褪せし記憶の向こうには……

手鞠凌成

第1話 記憶の片隅に残る花の香り


 ギルドの仕事が終わり。帰路についていたガレットは行き際ふと、ある場所が視界に入り足を止めた。


 目線を横に移す。そこは公園であった。

 暗黒に包まれた公園には頼りない街灯が一本。ベンチの横にあるだけ。

 乏しく光るそれは、ベンチを淡く照らしていた。


 ガレットはふっと息を漏らし、重い足を引きずるようにしながら誰もいない公園へ入り込みそっとベンチに腰を下ろす。


 そして一気に全体重を背もたれに預けた。


「はぁー」と漏らした息が、白くなって空中へと溶けていく。


 仕事の疲れで凝りに凝った肩や首周りの筋肉をほぐそうと、首をぐるっと一周させ、両肩も交互に回す。

 足腰がやけに痛い。今朝と同じ服を着ているはずなのに、二倍くらい重くなっている気さえする。疲労が溜まっているようだ。こうなったのも全部上司のせい。こんな夜遅くまで残業させるのが悪いのだ。


 絶対に許さない。


 今度あったら依頼クエスト達成クリア料をわざと高くさせてやろうか。


 それとも、高難易度ハード依頼クエストのみを大々的に貼り、ギルド内の冒険者を少なくさせてやろうか。


 そうすればギルド内の売上金額が少なくなり、少しばかり、上司の焦る姿を拝められるかもしれない。想像しただけでも笑える。早くあの上司がいなくなればいいのに。

 

 そんな、途方もない愚痴を心の中で吐いていると。


「はっくしょん」

 

 くしゃみをした。はなみずをずずっとすする。


「うーさむ」


 厚着をしているのにかかわらず、貫通してくる寒さにぶるっと身を震わした。少しでも温めようとして、道中に立ち寄り商店で買ったミルターブを口につける。


 すると、温もりが腹の中心から全身へ広がっていく感覚がした。


 おかげで、冷気に当たり強張った筋肉がほぐれる。


 気づくとほっと、一息ついていた。


 ミルターブとは、カームと呼ばれる動物から取った乳をコップに移し、熱しただけのとても簡易な飲み物(店で売られている物は生ではなく、しっかりと工場を通した上で出荷されている)。安価で手に入るため、ここら辺に住んでいる商人や農民。活躍がなくお金があまりないルーキーの冒険者からはかなりの人気を誇っている。値段もそんなに高くない。


 都や王都に行けばもっと高級な。それも色々な種類の飲み物があるらしいのだが、平民で、それもこんな薄汚いギルドで働いてる自分からしたら、このくらいが丁度よかった。


 身の丈に合わないものを選んだところで、疲れてしまうだけ。


 ふと顔を上げる。冬の澄んだ夜空には無数の星々が瞬き、静寂に沈んだ闇夜に彩りを加えている。


 黒に染まった雲がかかり、朧気おぼろげに揺れる満月の光を眺めながら。


 ガレットはふいに口を開く。


「俺、頑張ってるよ……」


 まるで誰かに語りかけるような優しく穏やかな口調。けれど、眼前を埋めるものは満天の星のみ。


 発した声は静かに虚空へと吸い込まれる。


 彼方へと向けられていた視線を下に落とすと、闇に紛れていた遊具が、月の薄明かりに照らされ輪郭りんかくを現す。


 中央に置かれた滑り台の色鮮やかな塗装は剥げ、そこから露出した鉄がすっかり茶色く変色していた。


 それは滑り台に限ったことではない。視線を周囲へ遣るとシーソーも、ジャングルジムも、ブランコも。全てがだんだんと朽ち始めている。雑草も生え放題で昔の姿はどこへやら。


 はぁ、と自然とため息がこぼれる。


 時間というのはあっという間だ。身体を動かし、眠るだけで気づけば年月が激流のように過ぎ去っていく。そのたびに世の中も、世界も変化し、循環していく……。


 全部が全部、そのままって物はどこにもない。


 人間だって同じだ。常に細胞が死に、新しいものと入れ替わっている。

 けれど、この公園だけは、時代にでも取り残されたように形を残し、存在している。


 ガレットにとって思い出の、懐かしの地でもある公園が残っているのは嬉しい。だが、同時に寂莫とした気持ちにもなる。


 ――いずれここも消えてしまうのではないか、と。


 失敗した時や一人になりたいと時。また、なにか愚痴を零したい時など、ふとした時に訪れ、体内に蓄積した不平不満を消化していた。ここにいる時が一番落ち着く。


 唯一の安息の地。


 だがそこも、時間の濁流に呑み込まれ、なくなってしまう──。


 青白く遊具を照らす月の光がどこかその悲しげな表情を写し出しているように見えて、思わず目を逸らしてしまう。代わりに、目線をコップの中で白く渦巻くミルターブに注いだ。


 ガレットはここからみる景色が好きだった。


 いつだってこの辛い世界を、現実を忘れさせてくれるから。


 ……あの頃に、戻れそうな気がしたから。


 ガレットの脳裏に、ある光景が甦る

 

 * * * *


 ──三十年前、ガレットが五歳のころの記憶だ。


 ガレットの家は公園の近くにあった。そのため、ことある事に母さんに連れて行って貰い、朝から昼。昼食を挟み昼から夕方近くまで毎日のように遊んでいた。


 特に好きだったのは滑り台だ。


 黄色い梯子はしごを上り、台に立つといつもと違う景色が観えたからだ。

 軒を連ねる屋根の海を越えて、そのもっと向こう側、深緑に染まる山々を眺められたり。公園の全てが見渡せたり。なにより、母さんよりも背が大きくなったような気がして楽しかった。あと、少し偉くなったようにも感じた。自分にしか見られない景色。偉大な大人たちははいつだって、上からの景色を見ている。


 この公園内で高い場所といったら、滑り台だった。


 滑り台はとても人気で、いつも取り合いになっている。行列を作ることだってあった。


 でも、朝の時間帯だけは違った。


 なぜだかこの時間帯には敵となる相手が誰もいない。


 公園にいるのは自分と母さんの二人だけ。


 その時ガレットは滑り台の頂へ着くと、ばっと手を広げ、


「俺がこの公園の神だ!」


 と世界の人に知らしめすように、高らかに宣言する。


 そうすると、本当に神にでもなったようで気持ちが良かった。まるで公園が自分の物になったみたいだった。この時だけの、自分だけの特別。


 そんな特別な時間が自分の物でなくなってしまったのは、あの日からだ。


 ガレットは今日も今日とて公園へ訪れると、なんと。いつもは居ないはずの公園に先客がいたのだ、


 それも金の髪色をした、ここでは滅多に目にしない色。


 そいつは滑り台の先の砂場で一人、背を丸めて砂山を作っている。


「おいおまえ!」


 気づくとガレットは声を出していた。


 まさかこいつも、滑り台を狙ってきたのか? なら、敵をしっておかなければならない。


 するとそいつは顔を上げ、こちらに目を向ける。


 そこで気が付いた。そいつは、女の子だった。


 髪の毛が耳の所までしかなく、顔が見えないのもあって、つい無意識的に男子だと勘違いしていたようだ。


 空を抜き取ったような綺麗な青い瞳に、雪をかぶっているみたいに透き通った白い肌。

 ピンクのワンビースを纏い、裾には可愛らしいフリルがついている。


 それはおとぎ話に出てくる妖精じみていて、ガレットの瞳に儚げに映る。ふっと吹けば消えてしまいそうだった。


 ガレットはそれにしばらく視線を注ぎ――はっと我に返る。一瞬、思考が停止していた。


 謎の感覚に包まれて、不思議に思いながらもガレットは改めて彼女の顔を確認する。


 うん。やはり初めて見る顔だ。


 一応、ここら辺によく来る奴はある程度把握しているつもりだ。女子とて同じ。


 神は世界の全てを知っていなくちゃならない。


「おまえの名はなんだ」


 と威張り口調で訊く。


 彼女はしゃがんだまま、しばしガレットのことをぼーっと見つめるて、一呼吸置き「え?」と首を傾げた。


「お前の名はなんだ」


「え、ええっと……」


 瞳に困惑の色を映し、中々答えない彼女にガレットは語気を強め更に質問をぶつける。


「だから、お前の名はなんだ! 俺様はガレットだ! ガレット=フォマイエル」

「……リ、リアン。リアン=バレロス……」

「ふーんリアンか。リアンって……花の名前のか?」

「う、うん。そう、そのリアン」

 

 昔、母さんから聞いた話を思い出した。リアンは、ある場所でしか生えない特別な花だそうだ。


 自分は見たことが一度もないが、さして興味もないので『特別な花』だとしか分からない。


「お前はその、リアンって花。見たことあるのか?」

「うん。前に少し」

「へー。そうなのか。それよりもお前、ここに来たの初めてか?」


 『特別な花リアン』について話を広げるつもりは全くない。


 急な方向転換にリアンは一瞬驚きの表情をするも――


「え、う、うん……初めて……だけど……」


 戸惑い気味にそう頷いた。


「そっか。なら俺様が教えてやるよ。この〝世界〟を」

「せ、せかい?」

「そうだ。この時間だけ、公園は俺様のものなんだ!」


 バンッと勢いよく胸を叩く。


「だから、俺がこの公園の使い方、教えてやるよ!」


「え、でもわたしいまお城を作ってて……」


「ほら、行くぞ」


「え、ちょっと、」


 砂で汚れたリアンの手を強引に掴むと、そのまま公園の一角へ連れて行く。


 着いた先にはシーソーが一台、設置されていた。


「えっと……」


「なぁ、この遊び方知ってるか?」


「う、うん。しってるけど……」


「なら、やろうぜ! 誰もいないうちに。ここな、すぐ人集まっちゃうからこの時間帯のほうがやりやすいんだ。俺も遊びたかったし」


 言うが早いかガレットはシーソーが傾いている側に腰を下ろし、取っ手を握る。


「ほら。リアンも」


「え、わたしもするの……?」


「当たり前だろ。一人じゃ何もできないしつまらない」


 そもそもシーソーは一人で遊ぶものではないのだ。


「でもわたし、こっちだと届かない」


 確かに、リアンの身長だと届かなそうだ。シーソーが丁度上がった先が、リアンの胸元より高い位置にある。


 自分も前、母さんと遊んだ時。届かないところは抱き上げて貰っていたが、ベンチをみるとその母さんの姿はない。買い物にでも行ったのだろうか。いたら頼めたのに。


 どちらにしろ、自分の筋力じゃリアンを持ち上げることすらできないだろう。


 うーん、とガレットはどうしようか思考をめぐらす。


「あ、そうだ」


 ふと一つの名案が浮かび上がった。


 シーソーから降りるとリアンに「じゃあ俺がそっちに座るから、リアンは俺の座ってた方にいてくれ」「う、うん……」


 そうしてお互いの場所を交換したガレットは、リアンがシーソーにその小さい腰を下ろしたのを確認してから、

「よいしよっと」


「うわ!」


 ガレットは勢いよく跳び両手をシーソーの端へ掛けると、全体重かけて地面に下ろす。


 すると、リアンの座っている側が思いっきり高く持ち上がった。


「わぁっ!!」

 リアンは驚きの声を上げる。


 そして自分もシーソーに乗っかり、ジャンプする要領で地を蹴る。シーソーが傾き、今度はリアンを見下すような形となった。


 それをお互いに、応酬するように繰り返す。


 ギッタンバッコン、ギッタンバッコン、ギッタンバッコン……。


「あは、あはははっ! なにこれーーっ!!」


 リアンが太陽にも負けない笑顔を輝かせて、笑い声を空へ響かせる。


「楽しいだろ、シーソー」

「うん!」


 こう。身体が一瞬重力から解放され、浮き上がるような感覚がたまらなく楽しかった。


 ガレットの顔には一杯の嬉しさと喜びが表され、屈託のない笑みで溢れる。


 ああ、だから遊ぶのは止められない。


 しばらくして。リアンが「もうそろそろ降りたいんだけど……」と言い出したので、シーソー遊びを中止させた。


「はーあ。楽しかった。なぁリアンもそう思うだろ⁉」


「う、うん……ちょっとお尻いたいけどね……」


「さて。次なにして遊ぶか!」


「さっきからわたしの話聞いてないよね?」


 それからジャングルジム、ブランコ、鉄棒と点々と回っていき。滑り台へ足を向けた。


 黄色い梯子を上り、サイドに柵が立てられている四角いスペースへ辿り着く。


「はぁー……やっぱここはいいなー……」


 安定のポジションだ。気持ちのいい風がすっと通りぬけ、暑くなり掻いた汗を徐々にと冷やしていく。


 すーっと深呼吸をし、肺を涼やかな空気で満たした。そうやると清々しい気持ちになって、とても落ち着くのだ。


「……わたし、滑り台に上ったのは初めてかもしれない……」


「え、マジで⁉」


「うん。ここ、景色良いんだね」


 リアンは視線を、屋根の大海原へ飛ばす。


 その澄んだ青色の瞳に感嘆の色を湛えて。


「そうだろ、そうだろ。ここは俺の場所なんだ!」


「俺の……場所?」


「おう! 俺はな、この世界をいずれ手にする男だ!」


 目の前に広がる景色に右手をかざし、それを自分の物にするようにぎゅっと握りしめる。


 ――いつか、必ずこの世界を自分のものにしてやる。


「そうなんだね……。あ、お母さん来た」


 下を見ると、長い金髪を腰まで流し、包み込むような優しい笑みをこぼす一人の女性が入口付近でこちらに手を振っている。その人がリアンの言う〝お母さん〟なのだろう。


「ばいばい、ガレット……くん」


「おおじゃあなリアン!」


 リアンは胸の前へ小さく手を振り滑り降りると、そのままお母さんの方へすぐに駆け寄り、立ち去っていった。


 そこと入れ替わるようにして、母さんが「ガレット―。ほら帰るよー」と言ってきたのでガレットも滑り台から降りる。母さんの許もとへ行き手を握った。ガレットはリアンと出会った余韻に後ろ髪をひかれながらも、また逢えるだろうと暗に願い、そっとその場を後にした。

 

 それからガレットとリアンは週に一度、午前中公園で遊ぶようになった。


 ガレットの特別な時間を、共有するようになったのだ。


 毎日遊べないのは、休日が明けたその日が、リアンの通院日らしくそれ以外は基本ガレットの住んでいる町に赴くことはないそうだ。ガレットもその病院には何度かお世話になって貰ったことはあるが、この数か月は診察しに行っていない。


 

 ある日。いつもの滑り台の上にて。二人は変わることのない景色を眺めていた。


 ふいに、リアンは柵に乗っけていた腕を上げ、斜め右の方向――南側を指で差したのだ。


「あそこがね、わたしの住んでいる町なんだ」


 そう言われ、リアンの指先を目で追う。


 南の町は、ガレットのいる所からしたらかなり遠い位置にある。しかも、その周辺には魔物が彷徨さまよう『悪魔の森デッドロフォレスト』が近くにあり、もし魔物が暴走したら第一に狙われる場所だ。


 だから防衛として兵士が常に周囲を警戒しており、常にピリピリした空気に満ちている。


 そのためか、そんな危険な地域に住める人もおらず、人口が一番少ない。その代わりに物価が安いため余りお金のない人たちが暮らす所だと、父さんに教えて貰ったことを思い出した。


「リアンは、貧乏なのか?」


 別に自分の暮らしも全然裕福ではないというのは承知の上だが、なんとなく気になり自然と疑問を口にしていた。


 リアンはぽかんと、しばしガレットの顔を見つめて。途端にぷっと吹き出した。


「ははは、あはははっ!」

「な、なんだよ!」

「貧乏か……そこまで気にしたことなかったなーって」


 この頃リアンはよく自分にこういった笑顔を見せる場面が多くなってきた。その表情を拝めるたびに、なぜか胸の奥がじんわりと熱くなって心臓がどきっと高鳴る。


 なんだろ、この気持ち。


「うーんじゃあね。ガレットにとっての幸せってなに?」


 ふいにリアンは可愛く整った顔をこちらに向けた。

 どこまでも鮮明な蒼い眼差しをガレットの瞳に重ねる。少し伸びた金髪は風に揺られ光を反射し、宙に金の線を描く。


 そよ風が優しく肌を撫でた。どこからか花の甘い香りが鼻をくすぐる。


 急な質問と、リアンと目が合った事にどぎまぎしてつい目線を逸らしてしまう。


 ――自分にとっての幸せ……幸せ……。


「わ、わからない……」


 まず考えたこともなかった。自分にとっての幸せってなんだろうか。


 今の貧弱な思考じゃ、なにも思い浮かばない。


「わたしはね、こうして、楽しい時間を過ごせることが幸せなんだ!」


 リアンはそう嬉しそうに、けれどどこか恥ずかし気に笑って、目を筋雲が泳ぐ青空へ逃がす。


「お母さん、お父さんといる時間も確かに好きだけど、わたしは今、こうしてガレットと一緒にいる時間が一番……好き……かな?」


 そうしてふっと、耳を紅に染めたリアンははにかみ、視線を足下に落とした。


「お、俺も……っ!」


「……え?」


「俺も、リ、リアンとこうして一緒にいられる時間が……す、好き!」


 今、言わなきゃいけないような気がした。頭が真っ白になって、顔面がとてつもなく熱い。


 胸の中の温もりがじんわりと広がって、鼓動がどきどきと早くなる。


 そしてこれが、『恋』なのだと、幼いながらも自覚したのだ。ずっとこの時間を過ごしていきたい。もっと一緒に、二人だけの世界で、楽しんでいたい。


 でも、そんな永遠にも続くように思えた時間ももうおしまい。


 リアンのお母さんが迎えに来た。


「リアン―、帰るよー」


「はーい!」リアンが明るく返事をする。


 と、同時にガレットの母さんも公園の入口に現れる。今日は午後に用事があるのだ。


 リアンはすぐにお母さんのお腹に抱き着き、顔をうずめる。


 自分も母さんの方へ歩み寄ると、そっと手を握った。


「じゃあねガレット。また」

「うん、ばいばい」


 お互いに手を振ると、リアンは前を向く。

 リアンのお母さんは軽くこちらに会釈をすると、ゆっくりと歩き始めた。


 小さくなっていく二つの背中。その今にも風に攫われ消えてしまいそうな儚い彼女の姿に、胸をよぎる一抹の寂しさが、大きく膨らむ。この気持ちを抑え込もうと空いている右手で服の上から、ぎゅっと自分の胸元を掴む。


 そうしてリアンの進む道と反対方向へ身体を向けると、母さんの歩調に合わせた。

 ふと視界の端で捉えた南側の空からは、黒く厚い不穏な雲が迫ってきている。


 とても嫌な、空模様だった。


 ……リアンと公園で遊んだ三日後。


 朝食を食べ終え、公園に遊びに行こうと着替えていた時。ふいにガーンガーンと鼓膜を衝くような鐘の音が鳴り響いた。


 ――たしかこの音は……と思い出そうとしたその瞬間。突然扉が開き、一人の兵士が鬼の形相で声を上げた。


「魔獣が町に入り込んだ! いますぐ避難なさい‼」


 ガシャン!! 何かが割れる音がした。後ろを振り向くと、母さんが青白い顔をして固まっている。足元には砕けたティーカップが散乱していた。


 何が何だかわからないまま、ガレットは母さんに抱きかかえられると、家を飛び出し避難場所であるギルドへ駆け込んだ。


 ギルドの地下には住民が避難できるようにシェルターが用意されており、収容人数は一五〇人。ギルドは各地に展開されているため、避難による混乱と渋滞は免れていた。


 シェルターに来たのは初めてだった。ほんの少しの好奇心もありながら、心にはあの黒い雲が覆いつくす。母さんは強く抱擁し、「大丈夫。大丈夫だから……」と呟きながら何度もガレットの背中をさする。 


 それは、逆に自分自身に言い聞かせているようにも見えた。


 周りを見渡すと皆、どこか疲れ切っているような、憂い帯びた表情をしている。その中には自分の知っている人もいた。それから数十分経って。南の町が襲撃を受けという情報が兵士から説明された。今は王宮自衛隊ガーディアンと冒険者が対応しているらしい。


 ――脳裏に浮かぶリアンの笑顔。


 今すぐにでもリアンの安否を確認したかったが、外は危険の状態にあり、そもそもリアンの家を場所をしらなかった。だから、どうか無事であってくれと、願うことしかできなかった。


 さらに日が経ち一週間後。警備隊と王宮自衛隊ガーディアン、冒険者のおかげで魔獣の大群は撃退され、町に平和が訪れた。久々に出た外は明るくて、眩しくて。けれども心には不安だけが渦巻いている。南から遠く離れたここは、被害をあまり受けなかったらしく、翌日にはいつも通りの生活を送ることができた。今までの出来事がまるで嘘だったかのように、街の皆は笑顔であふれている。輸送ルートの障害により物品や食料が届かないという問題が起こったが、王宮自衛隊ガーディアンの支援によって食糧不足に困ることはなかった。


 ガレットは一人、公園へ訪れると砂場にしゃがみ込み、指を砂に刺すとぐるぐるとかき混ぜる。遊ぶ気などなにも起きなかった。リアンがいないと、公園は何も楽しくない。滑り台に上る意欲も失せていた。ちょくちょく入口の方を窺っても、誰も来る気配はない。

 

 無情に、時間が通り過ぎる。

 

 何日も、何日も、公園に行き午前、午後と待ってみてもリアンが現れることはなかった。


 そして一ヶ月が過ぎて。あの事件が皆の記憶から薄れ始めたころ。


 母さんにお使いを頼まれ、花屋に来ていた。


 色鮮やかな花はどれも花瓶に挿され、木製のカウンターに並べられている。

 やっぱり、眺めてみてもどれが何の名前の花なのかさっぱり分からない。

 いろんな花があるんだなーと感心していると、「おやめずらしい。どれをご所望かい?」この店の店主らしき、八〇を超えていそうなおばあちゃんが店奥にある扉から出てきた。


 根まで染まった綺麗な白髪を後ろにまとめ上げ、くしゃっと目元に皺を寄せ穏やかに微笑むその表情にはどこか愛嬌があり、初めて来たにも関わらず、自分のおばあち

 ゃんを思い起こさせるような安心感と親近感が湧き緊張していた心をほぐす。


 ガレットは母さんに頼まれた花の名を告げた。


「はいよ。ちょっと待っててな」


 と店主は穏やかな声音でそう言うと、茶色い紙をテーブルの下から一枚取り出し、

 自分の手前にある黄色い花を一輪手に取って、ささっと慣れた手つきで包み込む。


「はい、おまたせ。一人で来て偉いね~」


 唐突な褒め言葉に虚を衝かれ、ガレットは耳を赤くする。金を渡した手とは反対の手で店長から花を受け取るも、恥ずかしくて顔を上げることはできなかった。


「そうだ。君の家は大丈夫だったかい? ほら、この前の」


 店主は魔獣の襲撃について心配してくれているようだ。自分は大丈夫だったと首を縦に振る。


 幸い、家には何の被害もなかった。


「そうかい。それはよかった……。なんか、南の町はひどい状態らしくてねー」


 その言葉を聞いた瞬間。どくん、と心臓が大きな音を立てた。冷汗が首筋をなぞる。


 店主は身体を後ろに捻り、何やら黒のインクで印字された白い紙を手に持った。


「にしても可哀想だねー。まだ小さい女の子が亡くなっちゃうなんて……」


 ……胸がざわついた。


 ひんやりとした冷たい手が、心臓を撫でる。


 咄嗟にガレットは「ねぇ、その記事見せて!」と切羽詰まったように願いをする。


 ――え、ええ。いいわよ……と店主は戸惑いながらもその紙を差し出した。


 すぐさま手にすると視線を落とし、一番上に書かれてある文章から順に文字を追っていく。


 ……嫌な予感がしたのだ。けれどもそれが気のせいだと信じたくて、必死に書かれているはずがないであろう文字を探す。――そして、一番下に書かれてある欄へ移った時。ガレットは瞠目どうもくし、絶句した。


 死亡者欄に、『リアン=バレロス』という文字が記されていたのだ。


 頭が真っ白になる。自分が今、夢を見ているのか、それとも現実にいるのか分からなくなった。


 ぐらぐら現実と夢の狭間で揺れる思考がガレットに、これは夢ではないと認識したその瞬間。


 その手は――ガレットの心臓を握りつぶした。


 目の前の地面がぐわんと歪み、足元の感覚が消える。


 ――嘘だ、嘘だ……。


 すぐ隣には『レイチェル=バレロス』の名前もあった。多分これがリアンの母親なのだろう。


 はぁ、はぁ……動悸が激しくなる。


 息をしている気がしなかった。まるで穴の空いた風船のように、吸っても吸ってもたちまち抜けていく。


 必死に干上がった口元から空気を肺に押し込む。


 途端に眩暈を感じその場で崩れ落ちると、手にある記事をぐしゃっと丸めた。


「う……うわぁ……ああぁぁ…………」


 ――身体の底から込み上げてきた熱いものが、爆発する。


 涙がぽたぽたと、目から溢れ出た。胸が張り裂けそうで、苦しい。なにかが肺を締め上げる。


 抑えきれない感情が逃げ場を求め、塊となり喉につかえていた声を押し出し、声帯を震わせた。


「ああぁ、ああ……ひっぐ……あぁ……あぁ……」


 世界の色が、どんどんと脱色されていく。リアンと笑い合った鮮やかな記憶が、急速に褪せていった。


「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁ――っ‼」


 ……手元から落ちた黄色い花は、花弁を散らしその美しさを、地面へ溶かした。


 * * * *


 ――ぐっと、ぬるくなったミルターブを飲み干し、ガレットは脇に置かれているゴミ箱へ木製のコップを放り込んだ。


 夜空を満たす星々はいつ見ても疲弊した心を癒してくれる。


 ここの光景を忘れないようにと、瞳をレンズに見立てパシャっと瞬きでシャッターを切り、脳内に保存する、


 そして胸元にあるポケットから薄く透明な樹脂で固められた長方形のものを取り出した。その中には、リアンの花が何本も押し固められている。以前にとある出張で北にある国に行き、観光として山に訪れた際に、このリアンの花が入っているグッズを見つけたのだ。値はかなり張ったが、何の迷いなく購入した。そうして今はお守りとして持ち歩いている。


 リアンの花は寒冷地域に生える高山植物らしく、小指くらいの短い茎に小さい白い花を一輪咲かせ、丸み帯びた花びらは外側に向かうにつれ紫が濃くなっていくのが特徴ポイントだ。この花は巷の女子の間で人気らしく、花びらの色合いが可愛いとのことだ。

 

 それをしばし眺め、ふっと顔を綻ばすとまた胸ポケットにしまう。


 結局、少年時代に憧れた夢は、夢のまま終わってしまった。世界を手に入れることもできなければ、この公園を自分の物にすることもできなかった。


 支配するどころか、逆にギルドの上司に従わされる始末。


 やっぱり、現実は理想のようには上手く行かない。自分の思い描いた通りにはならなかったのだ。


 ガレットはよいしょと立ち上がり、「明日も頑張るか―」と瞳を覆いつくす星空に向かって言葉を溢すと、公園に背を向け立ち去った。




(※この作品は、自身の別のアカウントより持ってきた小説です。別のアカウントがログイン出来なくなったので、加筆・修正を行いこのアカウントで再び投稿します。)

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褪せし記憶の向こうには…… 手鞠凌成 @temsriryousei

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