第26話 老いたホルツ コオロギ

 もう、日はすっかり落ちて、一番星が輝き始めています。ランプに火をともしたホルツは、また仕事台に、こしをおろして、次のくつをつくる用意をはじめました。

 あれから、何年経つことやらとホルツは、言いました。クラウスだけが、さきほどと同じように、静かに聞いています。コオロギが鳴いています。

 しかし、時のたつのは、何と早く、又、残酷なことでしょう。ホルツが、幼かった時、また若かった時にキラキラと輝いていた目は、今や、しょぼしょぼとしています。

 長年、力をこめていた、てのひらは、人一ばい大きくなり、ゆがんでいます。両手を広げながら、ホルツは、言いました。

「この手が、わしを助けてくれた。あまり力を入れたものだから、醜くなってしまったが、わしは、この手に感謝する。この手があったからこそ、木ぐつ師になれたのだし、親方にもなれた」

 ホルツは、遠くを見るかのように、目を上げました。

「店は、繁盛して、わしは、ツンフトの長までになった。ありがたいことに、クリスティーネは、結婚したが、遠い遠い国へ行ってしまった。そうして、ヨハナが亡くなり、ふびんなことに、孫も戦争で若くして死んでしまった。あれほど喜ばれていた木ぐつも、革ぐつにとってかわられた。もう、木ぐつの時代ではなくなったのだな。職人も徒弟も減り、今は、こうして、わし一人だけが、老いさらばえて木ぐつを作っている。妻に、おのが過ちを悔い、さらに代官に罪を告白してからというもの、わしは、罰せられるのを待っていた。その罰を受けて、静かに死のうと思っていたのだ。だが、わしは、年を重ねるばかりで、一向に神様からお呼びが来ない。どうして、神様は、わしに罰をくださらないのだ。わしは、確かに、お金を盗んだ。しかし、それ以上の金を、教会や貧しい人々に分け与えてきたつもりだ。わしのしたことは、本当に、いけないことだったのか。今でも、夜になると、仕事場においてある、あの木ぐつから、苦しいという声が聞こえる。はじめは、何のことかと思っていたら、あの節のある半端ものの木ぐつが、苦しい苦しいというのだ。そして、コオロギは、耳鳴りのように常に鳴き続けている」

 子供は、どこかでコオロギの声がするのかと思って、改めて耳を澄ませましたが、何一つ声は聞こえませんでした。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

木ぐつ師ホルツ @chromosome

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る