第12話

 居住スペースから新たに毛布を取ってくると、その上にノラユを寝かせた。少しでも体温を逃がさないため、毛布で体を包んだ。

 空気がおかしい。全員の混乱と恐れがにじみ出て、この場の空気をゆがめている。

「……どうしたらいいんだ? 塵禍を吸い込んだときの応急処置なんて、習ってない」

 体を折り曲げて咳をつづけるノラユと、その背中をさすりつづけるニノホから離れて棚のそばまで下がると、ホリシイが力なくつぶやいた。

 塵禍に襲われた場所は危険すぎて、軍隊であってもすぐには近づけない。そこにいた人間は全滅し、ちりと化した人間が風に乗って新たな災いになる。……少量の塵禍を取り込んでしまった生存者がいたという話も、その生存者が助かったという話も、聞いたことすらなかった。どうすればノラユが助かるのか、この中に知っている者は一人もいない。

 咳き込みすぎて、喉が破れてしまうんじゃないか。そう思えてくるほどノラユは全身を震わせながら咳をした。そばにいる僕まで息が苦しくなり、ノラユの喉も僕みたいにつぶれてしまうのじゃないかと不安になった。

 全員が防塵マフラーで鼻と口を覆ったまま、過ごすことになった。もし、ノラユが助からなかったら? 脳裏には外で塵の小山になっていた兵士たちのなきがらよみがえる。ノラユがここであんなふうになってしまったら──モルタの言うとおり、僕たちも全滅する。

「……助けを呼んでくる」

 モルタが、自分の鯨油バイクのグリップをつかんだ。

「た、助けって言ったって……」

「基地まで行けば、誰かいるかもしれない。それがだめなら王都の外に行く。王都の外の人間に助けを求める」

 ニノホが、モルタのバイクの前に立ちふさがった。

「待って。ちゃんと任務地の地図は見たの? 王都の外側は広大な禁止領域になってる。メイトロン国民が立ち入ってはいけない領域。人が住んでいる場所まで、鯨油バイクじゃ走りきれるかどうか」

 あれだけ荒い運転に耐える鯨油バイクは、だけど長距離走行には向かない。基地の補給設備が生きているとも限らない。いまタンクに入っている燃料を使いきれば、ただの鉄の塊になってしまうかもしれないんだ。

 だけどモルタは、ますます険しい顔をすると、きっぱり言った。

「仲間が死ぬのを指をくわえて見てるのは、もうたくさんだ」

 ガレージのドアを開け、バイクを運び出す。モルタを止めようとする者はもういなかった。いま僕たちは、誰からの命令も待つことができず、誰の指示も仰げない。自分たちの、仲間の生存のため、できることを自分で考えなくてはならない。ニノホとユキタムが、悔しそうに唇を嚙んでいる。

 おもてでエンジン音が響き、そして基地の方角へ向かって遠ざかっていった。

 モルタがいなくなったとたん、ガレージの中が急に広く、暗くなったように感じられる。イオはモルタが出ていったのを確認すると、隠れていた木箱の後ろから棚の最下段のすきまへ移動し、荷物のあいだにうずくまって僕たち異邦人のようすを見守った。

 死ぬのかもしれない。はっきりそう意識したとたん、何か書かなくてはという衝動が突き上げた。誰かへ残したいとか、そういうんじゃない。いつもどおりに手を動かしていないと、これ以上正気を保っていられる自信がなかった。

 僕は鞄からふたたびノートとペンを取り出そうとし、はたと手を止めた。手になじんだ自分のノートの革表紙とはちがう、別の手触りがまず指に触れた。──中庭を出るとき拾った、アスユリのノートだ。

 ヤギ革表紙のノートと、天冠に鳥の紋章が入ったペンを取り出す。丁寧に使い込まれていたはずのヤギの革には、溶けて滲んだ青いインクがまだらに染みついている。ノートの紙は残らず水気をふくんで、波打っていた。すぐに乾かしておけば、無事なページが残せたかもしれないのに……自分の失敗に血の気が引くのを感じながら、僕はノートを開いた。

 濡れて貼りついたページどうしを、慎重にめくる。するとそこには、くっきりと線を保った文字が整列していた。

 目を近づける。確かに文字だ。異様に小さく書かれているけれど、アスユリのちようめんな筆跡にまちがいない。雨に濡れて滲んだ青いインクの底から浮かび上がるように、細かな文字が並んでいる。

 弱い照明しかないガレージで、僕は必死に目を凝らした。


 ◇


 ……何から書けばいいのか、ずいぶんと迷った。自分の頭が混乱しているので、はじめから順番に書いてゆくことにする。

 アサリス館長が、軍部との会合に出向いていた日。館長が図書館を留守にしていたあの日、わたしは館長室に忍び込むことになった。前回の、ペガウでの任務のあと、館長がこぼした言葉がずっと頭に残りつづけていたからだ。

「今回も、見つからなかったか」──館長は、確かにそう言った。図書館へ戻ったわたしたちの後ろで漏らしたその声の、細部の抑揚まで記憶に残っている。

 たぶん独り言だったのだろう。たまたま耳が拾ったそれが、ずっと気になって仕方がなかった。ペガウでの任務で、わたしたちは五百冊以上の書物を救出してきたからだ。この数は記録的だった。それなのに見つからなかったとこぼした館長は、わたしたちが何を持ち帰ることを期待していたのだろう?

 つぎの任務地、メイトロンへの出発を控えながら、わたしは館長の言葉をいつまでも気にしていた。出発する前に、館長が何を探しているのか確かめたかった。わたしはかなり混乱していたのだと思う。自分たちのしていることに対して、確信が揺らいでいた。だからその時間に館長がいないことを忘れ、訪ねていった。

 館長室のかぎは、開いていた。無人だと気づいたのにその場を去らなかったのは、あの子がいたからだ。

 アクイラ生まれの天帝鷲は、わたしを見ても鳴かなかった。わたしのことをおぼえてくれていたみたいだ。この鷲は、両親がアクイラから逃げてくるとき、どこかへ売ろうとして連れてきたものらしい──それを館長が引き取った。わたしと一緒に。

 館長室で、見たことのないインクの瓶を見つけた。ラベルは手書きのもので、こう読める。

〈ネバーブルー〉。

 いまわたしは、そのインクでこの記録を書いている。

 館長室へ無断で立ち入ったわたしを、予定より一時間早く帰った館長はあっさりと見つけてしまった。処罰を与えるべきだというのに、館長はわたしを室内へ隠したまま駆けつけた司書たちや老師たちを追い払った。もう一人、遅くまで居残っていたらしいコボルのことも。

 館長は、勝手に入ったわたしをとがめなかった。むしろ、わたしがインクを見つけたことをよろこんでいるみたいだった。

 館長が言うには、この〈ネバーブルー〉は特殊なインクで、どこで産出されるのかすらはっきりわかっていなかったらしい。これまで、館長はあちこちのつてをたどってネバーブルーインクを探していたが、ずっと見つからなかったのだという。やっと届いたばかりのサンプルなのだと、館長はわたしに教えてくれた。

 小さな瓶のサンプルは、メイトロン龍国から届いたものらしかった。

「きみが僕と同じ、アクイラ翼国の血を引くのも、ブルー派の写本士であることも、偶然ではないのかもしれない」

 館長の言葉を、できるだけ正確に書き記しておきたい。いや、記憶にこびりついて離れない声音を、口調を、わたしはノートに封印したいのかもしれない。

 館長の語ったことを、よくもまっすぐ立ったまま聞いていられたものだと思う。わたしや仲間たちがしている仕事、住んでいる国──あらゆるものの根本を疑わずにはいられないように、そのとき以来わたしはなった。

「アスタリット星国は、王都を失ったメイトロンに暫定当局を置くことに決めた。メイトロンは、ヴァユとの戦争のときにもれつな戦場になった国だ。戦争終結後も、アスタリットとヴァユに挟まれ、両方の思惑にふり回されてきた」

 メイトロンという半島をめぐる二大国の駆け引きについては、普段図書館から出ることのないわたしでもよく知っている。

 メイトロン龍国はヴァユとの太い交易ルートを持っており、アスタリットにとってはいつあちら側につくかわからない悩みの種であること。ヴァユはメイトロンにとって不自然なまでの好条件での交易をつづけていること。逆にアスタリットは旧植民地である周辺五国を結束させることで、メイトロンがヴァユの味方につくことを防いでいること。

 国、という所属先を後ろ盾にすると、人はどこまでも汚くなれるのだと嫌悪感を覚えていた。だけど、このときの感情は、それまで感じたことがないほど強烈なものだった。自分が巨大なゲームの盤上の、ささやかな役割を持つ駒として誰かの手につかまれているような。

 館長の言葉によると、ネバーブルーインクは、塗り替えられることのない記憶を書き留めるインクだという。現時点で入手できたのはごく少量でしかないが、メイトロン龍国へ行けば必要なだけ手に入れることができるかもしれない。……あちこちに散開してインクを探しつづけていた館長の仲間の一人が、メイトロン王室が保管していることを突き止めてくれた。国立図書館員として書くべきものを書く、それに必要なだけの量が手に入るのだ、と。

 館長の仲間というのがどういう人たちなのか、詳細は教えてもらうことができなかった。というより、わたしはそのとき、恐ろしさのために質問の多くを言葉にすることができなかったのだ。

 そのときの館長は、軍の人間みたいに見えた。ある目的のために人を動かし、しかもそれを秘密にしていたのだという。まさか図書館でそんなことが行われていようとは、考えてみたこともなかった。

 書くべきものというのは、なんなのか。それを尋ねると、館長は確かに笑った。いつも穏やかな笑みを浮かべた人ではあるけれど、このときほどはっきりと意志のこもった表情を、わたしは見たことがない。

「消えることのない記録だよ」

 館長はそう言った。

 だけどわたしたちはいまだって、塵禍に見舞われた他国の本を、失われないように写本している。その仕事こそが、館長の言う、消えることのない記録のために行われているのではないのか。

「そう信じ込ませているね」

 わたしの問いに対する館長の答えは、こうだった。いわく、国立図書館は、ヴァユとの戦争のあと解体されるはずだった。いまも図書館が残り、運営されているのは、館長が写本士たちをだましているからだ、と。

 写本士をだます? つまり、わたしも館長にだまされてきたということになる。どういうことかわからない、そう抗議しても、館長はいつもと変わらない微笑を浮かべているだけだった。鷲の羽毛から、温かでこうばしいにおいがしたのを憶えている。

「君たちが使っているインクはね、劣化がとても速いものなんだ。五年もしないうちに色が消え、読めなくなる。白亜虫にやられた本のように」

 だけど、数年で消えてしまうようなものを、わざわざ写本士を育ててまで書かせる意味がわからない。わたしの質問も、わたしの動揺も、館長はすっかり予想していたみたいだった。

「写本して甦った本は、一冊も図書館の蔵書には加わっていないだろう。みんなよそへ流通してゆく。すべて、廃棄の対象なんだ」

 それでは、わたしたちは、無駄な仕事のために生涯をささげているということではないか!

 笑われるかもしれないと思った。図書館に集まってくるのは貧しい家に生まれた者や身寄りのない者ばかり──そのうえ、ほとんどがまだ子どもで、何かに人生をささげるなどと、大人に向けて言ったところで本気にされるはずがない。じじつ館長は、頰笑みを消そうとはしなかった。だけどその顔に、見えていない目の辺りに、ぞっとするほど深い何かが宿るのを、わたしは見た。

「国立図書館を、わたしはさらに先の世代のために存続させることを選んだんだ」

 館長は、アクイラ翼国の出身。わたしの両親も同じ国で生まれた。アクイラの血を引く証拠に、わたしの髪の灰色はみんなよりも薄い。

 戦争で傷ついたあと、塵禍の被害によってとどめを刺され、アスタリットに依存しながらなんとか形を保っている貧しい国。父も母も、アクイラの貧しさから逃れるためにアスタリットへ移り住んだ。移住後も生活は豊かにならず、このとおりわたしは家族のもとを離れて図書館で暮らしている。

 雪をいただくカガフル山脈の裾の瘦せた土地、らせん角の岩鹿とそれを狙う天帝鷲がいるだけのアクイラ翼国……その小さな国が塵禍に襲われたいきさつを、館長はわたしに語って聞かせた。

 その話を聞いたあと、わたしは目と脚が不自由な館長に代わり、自分が任務中にネバーブルーインクを探してくることを即座に約束した。

 わたしがアクイラの血を引く者だから。だから話したのだと館長は言ったけれど、わたしがインクを探してくると申し出た理由はそうじゃない。

 アスタリット国立図書館の写本士として、わたしはたくさんの書物に仕えてきた。あくまで写本士の一人として、このことを書き残す必要があると感じた、いや、確信したのだ。

 この任務と館長が語った話について、いまは誰にも言えない。でないと、館長の命が狙われるだろうから。穏やかでれいで、アスタリット星国を外の視点から見ることのできるアサリス館長ほど、図書館にとって重要な人物はいないとわたしは考える。館長はもう何度も、図書館の本──写本士が複製した本ではなく、所蔵されている本──をふんしよ処分から救っているのだ。本たちがいまのアスタリット星国を生き延び、未来まで残る細い道を維持している。

 わたしはしくじるかもしれない。そのときに備えて、時間を置いてこの記録が誰かの目に触れるよう、書き残しておく。出国時には中身をあらためられてもいいように、いつも使うブルーのインクと水でページを汚しておく。鞄の中でこぼしてしまったと言えば通用するはずだ。前の任務で、ユキタムがうっかりやっていたから。

 ダミーのインク汚れは水に濡れれば消えるけれど、ネバーブルーインクで書いたこの文章は残りつづける。トラブルがあったり、わたしが任務に失敗した場合も、どこかでいつか、誰かがこれを読み、人に伝えてくれる。そのことを信じている。

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