戦場で女児と話をする話

馬人

第1話

 目を開けると、雲一つない空があった。

 橙と空色のグラデーションに彩られたそれは、少女に今が夕刻であることを知らせている。しまった、と少女は歯噛みをした。彼女の最後の記憶は日が真上から降り注ぐ昼間のものだ。どうやら長い間気絶してしまっていたらしい。

 鼻腔をくすぐるのは、鉄錆の匂いと、臓物の腐る鼻の曲がるような匂い。気絶する前はうだるように聞こえていた鬨の声はすでに聞こえない。戦闘はすでに終わった後のようだ。

 少女は帝国貴族の人間であった。父と母の名を背負って戦場に来ている。このようなところで寝ていたとあっては、その名に障る。そう考えて、少女は体を起こそうとした。顎と同じくらいの長さまで伸ばした髪が、何かでべたべたに濡れている。体はわずかに浮き上がっただけで、いう事を聞かない。それでも無理やり力を籠めると、胸から上だけがわずかに動いて、空だけを映していた視界に、黄土色の大地が映りこんだ。

 視界の先に、黒い服を着た女が歩いているのが目に入る。王国の農奴だろうか。だとすれば見つかるのはまずいかもしれないが、まず間違いなく彼女は今の戦況を知っている。いざとなれば彼女くらいならなんとかできるという自負が、少女の恐怖を上回った。

「もし」

 その女に呼びかけるつもりで声を出す。喉元から出た声は自分でも驚くほどかぼそくて、そのくせそれだけでどっと少女の力を奪い去っていった。

 再び地面に崩れ去るように横になって、それだけでひどく痛む全身にうめき声をあげる。声にならない声を上げて天を見上げる。また二色の空が彼女を見下ろした。そして驚くほど静かだった。戦争はどうなったのだろうかという事ばかりが気になった。

しばらくそうしていると、視界の端に青白い顔の女が顔をのぞかせた。不健康そうというよりは、何か心苦しいものを抱えているような顔だった。もとは血色の良いであろう肌から、血の気がすっかりと引いてしまっていた。長い髪が戸張のようにその顔を覆ってしまっていて、そのせいで少女の視界が黒く塗りつぶされた。まるで世界が小さくなってしまったようだった。天幕の中に、女と少女が二人ぼっちでいるような。

その顔には覚えがあった。

初めて父親が鹿を解体している所を見た後、鏡で見た自分の顔だ。

「…………。ここは女子がいらっしゃるような場所ではございませんよ」

 そのなんとも情けない顔に、戦況を聞くという目的も忘れて、同情と心配が先に出た。

 覗き込んだ女の顔が少しだけ微笑む。

「あなたとて、そうでしょうに」

 そうおかしそうに女は笑って、彼女の傍らに座り込んだようだった。女の姿は視界の端にかすかに映るだけになり、視界は再び何もない空に向けられる。そのまま何をするでもなく、そこにいる女に、少女はたまらず声をかけた。

「……、なにか?」

「お気になさらないでください」

 女はそう言ってすっかりと少女の横に腰を下ろしてしまったようだが、恥ずかしいところを見られているという自覚のある少女はどうにも落ち着かなかった。父親に預けられた屈強な部下たちに見られたらなんと言って追い返そうか、とため息をついた。

「お嬢さんは、帝国の方なんですか?」

 横の女がそう聞いてくる。

「ええ、はい」

 喉に何かが詰まったようにかすれた声で、少女は答えた。自分でも驚くほど声に力がない。立てない以上、頭に何か打撲でも受けて気絶をしていたのだろうけれど、ここまで体力を持っていかれるとは思わなかった。戦場は普段の常識が通用しないとは、よく言ったものだと感心する。

「なので、首を欲しければお取りなさい」

 そう言えば、と言った具合で少女は言った。もちろん、おとなしくとられてやるつもりなんてないのだけれども。こんな姿をさらしている事への、それはささやかな抵抗だった。

「いえ、かまいませんよ」

 対して、女はそうやって笑みを浮かべた。さっきから女は薄い笑みばかりを浮かべている。遠慮がちな笑みだった。なにか、自分の心を押し殺しているような。戦場に出たらすぐに死んでしまうような顔だ、と少女は思った。一昨年亡くなった、三つ上の従兄弟の顔に似ていた。

「残念です」

 あなたが私の首を取れば、かなりの賞金になっただろうに。続けようとした言葉は、喉に詰まって出てこなかった。

「あなたはどうして戦場へ?」

 その代わりとでもいうように、女が口を開く。

 そんなこと、考えたこともなかった。

「……、私には、国民を守る義務がありますので」

 それでも口を開かないのはあまりにも失礼だと思い、少女は何とか自分の中にある感情を言葉にして口に出す。

「でもそれは、男のやることでしょう?」

「それは……、貴族でないものは、そうかもしれませんが」

 あなたのような、とは、言わなかった。

「ですが、私は違います。私には、責任も、義務もある」

 幼いころから、戦場でのふるまいを学んだ。戦場に立つための技術も、知恵も、すべて両親から与えられて、今の少女の中に蓄えられている。だから、少女が戦場に立つのは当然なのだ。彼女はそのために生を受け、そのために今まで生きてきている。

 ……。戦場に立つことがないのなら、それは、もちろんその方がいいのだろうけど。

「恐ろしくは、なかったのですか?」

「無論」

 女からの言葉に若干の同情を感じて、少女は鼻白む。自国の領民に言われれば、兄や父親が激高したであろう言葉だった。

「私は自分の生まれに誇りを持っています。戦場での武勇への覚悟も気概もあります」

 この女は敵国の人間だ。兵士ではないし、彼女が殺さなければならない人ではないが、女にとって少女はそうではないはずだ。それを殺さないでいるのは、それこそ彼女の同情や、哀れみの感情があるからだろう。

 少女は、この女の優しさに生かされている。

 それでも。

「私の生を、そのように侮辱されるのは不快です」

「…………。では、あなたは自分の人生に悔いはなかったと言えますか?」

 女は、そう少女に聞いて。

 それに、少女は答える。

「ええ、私はそのように生き、そのように死ぬのです」

「今の今、死んだとしても?」

「ええ」

 むしろ、こうやって敵国の人間の前でだらしなく寝そべっている今の方が屈辱だ。ここには誇りはない。許しはない。屈辱だけがある。それは、少しだけ恐ろしかった。

「そうですか……」

 女は、そう言ってため息をついた。

「私にはない生き方です」

 そうつぶやく女を、少女は、それはそうだろうと見上げる。

 長い髪に、薄く装飾のない黒い服。女は、見る限り上流階級の人間ではない。農奴かとも思ったが、近くで見るとそれらしい泥臭さもなかった。きっとこのあたりを通りかかった商人か何かだろう。そのような人間に、少女の気高さは分からないだろうし、理解する必要もない。女はまだに少女が日ごろ守るべきだと教えられてきたような人間で、そうか、それは王国も同じなのだな、と少女は思った。

「手を握っても?」

 何かを考え込むように黙っていた女が、思い出しように少女に言う。少女に断る理由はなかった。暖かく、柔らかい女の手のひらが、少女の手に当たる。そういえば、手を握られるのなど何年振りなのだろうか、と少女は思った。

「暖かいの、ですね」

「ええ」

 うわごとのように呟いた彼女に、なにが、と問うことはなく女は笑う。その姿は、やはり戦場にいるには全く似合っていなくて、それが何だか、無性に悲しかった。

「……、事情までは、お伺いしませんが」

 なんというか、女はまるで、少女の見る、国民と同じ人間みたいだったから。

「戦場においでになるのは、もうおやめになられた方がよいかと思います。ここは……、あなたのような人が来るべき場所ではありません」

 視界の中、それを薄く笑いながら聞いている女に、少女の言葉は、届いているのだろうか。そう考えていた時に、視界の端に、彼女が胸から下げていた首飾りが目に入った。

 神からの、加護を願う、十字をかたどった金細工。

「神も、あなたのような人間が戦場に出てくることを望まれてはいませんよ」

 女は、それに少し悲しそうな目で応じた。

「あなたは、神を信じているのですか?」

「ええ、もちろんです」

 そう答えた声は、かすれてしまってなんと言っているのか自分でもわからないくらいだった。思いのほか重症だな、と少女は苦笑し、少し眠らせてほしいと女に言おうとする。

「眠りたいのなら、どうぞお眠りください」

 女にもそれは伝わってしまっていたのか、彼女の顔を見下ろして女は言った。その声は少しだけ遠くに聞こえるようで、少女は自分が半分眠りの世界に落ちていることを悟る。

 お言葉に甘えて、という言葉は、口にできたかどうか。

「どうぞお眠りください。安らかに。いつまでも」

 眠りに落ちる前、そんな女の声が優しく脳の中を反響している。部下たちの話していた、農奴の母のぬくもりというものはこのようなものをいうのかもしれない。

 そんなことを考えながら、少女の意識は溶けていく。

 それは、眠りよりもずっと暗く、ずっと遠く、すっと冷たい、二度と戻らない喪失だった。


「騎士殿、こちらにいら、うわぁ……」

 女を探しに来たらしい部下の兵士が、女の座っている場を見てうめくようにそう言った。無理もないな、と女は思う。目の前の少女はもちろん、彼女の周り一帯の兵士すべてが、体の下三分の二ほどがはじけ飛んだようになくなっており、彼女の周りには臓物と血肉の入り混じった赤が散らばっていた。

 それらすべては、女の手で生み出されたものだ。

 王国軍の誇る、最強の黒騎士。

 それが彼女の持つ唯一の肩書で、ここにいる理由だった。

「また、派手になさいましたね」

 そうおののくように言った部下を無視して、女は少女から隠すようにしておいていた、身の丈を優に超える巨大な斧槍を持ち、立ち上がる。鎧を脱ぎ、その下の黒衣だけを纏った胸元で、少女が口にした金細工が揺れる。

「この女は?」

「帝国の貴族のようです」

 周りの兵たちの長ではあったらしいので、その旨も伝える。彼は、へえ、と興味なさげにつぶやいた後、手に持った馬上槍で遺体をつつきだした。

 王国では戦争の時に常の兵隊はもちろん、市民から徴兵を行い、その上で足りない分は隣国の遊牧民族から傭兵をやとう。王国軍の前線兵は基本的にこの傭兵集団でできていると言っても過言ではない。彼もその一人だ。非常に心置きなく話せるし、戦地に不慣れな彼女に気を使ってくれる、物語で読んだ蛮族のような人間とはおおよそかけ離れた人間だが、そういったことを平気でするのが、彼女はあまり好きではなかった。

 たしなめるように、戦斧で槍の側面を払い、遺体から遠ざける。長い付き合いの部下は、苦笑いをして遺体から離れた。

 お堅い事だ、とその顔は言っていた。

「本隊は下がり始めておりますんで、騎士殿もお早めにお下がりくださいね」

 そう言い捨てて、部下は本隊へと戻っていった。

 ため息をついて見送って、女は胸元から十字を取り出した。それを掲げて、少女と兵士の魂が安らかであることを、神に祈る。

 そうして、視線を下げた先で、臓物の中に光るものを、彼女は見つけた。

 なんだろうか、と、それを拾い上げる。戦場にいる人間の大半は先ほどの部下のような輩ばかりだ。大事なものであるのであれば、埋めてやった方がいい。

 それは、黄金の装丁を組まれている本だった。彼女も同じものを持っている。子供に、神の偉大さを教えるための、簡単な寓話がいくつか載っているものだ。血で汚れたそれは、紙がかなりくたびれてしまっていて、これを持っていた人間がよくこれを読み込んでいたことが察せられた。

「…………」

 ぱらぱらとめくる。あるページで特に癖がついているのが分かった。寓話の一説。父親に会いたいとせがむ子供に、神が夢の中で父親と合わせてくれるお話。子供には愛してほしい。けれど、いつもは構ってあげられない。そんな大人の我儘が詰まったような話だ。

それだけ、何度も読み返されたような跡があって。

 女は、もう一度少女を見る。

 空を見上げて、目を閉じたその姿を、見る。

 

 この戦争には、王国が勝つだろう。きっと正しいのは我々の方なのだろう。そう言えるだけの自尊心も、愛国心も彼女は持っていて、けれど。

 彼女が殺しているのは、このどうしようもなく自分と同じ、人間なのだと、こうしていると思い出してしまう。

 彼女の魂の無事を祈る。

 目を閉じたその顔に責め立てられるように、女はその場を後にした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

戦場で女児と話をする話 馬人 @nastent

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ