この夏のことを、君は忘れてしまうかもしれないけど

橘 春

この夏のことを、君は忘れてしまうかもしれないけど


 すべて二十円ずつ値上がりした自販機、ゆるやかに落ちていく火球、効き目のない虫除けスプレー、ふたりとも寝坊した夏期講習、小学生のきらめき、かき氷みたいな海。

 十七歳の私の夏は、どこをとっても白山みのりが笑っている。薄づきのリップクリームを塗った唇から、整った白い歯をのぞかせて。だいたいはその隣で、あるいはみのりの視界のどこかで私も笑っている。

 変な顔。写真アルバムに映るふたりを見て、浅い息を吐く。私はいびつな歯並びがコンプレックスで、人前で笑うことがあまり得意ではなかった。けれど、みのりと出会ってそれは変わった。みのりと話していると、自分でも気づかないうちに、いつの間にか笑顔になっているのだ。

 超能力アニメの話をしていたときに、私はみのりに言ったことがある。みのりといると笑顔になれる、みのりにはそういう力があると思う、というようなことを。言い終えてから、なんだか顔が熱くなってきて、私は下敷きで顔を扇いだ。なんやそれ、とみのりは笑った。

 みのりは関西出身で、高校進学のタイミングで神奈川へ引っ越してきた。都会ってすごいんやなあ、と、誰かと肩をぶつけるたびに言っている。みのりの方言を真似するうちに、自分では結構自然に話せるようになった気がするのだが、みのりはいつも首を横に振る。

「だめやん、なんて言わんねん。あかんやん、やねん」

「あかんやん?」

「イントネーションがなぁ、惜しいんよなぁ」

 みのりの関西弁講座は厳しい。私には分からない音の違いを、みのりと同じくらい私も分かっておきたかった。いつか忘れてしまうとして、何の支障も出ないものだとしても。



 みのりが行くならと申し込んだ夏期講習は、八月になると週四に増えた。夏休みに入るまでは週二で復習メインだったのに、模試対策の演習問題をひたすら解き続ける地獄へと変わってしまった。成績ごとにクラスが分けられていて、私は二組の下の方、みのりは二組の上の方の頭の良さだった。席は自由だった。

「帰りになんか飲も、冷えたサイダーとか」

 私の上体が溶けてきているのを見ると、みのりは必ず耳打ちをする。

 サイダー、と言ったときの、みのりの掠れたそれが、炭酸の弾ける音を連想させた。透明な泡が、粘膜をつつきながらすべり落ちていく。胃は少し驚いていて、喉の外側、皮膚の方にぬるい熱を感じるのだろう。

 みのりの提案に頷いて、私は再び問題と向き合う。英単語の羅列が私の網膜を襲うけれど、なんとか一語ずつ訳していく。related……consistent……。みのりは涼しい顔をしている、ように見えた。教室は冷房が効きすぎていて、私の腕の毛穴はぽっかりと開いていた。

 授業が終わって外に出ると、なまぬるい夜風がからだにまとわりついてきた。毛穴にもするすると流れ込み、私たちはすぐに夜に溶け込んだ。

「確か、あそこが安かったんちゃうかな」

 みのりが指さした自販機に走って駆け寄ると、何匹もの蛾がべたりと張り付いていた。私たちは顔を見合わせて、歪んだ眉頭を見せ合う。

「蛾がすごいね……」と「値上がりしとる……」はほとんど同時に発せられたもので、はじめの音から沈黙まで重なっていた。

 私たちはうまく蛾を避けて、前まで百円だったはずのサイダーを買った。思っていたよりも、強く甘く冷たかった。

「また笑っとる」

 と、みのりは目を細めた。そう言われてはじめて自分が笑っていることに気がついた。

「みのりと一緒にいるからかな」

「ほんまに優香はかわいい。私とおるとき、いつも笑ってくれるし」

 なんだか照れくさくなって、私はみのりから目を逸らした。夜の植え込み、夜の電柱、夜の電線。街灯と月光はあるけれど、ほとんどの輪郭が夜に滲んでいて、物の境界線が曖昧になっている。

 再びみのりに目を向けた。すらりと伸びる腕の白さが、みのりが夜の一部ではないことを証明していた。

 私には自信があった。どれだけ暗闇にいても、どれだけ人混みの中にいても、私はみのりを見つけられる。私の視力が落ちても、みのりがものすごくイメチェンをしたとしても、私には白山みのりとそれ以外だと分かると思う。春休み前の学年集会のあと、一組から順に教室へ戻っていく雑踏のなかで、私はみのりにそれを話した。そのときもみのりは笑っていた。なんやそれ、なかなかやな、みたいに。

 鞄に入れると結露でプリントが濡れてしまうから、ペットボトルは手で持って歩いた。サイダーの残りは三分の一程度になっていた。家に帰れば夕飯があるというのに、塾終わりのジュースはつい飲みすぎてしまう。甘い炭酸が、疲れた脳にじんわりと溶けていくのだ。今日のおかずは何だろうか。トンカツがいいな。キャベツは少なめで。サイダーを飲むと、何故かカリカリに揚げた衣が食べたくなる。

 私たちは上を向いて歩いていた。小さな星や雲のような影やブラックホールを眺めて、ときどき言葉を交わして。

 みのりは理科の成績が良く、とりわけ地学の天体が好きだった。あの星とあの星を繋げたらおおぐま座や、とか、あれは金星やね、とか、プラネタリウムよりもやさしい声でみのりは語った。みのりの地元は、星がもっと綺麗に見えるという。

「やからな、落ち込んどる夜はな、空を見上げたらいいねんで」

 私はずっとそうしてきた、とみのりは言った。

「私にメールしてくれてもいいねんで」

 みのりの語尾を真似て言うと、みのりは笑った。いつもより鮮やかに。

 みのりと歩いているときに、火球を見たこともあった。ひゅるひゅると上がっていく打ち上げ花火、とは対極的に、音もなくゆるやかに落ちていく丸い光。火球や、とみのりが呟いてから、私はそれの名前が分かった。

「ラッキーや」

「ラッキーなの? はじめて見たけど」

「流れ星っぽいから、ラッキー。地元ではよく見てたんよ」

 火球が消えて真っ暗になった空に、みのりは手を合わせた。

「幸せになれますように!」

 夜を営む住宅街に、みのりの声の粒子が染み渡っていく。こぼした牛乳がカーペットのシミになるだけでなく、部屋全体ににおいが染みつくような、そういうイメージで。

 私はぎょっとした。火球に祈ったことでもタイミングでも回数でもなく、その願い事について。

「みのりは今幸せじゃないの?」

 私が隣にいるのに、と言ってみた。冗談まじりに聞いてから、冗談まじりに聞こえなかったかもしれない、と思ったからだ。

 分かれ道の目印である看板が、暗闇から少しずつ現れる。私の家の近くにある動物病院の野立看板だ。デフォルメ化されて二足歩行になった犬やウサギが描かれている。あの犬に向かって全速力で走る遊びを、私たちはときどき行う。みのりの肩や足首や横顔を見ると、今日は走りそうになかった。

「他に願い事思いつかんかってんもん」

 みのりの答えに、私は思わず笑ってしまった。肩がふっと軽くなる。白いトートバッグを一度肩から浮かせて、少し横にずらして掛け直す。三教科分の参考書とプリントが入っているそれは、地球のように重い。

 火球は明るい流れ星なのだと、真面目な顔でみのりが言った。

「やから祈らんと。ほんまは火球が落ちるまでに」

 何が「やから」なのか私には分からなかったが、とりあえず何度か頷いておいた。この思考を、みのりの芯を、遮ってはいけないと思った。

 犬の顔の前で、私たちは手を振り合って別れた。今日もおつかれ、また明日、というような言葉を交わして。

 遠ざかっていくみのりの後ろ姿をぼうっと眺めたあと、そんなわけないと思いながら空を見上げたが、やはり火球は落ちてこなかった。



「七つ目!」

「早くない? 私まだ四だけど……」

「早いよな⁉︎ 私の血、高評価すぎやろ」

 虫除けスプレーを吹きつけたはずの二の腕や脹脛をみのりが叩く。今日は夏期講習が休みで、久々に遊ぼうという話になっていた。市民プールや数駅向こうの韓国カフェといった選択肢もあったのだが、みのりが提案した散歩が採用された。動物病院の看板の前で待ち合わせをして、四十分ほど歩いたところにある大きな公園へ行く。そこの広場にはいつも二、三台のキッチンカーが営業していて、極薄皮が売りのクレープや、追いチーズとタレを絡めたヤンニョムチキンが評判らしい。みのりは以前にも行ったことがあるようで、その魅力をあらゆる表情で私に伝えた。話を聞いていると、私の口内にはどんどん唾が溜まっていった。みのりは楽しいところを見つけるのがうまい。きっと地元でもそうだったのだろう。

 私もみのりも、家を出る前に虫除けスプレーは全身に隈なく吹きかけてきたのに、その効果はほとんど現れていない。むしろ蚊が寄ってきているような気さえする。みのりの血は私のものよりもおいしいようで、大体の蚊はみのりを選ぶ。

「また噛まれた」

 八個目や、と呟きながら、盛りあがった皮膚に爪を食い込ませ、バッテンの印をつけた。

「なんだかんだこれやるけどさ、ほんまはやらん方がいいっていう意見もあるよな」

「えっ、そうなんだ」

「らしい」

「なるほど……?」

 私たちはすっかり正常ではなくなっていて、滞りのない会話が難しくなっていた。暑さや蚊への献血のせいで。てのひらの汗の海の感触、そのにおい、蝉の声。太陽に照らされて、私たちは私たちの輪郭を、影として認識していた。みのりは何を考えながら歩いているのだろう。私は暑さに苦しみながら、どれだけ歩いても公園に辿り着けなかったらいいのに、という気持ちもあって、しかしそれがどういう仕組みでその思考に至るのかは分からなかった。あとどれくらい歩いたら辿り着いてしまうのか、とかも。

 公園にはあっさり到着した。次のページをめくったらおしまいと書かれていた絵本のように、本当にあっさりと。

 私たちはまず自販機へ向かった。一気飲みしたいから、という理由で炭酸は選ばず、それぞれ桃とオレンジの天然水を買った。喉の動きに合わせて、水が自分の体に入っていく。鞄に入れていたタオルで汗を拭き、キッチンカーを目指して歩きはじめた。

 キッチンカーは等間隔に三台並んでいた。端からヤンニョムチキン、ジェラート、クレープ。ジェラートの店には、マリトッツォやカヌレといった溶けないスイーツも売っているし、フライドポテトのような塩辛い系の軽食もあるようだった。私たちはその人だかりを飛ばして、奥のクレープへと向かった。

 車体はイエローベースで、ライトのまわりだけ白く塗られている。車の横に立てられた旗には「極薄皮」の文字が、太く黒い明朝体で書かれている。そのミスマッチ感が面白くて、私とみのりは顔を見合わせて笑った。

 私はバニラアイスがちょこんと乗ったチョコバナナクレープを、みのりはいちごをふんだんに使ったいちごショートクレープを注文した。スマートフォン片手に受け取り、全体に白みがかったフィルターでそれを写した。

 生地は本当に極薄皮で、私たちは一口ひと口驚きながら味わった。みのりはぽろりと「幸せ……」とこぼしたのを、もちろん私が聞き逃すことはなかったが、頷くことはせず、食べることに専念しているふりをした。みのりは二、三度同じことを呟いていた。

「私いつもそうなんやけどさぁ」

 極薄皮への感動も落ち着いてきた頃、みのりがやわらかな声色で話しはじめた。

「クレープとか棒アイスの最後の方、食べるん下手なんよ」

 みのりの指は生クリームといちごの汁でベトベトになっていた。私は慌てて残りの三口ほどを口に入れ、頬をもごもごと動かしながら鞄からポケットティッシュを取り出した。みのりはそれを受け取ると、あーあ、や、なんでこんななるんやろう、と言いながら、もとは生クリームだった汚れを拭き取った。

「でもおいしかった」

 思わず、私はそう言った。キッチンカーから少し離れたグラウンドでは小学生くらいの男の子たちがサッカーをしていて、そのまぶしい声が聞こえてきた。かき消されてしまうかもしれないと思って、私はもう一度

「おいしかったよ」

 と、言った。

 みのりは笑っていた。けれど、言葉は泡だった。

 私たちは公園をぐるぐると何周も歩いて、日が傾きはじめていることに気がつくと、どちらからともなく出口の方へ向かった。



 こうして私たちは、夏期講習に励んだりときどき寝坊したり、休みの日に出かけたりと、文字通り夏をともに過ごした。思い出だし宝物だし走馬灯だし、さらに、大胆に言ってしまえば、それは呪いでもあるのだ。

 呪い。そんなことがあるわけないけど、そんなことがあったっていい。

 十七歳の私の夏は、どこをとっても白山みのりが笑っている。どんなことで笑うのか、どんなふうに笑うのか、私はずっと覚えている。

 この夏のことを、君は忘れてしまうかもしれないけど。』



 最後まで読み終えたみのりは、苦いような冷たいような表情で紙の束を置いた。そして、見つめるような眺めるような眼差しで優香を見た。野球部あるいはサッカー部の外練の声が聞こえてきて、ふと優香はクレープの味を思い出した。

 みのりと自分をモデルに書いた小説を、優香は昨夜書き終えた。やる気の起きない受験勉強の合間に書いていたから、一ヶ月ほどかかってしまった。

 公募に出すつもりだ、とはじめからみのりに相談していて、彼女も自分が登場人物になることを面白がっているようだった。

 優香が書いた十七の夏、去年の二人の夏は、そのほとんどが事実だ。良い出来だと思っているし、良い夏だったとも思っている。書き終えてあまり時間が経っていないからそう感じているだけなのかもしれないが。

「これに書き込んでいいんやっけ」

 優香の小説が書かれた紙の束の、一番上の紙を手に取り、みのりが訊いた。優香が頷くと、みのりはオレンジ色のボールペンでさらさらと水が流れるように何かを書き連ねていく。

 糸……、ガラス……。

 上下逆さまに書かれた文字を目で追う。

 白夜……、金魚……何?

 優香は、自分の体を向かいに座っているみのりの方へひねろうとしたとき、みのりが口を開いた。

「私、ここはちゃうと思う。思い出で宝物で、まあもしかしたら走馬灯かもしれんけど、呪いではないやろ。優香視点の一人称やろ? やったら、呪いは違う」

 どういう、と優香が尋ねる余白はなかった。

「私らの夏はさ、思い出で宝物で、糸でガラスで白夜で夕立で、虹で、金魚鉢に水を流し込んで、水に金魚鉢の形を教える、みたいなもんやったやん、優香からしたら」

 その「優香」が自分をさすのか登場人物をさすのか、優香には分からなかった。だから、優香は黙っていた。みのりがすべて言い終えたあとも。

「忘れるのは優香やろ」

 優香の口や頭や心から、言葉は出てこなかった。ただ優香は考えていた。みのりがどんなことで笑っていたのか、どんなふうに笑っていたのかを。

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この夏のことを、君は忘れてしまうかもしれないけど 橘 春 @synr_mtn

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