第21話 壊れ始める




 何もない草原に、一人の男が立っている。年若い、それこそようやく成人したかどうかといった外形で、がっしりとした肉付きをしている。大柄というほどではないが、小柄でもない。つまるところ、いたって普通と形容するにふさわしい男であったのだ。ただ、その佇まいや表情からは、憂いというか怒りといったそういったものがごちゃ混ぜとなったどうしようもない負の感情を感じる。


 彼の視線の先には村があった、はずだった。少なくとも数日前は村に友人がいて、暖かく彼を迎えてくれた人たちがいた。けれど、今やそれは夢であったかのように、跡形もなく消え去っている。ただ、剥き出しの大地があるだけ、それだけであった。


 男はゆっくりとおぼつかない足取りで、村の中心であった場所に歩いていく。辺りを見渡し、間違いないく、ここが村のあった場所であると理解する。



 男は村より半刻の距離にある禿山で、老人と二人で暮らしていた。男は、なぜ自分が老人と暮らしているかなど気にも止めず、そして老人もそれについて言及しようとはしなかったため、彼の出自については老人の心のうちにしか存在しない。ただ、彼は歩くこともできぬ時から老人に育てられていたことから、おおよその想像はできよう。


 そんな男だが、幼い時から村にはよく遊びに行っていた。老人が村に降りていくとき同伴していたのだ。そして、数え年で七つの時から一人で村に来るようになった。老人も、それを止めようとはしなかった。幼子が禿山にある小屋で老人と二人きりでいるのは、とてもつまらないことであると、老人も承知していたからだ。


 このようにして、男は小屋と村とを行き来する、そんな生活をしていたのだ。


 それは、とても平和な生活だった。


 村では、何にも脅かされず、何にも恐れられない。村には同年代の友人がいて、駆け回り、遊びまわる。それを、近所の大人たちが微笑ましく見守っている。そのような、なんて事のない日々。当たり前と言われればそれまでだが、その当たり前がどれだけ大切なものであるか。


 よく、『失って初めてその大切さに気づく』という言葉で言い表されるもの、男が直面していることはまさにそれであろう。


 その時の感情はどのようなものであろうか?


 言葉にしようとすれば、するりと抜け落ちて、溶けて消えていく、名のつけられぬ感情。


 けれど、それでも男の心のうちを言葉にしようとすれば、それは──茶色の土、吹き抜ける風、それらは自然であり、本来であれば何ら感傷をもたらさない光景を構成する一つでしかない。けれど、なぜか今目に映るこの景色には、寂しさや憂いを思わせる。なんてことはない、元来は存在しない意味合いを、そこに見出してしまったというただそれだけのこと。心がこうも乱れていなければ、こんな無意味で、愚かと唾棄したくなるような思考は生まれなかったはずだ。人の心とはこうも脆く崩れやすいのかと、我ながら驚いている、人の心、というのは言い過ぎかもしれない。これまで聞いてきた童話や物語で似たようなことを知ってはいるが、それが自分に起きたからと言って全ての人に適応されるものであるとイコールでくくれるものではないのだから。ダメだ、思考が逸れてきている。現実を直視することができていない。そう、さながら逃避が心を落ち着かせるのだと本能的に理解しているからか。実際に、自らその本能の有用性を現在進行形で立証しているやつが考えることではないかもしれないが、この本能というやつが自分は嫌いなのである。まるで大いなる何かの存在に操られているようなそんな疑惑が頭を掠めるからである。これ以上本能の有用性を立証するのは嫌だ。現実は変わらない。そう、呼吸を落ち着けて、見てみろ。目の前にあるのは草原と数日前には村があった場所だ。それ以上でもそれ以下でもない。なぜ、こんなことが起きたのか? わからない。ジジイは俺が村に行くことを渋っていたのは、理由を知っているからかもしれない。ただ、正直に答えてくれるかはわからない。全ては、わからない。それこそ“真相は闇の中”というやつだ。変えたいなら、覚悟を示すしかない。そうでなければ、答えてはくれない。ジジイはそういうやつだ。ならば、やることはもう、決まっている──と言ったものである。


 つまりは、男は村の消えた真相を老人に求めたわけだ。根拠は乏しく、的外れである方が可能性としては高いと見て良いものだったが、今回の場合はそうでなかった。


 老人は、帰ってきた男の目を見て、ゆっくりと口を開いたのだ。


「村がなくなっていたのは、帝国のせいであろう。あやつには注意しろと言ったが、聞き入れなかった。慢心していたのだ。これまでのツケの精算をさせられたのだ」


 淡々と、事実を述べる。一才の感情を挟まず、ただ男の望んでいるであろう真実をのみ口にした。また、「……あやつ、とは村長のことだ」と。老人は言葉を付け足した。


「帝国がやったんだな」


「十中八九」


 男は、それを聞いてすぐ身を翻した。


 立ち去る男の背に向けて「さらば」と一言、老人は言った。


 言葉は、それで十分だった。





 その日、帝国にとって今世紀最大の敵が野に放たれた。後の人は言うだろう。帝国が滅びた一因はかの者、いや、かの者の妄執ではないか、と。



 ────運命は流転する。流れを塞き止めれば溜まり、異なる流れを生み出そうとする。それでも流れが止まりたまってゆけば、いずれ決壊し、全てを押し流してゆく、全ての存在を分け隔てなく混沌の渦に突き落として。そうして世界は回ってゆく。



 

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