第9話 広島そして長崎
昭和二〇年八月、ついに戦争は終わりましたが、私は、複雑な思いを抱かざるをえませんでした。
嬉しかったのは、九月になって、米国とカナダの兵士がやってきて、修道院に収容されていた英国人他の約百四十人を解放したことでした。彼らは、故国に戻されるため東京に移送されました。
悲しいことは、広島の惨事でした。当初、新型爆弾が投下されたという話でしたが、実際は、原子爆弾でした。私には、どのような仕組みかもわかりませんでしたが、十数万の人が死亡したと聞き言葉もありませんでした。また、放射能の障害で、被爆後も死ぬ人が絶えないとも聞きました。
広島には、コングレガシオン・ド・モールルダム修道会が設立した女子修道院がありました。それ以外にも、あと二つの女子修道院がありました。広島のノートルダム修道院には、六人の修道女が派遣されていましたが、戦後、しばらくしてから、私たちは、ただ一人生き残った修道女からの手紙を受け取ることができました。
私たちは、その手紙を何度も読みましだ。手紙には、このように書かれていました。
「それは、午前八時一五分、朝食が終わろうとしていたときのことでした。閃光がきらめいたと思うと、修道院を揺るがす凄まじい衝撃波が襲いかかり、外壁は石造ながら、骨組みは木造でしたので、あっというまに崩れ落ちました。
六人のうち、助かったのは、地下の食料貯蔵庫に卵を取りに行った私一人だけでした。地下で、大地震のような揺れを感じ、何とか上に出てみると、修道院の建物は崩れ落ち。五人の修道女は、いずれも即死の状態でした。
外に出てみると、熱線でひどい火傷を負った人々の一団が、広島駅に向かって歩いていました。背中に赤ん坊を背負った母親もいました。その赤ん坊は、すでに亡くなっていたのですが、母親はそれを知らず、救護所を探していました。
広島は、川が多い地域でしたが、すべての川が皮膚がはがれ、筋肉がむき出しになった死体で埋まっていました。しかし、火傷で水を求める負傷者は、その川の水を飲んでいたのです。
救護所でも、次々と運ばれてくる負傷者に、対応しきれない様子でした。火傷の患者には、応急手当がなされましたが、重度の火傷の者は、次々と死んでいきました。
最後の審判の時でさえ、これほどではないと思えるほどでした。思うに、これは、戦争ではなく、人間に対する理不尽な暴力です。民間人が、これほどまで被災するのは、戦争犯罪ではなく、まさしく人類に対する罪そのものと言っていいでしょう」
私は、この広島の惨状を知って、亡くなった人々と負傷された方々へ祈りを捧げました。
さらに悲しむべきことは、広島に新型爆弾が投下された八月六日の三日後には、今度は長崎にも同様の爆弾が投下されていたのです。
長崎の浦上には、当時アジアで最大といわれた壮麗な天主堂があり、その上空五百メートルで、二発目の原子爆弾が爆発しました。天主堂で祈りをささげていた司祭と信者数十名は全員即死し、天主堂は破壊されました。
浦上は、明治初期に浦上四番崩れと言われる基督教弾圧があり、その探索の結果、隠れ切支丹が四百年間、キリスト教の信仰を守り通したことで世界に知られるようになったところです。
基督教国が他国の基督教徒を無差別に殺害したことに対して、どう言い訳をするのかと私は思いました。もし、原子爆弾が使用されずに、日本を降伏させた場合には、五十万人の米国兵士が亡くなっただろうと私は、聞きました。
それが真実であったとしても、広島と長崎への原爆投下が正当化されるはずがありません。いずれにしても日本を降伏させるための代償としては、あまりに大きすぎる死だと私は思いました。
米国は、併せて三十数万人の民間人の命を奪ったことの意味に、正面から向き合う必要があると私は考えています。
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