第8話 日米開戦

 福島に派遣された当時、世界は、新たな戦争を始める予兆を示していましたが、昭和一六年一二月に母国のカナダと日本との間に、戦争が始まろうとは、思いもしなかったことでした。

 カナダ大使館及び領事館は、帰還船を用意し、私たちに対し本国に帰還するよう説得に来てくれました。

 しかし、私たちは、自らが築き上げた病院、精神障害者等の収容施設、そして幼稚園を捨てる訳にはいきませんでした。私たちは、日本に残ることを決意したのです。

 日本には、プロテスタントの牧師も大勢派遣されていました。プロテスタントの関係者は、出身国の説得を受け入れて、一時、帰国しましたが、カトリックの神父や修道女は、敢えて日本に留まりました。

 プロテスタントの人たちよりカトリックの人々が、勇敢だったという訳ではありません。カトリックの聖職者は、教皇様の指示で、その地に派遣されたものとされているので、教皇様から引揚げの指示がない以上、日本を去るわけには、いかなかったのです。

 引揚げの指示がなかった理由は、戦後明らかになりました。日本は、連合国と講和するため、その調停者をバチカンにする意図があり、昭和十七年、バチカンと国交を開きましたが、バチカンとしては、戦争初期の日本の占領地には二百万人ものカトリック信者がいたので、信者を失うことを恐れたと言われています。

 さらに、バチカンは、ナチスドイツを否定しなかったため、その同盟国である日本を刺激することを避けたのだという見方もあります。

 ただ、戦争が始まったとき、私たちは、敵国人でしたが、非戦闘員なので、ある程度、自由は拘束はされるものの抑留されるとは予想していませんでした。

 ところが、私たちは、民間人捕虜となり、当初、捕虜のまま福島の修道院での生活が続くかと思われましたが、会津市にある無原罪聖母修道院に移送されました。同じことが、仙台市でもあったようですが、福島市の修道院は、他の敵国民間人収容所とは別な目的を持つ事となったのです。

 それは、インド洋を航海していた英国客船「南京号」が、独逸の通商破壊船トール号に拿捕され乗船していた約百四十人の民間人が、日本に移送されてきたのがきっかけでした。

 日独が同盟関係にあったことから、インド洋方面で独逸艦船が拘束した捕虜を日本が受け入れることには、何の問題もなかったようですが、独逸は、インド洋海域で独逸の艦船が通商破壊行為を行っているという情報(客船南京号が独逸の船舶により拿捕されたこと)を連合国に知らせないでほしいとの要請をしたのです。この要請は、交戦中、捕虜収容所の存在は明らかにしなければならないという国際法の条項に違反するものでした。

 しかし、独逸がインド洋で、敵国艦船に対し攻撃を行うのは、東南アジアでの日本の立場を有利にすることであり、日本は受け入れることとなりました。そこで、抑留所として検討されたのが、福島の修道院でした。鉄道の駅から近く、首都圏以外の地域で百四十人もの外国人を収容出来る施設は、なかなか見つからなかったようです。

 修道院は、接収という形ではなく、賃貸という形式で使用されることになりました。ただし、賃料を受け取ったのは、最初の一回だけのようです。

 日本は、当初、この捕虜の存在を明らかにしなかったので、国際赤十字から支援物資は届きませんでした。又、利益代表国である中立国スイスからの視察と支援も受け入れませんでした。

 利益代表国とは、戦争等の理由により断交状態となった国家間において、大使館の保管や居留民の保護等を行う中立国のことで、今回の戦争では、スイスがその役割を担いました。

 私たちは、最初は会津に移送されましたが、女性で英語や独逸語を話せることから、福島の修道院に収容された捕虜の世話係として戻されました。

 六十名が定員の修道院の中に、百四十名もの老若男女が住んだのですから、生活は、困難を極めました。抑留者は男女別々の区画に収容され、厚い鉄の扉で隔てられました。彼らは、その扉越しに秘かに会話を交わしたり、扉の下のすき間からメモをやりとりしていました。

 そんな中で、親しくなる者もあり、抑留者同士が結婚することもありましたので、完全に隔てられていたわけではありません。


 独逸の要請により、抑留所の存在は秘密にされていたので、当然ですが、抑留者たちは外出を許されず、一年中、窓を閉め切って暮らしていましたので、近隣の人々がその存在知ることは、ほとんどありませんでした。

 ある日、抑留所内に、見知らぬ数人の労務者が、入ってきました。どうやら大工のようです。彼らは、副所長の指示により、抑留所内の設備に、色々な変更をくわえて、一夜にして、読書室、ラウンジ、電話室が出現しました。男性も女性も、自由に行き来できるようになり、また、医務室には、二人の看護婦も常駐することになりました。

 私たちは、この突然の変化に驚き、不審な気持ちを抱きましたが、この先も、このような状態が続くのであれば、特に不満はないと思っていました。

 すると、改善された抑留所の環境に慣れた頃、国際赤十字の一行が、初めて、福島の抑留所を訪れたのです。日本人以外の組織との接触は、実に二年ぶりでした。一九四四年三月二四日のことです。

 国際赤十字の一行は、まず、所長と面会し、所内を案内されました。その時。どこにいたのか、私たちが知らない間に、日本の映画制作者の一団が現れ、屋外で定例の運動をしていたり、礼拝に参加している被抑留者の姿や、一緒に昼食を楽しんでいる男性、女性、子どもの様子を撮影したのです。

 その後、赤十字の方々は、困っていることについて私たちに、質問しましたが、何から、先に言って良いのか、わかりません。とにかく、食事、入浴、衣類、暖房の不満について、考えられる限りのことを伝えましたが、赤十字の方は、

「まあ、捕虜収容所よりも、全体的な環境は良いようですね」

と言いました。私は、その言葉の意味がわかりませんでした。

 そうして、一行を見送った翌日、所内の風景が、一変しました。また、労務者が入ってきて、室内の装飾をはぎとり、抑留所は、以前と同じように、何もない殺風景な施設に戻り、男女も隔離されたのです。

 我々の代表が所長に、抗議すると、その返事は、

「過ぎたことは過ぎたこと」

と言うだけで、相手になりません。もちろん、看護婦もいなくなりました。私たちは、後になって、この不思議な出来事の意味を知らされました。

 日本当局が、わざわざ映画製作隊を派遣したのは、被抑留者は、かなり良好な状態で処遇されているという状況を撮影し、それを利益代表国に渡すことで、日本が、ジュネーブ条約を良心的に準用していると知らせることが目的だったのです

 つまり、日本当局によって、国際赤十字がだまされ、次に、利益代表国と被抑留者の出身国とその関係者が馬鹿にされたというわけです。

 色々なことがありましたが、一九四五年四月七日には抑留中のオーストラリア人看護婦が病死し、信夫山の墓地の一角に葬られました。彼女は、看護婦として抑留者のために尽くしてくれましたが、持病が悪化し神に召されました。

 福島を管轄する軍は、国際法に違反しているのを知られることを恐れて、一般市民に、修道院に捕虜が抑留されていることを知らせませんでした。

 ごく一部の市民が、抑留所である事を知り食料事情を心配して秘密に塀越しに野菜や卵の差し入れをしてくれました。

 そして戦争も四年目となると、日本は、緒戦の成果も空しく、敗色が濃くなり、戦争も終わるのではないかという噂が聞こえてきました。

 ここ福島では、さほど米軍の攻撃は感じられませんでしたが、東京を初めとする大都市は、殆どが空襲を受け灰燼に帰しているとのことでした。

 ただ、この戦争が終結するのは喜ばしいことでしたが、少なくとも罪のない日本の民間人が米軍の攻撃で死ぬことは、避けるべきことだと私は思っていました。

夏の福島は、暑さが厳しい上、湿度も高く、熱帯のような気候ではないかと思うときがあります。八月の初旬、修道女と捕虜の代表者が、警備隊長に呼び出されました。

 今後、空襲警報が発令された場合には、地下の防空壕に避難するようにとの指示でした。警備隊長は、福島には、今まで空襲がなく、先月に、初めて警報がなり空襲があったときも、修道院は爆撃目標にされず、従ってその中に留まるので、安全は保たれると考えていたようです。

 しかし、広島に、パラシュートのついた新型爆弾が投下され、その爆弾の威力は、凄まじくマッチ箱一個の大きさで、ロンドンやニューヨークを廃墟にするほどのもので、もし、それが、日本全土に落とされたら、日本人はもちろん、外国人も全滅するとのことでした。

 私たちは、戦争の終わりが近いことを感じましたが、同時に、そのような爆弾で死亡することを受け入れることはできませんでした。



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