第11話
ペンを使わずに、僕が問う。同じことを、はじめにこの声で問われたのだった。
〈身分はない〉
ごく短い返答のあと、かすかに視線が揺らいだ気がした。
〈わたしがやったんじゃない……殺してなんかいない。目が覚めるはずじゃなかった。それなのに目が覚めて……そうしたら、王都が〉
「……あなた、メイトロン龍国の子どもなの? 何があったのか話せる?」
ニノホが子どもに近づいて、灯りをかざしながら小さな体の前に膝をついた。
僕は驚いて、ほかのみんなを見回した。この子は、いま口をきいているじゃないか。……だけど、驚いた顔をしているのは僕だけだった。ホリシイもユキタムも、モダもノラユも、息を詰めてニノホの背中を注視している。子どもからの返事を待っている。
わけがわからなかった。どうしてだ? いま、この子は自分から話したのに。
雨雲色の目が、僕のことを見ていた。追い込まれた獣も同然の状況なのに、その子は動じずに立っていた。黒い影が迫ってきたときとは、雰囲気がちがった。
〈……みんなには、聞こえてないの?〉
そうだ。僕がすらすらと
〈イオ〉
声が響く。
〈わたしはあそこで生まれた。メイトロン王室で〉
〈イオ?〉
どうやらそれが、この子の名前だった。この子は、ノラユの言うとおり、人間とは別種の生き物なんだろうか。だからあそこで生き延びていたのか。
〈死ななければならなかった。死ぬ手前だった。まだ仮死状態のうちに目が覚めた。イオは務めをはたせなかった〉
何を言っているんだ、この子は? 自分の立っている世界を見失わないよう、僕は手を握り締める。てのひらが汗ばんでいて、五本の指は頼りなく滑った。
〈目が覚めたら、みんな死んでしまっていた──お前たちは、ここへ何をしに来たんだ? 王都は、死んでしまったのに〉
相手が、イオが尋ねてきた。みんなにはやっぱり、その声が聞こえていないみたいだ。
「どうした、コボル?」
僕がしきりに視線を巡らせるので、ホリシイが
答えようとするのに、僕の喉は、いつも通り声を出さない。──イオとしか、会話が成り立っていないんだ。
イオにじっと見つめられながら、僕はもう一度、大急ぎでノートにペンを走らせた。
『この子は喋ってるよ。イオという名前だって。』
ところが、ホリシイはますます眉を歪めるばかりだった。僕がおかしくなったと思ったのかもしれない。実際、自分がまともだなんて、何を根拠に信じたらいいのかわからなかった。
それでも仲間に、この状況をどうにか説明しようとした。
『この子が話していることがわかる。僕からも返事が』
つづく文字を、まともに読んでくれる者はいなかった。
「ノラユ、龍ってどういうことだ? こういう子どもを見たことがあるのか」
ユキタムがノラユに問いかける。僕は、それ以上ペンを動かすことを
うつむいて頼りない呼吸をしているノラユが、おそるおそる、顔を上げる。ためらうように視線をさまよわせ、苦しげに息を吸う。途端にその目から、涙がこぼれた。
「ア……アスユリが、言ってたの。メイトロンの王城に、探しているものがあるって。そのときに、聞かせてくれた。メイトロン王室では、龍を飼っているんだって。アスタリットやほかの国には伝わってこないけど、ほんとうに紅い鱗の龍がいるんだ、って」
「探しているもの?」
ノラユが、こくりとうなずく。
「……インク。特別なインクがあるはずだって」
特別なインク? 僕たちが使っていいインクは、各流派ごとに厳格に定められている。それ以外のインクが、どうして必要だったんだ? 異国のメイトロンで、なぜそんなものを探そうとしたんだ。
同じブルー派のユキタムも知らなかったらしく、
「どうして、アスユリがそんなことを」
ノラユは祈るように両手を握り合わせている。そうしていないと、震えが止まらないみたいだ。
「見つけたって、言ってた。館長室で……確実になるまで、ほかの子には言うなって」
そのか細い声で、僕の脳裏に、真夜中近い図書館の光景がよみがえる。館長室の扉の前の、館長と三人の老師たち。館長室の中から目を光らせていた、飛ばない
それじゃあ、あのとき館長室に忍び込んだのは、アスユリだったっていうのか? アスユリがそんなことをするなんて、まさか。
「なんだよ、特別なインクって?」
ユキタムが言葉を聞き逃すまいと正面にかがみ込むと、ノラユが肩を震わせた。
「ほ、ほんとうなの。隠してあったの。館長室に……」
「アスユリが、なんで館長からそんなことを? ほかの者は何も聞かされていないのに」
ニノホが厳しく眉を寄せる。
〈それを見つけようとしていて、黒犬の
イオが言った。イオの言葉に、みんなは反応しない。僕はノートを自分の腹に抱え込み、イオの言うことをそのまま文字にした。
〈操られて、あんなことになった。わたしを殺しに来た〉
〈殺すだって? どうして?〉
それに対する答えは、それまでよりもこわばった調子で返された。
〈わたしがメイトロン王室の、第一王女だったから〉
静電気に似た驚きが、体の
僕は写本士として育ってきて、文字を書く以外に他者へ言葉を伝える方法を知らない。手を使って話す方法があるらしいけれど、僕はそれを習得しなかった。図書館で写本士として生きている限り、文字を書いて伝達する方がずっと効率的だった。だからこんな状況にもかかわらず、書くことしかできない。どういうわけかみんなには聞こえていないらしいイオの言葉を、せめて記録しておこうと思った。
と、ホリシイがノートをのぞき込んで、ささやき声を発した。
「……おい、やめとけよ。いまはそんな場合じゃないだろ」
ホリシイが、いささか強く肩を
頭の中心が、ぐらりと揺れた気がした。
僕は唇を嚙んで、イオを、そしてほかのみんなを見回した。イオは深い沼のような瞳を小揺るぎもさせずに、僕の戸惑いを飲み込んでゆく。
ページをみんなの方へ向けた。この動作をするのは、いつも伝えたいことがあるときだ。みんなもそれを知っていて、僕の書いた文字に視線を向けた。ほとんど反射的に、そうしてくれた。
だけどつぎの瞬間、ノートが手から離れた。モルタが僕の手からひったくり、床へ投げたのだ。
「お前、ふざけるのもいい加減にしろよ」
イオが怯えて、僕の後ろへ身を隠した。モルタが腕を突き出すので、こぶしが飛んでくるのを覚悟して僕は息をつめる。が、わななくその手は、イオを指さしているのだった。
「そいつ、やっぱり信用できない。外へつまみ出せよ」
「よせって、そういうことは」
ユキタムがモルタの前へ体を移動させた。
「やめようぜ。ここで
いつも
また雨音が大きくなる。全員が黙り込み、それでますます雨の音がガレージ内に充満した。いまこの国には、僕らのほかに誰もいないんじゃないか。そんな錯覚が、頭の中を支配しそうになる。
ノラユが、
「基地がどうなってるか、見てこなくちゃ」
居座りかけた沈黙を破るように、ニノホが髪の先を後ろへはらった。
「単独で行く。その方が早く行ってこられる。基地までたどり着ければ、アスタリットへ救助を要請することもできる」
ユキタムが慌てて、ニノホの方へ身を乗り出した。
「心配なのはわかるけど、先走るなよ。見ただろ、飛空艇が消えてたんだ」
言葉の外に、基地にも生存者がいる見込みはないという失望が
「軍の部隊にこれだけの被害が出たんだ、かならず増援部隊が送り込まれる。それまで待とう」
しかし、それに食いついたのはモルタだ。
「増援? いつまで待つっていうんだよ? あのおかしな黒いのに追いかけられたんだぞ、こっちは。おまけに、得体のしれない生き物が同じ空間にいるんだ。救助が来るまでに全滅するに決まってる」
「ほかにもまだいるのかな、あんなやつが……」
ずっと黙っていたモダがつぶやくと、みんな口をつぐんだ。
「……とにかく、いま動くのは危険だ。ここで夜を明かそう。見習いたち、生かしてやらなきゃならないよ」
ユキタムがニノホをなだめた。ノラユがまた立てつづけに
「ノラユ?」
ホリシイが背中をさすろうとする。ノラユの咳は治まらず、背中を震わせて苦しみはじめた。
はっと、ニノホが息を
「……塵禍を吸ったのかもしれない」
床に崩れ込むノラユに息のしやすい姿勢を取らせようと、ニノホとホリシイが介抱する。
イオは同じ場所にじっと立って、それを注意深く見つめていた。マントの裾からはみ出した紅い尾が、ここじゃないどこかの時を計る振り子のように、ごくゆっくりと揺れていた。
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