第4話

 七月三十一日。

 青砥は割り当てられた旅館の一室に入るなり、既に敷いてある布団にダイブした。

「畜生、紫苑の奴……思いっきり水かけてきやがって……」

 布団からは木材と畳の匂いがする。押し付けた前髪からも柑橘系のシャンプーが香った。知らない匂い、知らない部屋。ごろりと転がると、柔らかな楢の木の天井が見える。

 辺鄙な所というのは本当で、近くの川と紫苑の水鉄砲が無かったら退屈で耐えられなかったかもしれない。それはそうとしても、はしゃぎすぎた紫苑のせいでこんなに早い時間帯から風呂に入ることになるとは思っていなかった。

 起き上がって押入れを開け、中に残されていたもう一組の布団も敷いてやる。これで、部屋には四つの布団が並んだ。「もう面倒だし青砥も同じ部屋でいいよね」と同室にされたが、本当に彼女達はいいのだろうか。まあ、青砥だって何かをする気なんて微塵もないけれど。

 今夜は旅館の屋上で天体観測をする。だから夕方くらいから仮眠をとっておこう、と話しあったのはまだ授業があった頃だ。

 いつまでも浴場から帰ってこない女性陣を待ちくたびれて、青砥はまた布団の上で仰向けに寝転がった。重力に従って落ちる頭を、枕がぽすりと包み込む。途端に、頭に薄靄がかかったようなゆるい眠気が襲ってきた。瞼が重い。徹夜して勉強した時よりも穏やかで抗い難い眠気に、青砥はそっと意識を手放した。


 ふわり。水中の泡のように、意識がゆっくり浮上していく。目を開けると藍に碧と白とを足した薄闇が和室を満たしていた。

 時計を確認すると十一時前で、ちょうどいいくらいの時間帯だ。でも自分の体温が移った布団と目覚めたばかりの微睡が心地よくて、なかなか抜け出せない。

「ん……青砥、起きたの?」

 ごろごろ寝返りを打っていると、背後から眠たげな紫苑の声が聞こえた。

「もういい時間だから出ようかと思って。紫苑も一緒に行くか?」

「ううん、うん……」

「どっちだよ」

 言ってしまった手前、ちゃんと起きなければ。そう思い立ち上がろうとした青砥を縫い留めるように、紫苑は言った。

「……青砥、最近よく話すようになったよね。最初はどうなるかと思ったけど、燈奈ちゃんが来てくれて良かった」

「そうか?」

「そうだよ。二人だけの部活も好きだったけど、皆でわいわいするのも楽しいから」

 夜に溶けるみたいな言葉達だった。海辺に散った星の砂が夜の波にさらわれるような、そんなイメージ。

「青砥はさ。一回もあたしの目について何か言ったこと無いよね」

「だって俺には関係ないだろ」

「うん。そのフラットさに、あたしは多分助けられてたんだと思う」

「……お前だって、俺に何も言わなかっただろ」

 教室で親切なクラスメイトが「頑張りすぎるな」「休め」だなんて言ってくるのが嫌で、ずっと部室に籠って勉強していた時期があった。その時に無言で机に置かれたココア缶の温かさが、今でもずっと記憶に残っている。

「あはは、確かに……ごめん、変な話したね。目も覚めてきたし、やっぱり二人も起こして皆で行こうか」

 笑って誤魔化す癖はまだ変わっていないらしい。起き上がると薄手の掛布団が滑り落ちた。紫苑か茜がかけてくれていたのだろう。



 星を眺めるだけの天体観測は穏やかに過ぎていく。沢山の宝石の欠片を入れた鉢をひっくり返したような、吸い込まれそうなほどに深い星空は、呼吸も時間も忘れる美しさを持っていた。少し冷えるからと茜が買ってきてくれた缶珈琲を飲みながら煌めく光を四人で眺める、静かな夜だ。

 学校の話、最近見たテレビの話。時折現れては、心地よいテンポと静けさを纏って終わっていく会話たち。猫の爪に似た月が東の空に見えたころ、紫苑が口を開いた。

「青砥、何か好きな星座ある?」

「いきなり何だよ。えっと……りゅう座」

「りゅう座······確か天の北極近くにあるから、探せば見えるはずです」

 あの辺、と指さされて見上げても、青砥には全くわからない。ただ、失敗しても努力が認められた神話の竜が少し羨ましかっただけなのだ。

「紫苑ちゃんは?」

「南十字星! 銀河鉄道の夜が好きなんだ」

 「いつか見てみたいな」と言う紫苑に、燈奈は目元をやわらげた。

「日本じゃ沖縄の端に行かないと見えないから、大人になったら旅行に行きなよ」

「いいね、そうする。燈奈ちゃんは何が好き?」

「私は――シリウス」

 カランと、何かが落ちる音がした。茜の足元で珈琲缶が転がって、苦い匂いの水たまりを作っていた。

「茜?」

 握りしめた手が震えている。そんな茜の真正面に立った燈奈は、言った。



「茜。いつまで見ないふりを続けるの?」

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