世界でいちばん
星合みかん
世界でいちばん
「すっ……好きです! 付き合ってくださいっ」
単純な言葉だった。何週間も前から寝る間を惜しんで考えたクサい台詞なんて、いざ君を眼前にした途端、呆気なくどこかへ飛んで行ってしまって。
差し出した手に当たる春の風は妙に冷たく、瞼の裏側の暗闇に包まれた世界で、永遠とも呼ぶべき孤独を過ごした。
「——いいよ」
それはまるで、春の妖精の囁き。耳に落ちる心地良い響きに全身の感覚を持っていかれてしまって、その瞬間は言葉の意味なんて理解できていなかった。
冷え切った身体を春の陽だまりのような温もりが包み込み、ようやく我に返る。鼻腔をくすぐるほんのりと甘い香水の香りも、初めて触れた女の子特有の柔らかさも、心臓を力強くぎゅっと握って離さなかった。
「私も……好きだよ」
表面的でなく、内側から温まる人肌の温度を、僕は知ってしまった。
「ほ、ほんとに?」
「うん、ほんと」
耳元で囁くたびにかかる吐息がくすぐったかった。恐る恐る腰に手を回すと、君は僕の腕の中で照れくさそうに身動ぎした。逸る気持ちを必死に抑え込む。
「じゃあ……これから、よろしくね」
こくん、と君が小さく頷いて、どちらともなく抱擁を解いた。目が合うと、彼女は頬をさらに赤くしてそっぽを向いてしまう。
「あ、あのっ……あんまり、伝わってないかもしれないけどね……好きな人と両想いで、すごく嬉しいんだよ」
「そう、なの?」
「うんっ」
両想い、というストレートな言葉に顔が熱くなる僕をよそに、君は満開の笑みを咲かせた。鼓動が早まる。君にも届いてしまうんじゃないかってくらいに。
「たぶん、わたし……今ね、世界でいちばん——」
君に想いを打ち明けて、結ばれたときの記憶。
どうして。どうして、僕が回顧しているのだろう。今僕の腕の中で横たわる君と、あの日まるで春の妖精のように笑ってみせた君の姿が重なる。走馬灯というのは、死を覚悟したときに見えるのではないのか。
……僕が、覚悟しているのは……誰の……?
「ね……手、にぎって……?」
声はか細く、かすかに震えている。壊れてしまわないように、そっと手に触れると、君の手に少しだけ力がこもった。指先は冷たい。いのちが、削られている。
「あったかい、ね」
ふにゃりと笑った。それは春の妖精というより、いずれ消えゆく運命を背負って生まれた雪の結晶。今にも溶けて、なくなってしまいそうな。
熱いものが頬を流れて、結びあった手と手の狭間に落ちていく。やがてその跡は、風に触れて冷たくなる。それを何度も繰り返した。
次第に溢れるのは、君への悔恨の念。
「ごめん……ごめんっ……」
何を謝っているのかわからない。ただ、これまで僕がしてきた選択の中に間違いがあって、それが悪かったのなら。そもそも、僕に出会わなければ。君はいつまでも春の妖精で、人々の心に陽だまりをつくる、そんな眩しい存在で。
「泣か、ないで……笑っ……て」
力ない笑みが、切実に訴えてきた。きっと僕にできることは、もうそれしか残っていない。涙で濡れた口角を無理やり上げた。鼻水も出てるし、今すごく酷い顔をしているに違いない。ぐちゃぐちゃで不格好で、ごめん。
「……さいご……愛する、人の……腕の中で……すごく、嬉しいんだよ」
また、あの日と重なる。春の妖精も、雪の結晶も、紙一重の存在なのかもしれない。ずっとずっと好きで、愛した君のまま。
「わたし……今ね、世界でいちばん——」
さいご、君が流した一滴の雫の温度が、今でも指の腹に残っている。もう何度夢に見たかわからない。ふとした瞬間に君が気に入っていた香水の香りがするし、どんな厚着をしても身体の内側から温めてくれる君との抱擁に比べれば寒いばかりだった。この先、二度と満たされることはない。
僕からも言わせてほしい。あえて君の言葉を借りようか。
君を愛すことができて、君に愛されて。僕は今——
世界でいちばん、幸せ。
世界でいちばん 星合みかん @hoshiai-mikan
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