陳の言伝
伊島糸雨
陳の言伝
妻も旧友も俺のことを馬鹿だと言った。あんまり言われるもんだから、まあきっとそうなんだろうと思うことにした。統計というやつだ。正しいやり方はよく知らない。
ありがちな話だ。大学時代にクラブで知り合った妻に俺は惚れ込んでいて、煙草の煙が苦手だと言われれば禁煙したし、酒癖の悪さを咎められれば禁酒した。ギャンブルはやらなかった。つるんでたやつに「向いてない」と言われたからだ。思えば、あの頃の俺ときたら他人の言いなりになってばっかりだった。自分の意志とかいうやつと相手の思いとかいうものに折り合いをつける努力ができるほどの器量はなかったし、かといってあるのかもわからない自分とやらを貫くだけの度胸もなかったからだ。
それは今もたいして変わっちゃいない。上司に尻尾を振るのにはもう慣れた。離婚してから二年が経つが、他人に言われるほど多くを失ったという気もしない。ニコチンとアルコールの摂取を再開したという点ではプラスですらあるかもしれない。頭の中を巡るのがアホな惚気か酩酊かの違いでしかないし、どちらも化学物質であることに変わりはない。
腹が立つのは二週間前に届いた手紙のことだ。そいつは一ヶ月も遅れて俺の手元にやってきた。農家の実家を継いだ姉貴が転送するのを忘れたからだが、それは別にどうだっていい。問題は中身だ。封筒には俺の名前と見慣れない文字が書いてあって、しばらく考えてから漢字だと気づいた。見覚えはある。大学時代の旧友がこんな字面だった。そいつはチェン・ラオと言った。
お互いさして金があるでもなく、安い寮暮らしで部屋が隣だった。
俺はあいつのことをいつもフルネームで呼んだ。「
将来の話をした記憶はない。ロクな大人になれやしないだろうというのが共通見解だったし、単純に未来のことを考えると最悪の気持ちになったからだ。先の話はするな。今だけに集中しとけ。それが互いにとっての不文律で、友人を言い張り続けるのに必要な条件だった。後先考えながら馬鹿でいられるか? もちろん、後先考えても馬鹿なやつは実際にいるわけだが。
気まぐれに行ったクラブで妻に惚れたせいで、俺は未来のことを考えるようになった。妄想と現実の区別が怪しい具合の粗雑な未来だ。俺は自分の中にそういうステレオタイプな幸福への憧れがあることに気づいた。希望がなかったぶん一度スイッチが入ると止まらなかった。煙草はやめたし酒も断った。俺は何もない人間に自ら進んでなろうとした。何かあったらダメだと思った。「お前は馬鹿野郎だ」卒業する時、
卒業後一度だけ大学近くまで行ってみると、レンタルビデオ屋もゲーセンも潰れていて、俺はそこではっきり終わったと感じた。人生はわかたれた。けれど人間っていうのはたぶんそんなもんで、映画で繰り返し見るありふれたパターンにハマったに過ぎないと思った。俺が愛想を尽かされたのも、きっとそういうやる気のなさなんだろう。俺はきっと未来を語るのに向いてなかった。
手紙の話だ。大学卒業以降、俺はあいつと疎遠だった。ずっとだ。なのにいったいどういう風の吹き回しだと俺は妙な気分で封を開けた。
忘れかけた頃にふと思い出して、写真を撮って翻訳にかけた。中身を読んで、腹が立って酒を飲み、そこから更に一週間放置した。1+1=2。計算は最高に単純だ。
両親は存命で、訪ねると訳もなく喜ばれ、タダで飯にありつけた。俺は別に口が上手い方じゃない。だからただ話を聞いて、適当に頷いて、一言だけ謝った。向かいに座ったふたりは意図をはかりかねるという顔をしたが、俺は理由を話さなかった。
場所を教えてもらって、墓に行った。天気は良かったが人はまばらで、
「馬鹿野郎はお前だ。忘れかけてたんだから、そのまま放って良かったのにな」
余計な手間かけさせやがって、と俺は呟く。何が友人代表だよ。他にいるだろ、何かいい感じの連中が。「それとも誰もいなかったのか? 俺と同じじゃねえか。お前、頭だけは良かっただろ」まぁきっと媚の売り方も知らなかったんだろう。妙なところで頑固なやつだった。クラブに行くのも、いつも乗り気じゃなかった。なぁ、あれは何でだ?
「未来の話ができるほど充実してないからな。過去の話なら、別にいいだろ」
スキットルから一口飲んで、残りは墓石の隅にかけてやる。掃除が面倒になると悪いからな、勘弁してくれ。
「これもくれてやる。値上がりして高級になっちまった。感謝するといい」
煙草は数本抜き取って、後は箱ごと立てかけた。火をつけて吸って煙を吹きかける。こういうのが正しいのかは、正直よくわからない。他に何もないだけだ。
予感の通り、ロクな大人にはなれなかった。ただ、今は憂うほどの未来もない。後は死んでいくだけだし、お前はそれももう済ませてる。これは、なかなか悪くない。
「気楽なもんだ、はは」
煙を吐いて俺は笑う。確か、家の近くに語学教室があった。習いごとをやってみるのも、今はそんなに悪くない気がした。
陳の言伝 伊島糸雨 @shiu_itoh
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