海辺の約束

aoiaoi

第1話

 八月の下旬、二十三時三十分。

 家族の夕食に、美織みおりは今日もひとりでラップをかける。

 妻は家族の食事を必ず作る。それは夫の実家のしきたりだ。

 大手製薬会社の営業部長である夫と、大学一年の息子。最近は夫も息子も夜いないことが多いのだが、夕食が要るかどうかの連絡など当然ない。けれど、だからと言って作らずに済ますわけにはいかない。一晩でも手を抜こうものなら、ここぞとばかりに夫の叱責を受ける。


 夫とは、美織の父親の上司が持ってきた見合結婚だ。

 美織が社会人になって二年目、憧れだった出版社での仕事が楽しくなり始めた矢先の見合い話だった。

 当時、勤め先の企業内で一目置かれる有能な企画部長だった美織の父は、更に上のポジションに食い込むため公私を問わず躍起になっていた。そんな父が、社内の有力者である上司の紹介を断るはずがなかった。

 そして美織も、父の圧力に従う以外に選択肢はなかった。幼い頃から、子が親に反論などしてはいけないのだと、美織は厳しく教え込まれて育った。


 ラップをかけた皿を冷蔵庫へしまいかけたところで、夫が帰宅した。

「お帰りなさい」

 キッチンに入ってきて無言でテーブルの皿を眺め回した夫は、低く呟く。

「今晩の料理は、これだけか」

「……夕食、まだ食べてないの? なら温めるけど」

「この時期は付き合いの外食が増えると毎年言ってるはずだ。

 そうじゃなくて、こんな貧しげな食事を家族に食わせる気かと言ってるんだ」


「……」

「サラダと、魚のソテーと、野菜炒め。まるでどうでもいいような献立じゃないか」

「鍋にポトフもあるわ。具沢山だから分量は充分……」

「レンジで温めるだけの手抜きスープか」

 吐き捨てるように言い、思わず立ち竦んだ美織を夫は冷ややかに一瞥する。

「昼間何もやることないんだから、料理ぐらい真面目に作ったらどうだ。同じ話を何度繰り返せばお前は理解するんだ? お前がそんなことだから、れんがああなるんじゃないか。サークルか何か知らんが最近ろくに帰っても来ず、何やってるんだあいつは」

 苛立たしげな言葉を止めどなく吐き出しながら、夫はいつもの言葉を忘れず付け加える。

「お前は昔から、妻や母親としての自覚がなさすぎる。女として、どうなんだ。ったく、ただでさえ疲れてるっていうのに」

 はあっとため息を一つ残すと、夫は踵を返し荒い足音で自室への廊下を遠ざかった。 


「——……」

 唇を噛みながら、美織はエプロンの裾を握りしめる。

 ポトフは、時間のある時に作って冷凍保存したものだ。決して手抜きではない。

 そんな説明をしたところで、夫は何ひとつ聞かないだろう。無神経な言葉で一層不快に反撃されるだけだ。

 そこへ、玄関のドアが再び開く音がする。

 バタンと乱暴に締まり、ドカドカと廊下を歩く音が近づく。

 キッチンの横をすり抜けた影に、美織は慌てて声をかけた。

「蓮、おかえり。ねえ、なんで毎日こんな夜遅くまで……」

「は? 別に」

 会話にならぬ言葉が投げつけられ、階段を登る足音と自室のドアが雑に閉まる音が響いたきり、美織は薄暗いキッチンに取り残された。


 わたしは、この家に存在しない。


 美織の脳に、ふと意味不明な言葉が浮かんだ。

 しかし、今の自分を言い表すのに、これ以上相応しい言い方はない気がした。


 私が明日ロボットに切り替わっても、きっと彼らは表情一つ変えない。

 ロボットが掃除と洗濯と料理さえすれば、彼らは私の行方すら探さないだろう。


 ここって、涙を流すところ?

 ——泣くとか、アホくさ。

 口元に、奇妙な笑みが浮かんだ。


 唇を噛んだ美織の脳裏に、ある面影が浮かぶ。

 眩しい日差しの中、テニスのラケットを大きく掲げて自分を振り返る笑顔。

 苦しい度に思い浮かべ、浮かべては打ち消し続けてきた、眩しいほどの笑顔。


 その面影が瞼を占領した瞬間、美織は何かに突き動かされるようにリビングのテーブルへ走り、スマホを掴むと自室へ駆け込んだ。




 自室の照明をつけるのももどかしく、窓から入る外の光だけでスマホの画面を動かす。

 ずっと使っていない電話番号。

 指が震えるが、もう止めることはできない。

 勢いに任せて通話ボタンを押し、耳を当てる。

 もう三十年近く前の番号だ。出なくたって仕方ないのに。


『久しぶり』


 あの頃と全く変わらない声が、耳の奥に響いた。

 心臓が、びくりと跳ねた。

 高校の日の懐かしい匂いが、美織をあの頃へ有無を言わさず引き戻す。


『——どうした?』


「……」


 なんで。

 なんで、何も言わないうちに、そんな言葉で問いかけるのか。つい昨日までクラスで笑い合ってたみたいに。

 昔のままの、強くて暖かな声で。


 押し寄せる波が抑えようもなく目の奥から突き上がり、やたらに熱い涙がボロボロと頬をこぼれた。


「……会いたい。志帆」



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