザイナーの人が打ち合わせに来ることになっていて、私が呼び出されたのはそれに同席するためだった。本来ならただの客に過ぎない私の出る幕ではないのだけれど、常連の意見は参考にしたいから、と敷島さんに頼まれたのだ。

 常連と呼ばれることに異存はないけど、私よりも古参で来店頻度の高い人はちらほらいる。お願いされたときには何故私なのだろうと疑問に思った。でも、ちょっと考えてみればその理由は明らかだった。私以外の常連は皆、髪色は黒か大人しめの茶髪だし、爪にもトップコートくらいしか塗っていない。要するに、平日昼にオフィスに出社するような仕事をしているのだ。対する私は髪はロングのインナーブルーで、爪にはサロンでやってもらった凝ったネイルが施されており、耳には動く度にジャラジャラと音を立てそうな派手なピアスが垂れていた。オフィスに出向く類の職種に就いているようには見えないし、実際その通りだった。

 敷島さんとはかれこれ三年近くの付き合いになるけれど、明るいうちに二人きりで顔を合わせるのは初めてだった。とはいえ沈黙が苦になるほど初々しい関係というわけでもないので、スマホを弄りながら適当に時間を潰す。

「あのさ。千星ちゃんって、他に好きな人いるでしょ」

 敷島さんが不意に沈黙を破った。

 私は何も答えなかった。グラスの中の氷が解けて、カラン、という音がした。

「やっぱり図星か」

「別に、図星ってわけじゃ。もう昔の話ですし」

「昔の話であっても割り切れているわけではない、と」

「それは、まあ……そうなのかも知れませんけど」

 歯切れ悪く言いながら、グラスの中の烏龍茶を一息に飲み干す。アルコールが入っていないのが恨みがましかった。

「で、どんな人なの。その人って」

「客の色恋沙汰には首を突っ込まないんじゃなかったんですか?」

「だって、時間空いちゃったから」

「人の過去を暇潰し扱いですか?」

「いいんだよ、そのくらいで。過去ばかり大切にして今を疎かにするよりは、暇潰しのネタにした方がまだ生産性があるでしょ」

 眉をひそめる私に対し、敷島さんは軽快な笑みを浮かべながら言ってくる。私はわざとらしくため息を吐いてから、「大して面白い話じゃありませんからね」と前置きを口にした。

 悔しいけど、何も反論できなかったから。


 私が先輩と出会ったのは、入学間もない四月の下旬。複数のサークルが合同で行う新歓コンパでのことだった。私としてはコンパなんて行きたくも何ともなかったのだけど、同じ学部の女子たちに誘われてしまったものだから断るに断れなかった。

 コンパの雰囲気自体はそこそこ平和的なものだった。未成年なのにお酒を勧められることもなかったし、誰かが持ち帰られたみたいな話を後から聞いたりもしなかった。でも上級生の中には品定めするような目線を向けてくる人もいて、他の子たちの中にはそれを理解した上で自分のことをよく見せようとしているような子もちらほらいた。昔からそういう空気が苦手だった私には、場の雰囲気はあまり居心地のいいものではなかった。

「お手洗い行って来ます」

 独りごちるように言って、席を立つ。トイレは店の奥の方にあった。用を済ましてお手洗いから出たはいいものの、あの空間に戻ることを考えると廊下から足が進まなかった。

「どうしたの、君?」

 顔を上げた瞬間、呼吸が止まった。

 髪はインナーカラーのブルー。爪には華美なジェルネイル。両耳には大きめのピアスがジャラジャラと揺れている。

 その人の姿には見覚えがあった。でも、知り合いというわけでもなければコンパの参加者というわけでもない。カウンター席で一人で飲んでいた女の人だ。傍目にも目立つ装いをしているものだから印象に残っていたのだ。こうして相対してみると身長が高いことにも気付かされるけど、威圧感はあまりない。派手な髪型やアクセサリーに反して服装はスラックスにジャケットという上品なものだったし、袖口から覗く手首は細くて、大柄と言うより華奢で儚げというイメージを抱かされた。

 茫然と立ち姿を観察していた私だけれど、その人の手に煙草とライターが握られているのに気づいたところで我に返った。どうやら喫煙室の入り口を塞いでしまっていたらしい。

「ごめんなさい、今どきます」

「待って。君、あそこのコンパにいた子だよね。なんか居心地悪そうにしてたし、ちょっと休憩していけば? 今は他に誰もいないし」

 初対面の人間と閉鎖空間で一対一になる。そんな状況を甘んじて受け入れたのは、席に戻るのが嫌だからというだけの理由では、恐らくなかった。

 その人は喫煙室に入るや否や、煙草をジャケットのポケットの中にしまった。

「吸わないんですか?」

「そりゃ、非喫煙者の隣だし」

「すみません。気を使わせてしまって」

「いいって。私から声かけたんだから」

 先輩は私と同じ大学の学生で、数学科の四年だという。「数学科って何してるんですか?」と訊いてみたけど、話の内容は何一つ理解できなかった。私には想像もつかないような凄いことをやっているんだろうと雑に纏めて、話題を次に移した。

「この店には良く来るんですか?」

「まあね。私、大学生の飲み会の喧騒を肴にお酒を飲むのが好きなんだ。特にこの時期のコンパは最高。誰も彼もがアピールに必死なところが面白くって。本人的には上手くやってるつもりなのかも知れないけど、外から見るとだいぶ露骨だからさ。見てて楽しいんだよ」

「それ、曲がりなりにも参加者の私に言いますか?」

「別にいいじゃん。君だって、どっちかって言うと私側でしょ」

 ニヤリ、と悪戯じみた笑みを浮かべる先輩。出会ってからものの数分で同族扱いされたというのに、不思議と悪い気はしなかった。私はまあ、と曖昧な返事をしながら笑い返した。

 だけど先輩は、私の理解よりも更に深い領域でその言葉を発していたらしかった。

「君はそもそも、男よりも同性に興味があるタイプだよね。違う?」

「え? ち、ちが――」

「大丈夫。私もそうだから」

「……そういうの、わかるものなんですか?」

「わかったりわからなかったり。君の場合は、私のこと結構ジロジロ見てたからさ。それでなんとなくね」

 顔面が急速に赤らんでいくのがわかった。確かに見てた。格好いい人だったから。でもまさか、背中を向けている人間に勘付かれるほどあからさまだったとは。

「で、この後はどうするの? まだあそこに居座るつもり? あんまり長居してると、流れで二軒目とかまで連れ込まれる羽目になるけど」

 私の内心での悶絶など知りもせず、先輩が平然と訊いてくる。或いは、知っているからこそ話を振ってきたのかも知れないけれど。

「嫌なら帰っちゃいなよ。遅くなるといけないからとか適当に理由つけてさ。ああいう多人数の飲み会は面子が一人減ったところで誰も気にしないよ」

 私は先輩の助言のままに、置きっぱなしにしていた荷物を回収して店を出た。先輩が言った通り、特に引き止められることもなかった。先輩もちょうど店を出るところだったので、流れで駅まで送ってもらった。

 帰りの電車に揺られている間中、やけにふわふわとした感覚に襲われた。白昼夢でも見せつけられたみたいに現実感が抜け落ちていた。もしかしたら先輩との出来事は全て妄想だったんじゃ、とさえ思った。

 翌日、先輩と大学構内でばったり顔を合わせたことでその疑念は払拭された。ばったりといっても何の用事もないのに数学科の建物の近くをふらついていたから、限りなく故意に近い偶然ではあったのだけど。

 相手の姿を先に見つけたのは私だった。でも、話しかけに行くつもりは毛頭なかった。自分から声をかける勇気はないし、付き纏われたと思われるのも嫌だから。

 なのに先輩は私に声をかけてきた。意外だった。私が先輩を見落とすことは万に一つもないだろうけど、先輩が私に気づくのもそれと同じくらいの確率でないだろうと考えていたから。

「もしかして、私に会いに来てくれたの?」

 そんな台詞が許されるのは物語の中だけだと思っていた。だけど先輩の声帯から発せられたその言葉は、決して気障ったらしいものではなかった。

「千星ちゃんは私と友達になりたいの? 確かに、年上の知り合いがいたほうが何かと便利なことが多いからね。連絡先、交換する?」

 私は両頬を軽い赤色に染めながら神妙に頷いた。

 それから一ヶ月ちょっとで私達は付き合い始めた。告白は先輩からだった。

「千星ちゃんって、私のこと好きだよね」

 告白の台詞は提案でも疑問形でもなく、断定だった。

「いやその、……別に好きとか、そういうわけじゃ」

「違うの?」

「違くはない、ですけど」

「なら、付き合う?」

「で、でも、いいんですか? 私なんかで」

「じゃなきゃ、最初から声なんかかけてないって」

 先輩は柔和な笑みを浮かべながら私の右手を取ると、強張った心を熱で溶かすかのように、手のひらをそっと包み込んできた。私は「お願いします」と細い声で言いながら、恐る恐る先輩の手を握り返した。

 そうして私たちは付き合い始めた。入学したての私はともかく先輩は四年だ。大学院に進む予定だったから就活の必要はなかったけれど、院試や卒論でそれなりに大変な時期ではあったはずだ。それなのに先輩が多忙を理由に私との時間を減らすことはなかった。休日は定期的にデートに連れて行ってくれたし、ラインだってその日のうちに必ず返信が来た。

 先輩は色々なものに拘りを持っている人だった。そのうちの一つがお洒落だ。ファッション誌からそのまま飛び出してきたような平凡な格好の私と違い、先輩の出で立ちは常に個性的で己の感性を貫いていた。

「ファッションは自己表現の一つだからね。世間の評価に合わせるんじゃなくて、あくまでも自分の感性を貫かなきゃ意味ないよ」

 先輩の恋人であるからには、先輩に並び立つに相応しい私にならなきゃいけない。無難さばかり追い求めていた私のファッションは、先輩との交際を機に一変した。髪はお揃いのインナーカラーにし、ピアスホールも開けてもらった。コスメや服も背伸びしたものを選んだ。ネイルサロンにも行くようになり、毎月のバイト代のほとんどは美容関係へと消えた。有り触れた女子大生Aでしかなかった私の容姿は、みるみるうちに世間一般のスタンダードからは外れていった。

 私の変化は外見上のことだけに留まらなかった。それまでは小説や映画にはあまり興味を持っていなかったけど、先輩の言及した本や映画には必ず目を通すようにした。音楽の趣味もガラリと変わった。それまではトップチャートの曲を聞き流すだけだったのに、プレイリストはいつしか海外のロックバンドで埋め尽くされるようになっていた。

 二十歳になってからは煙草も始めた。銘柄は、先輩が吸っているのと同じハイライトのメンソール。初めて吸ったときは盛大にせて先輩に笑われた。

「だから言ったじゃん。最初ならもっと軽い煙草にしとけって。というか、今どき煙草なんて吸う必要ないと思うよ」

「でも、先輩は吸ってるじゃないですか」

「私はもう後戻りできないところまで来ちゃったから」

 やめられないんだよ、と言いながら先輩は先端が橙色に染まった煙草を口先に持っていき、ふぅ、と静かに紫煙を吐いた。私がやるとギャグにしかならない所作でも、先輩がやると見惚れてしまうほど様になっていた。私はその後も煙草を吸う先輩の横顔を眺めるためだけに、呼吸器と財布に無用なダメージを与え続けた。

 ハイライトを美味しいと感じるようになる頃には、付き合ってから二年以上が経っていた。その二年間で、私は別人に生まれ変わったと言えるほどの変化を重ねた。だけど先輩の方は変わらなかった。いかなるときも確固たる自分を持っていて、芯がぶれることはなかった。

 ああでも、一度だけ例外がある。付き合って半年くらいのタイミングで、爪を短く切ろうかと申し出てきたことがあるのだ。あのときは私が断固拒否した。私のために先輩の美しさが損なわれるようなことがあってはならないと思った。だから先輩は、するときには指よりも舌を使ってくることが多かった。指を使う場合にも、爪が当たらないよう指の腹で注意深く私の身体を撫でてきた。私なんかのために自らの在り方を変えようとしたのは遺憾だけれど、たった一度の例外を私のために使ってくれたことは、素直に嬉しい。単なる一方通行の憧憬じゃなく先輩の方でも私を大切にしてくれているんだって、初めて実感を持てたから。

 先輩は修士二年になっても就活を始めることはなかった。企業に就職するのではなく、博士課程に進んで研究を続けることを選んだからだ。来年以降も先輩が同じ大学にいてくれることも嬉しかったけど、それ以上に先輩が普通の人とは違う進路を選んでくれたことが誇らしかった。

 だけど結局、次の一年を先輩と過ごすことはなかった。

 先輩の博士課程への進学が無事に決まった時分のことだ。急に電話をかけてきた先輩から、「実家に帰らなきゃいけなくなった」と告げられた。何でも、実家の母親が倒れたらしい。いつだって余裕のある話し方をする先輩がそのときばかりは切羽詰まった声で話をしていた。先輩が母子家庭だということも実家が栃木だということも、私はこのときに初めて知った。

「他に面倒を見られる人もいないから、しばらくはあっちにいることになると思う。いつ戻れるかはわからないけど、落ち着いたら連絡するよ」

 続報があったのは三日後だった。命の危機はどうにか脱したようだけど、日常生活に戻るのはまだ難しいようだった。入院の面倒を見るためにも、夏休みの間は実家に滞在するとのことだった。

「ごめんね。旅行に行く約束とかもしてたのに」

「お母さんの病気なら仕方ないですよ」

 夏休みが終わってからも、先輩が東京に戻ってくることはなかった。十月の半ば頃に、博士課程への進学は取りやめて地元で就職することにした、と電話越しに告げられた。

「でも、修論はどうするんですか」

「問題ないよ。数学科は研究室で実験する必要があるわけでもないし、こっちでも充分書けるから。単位数も足りてるし、卒業に差し障りはないよ」

「そう、ですか」

「来月にはそっちの家も引き払うことにしたから。引っ越しの準備とか手伝ってくれると嬉しいんだけど、頼めるかな」

「わかりました。手伝います」

 荷造りの日、私は二ヶ月ぶりに先輩と顔を合わせた。頬が少しだけ痩せているような気はしたけれど、メイクも服装もちょっとした仕草も二ヶ月前の先輩と差はなくて、そこについては安堵を覚えた。

 先輩の部屋には幾度いくどとなく泊めてもらったことがある。貸りたことのある本や二つセットで揃えた食器を段ボールに詰めていく作業は、先輩との思い出を埋葬する儀式にも似ていた。

 引っ越しが済むと先輩は早速、就活を始めた。時期的には相当遅れていたけど、一ヶ月と経たずに地元の金融系の企業への就職が決まったと連絡があった。先輩の声を聞くのは引っ越しのとき以来で、これからはもう少し頻繁に通話ができるようになるかなと期待した。でも、先輩からの連絡の頻度が元に戻ることはなかった。当然だろう。普通の人間なら修論だけで手一杯のところに、母親の入院の世話までしているのだから。

 その後は一度も顔を合わせることなく、新しい春を迎えた。四年に進級した私には院試と卒論が、先輩には社会人一年目としての新生活が待っていた。義務のように続けていた一日一度のラインは、徐々に滞りがちになっていった。一日一度が数日に一度になり、一週間に一度になり、いつしか音信不通になった。

 これが私と先輩の恋の顛末。

 物語られる値打ちもないほどに、凡庸で凡俗な幕引きだった。


「……なるほどね」

 相槌を挟むこともなく話に聞き入っていた敷島さんが、長々と吐息を漏らした。安酒をあおるような仕草で氷の溶けた烏龍茶を喉奥に流し込むと、「その先輩、何て言うの?」と訊いてきた。

「瀬名瞳です」

 先輩を名前で呼んだことはただの一度もなかったな、と今更のように思い出す。こっそり名前で呼ぶ練習をしたことはあったし、先輩が卒業したら名前呼びに移行しようと密かに企んでもいた。けど、その機会が来るより先に関係が途切れてしまった。

「……嘘でしょ。そんなことってある?」

 敷島さんがやけに茫然とした声音で言った。「どうしたんですか」と訊ねると、PCの画面を無言でこちらに向けてきた。液晶にはメールが表示されている。文面から察するに、例のインテリアデザイナーからのメールだろう。

 何の変哲もない事務的な連絡だった。だけど最下層の署名欄には、瀬名瞳という名前が確かに表示されていた。

「どう思う?」

「どうって……。いや、流石に偶然だと思いますけど。そんなに珍しい名前じゃないし、先輩の仕事って金融関係のはずだし――」

 カラコロン、と店のドアが開く音がした。

 反射的に後ろを向いて、私は言葉を失った。

「すみません。遅れてしまって」

 そこにいたのは先輩だった。だけど私が絶句したのは、現れたのが先輩だったからではない。

「……先、輩?」

「え、嘘。もしかして、千星ちゃん?」

 その声は、在りし日の先輩のそれと寸分たりとも違いはなかった。でも走って息が切れているせいか、首を絞められた小鳥みたいに情けなく掠れていた。

 それで私は目眩を覚えた。かつての先輩なら、そんな無様な声を他人に聞かせることは絶対になかった。

 変わったのはそこだけじゃない。今の先輩は髪を染めてもいなければ、ピアスだってしていない。袖を通しているのは何処にでもある量産品のビジネススーツで、街を歩けば三十人は同じ格好の人間が見つかること請け合いだった。

 誰よりも個性的で誰よりも魅力的だったあの頃の先輩は、見る影もなくなっていた。にも拘わらず先輩が先輩であると気がつけたのは、皮肉としか言いようがない。

 重苦しい雰囲気の打ち合わせが一段落すると、敷島さんが適当な理由をつけてバックヤードに引っ込んだ。

 ややあって、先輩は怖々といった様子で口を開いた。

「本当に、千星ちゃんなんだよね?」

「そうですよ」

「その、ごめんね。連絡とか取れなくて。あの後、スマホ落としちゃって。新規契約したは良いけどメアドも番号も覚えてないし、こっちに戻ってくる機会もなかったから」

 ばつが悪そうに弁明の言葉を述べる先輩。嘘か本当かはどうでも良かった。それよりも、先輩が覇気のないオドオドした態度で話してくることの方がよっぽど腹立たしかった。

「別にいいですよ。気にしてないです。それより、こっちに戻ってきてたんですね。お母さんはどうされてるんですか」

「二年前に亡くなった。そのままあっちに住み続けてもよかったんだけど、どうせ引っ越すなら東京に戻ろうかなと思って。金融業界からはそのときに足を洗った。給料はまあまあ貰えるんだけど、あんまり性に合わなかったから」

 軽く会話したことで緊張がほぐれたのか、先輩が少し砕けた口調で「でも良かったよ」と言葉を続けた。

「ビアンバーに出入りしてるってことは、他の出会いも色々あるってことだよね。気にしてはいたんだよ。自然消滅みたいな別れ方になっちゃったから。引きずっちゃってたりしたら申し訳ないなって」

「まあ、昔の話ですから」

「それにしても、千星ちゃんは全然変わらないね。もう三年も経つっていうのに、あの頃のままみたいだ」

「先輩は、随分と変わりましたね」

「そりゃ、人と接することの多い仕事だからね。いつまでも学生みたいな格好しているわけにはいかないし。とにかく安心したよ。千星ちゃんもちゃんと新しい人生を送れてるみたいで」

 ピキン、と。心臓の深いところに亀裂が走る音がした。

 新しい人生を送れてる?

 なわけないだろ。まともな人生送れてるのは、先輩の方だけだ。

 先輩にはわからないだろうね。先輩みたいな優秀な人間に魅入られた凡人が、どんな末路を辿ることになるのかなんて。

 先輩とのデート以外はバイトばかりしていたから、私の成績は最悪だった。どうにか留年は免れたけど院試は落ちた。そのせいで就活する羽目になって、だけど先輩に幻滅されるのが嫌で爪も髪もそのままで面接に行ったから、内定は全く出なかった。最終的には就職を諦めてフリーランスで仕事を始めた。コネも実績も何もないから依頼は片っ端から受けざるを得なかった。割の良い案件が回ってくることなんてなかったし、まともに寝られる日なんて殆どなかった。一人暮らしだったから経済的にも苦しかったけど、親との関係は冷え切っていた。実家に助けを求めることはできなかった。それでもどうにか生活を立て直してビアンバーに来られるくらいの経済と精神の余裕ができて、また恋愛を始めてみたりもした。だけどそこでも上手くいくことはなかった。私の心はあの頃からずっと、先輩に囚われ続けていた。

 私を好きになってくる子の姿は皆、先輩と出会ったときの私と重なった。かつての私と同じなのだから、その子達が望んでいることは手に取るように理解できた。私は記憶の中の先輩を再現するように、恋人達と接した。だけど所詮、偽物は偽物だ。最終的には化けの皮が剥がれて、本当の心はここにないのだと気づかれて全てが終わった。

 過去のことだと割り切って、先輩と出会う前の生き方に戻れば良いのだと頭では理解していた。だけどそれは先輩への背徳のように思えた。先輩と過ごした歳月を穢してしまうことだけは嫌だった。何もかも上手くいかない人生において、先輩といた時間だけが意味のあるものだったから。

 なのに先輩は、いとも容易く過去の自分を裏切った。

「ちょっと、煙草吸ってきます」

 おもむろに席を立つ。先輩はにわかに面食らった顔をしながらも、行ってらっしゃいと当たり障りのない台詞を吐いた。

 ドアの前でわざとらしく足を止めて、あ、と呟く。

「火、持ってくるの忘れちゃった。先輩、借してもらってもいいですか?」

「ごめん。私、もう煙草やめたんだ」

「そうですか」

 扉の閉まる音を背中で受ける。

 煙草の箱を取り出すと、十本以上も中身が残ったそれを全力で握り潰した。そのまま側溝に放り捨てようとして、寸前で思い留まる。折れ曲がった煙草を無様な手付きで取り出して、ジッポーで火を点ける。

 ハイライトのメンソールは、相変わらず美味かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

煙草と顔の良い女 赤崎弥生 @akasaki_yayoi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ