第13話 戦災孤児

 私たちが、やらねばならなかったのは、親を亡くし、明日の食べ物にも事欠く、戦災孤児を引き取り共に暮らすことでした。

 福島では、模擬原爆での空襲により、十数人の戦災孤児が生まれ、又、郡山、いわきの空襲で親を亡くした一九人の子供たちが流れてきました。

 しかし、福島での戦災孤児の数は、東京や大阪などの大都市に比べると、極くわずかなものでした。戦争中は、学童疎開が行われましたが、連合国の無差別爆撃による児童の被害を少しでも減らそうとした急ごしらえの対策では、膨大な数の子どもを助けることなど、できませんでした。

 戦中は、そのような子どもが存在することは、聞いていましたが、親戚、有志、町内会、その他の援助により、目立たないものでした。

 しかし、戦争が終わると、それまでの日本を良くも悪しくも律していた様々な決まり事が、ことごとく、疑問視され、無価値なものと変貌していきました。

 大人は、自分や自分の家族の世話をすることに、忙しく、他人の子どもがその日の食べ物に困っていても、手を差し伸べません。子どもでは働くといっても、いくらも賃金をもらえません。追い詰められた子ども達が、手を出したのは、 置き引き、万引き、かっぱらい、すりなどの犯罪でした。

 子ども達を守ってくれるのは、子ども達だけであり、大人は信用できないとの考えが染みつき、彼らは、ますます悪の道に進んでいきました。

 日がたつにつれ、東京や大阪の恐ろしい状況が伝わってきます。何千、何万という子供たちが、その日の食べる物にも事欠き、餓死する子も多かったようです。子供たちには、何の罪もありません。大人が始めた戦争で苦しむのは、常に子供たちなのです。

 修道院に住みはじめた三十数人の子供たちは、皆、風呂にも入れず、垢にまみれ、顔色は悪く咳をしている者もいました。中でも、やせ細った子供たちが、風邪を引くのが一番心配でした。そんな子供たちは、すぐに肺炎になり、神に召されてしまうのです。

 私たちは、食料を求めて、街に買い物に出かけましたが、空襲で被害を受けたのか、昔通った店がありません。そして、そこに何があったか思い出せなかった場所に、闇市が広がっていました。そこで、気がついたことは、いわゆる着物で作った和風のスカート(モンペ)ではなく、スカートをはいた女性がいたことです。

 品物はなく、闇市で買い物をせざるをえませんでした。しかし、インフレのため値段は驚くほど高く、とても手が出ないこともしばしばでした。やむを得ず郊外や隣接する農村部に出かけても、市民が買い出しした後で、十分な量を確保できませんでした。

 闇市で思い出すのは、第一次世界大戦で敗戦を迎えた独逸のことです。敗戦国は、生産力を失い、また流通も順調にいかないことから、どうしても物価が騰貴しブラックマーケットが発生するようです。 

 学校から帰り道に、子供たちの何人かは、闇市に寄ってきていました。今まで見たこともないような食べ物が、並べられており、空腹を抱えた子供には、美味しそうに思われたのは、仕方がないことでした。

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