第14話

 ユキタムもまた、自分の言葉を最後まで紡ぐことができなかった。ガレージが、にわかに騒がしくなったからだ。激しい咳の音が立てつづけに響く。ノラユがまた苦しみだしたんだ。ニノホとユキタムは顔を見合わせ、ガレージへと走った。

「あんたたち、じっとしててよ!」

 ニノホが、僕に釘を刺す。

 慌ただしい足音と声が、住む人の消えた建物の中に響いた。僕もみんなのところへ行こうとしかけて、瓶を抱えて立っているイオをふり返った。大きく開いたその目は、めまぐるしく何かを考えているようすだった。

〈水〉

 イオが言った。

〈水を飲ませないと〉

 悲鳴が、イオの声を突き破った。

「ノラユ!」

 ニノホの声だ。悪いことが起きたのが、その声で全身に感じられた。

 立ちすくんでいる僕の前を、小さな影がよぎっていった。速すぎてすぐにわからなかったけど、イオがガレージへ駆け込んでいったのだった。

 イオのあとを追ってガレージへ入ると、床に突っ伏したノラユが背中を激しく震わせていた。さっきまで寝ていたホリシイとモダが、引きつった顔でノラユを取り囲んでいた。ニノホがノラユを抱きかかえようとするが、けいれんが起きているせいなのか体を動かすことができないでいる。夜中よりも、ずっと激烈な苦しみ方だった。

 国外での任務に選ばれた写本士は、出発前に医師の診察を受けていて、僕らは全員、風邪すら引いていなかった。それなのにノラユのようすは、尋常ではなかった。床に押し付けるように顔をふせ、かすれた荒い咳をとぎれとぎれに漏らしている。青い制服の背中がわななき、いまにもその震えがノラユを砕いてしまいそうだった。

「くそっ」

 ユキタムが椅子の背にかけていた防塵マフラーを首に巻きつけ、バイクに手をかける。

「外へ行ってくる。もし基地に生存者がいなくても、医療キットがあれば……」

 スタンドを蹴り上げようとしたユキタムは、何かに足を取られて大きくもんどりうった。

 小さな白いものが、ユキタムの足元をすり抜けていった。イオだった。マントの裾から、とげの並んだ紅い尾が鮮やかに見えた。

 すばやく動くイオに、モダとホリシイが悲鳴を上げる。イオはほかのみんなには見向きもせず、ニノホに抱え込まれて苦しんでいるノラユにまっすぐ近づくと、顔を寄せてノラユのにおいをいだ。

〈水だ〉

 イオの声は落ち着いている。だけどみんなには、それが聞き取れない。

〈きれいな水を見つけてきた。呪いを吸い込んだんだ。この水を飲ませたら助かる〉

 イオが、冷たい水の入った瓶をかかげる。この子を信じていいのかわからない。だけどいま、ノラユを助ける力を、僕らの誰一人、持っていなかった。書かなきゃ。イオが何を言っているか、みんなに伝えないと……

「こ、これ、くれようとしてるんじゃないか?」

 戸惑いのこもった声で言ったのは、ホリシイだった。全員が困惑の表情を浮かべる中、ホリシイはじっとイオの目をのぞき込もうとする。

 イオは濡れている瓶を、ノラユに向かって差し出す。中に満たされたほの青く澄んだ水が、イオの動きに合わせて震えた。

「やめて、近づかないで!」

 ノラユを必死で抱えるニノホが、怒鳴り声を叩きつけた。びくりと身をすくめるイオに、苦しんでいるノラユが、そのときまぶたを開いて目を向けた。

 まるで何かに吸い寄せられるみたいだった。全身をこわばらせながら、ノラユがイオの方へ身を乗り出した。手を伸ばすことがかなわずに、ほとんど顔からイオの手の中へ崩れ込み、瓶をつかむ。イオは少し怯えた顔をしながら、ノラユの口に薄青い水をゆっくりと注いだ。

〈大丈夫。慌てずに飲め。治る。死なない〉

 聞こえないのに、イオは一生懸命にノラユに語りかけた。ノラユは小ぶりな瓶の中身を、いくらかは顎へこぼしながらも飲み干した。

 真っ白になっていたノラユの顔にほんのわずかに色が戻り、みるみる呼吸が落ち着いていった。規則正しく息をしながら体の力を抜くノラユを、ニノホが腕で支えた。

 凍りついたような静けさの中、イオが上目遣いにここにいる者たちのようすをうかがう。そうして後退しながら、立ち上がった。

〈……足りない。もっと持ってくる〉

 僕から何かを問いかけるひまも、誰かが呼び止めるひまもなかった。イオは小さな動物のようにすばやく回れ右をすると、部屋を駆け出していった。チャッ、と、犬のそれに似た変わった足音がした。

「あの子……助けようとしてくれてるのかな」

 ホリシイが、イオの駆け去ったあとと横たわるノラユを見くらべた。僕はただうなずくのが精いっぱいだった。はっきりとしたことなんて、いまはひとつもわからない。だけどイオがノラユを助けようとしてくれているのは、ほんとうだと思っていいんじゃないか。

 ノラユはすっかり呼吸を落ち着かせ、また目を閉じて眠りかけていた。ニノホが、その体に毛布をかけ直す。

「じゃあ、ほんとなの……? コボルに、あの子の言ってることがわかるって」

 とまどいをふくんだニノホの問いに、僕ははっきりとうなずいた。ユキタムが、眉間にしわを刻んで自分の頭をかきむしる。

「メイトロンの会話は、なんか特殊な方法でするのか? あの子どもがメイトロン人なんだとして、だけど。……コボルの出身国って、ひょっとしてここなのか?」

 そんなことを言われても、わからない。でも確かに、メイトロン龍国で書かれた物語には、発語を必要としない意思の伝達という描写が、たびたび出てきた記憶がある。

 イオは、どこへ向かったのだろう? ノラユの呼吸を落ち着かせたあの水は、どこから持ってきたのだろうか。外の水は、みんな塵禍に汚染されているはずなのに。王都の水路か貯水槽か、汚染を受けない場所からんできたのか。

 ニノホがもう一度、アスユリのノートを開いていた。どこかに自分たちがこれから取るべき行動が書かれているはずだ。少なくともそのヒントを、見つけ出さなくてはならない……真剣なまなざしが、そう物語っていた。

 僕は、イオが口や鼻を覆わずに外へ出ていったのを思い出す。棚に引っかけたマフラーは、ほとんど乾いていた。雑貨店へ移動すると、鉛筆を借りたペン立てからはさみを抜き取り、防塵繊維のマフラーを半分に断ち切った。イオが戻ってきたら、片方を使ってもらうつもりだった。

 ニノホからユキタムへ、ホリシイ、モダ、そして僕へ回されたノートのつづきには、さらに僕たちの足元を揺るがすことが書かれていた。几帳面で繊細な、アスユリの青い文字で。


 ◇


 ……塵禍は自然災害ではない。

 前の戦争のときにアスタリットが開発し、実用に至らなかった道具──兵器だ。

 館長はそう言った。冗談や噓を言っている顔つきではなかった。

 アスタリット星国は実戦で使うことのなかった兵器を、戦後、周辺国で故意に使用している……それが館長のつかんだ情報だ。周辺国を塵禍で疲弊させ、アスタリットへの依存を強くさせるため、計画的に塵禍を使っているというのだ。そうすることでアスタリットは、強い国でいられるのだと。

 正直に打ち明けると、館長の話を信じきることができないでいる。

 だって、あり得るだろうか? 自国の利益のためとはいえ、誰かの住む場所や帰る場所、命そのものを奪ってしまうだなんて。

 そしてそれを行ったのが、自分を育んできたこの国だなんて。

 わたしの親たちは、塵禍の被害で失われた故郷の話を何度も聞かせた。祖母が子どものころから一緒だったという家の裏のりんの樹のこと。山から湧く冷たい小川のこと。銀細工の職人の工房のこと。鳥飼いのにぎやかな集落のこと。何もかもがいまでは灰色にくすみ、もう人が寄りつくことはないという。

 塵禍が通過したあとの土地は、本当にむごたらしいありさまになる。ペガウでの任務で、それを見てきた。わたしたち写本士だけじゃない、軍人たちもそれを目撃してきた。人がある日突然消滅した街や村、工場や農地を。

 あれが本当に兵器なら、使っている誰かがいるということだ。計画を立て、実行に移す生きた人間が──たぶん、軍の人間が。

 館長はそれを告発するつもりだという。そのために、書いたものが失われなくなるネバーブルーインクが必要なのだと。

 そんなことをして、無事でいられるのだろうか。図書館にいられなくなったら? アスタリット星国から追放されたら? あるいは、もっとひどいことになったら……

 悪い想像はいくらでもできる。

 だけど、わたしや仲間たちが任務地で目の当たりにしてきた現実は、もっとひどかった。何も知らず、ただ日々の営みをくり返していただけの人々が、街や家や店、畑や道具だけを残し、この世から消え去っていた。遺体すら残さずに。

 もしもあの災厄を誰かが故意に起こしているというなら、止めなくてはならない。




(続きは本書でお楽しみください)

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ネバーブルーの伝説 日向理恵子/小説 野性時代 @yasei-jidai

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