第3話

 合宿の買い出しに行こう、なんてことを言いだしたのは紫苑だった。合宿と言っても天体観測なので、服と財布さえあれば最低限なんとかなる。だというのに「向こうはコンビニとかが少ないからお菓子いっぱい持っていこう!」とはしゃぐ女子二人を止められなかった。紫苑は殊の外合宿を楽しみにしているらしい。

 というわけで青砥達は今、学校近くのペンギンで有名な某大型スーパーに向かっている。

「何買おっかなー。茜ちゃんは山派? 里派?」

「村派です」

「古くない?」

「絶対食べたことないだろ」

 くだらない会話をしていると、燈奈は紫苑に近づいてじっと見つめた。目の色素が薄い紫苑は、日差しよけに真っ黒なサングラスをかけている。

「やっぱり眩しいの?」

「ちょっとね。いつもの事だから気にしなくていいよ」

 日差しを遮るように紫苑の前に立つ燈奈にそう笑いかけると、ふるふると首を振った。

「本当はね、ずっと謝りたかったの。初めて会った日の事」

「謝られるようなことなんて、特に何もないよ」

 青砥にはそれが何のことかすぐに分かった。きっと、紫苑自身にも。

「私が青い目を綺麗って言った時、反応が変だった。嫌だったのかなって、ずっと思ってたの」

 燈奈の言葉はいつも率直で、心に切り込むような話し方をする。

「いつもの事だったし、別に嫌じゃなかったよ」

「それで紫苑ちゃんは平気なの?」

 本当は、気付いている。どれだけ突き放す言い方をしたって燈奈は引かないと。

『諦めて乗っかるしかないんです』

 いつかの茜の言葉が頭に浮かんだ。

「小さい時は揶揄われたりはしたけど、今は本当に何も無いんだって」

「周囲の反応と心は別物でしょ?」

 不文律はもう破られた。この幽霊少女が破壊した。そして、天秤は傾いた。自分の事は話さないのに青砥の事は知っている、不公平な状態へと。青砥には誠実でいたかったから、それが少し後ろめたくて。

 何より、燈奈のどこまでもまっすぐな瞳が見つめてくるから。

「何も無いよ――ただ、あたしが勝手に居づらさを感じてるだけで」

 言うつもりなんてなかった本音がつい顔を出す。

「そりゃまあ、生まれてすぐの頃は不倫疑惑で離婚騒動にもなったらしいよ。でも今は夫婦仲良好……というかラブラブだね。二人共、ちゃんと愛してくれてる。友達もそう。初めて会った時は『目が綺麗』って言ってくれて、そこからは至って普通の友達関係。特別な事なんて何も無い」

 後ろを振り返る事無く歩き続ける。目の前に広がる夏の初めの空はきっとどこまでも青いのだろう。色の濃いサングラス越しでは、分からないけれど。

「この目が嫌いとかじゃないの。これだってあたし自身の個性だから。でも、なんでか集団とかが駄目なんだ。普通でいたい、皆と同じがいい。なのに、一目で分かるどうしようもない違いがある。話す時、皆あたしの目を見つめるの。自分でもよく分からないけど、それがどうしても苦手で」

 だからなんとなく嫌で逃げ出した、それだけだ。理由も理屈も全く無い、子供の癇癪じみたくだらない逃避。

 人の視線が紫苑を異物にするから、天文部は居心地がいい。青砥と茜は紫苑の目なんて気にしないし、燈奈だって最初の時だけだった。ここにいる時は普通も何も気にしなくて良いから気が楽で。そのぬるま湯に、ずっと浸っていたいなんて思ってしまって。

「……変な事言ったね。ごめん、忘れて。早くスーパー行こうよ!」

 やけに明るい声を出して振り返った紫苑は、完璧と普段の中間くらいの笑顔を見せる。その頭に一つ、手が伸びた。

「え……?」

 燈奈が、紫苑を撫でている。その手は質量も温度も感触も何もないのに、何故か撫でられた所があたたかな暖かな熱を帯びているような気がした。

「ちゃんと言葉にできたね。ずっと一人で向き合ってたんだね。頑張ってきたんだね」

 いつもとは違う穏やかな声が降りかかる。完璧に理解できないうえで、分かろうとしてくれている。たったそれだけで、一人で泣いていたいつかの自分が救われたような気がした。



「先輩、遅いですね」

 その声を聴きながら、二人きりのスーパーの入口で青砥は小さく息を吐いた。肌を焦がす真昼の太陽が、早くしろと急かしてくるようだった。謝るなら、紫苑達が会計に手間取っている今がいい。

 ぐ、と手を握りこむと、菓子だらけのビニール袋が音を立てる。

「茜」

 名前を呼ぶ。茜の視線が携帯から青砥へと向いて、少し不思議そうな色を宿した。

「この前は悪かった。八つ当たりで、酷い事を言ってしまった」

「その事なら気にしていないので大丈夫ですよ」

「でも、嫌いは言い過ぎた。こんなのじゃ到底お詫びにはならないが……」

「……! ありがとうございます!」

 ビニールから取り出した綿菓子を茜の手に乗せると、いつになく嬉しそうに笑った。数十円の駄菓子に声を弾ませる様子に青砥は静かに瞠目する。燈奈が突然「茜が好きそう」と言い出したものだが、こうも喜んでくれるとは思わなかった。

「二人ともお待たせ―!」

 底抜けに明るい声に振り向くと、紫苑と燈奈が自動ドアから出てくるところだった。

「遅かったな。どうしたんだ?」

「レジで小銭ばらまいちゃって……暑い中で待たせちゃったし、今日買ったやつはあたしが全部部室まで持ち帰るよ。ほら、茜ちゃんの頂戴」

 えへへ、と頬を掻いてビニール袋を受け取る目尻はまだほんのりと赤い。紫苑は変なところで不器用だ。

「ありがとうございます」

「なら俺のも頼む。……大丈夫か?」

「だいじょばない、かも……」

 俯いたまま、三つの袋を持っている腕がぷるぷる震えている。その内の一つだけ、明らかに大きく重そうだ。

「紫苑、お前何をそんなに買ったんだ?」

「でっかい水鉄砲四丁」

 脳内に浮かんだのは、近所の小学生が持っていた、やたら大きくて威圧感のあるプラスチックの塊。菓子に加えてあれを四つも買ったのだとしたら、相当重いはずだ。そもそも行先は海ではなく山のはずなのに。

「そんな呆れた顔しないで! あそこ本当に何もないから水鉄砲くらい必要なの! でもどうやって学校まで持って帰ろう……」

「じゃあ私も手伝います。一つ持ちますね。それと暑いので、先輩の分もあそこの自販機でお茶買ってきます」

 茜は颯爽と項垂れた紫苑から袋を一つ奪い取って、道路の反対側にある赤い自動販売機へ向かう。その背中を呆然と見送って、紫苑は呟いた。

「茜ちゃんイケメンすぎ……」

「俺を見ながら言うな」

「だって青砥はこのまま帰るでしょ?」

「帰るよ」

「知ってた」

 笑いながら「じゃあね」と手を振る紫苑に一度だけ振り返し、背を向けて歩き出す。その、次の瞬間。

「あーおーとー君! ついてっていい?」

「……なんでだよ」

 逆さまに浮かんだ燈奈が、上下反転したままで青砥の顔を覗き込んできた。

「私ね、君と話したいことがあるんだ」

「何を」

「家族の話」

 そっと微笑み、浮かぶのをやめて青砥の前にくるりと着地する。初めて出会った時と同じ青空で、その中に立つ燈奈の背中は陽炎のような儚さを纏っていた。

「何ぼーっとしてるの。ほら、行こうよ」

 さっさと歩きだした燈奈の後を仕方なく追うと、青砥を見ないままに燈奈は静かに口を開いた。

「私の家族、君の家とちょっと似てるんだ。私には下の兄弟がいて、その子が凄く優秀でさ。私は比べられて、怒られてばっかだった。『なんでアンタはこんなこともできないの』って、そればっかり。褒められたことなんて無かった。母子家庭だったから、今思えば娘に将来苦労してほしくなかったんだろうけど」

 やけに軽い、けれども無理は感じさせない口調で話す。それがなんだか引っかかって、つい聞いてしまった。

「兄弟が嫌いだって思ったことはないのか」

「ないね」

「いなければ良かったのにって考えたことは」

「絶対ない」

「嫌いになった方がいっそ楽だろう」

「そうかもね。でも、それは無理」

 打てば響く返事を繰り返して、最後に振り返って弾けるような笑顔を燈奈は見せた。

「だってすっごく可愛いんだ。真面目なのに心を開いたら結構冗談とかも言う子で、すごく私に懐いてくれてて。『おねえちゃん、おねえちゃん』っていつも私の後ろついてくるの。目に入れたってきっと痛くない。あの子が幸せに笑っていてくれてたらそれでいい。あの子の可愛さの前じゃ、母さんのお小言なんて塵ほどの価値もないよ!」

「……すごいな」

 親から向けられる視線や言葉がどれほど重く子供に影響するのかを、青砥は知っている。だからこそ、それを塵以下だと言い切れる燈奈が信じがたかった。

「青砥君だってお兄さんのこと好きでしょ?」

 当たり前のことみたいに告げられた言葉に、息が詰まった。

「嫌いになりきれないから。羨ましくて妬ましいけど好きだから、気持ちの行き場が無いだけ」

 歩く、歩く、歩く。目に痛いくらい光を反射して輝く白線を、蹴とばすように、踏みつけるように。いつの間にか、燈奈を追い越していた。

 通り過ぎた何本目かの電柱にあった迷い鳥の張り紙が妙に気にかかる。

「嫌えたら楽なのにって思ってるの、本当は君なんだよね」

 喉から、ぐうと変な音が鳴った。燈奈は叫びたくなるほど見事に青砥の感情を言語化していく。軽やかに、なんてことないように、それが当然であるかのように断言して。

――ああ、そうだ。その通りだ。その通りでしかなかった。

 兄を嫌えたらと思っても、その度に幼い記憶が顔を出す。半分に割ったどら焼きの大きい方をくれる手だとか、友人に青砥を紹介するときの嬉しそうな声だとか。確かに愛された記憶が、兄を嫌わせてはくれなかったのだ。

 あの張り紙の鳥と同じだ。青砥の感情も、ずっと彷徨っている。

「お前は――」

 なんなんだ、と思った。

 燈奈は的確に人の本心を探り当て、核心をつく尋ね方をする。空恐ろしい程に、全てを暴く者。

 言いたいことは纏らなくて、中途半端な台詞だけが宙ぶらりんに浮かんでしまっている。変な静寂を止めたくて、それなのにどうしても言葉が生まれてくれない。

「残念、ここまでみたいだ」

 突然思考を打ち切られたのかと思った。タイムリミット。今を逃せば、もうこの幽霊について聞く機会はないのか、と。

「未練から離れすぎちゃった。ここから一歩動いたら、多分私は学校に戻される」

「は……?」

「青砥君の家も見てみたかったけど、こればっかりはしょうがないね。言いかけてた事はまた今度聞かせて。じゃあまたね!」

 燈奈が一歩踏み出す。青空を透かした手がひらりと振られたのが見えて、次の瞬間にはもう、何もいなかった。最初から、存在なんてしていなかったかのように。

 また超常的な現象を見てしまった青砥は愕然とした。それから、懸念点が一つ。

「…………あいつ、合宿に来れるのか……?」

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