第2話
翌日、夫と息子が家を出たあと、美織はすぐに支度を始めた。
行き先は、房総の港町だ。
都内まで出るから、という志帆の言葉を断り、何が何でも自分がそっちへ行く、と答えた。
この街を、一秒でいいから出たかった。
志帆が住む街の海の匂いを、どうあっても嗅がねばならないと思った。
いつもは雑に束ねているセミロングの髪を丁寧にハーフアップにし、控えめに化粧をし、迷った末にVネックの黒のサマーニットと生成りの麻のロングスカートを慌ただしくクローゼットから選び出す。
二十七年ぶりなのだ。不自然な若作りに見えず、それでも決して醜くは見えない装い。メイクをあちこち手直しし、鏡の前を疲れるほど往復した。
こんなに自分の装いに力を入れたのは、いったいいつぶりだろう。
普段は買わない路線の切符を駅で買い、鄙びた特急列車に乗り込む。
都会の街並みから、次第に田や畑、木々の緑などが増えていく車窓の景色を、美織は何か他人の出来事のように眺めた。
家を出て、約三時間。
その街に着いたのは、昼少し過ぎだった。
こじんまりとした駅の
小さなロータリーに停めた赤い軽自動車の前に、女が立っていた。
健康的に灼けた肌、くっきりとした目鼻立ち。長い黒髪をまとめたポニーテールが風に揺れる。
相変わらずすらりとした身体にシンプルな白いTシャツ、洗い晒しのスキニージーンズ。
彼女は、変わらない。いつも、彼女らしい。
潮の匂いと、少し強い風の中で、志帆は昔と全く変わらぬ仕草ですいと左手を上げた。
何か言わなければと思いつつ、無言で駆け寄った。
「暑いから、まず乗って」
そんな志帆の言葉も待たず、美織は慌ただしく助手席に乗り込むとシートベルトをぐいと引き伸ばして無言で装着する。
高校時代の親友をすっかり扱い慣れてでもいるかのように、志帆は小さく微笑むと黙って運転席へ着く。慣れた手つきでシートベルトを締めると、ハンドルを握った。
「昼食、どこかで食べる? 海辺の街だから、海鮮の美味しい店は結構あるんだけど」
ハンドルを操作しながら問いかける志帆の言葉に、美織は首を横に振る。
「いい。コンビニのおにぎりとか、そういうので。で、どこか涼しい日陰とかがあれば、外で食べたり、そういう方がいい」
「——なら、コンビニで買い物して、私の部屋で食べよっか。
うち、アパートで一人暮らしだし。海のすぐ側だから、窓開ければ海が見える。風通しもいいからさ」
「……」
美織は、思わず志帆の横顔を見る。
アパート。一人暮らし。鄙びた海辺の街で。
……どうして。
無意識に漏れかけた表情の動きを読まれぬよう、美織は慌てて大きく頷いた。
「うん。窓から見える海、楽しみ」
午後の強い日差しを受けて建つ小さなアパートの外階段を、カンカンと音を立てて登る。潮風のせいなのだろう、階段の手すりもあちこちが赤錆に侵食されている。
「ここだよ」
二階の通路に並んだドアのひとつの前で、志帆は小さなリュックから鍵を取り出すと旧型のノブの鍵穴に差し込み、ガチャリと回した。
畳敷きの部屋に入ると、志帆はサッシの窓を全開に開け放つ。薄いレースのカーテンがふわりと風に靡き、潮風が勢いよく部屋へ流れ込んだ。
美織は、思わず窓辺へ駆け寄る。
いくつかの民家の屋根や建物の向こうに、深い青の水平線が見えた。
「——海だ」
髪を潮風に吹かれ、引き込まれるように海の風景を見つめながら、美織の唇が無意識にそう呟く。
「気持ちいいでしょ。
私、すぐそこの漁協で働いてるんだ。男に混じって体動かすの、きついけどすごく楽しいよ。ここは職場も近いし住み心地いいし、何より自由でね。私には最高な場所だよ。
今朝も、大事な友達が急に来ることになったから午後休欲しいって言ったら、たまにはゆっくり休め!ってさ」
八畳ほどの部屋の中央に置かれた小さなローテーブルにコンビニの袋をがサリと置き、志帆は浅く微笑んだ。
「……」
黙ったまま窓の外を見つめ続ける美織の背に、志帆は悪戯っぽく問いかける。
「え、またダンマリ?」
振り向いた美織の頬は、濡れていた。
「……」
言葉を失う志帆を見つめ、美織は震える声で呟いた。
「——志帆。ごめん。
ずっと、謝りたかった。
会いたかった。ずっと」
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