第4話 東日本大地震
二〇一一年三月一一日に、東北地方に大地震があり、各地に巨大な被害がもたらされました。残念ながら、福島市華園町にあった修道院も例外ではありませんでした。
私は、今回の地震を東京で経験しましたが、はじめは、七十八年前の関東大震災のそれと比べても、かなり被害が大きかったと聞かされました。
しかし、その地震が、来日して二年目に起きた、昭和三陸大津波より大きな被害を生じさせたとは、そのときは思いもしませんでした。
後から聞いた話では、修道院の正門にあったマリア像は、完全に壊れて粉々に砕け散り、建物の柱は傾き、屋根瓦が飛散しました。
祭壇には、太い梁が斜めに落ちて、一人の修道女が、その下敷きになって死亡しました。祭壇の十字架を守ろうとしたらしいと推測されています。
壁の漆喰には無数にひびが走り、所々が剥がれ落ち、全ての窓ガラスは破れ、扉の開閉もできなくなりました。また、雨漏りのため床下も傷んでカビも発生しました。さらに、貴重な聖画や書籍が、床に散乱しましたが、危険なため立ち入りは禁止されました。
日本の太平洋沿岸には、大津波が押し寄せていましたが、福島市は、海岸部から離れたところにあるので、地震の被害だけを心配していたのですが、地震から三日目、想像もしないニュースが流れてきました。沿岸部にある原子力発電所が、津波の浸水により、電源を喪失したとのことでした。
その結果、何が起こるのかを想像できなかった私には、テレビに映る原発の爆発の映像を眺めることしかできませんでした。その内に、爆発した原発を中心にして半径八十キロの地域が、立ち入り禁止区域に指定され、百六十キロまでが、自主的避難対象区域に指定されました。
爆発地点と福島との直線距離は、六十キロで、福島は居住制限区域となりました。それまでは、何とか、福島の修道院とも連絡が取れていましたが、聞けば、もう、福島に住むことはできず、教会や修道院を残して、安全な地域に避難するということでした。
放射線という言葉に、あまり良い記憶はありません。それは、昭和二十年の八月に誘うからです。あの日、致死量の放射線に貫かれて、多くの人が亡くなり、忍び寄る病に苦しみ続けました。
あの悲劇が、戦争という出来事以外で起こりえるのかと、私には、信じられない思いでしたが、神は、私に、広島と福島という二つの惨事を眺めることを求めているようです。
私にとって、福島の修道院とは、その建築以前から関わりをもった特別な存在なだけに、今後、その建物が朽ちてゆくのを見守ることしかできないことは、非常に心の痛むことです。
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