第5話
「茜。いつまで見ないふりを続けるの?」
全てを見透かす黒い瞳。面と向かって投げられたその言葉に、抑えていたものが爆発した。
「……っ! なんで……なんで、そんなこと言うの。見えるわけない、見ていいわけない。だってお姉ちゃんは……お姉ちゃんは、私のせいで死んだのに!」
滲んだ視界に映るのは、三年前に死んだ姉。逃避するように目を瞑ると、涙が一粒ころんと流れ落ちた。
燈奈と茜は、母に比べられて生きてきた。「茜に比べて燈奈は駄目ね」が口癖のようにすらなっていたのは、子供心にも最低だと思う。
それでも燈奈は優しくて、茜はそんな姉が大好きだった。誕生日に貰ったミサンガをいつまでも外せず、補修して着け続けるくらいには。
親に問題はあれど、仲の良い姉妹だった。仲が良かったから、事件が起こった。
あれは七月最後の日、暑い夏の夜のことだ。
茜の隠していた通知表が母に見つかってしまった。オール五のそれはとても褒められて、そして忌避した通り、茜の努力の証は燈奈への攻撃の道具に使われた。いつもより酷い言葉の雨を、燈奈は笑って受け流していて。それが何より茜の琴線に触れたのだ。
母から奪った通知表を二人の目の前で破り捨てて、感情のままに外に飛び出した。行く宛てなんてない。それでも、あそこにいたくなかった。
『茜』
背後から追いかけてくる声は、聞こえないふりをした。
『ねぇ、茜』
近所の道なのに、まったく知らない世界のようだった。
『待ってよ、茜』
アスファルトを睨みつけるみたいにがむしゃらに進んで。
『茜……ッ!』
突然、後ろから突き飛ばされた。
耳を劈く甲高い音とべちゃりと不快な感触がして、振り返ると黒かった視界は鮮烈な赤に塗りつぶされる。
『おね、ちゃ……?』
なんだろう、これは。知らない。知りたくない。訳が分からない。
べちゃべちゃの何かの塊と赤色は知らないものなのに、伸ばされた腕だけが確かに姉のかたちをしていて。
二人を照らすトラックのライトが、気が狂いそうな程眩しかった。
目を開ける。茜が壊した茜の大切な人は、変わらずそこにいる。
「シリウスが好きって、どういうつもり」
「茜なら分かるでしょ?」
「分かっちゃうから聞いてるんだよ……」
星が好きだった燈奈の影響で、茜も天体のことには詳しかった。
全天で最も明るい星、おおいぬ座のシリウスは連星だ。眩しく輝くシリウスaの傍らには、遥か昔に燃え尽きて光を失った兄弟星のシリウスbがいる。
茜にとって、燈奈は夜空で一番綺麗に光る一等星だった。そして多分燈奈にとっては、茜が。
茜の一等星は死んでしまった。なのになぜか、今はこんなにも傍にいる。二つの兄弟の関係はよく似ていた。
燈奈らしい発想だと思う。私がいなくなっても前を向いて生きていけと、きっとそう言いたいのだろう。息絶えた兄の傍らで輝く白い星のように。燈奈は正しい。死者に縋っていてもどうにもならないことは、とうの昔から分かっている。でもその正しさが、無垢なくらいのまっすぐさが、茜には泣きたくなるくらいに痛いのだ。
生温い夜風が頬を撫ぜて、体の芯の熱を掠め取っていく。ずっと感じているこの寒さがなんなのか、まだ分からないふりをしていたかった。
「そのミサンガ、今も着けてくれてるんだね。すごく嬉しい。でも私を追うのは、もうやめなよ」
「追ってなんかいないよ」
「追ってるでしょ、ずっと昔から」
「……」
明かされた二人の関係に口を挟めずただ聞いていた青砥は、買い出しの帰り道、「いつも私の後をついてくる可愛い下の兄弟がいる」と燈奈が言っていたのを思い出した。
今までの茜のことを、思い返す。
学年一位の文字を冷めた目で見ていた茜――レベルの合わない高校に来たのは、燈奈の母校だったから。天文部に入部したのも生徒会に入ったのも、全部燈奈の学生時代を辿っている。
天文部が廃部になりかけて取り乱していた茜――きっと、生前の燈奈の居場所を残したかったからだろう。
心が揺れるたびに左手首を握っていた茜――左手首には、赤と橙のミサンガがある。燈奈の作ってくれた、炎のような、二人の名前の色のミサンガ。
茜は、ずっと燈奈のあとばかりをなぞって生きてきたのだ。
「ねえ、茜。もうその道に、続きは無いんだよ」
だというのに、燈奈はそんな残酷なことを言う。
「だって、私が死んだのは七月三十一日なんだから。もう少しで夜が明ける。高校一年生の八月の朝を、私は知らないんだよ。私の道はここで終わりなんだよ、茜」
追いかけるしか歩き方を知らない子供を、突き放す。
「これから茜は、茜だけの道を歩いていくの」
優しい声が流れる涙の跡に降って、ひりひりと痛い。
「っ、他の道なんて知らない、分からない! 今更急に現れてそんなこと言われたって、わかるわけない!」
三年前から迷子になっている少女は吠えた。
あの日、燈奈が突然部室に現れた時、何も声が出せなかった。信じられなかった。だからつい、知らないふりをしてしまったのだ。何かを言われるのが怖くて、全部全部今更で、もう何も変えられやしないのに。茜は自分なりに前を向こうとしていた。追行は茜なりの精一杯の前進だ。だから、幽霊の燈奈の存在を認めたくなかった。怖かった。最愛の、自分のせいで失った姉から与えられるのは、肯定も否定も凶器に等しかったから。
「だから天文部があるんだよ」
「え……?」
駄々をこねる妹を、仕方ないなあという目でみる姉。どこまでもやわらかい、茜の宝物の瞳。その視線を辿れば、戸惑ったような先輩が二人いた。
「どうして幽霊の私が、ここにいる三人にだけは見えたんだと思う?」
分からない。だって気にしたことなんてなかった。燈奈を見ないふりをするのに手一杯だったから。
青砥と紫苑も、分からないと首を振る。
「私は、茜が入部届を書いた時に屋上で目覚めた。死んですぐじゃなくて、三年経ってから幽霊になったの。多分私の茜への想いとかが学校に染みついてて、そこに茜の感情が加わってようやく形になったんだと思う。幽霊の私は、私の祈りと茜の願いが混ざって生まれたんだよ」
空の端の色が、薄くなっている。
「私は茜のための存在だから、茜のためならなんでもできるの。茜のためじゃなきゃ何もできないの。だから、三人にだけは姿を見せられた」
「未練から離れすぎた」と消えた燈奈。あの時戻されると言った学校には、買った物を持ち帰った茜がいたはずだ。快活に笑う燈奈はきっと、ずっと茜の事ばかり考えていた。
「青砥君と紫苑ちゃんなら、茜と一緒に歩き方を探してくれるはずだよ。もうふたりぼっちでも、孤独でもないんだよ、茜」
ずっと繋いでいた手を離す時が来た。もう、歩き出す時間だ。
だって、夜が終わって朝が来る。
「この手が見える?」
ひらりとかざした手のひらは透けていて、藍が薄れて紫の滲んだ地平線が見える。
それに、そっと自分の手を合わせた。
覚えている。よく頭を撫でてくれた手だ。迷子の茜を引っ張ってくれた手だ。――茜の背中を押して、茜を未来へ進めてくれた手だ。あの夜背中を押した手のひらの形を、忘れたことはなかった。
触れることはできないけれど、確かにそこに燈奈はいる。
涙が邪魔でしょうがないけれど、目の前で愛した姉が笑っている。
「シリウスaとシリウスbの公転距離は、約五億kmから二十億km。私たちは今、長い時間をかけて五億kmの距離に来た」
地平線のずっと先で、薄紅と橙が色付く。夜の青と朝焼けの混じる空を背負って、薄く霞んでいく茜の一等星が立っている。
「公転する星はこれからまた離れていってしまうけど。でも、見えなくなっても傍にいるよ。ずっと茜のことを見てるから。だから茜は、お星さまみたいに笑っていてね」
眩しい朝日が世界を包んで、茜は子供のように泣きじゃくった。涙跡を拭いながら、青砥と紫苑はその背中を撫でていた。
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