第13話


 ◇


 水から浮上したように息を吸うと、僕は周囲を見回した。自分がいる場所が現実なのか、それとも夢を見ているのか確かめたかった。

 手に握ったアスユリのノートを、もう一度のぞき込む。

 館長は何をしようとしていたんだ? 文字が消えてしまう? 写本した書物が、廃棄の対象だって?

 苦しそうだったノラユが、静かになっていた。呼吸がやっと落ち着くまでに、どれほど時間がたっただろう。咳が治まったというよりは、ノラユの体力が尽きたという方が正しいのかもしれない。

 喉の奥に異物を引っかけたような音を漏らしながらもノラユが眠ると、つきっきりだったニノホやユキタムは、膝に顔をうずめて長いため息をついた。

 僕は荒くなる呼吸を懸命に抑えながら、膝を乗り出して手にしたノートを差し出した。

 疲れた顔を面倒くさそうにこちらへ向けたニノホは、そのノートがアスユリのものであることに気づくと顔色を変えた。伸ばしてきた手は、まだ震えていた。ニノホが広げたノートをのぞき込み、ユキタムが手で口を押さえた。

「なんだよ、これ……」

 ニノホはすっかりあおざめ、言葉を失っている。ノートはそのまま、ホリシイとモダに渡された。

 雨が降りつづけている。

 全員が何も言わずに、息を詰めていた。ノラユは知っていたんだ。アスユリが何をしようとしていたか、僕らが何をさせられていたか。

 モダがへたり込むと、えつともぜんめいともつかないくぐもった音を、喉の奥から絞り出した。

「……モルタが書いたものも? 噓だろ。いままで書いたもの、全部……」

「モルタのだけじゃないわよ。アスユリの書いたとおりなら、あんたの書いたものもみんな、時限式に消えていく──もう失われてしまっているのかもしれない。あのかんしやく持ちが特別なわけじゃない」

 ニノホが玄派の見習い写本士を見下ろした。

「モルタが、あ、あんなふうなの、怒らないで」

 顔をふせ、モダが言った。自分の膝に顔を隠し、黒い制服のそでをつかむ。必死な声音にかえって冷めたようすで、ニノホが息をついた。

「別にいまは怒ってないけど。なんで、あんたがそんなこと言うの」

 ひくっと、モダがしゃくり上げる。小柄な体がますます小さくなる。

「モルタは、ずっと記録をまとめてたんだ……いままで行った任務地での記録を。アクイラで、ペガウで、どんなことが起きていたのか、何が失われたのか。塵禍のあとの土地では何に気をつけるべきか。書いて残しておかないと、あとから行く人が困るから、って」

「……だけど、写本士が勝手に書いたものは」

 ユキタムがさしはさむ言葉に、モダはうつむいたままでうなずく。体をどこまでも縮めようとするそのしぐさは、見ているこちらまで苦しくさせた。

「全部、老師に渡さなきゃならない。モルタはみんな渡してたよ。マハル師はモルタの書いたものをちゃんと読んで、『いつか自由に書物が発行できるようになるまで、自分の手で保管しておこう』って約束してくれた。マハル師のことを信頼してたから、全部渡したんだ。すごい量だった。モルタは、全部一人で書いたんだよ。全部……消えちゃったってことだろ?」

 誰も答えられなかった。足元が真っ暗闇に向かって崩れてゆく感覚と、自分が白亜虫に捕食されているような感覚が同時に神経をむしばんだ。

 いままで書いたものがみんな消えてしまっていたなら──写本士たちが習得した技術も、毎日の仕事も、何もかも無駄だったんじゃないか。ここへ、こんなところへ来たことだって。

「館長は、そのネバーブルーインクを探させるために、周辺国へ人を送り込んでいたってこと? いままでずっと?」

 ニノホの手がわななく。銃を扱った影響じゃなく、それは怒りによる震えだった。

「冗談じゃない……ほかに方法があったでしょ? 死者まで出して」

 高まる声を、ニノホはふつりと途切れさせた。その目が、細い息をしながら眠っているノラユを見ていた。

「やめよう。いまは、生きることだけ考えよう」

 ユキタムが低く言う。

「見習いたちから寝ろ。眠くなくても寝るんだ。ここで体力を使い果たさないようにしないと」

 うつむき、ふり返ると、棚の最下段に体を収めたイオと目が合った。雨雲色の目は、波紋の立たない水たまりみたいに、この場で起きた何もかもを映していた。


 眠ったつもりはなかった。頭の中をさまざまな疑問や不安が駆け巡り、その冷たい渦は腹部や足にまで及んで、体中落ち着くところなんてどこにもなかった。

 それなのに、いつのまにかろうそくが吹き消されたみたいに、僕の意識は途絶していたらしかった。まったく自覚がなかったので、目を開けたとき混乱した。目を閉じる前と、姿勢すら変わっていなかった。時間を盗まれたみたいな気分だ。

 それでも鼓動に合わせてゆっくりと、自分の置かれた状況に意識が追いつこうとする。

 ガレージの天井はいやに高くて、まるでそのまま空とつながっていそうだった。主を失った天井が、真っ暗なうつろで僕らの上にふたをしている。

 寝転がった体が三つ、視界に入る。ノラユと、モダと、ホリシイだ。三人ともほとんど寝息を立てないので、死んでいるんじゃないかと一瞬ひやりとした。

 音を立てないように、ノラユをのぞき込む。血の気のない顔は真っ白で、黒い塵になりそうな気配はなかった。ノラユの顔を見ていると、突然喉が苦しくなって、首に巻いたままだったマフラーを引きはがした。……中庭へ出てきたアスユリに首を絞められたときの恐怖が甦る。湿気ているマフラーを完全に首からはずし、棚にぶら下げた。

 と、暗い視界に違和感が映り込む。この場にいるはずのあと三つの人影がたりない。ニノホとユキタム──それに、イオがいない。

 心臓が、ぞわりと胸の中でうごめく。

 まさか、ニノホたちまで外へ行ったんだろうか? イオは、どうしたんだろう? 誰かが追い出してしまったんじゃないか。モルタの顔が浮かんで、僕は慌てて自分の想像を追い払った。モルタは、助けを呼ぶために一人で飛び出していったんだ。

 僕は防塵繊維のマフラーを棚に引っかけたままにして、そっと立ち上がった。

 空を見なくても、朝が近づきつつあるのがわかった。建物のどこかから、外気が入り込んでくるらしい。

 そっとドアを開け、雑貨店の方をうかがうと、二人の写本士が立っているのが見えた。厚くほこりに覆われた窓から外へ視線を向けていて、僕が来たことにまだ気づいていない。通りに面した窓は大きく造ってあり、店の中は薄明るかった。ニノホたちに、イオを見なかったかかなくては。ノートとペンを取り出しかけて、ふと手を止めた。二人のひそひそ声の会話が聞こえてくる。

「……やっぱり行くよ。じっとしていられない」

「よせよ。モルタが助けを呼ぶのを待とうぜ。……家族が心配なのはわかるけどさ」

 ユキタムの言葉に、ニノホはうんざりしたようすで肩をすくめる。だけどそのしぐさに、いつもほどの勢いはなかった。

「そうじゃない。わたしは、自分の兄弟の心配をしてるんじゃないの。末の子どもがたまたま女に生まれたからって、ためらいもせず図書館に差し出すような人たちだもん。こういう緊急事態こそ自分たちの活躍の場だって、むしろ大喜びしてるでしょうよ」

 冗談めかした口調のニノホに、ユキタムが口ごもる。

「増援部隊が動いて到着するまで、たぶんそんなにかからない。もしもここにいる部隊が全滅していたとしても、かならず国軍は別の部隊をよこす。それを待てないなら、モルタの言ったとおり、王都を離れてメイトロン政府に助けを求めればいいんだから」

「そうだろ。だから、あいつが戻るまでここで待とう」

「……助けが来るのを待って、全員で帰国する?」

 わずかの間が空いた。ユキタムが身をこわばらせたので、肩が動いた。

「どういう意味だ?」

「帰国して、図書館へ戻って──そのあとは? また捨てられるだけの文字を書きつづけるの?」

「だって、この状況だぞ? とにかく生きて帰って、アスユリが書いてたことはそのあとで、それこそ館長や老師たちに訊けばいいじゃないか」

 ニノホが歯嚙みする気配があった。

「老師たちも信用できない」

 きっぱりと言うニノホに、ユキタムが顔をふり向けた。

「モルタが書いていたという資料を、マハル師は保管しておくと言ったんでしょう。放置すれば消えてしまうのに。共犯だわ」

「それは……マハル師だって、知らなかったのかもしれないじゃないか」

 ニノホがため息を吐き出した。

「シラメニ師やナガナ師は? 館長だけがこのことを知ってたっていうの? 老師たちもわたしたちと同じで、何も知らずに写本士たちを導いてた?」

 ユキタムが、ぎゅっとこぶしを握りしめた。

「ノラユはこのままにしておけない。あの子や見習いたちは国へ帰らなきゃいけないけど……誰かは逃げるべきだと思う」

 ニノホの声には、混乱よりも強い決意がこもっていた。ユキタムが体を動かし、靴が床を踏む音がいやに大きく響く。

「はあ? 逃げるって──どこへ」

 声を高めるユキタムが、はっと肩を震わせて僕の方へふり向いた。

「……びっくりした。いるんなら知らせろよ」

 僕のすがたをみとめて息をついたユキタムが、もう一度目を見開く。ニノホも、僕の後ろを注視していた。

 ひそやかな気配を感じてふり向くと、小さな影が立っていた。イオだった。いなくなったと思っていたのに……フードの陰から、まるく見開いた目がこっちを見つめている。

「どうしたの、コボル? 何かあった?」

 ニノホが尋ねる。イオの目が、きょろりと僕の視線をとらえた。

〈お前は、コボルというのか。何もかも変えてしまう者という名前だ〉

 イオの小さな手が、僕の制服の裾をつかむ。細くて節くれだった指先にはとがった爪が生えていて、その爪の色も鮮やかな赤だった。

 イオのすがたに、ニノホとホリシイが体を緊張させる。紅い尾は、いまはマントの下へまるめ込まれているらしかった。

〈もう外へ出ても大丈夫だ。雨で、呪いは流れたから。ペガウの黒犬は、当面追ってこない〉

 マントのフードをすっぽりかぶっているので、その表情をしっかり確かめることはできなかった。イオのもの言いはいかにも落ち着いていて、小さな体と釣り合っていない。

〈黒犬、って、僕らを追いかけたあの化け物だよね? あれは、なんだったんだ?〉

「お、おい、なんだよ?」

 ユキタムの頰が引きつった。この会話が聞こえないユキタムたちからは、僕とイオが無言で見つめ合っているように見えるにちがいない。

 イオはちらりとユキタムの方を見やると、マントの中に持っていた瓶をかかげた。ほのかに青い液体が満たされ、ガラスの表面は冷え冷えと濡れていた。

〈あの子に水を取ってきた〉

〈み、水?〉

 イオはまっすぐにこちらを見上げる。

〈あの子は塵禍を吸い込んだ。これを飲ませれば回復するかもしれない〉

〈ノラユに……?〉

「何する気だ、こいつ?」

「しっ。……あまり刺激しないでおこう」

 うろたえるユキタムを、ニノホがたしなめた。ほんとうに、イオの言葉が聞こえていないんだ。イオと話している僕の声も。

 みんなはイオを、人というより別種の生き物みたいに扱う。

 ──とても人間には見えないな。

 僕を発見した大人が、思わずそう言ったみたいに。

 僕が激しくかぶりをふると、ニノホたちが怪訝そうに眉をひそめた。

 レジカウンターにメモ用紙と鉛筆が置かれているのを見つけると、それを使って大急ぎで書いた。

『イオは、ノラユのための薬を持ってきてくれたんだって。』

 力を入れすぎて、鉛筆の芯が折れてしまった。先輩写本士が、そろって怪訝そうに眉を寄せる。僕はペン立てから新しい鉛筆を抜き取った。

『イオは誰かに追われてたんだ。助けないと。』

 それをニノホたちの目の前へつきつけた。二人とも、困惑の色を浮かべるだけだった。

「ねえ……コボル、昨日からどうしたの? はじめての任務で異常事態が起きて、混乱するのはわかるよ。だけど、こんな言い方したくないけど、あんたや見習いたちにはおとなしくしててほしいんだ。いまは、全員の命がかかった状況なんだよ」

 目下の者からの反抗を封じるときにニノホが使う、いつもの冷淡な口調だ。冷淡なのに、どうしてか声音はうんと柔らかみを帯びるのだった。

 僕はまたかぶりをふり、紙を裏返して文字を書いた。

『イオは王城にいたんだ。中庭に隠れてた。アスユリがなぜああなったのかも知ってる。それに』

 文字は途中で、ただの線になった。ユキタムが横から紙をひったくったのだった。昨日のモルタと同じに。

「なあ、もうよせって。みんな、なんとかしたいよ。わかってるんだよ。いま俺たちにできるのは、モルタが戻るのを……」

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