第11話 模擬原爆

 それは、私が目撃した昭和二〇年七月に行われた、ここ福島での、広島、長崎の予行演習というべきものです。私は、この事実をカナダの修道会本部にだけでなく、全世界に発信したいと思います。

 それは、昭和二十年七月二十日の朝でした。雨期がようやく終わりかけるかという時、雲が低く垂れ込める中、数機のB29が福島の空に侵入してきました。

 福島には、爆撃対象がないのか、以前から本格的な空襲がなかったので、初めて空襲警報が発令されましたが、私は、米軍が、この修道院を目標とするはずがないと確信していました。あるいは間違って爆弾が投下されたとしても、被害が最小になることを祈っていました。

 しかし、空襲警報が発せられたとしても、私たちの避難できる場所はありません。大体、百人以上が逃げ込めるような防空壕など、作りようがなかったからです。 

 時間は、ちょうど朝食が終わった午前八時半過ぎでしたが、この修道院から三キロほど南の県庁の上空で最初の一発の爆弾が炸裂しました。

 数機の爆撃機は、急降下し、爆弾を投下すると又急上昇するという動作を繰り返しました。まるで、何かの訓練のような動きでした。

 驚いたのは、その爆弾の大きさでした。仙台を爆撃して帰途についたB29が、残った爆弾を処理するために、福島の郊外に投下する光景を見たことがありましたが、その時の爆弾の何倍もの大きさだったのです。

 その巨大な爆弾が、地上で破裂し凄まじい轟音と地響きがしたかと思うと爆風が荒れ狂い、県庁の鉄筋コンクリートの建物が完全に崩れていました。次いで、次の飛行機が、市の中心部めがけて、同じように大型爆弾を次々に投下していきました。

 爆弾はわずか六発でしたが、市の中心部の建物は、破壊され、木造家屋からは出火し、死者百人、負傷者一千八百人という大きな被害となったのです。

 不思議なことに、その夜、爆撃で破壊された跡には、夜光塗料のように光るものが点々と広がっていました。

 会津が爆撃されたのなら、まだ理解もできました。なぜなら、会津は、歩兵連隊の駐屯地であり、軍事拠点でだったからです。しかし、福島は、そのような軍隊も軍需工場もなく、単なる行政の中心地でした。

 空襲の翌日の夜間、また腹の底に響くような低音が響き渡りました。今度こそ、福島が空襲の対象となり、前日に引き続いて、徹底的に爆撃を受けるのかと覚悟しましたが、爆撃はありませんでした。一~二機の飛行機が、福島上空を何度も旋回して立ち去りました。

 負傷者をはじめ、その爆撃の現場に居合わせた人々の健康状態に異変が起きたのは、その空襲から二、三日してからでした。

 脱毛、嘔吐、下痢、発熱の症状を訴える人が続出し、 まるで、敵が何か有害な物質をふりまいたかのような印象を受けました。毒ガスをまいたのではないかという噂も、急速に広まっていきました。  

 すると、空襲から三日後、爆撃の跡地に何かの計測器を手にした軍の技術者と思われる人が歩いていました。念のためでしょうが、ガスマスクをして、潜水士のようなゴムで覆われた服を身につけていました。軍の発表では、敵は、何らかの毒ガスを使用したと思われるとのことでした。

 そのとき、私が、放射能の恐ろしさを知っていたとしても、私には、どうすることもできなかったでしょう。ただ、何かよくないことが行われているのではないか、他の都市で同じようなことが、もっと大規模に行われているのではないかと危惧しました。

 それから暫くして、ヨーロッパを征服する勢いだった独逸が連合国の反攻により降伏したことで、あの独逸からの要請を遵守する必要はなくなり、日本は、国際赤十字に対し収容していた捕虜の国籍と氏名を通報しました。

 それを受けて、国際赤十字の一行が修道院にやってきて、戦争が始まってから、カナダへ手紙を出すことができなくなっていましたが、ようやく食料や衣類の援助を受けるとともに、併せて手紙を渡すことができるようになったのでした。

 戦後の混乱の間には、様々なことがあり、私は、福島での不思議な空襲のことなど、すっかり忘れていました。

 そうして、終戦後七十年が経過したある日、私は、一つの記事に目がとまりました。広島、長崎に落とした原爆の投下訓練として、米軍の特別部隊が昭和二十年七月下旬から八月に本州、四国の十八都府県に計四十九発の「模擬原爆」を落下させたというのです。米軍は、橙黄色に塗装されたその 爆弾を「パンプキン爆弾 」と呼んでいたこともわかりました。

 福島で投下された爆弾は、広島での原子爆弾と形がそっくりな「模擬原爆」だったのです。通常の爆弾と比較して、大きなものだとは思っていましたが、四.九トンもの重量がありました。

 その「模擬原爆」には、爆弾の被害範囲がわかるように、粉状の放射性物質と蛍光物質が含まれており、その物質の拡散調査のため、爆撃の翌日の夜に、偵察機が写真撮影をしていたというのです。

 原爆投下後に自機に被害が及ばぬよう、急上昇の操縦技術を身に付ける練習だったということ、その練習のために人命を犠牲にしたこと、さらに放射性物質を爆発させることで、人間への影響までも調査するということを考え出したのは、悪魔のような知性の持ち主としか言いようがありません。

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