第12話 福島 戦争犯罪

 それにしても、福島の経験が、多数の人を殺すためになされたことは、悲しいことです。人間のすることとは思われません。

 さらに、戦後、福島の修道院に抑留された方々に対し虐待が行われたという嫌疑で軍事裁判が行われました。食事医療その他の不備で、抑留者に種々の虐待を加え、精神的肉体的苦痛を与えたというものです。

 食事は、日本人の女性たちが調理していました。食事の内容は、戦争の初期には、まだ食料も物資も豊富にありましたが、次第に食べ物が不足してくるようになりました。

 最初のうちは、朝は、五オンスの精白パン、スプーン一杯のジャム、昼は、五オンスの精白パン、一オンスの肉又は魚、二オンスの生野菜、夜は、昼と同じものでした。それが、戦争末期には、朝昼は、乾パンと極く少量の野菜が入ったシチューとなり、夕食は、以前と同様でした。

 はじめは、被収容者には、量の点では、まずまず、味の点では、落第レベルでしたが、次第に、虐待だと受け取られたのは、否めません。

 それは、日本人も同じことでしたが、抑留者の方々は、食文化の違いから特に虐待を受けたと感じられたようです。

 まず、最初に非難されたのは、抑留者に木の根を食べさせたということでした。実は、その木の根とは、「ゴボウ」だったのです。また、得体の知れない木の削り粉を食べさせられたという非難もありました。それは、日本人には、馴染みのある「鰹節」でした。

 私の知っている範囲でしか、物事を判断できないので誤っている可能性はあるでしょうが、福島で抑留された方々の生活は、当時の平均的な日本人と比較しても遜色ないものであったと、私には思えました。

 日本人の食生活や住生活は文化の違いもありますが、まだ日本は国全体が貧しいので、抑留者が日本人の平均的な生活水準を知ったのなら驚いたことでしょう。

 裁判では、日本側からの主張は聞き入られず、捕虜守備隊の隊長は、死刑となりましたが、裁判官も日本側の主張にもっと耳を傾けてくれたならと今でも思います。

 しかし、広島、長崎の原爆に比べれば、この修道院での抑留者の待遇についての戦争犯罪など取るに足らないものだと私には、思われます。

 そう言えば、戦争が終わってすぐのことでした。米軍によって抑留者がまだ救出されないときです。国際赤十字から、連合軍が飛行機から食料などの物資を修道院めがけて投下するので、修道院の敷地に『PW』と目立つように大きく書いてほしいとの依頼がありました。私たちは、大慌てで、ペンキや木片を集め、敷地一杯に、大きな文字を描きました。

 翌日、連合軍の飛行機が飛んできて、いくつも物資を投下しました。パラシュートがついていたのですが、何と投下物資の下敷きとなって修道女一名が亡くなったことは、悲しいことでした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る