第10話


第3章 青い書き置き


 空がますます暗くなる。日が暮れつつあるのだった。王城の中庭へ入ってから、いつのまにこれほど時間が経っていたんだろう。

 僕たちが逃げ込んだ建物はちょうどメヅマさんの店みたいな雑貨店で、無人の店内には商品が棚いっぱいに陳列されたままになっていた。店舗横にガレージがあり、三台のバイクをそちらへ運び入れた。

 ほどなく、雨が降り出した。王城の中庭で浴びたような豪雨ではなく、細く長く、夜通し降りつづけることを予感させる雨だった。

 ニノホはまだ震えが残る手を腕組みをして抑え込み、ガレージをうろうろと歩きまわった。

「……落ち着かなきゃ」

 そうささやくのが聞こえてきた。ニノホの髪や肩に、火薬のにおいがまつわりついている。

 照明をともさなくては周囲が見えないほど、屋根の下は暗かった。各自が持っている小型照明をつけて、毛布を探すため居住スペースへ踏み入った。全員が王城の中庭で雨を浴び、凍えそうになっていたから、とにかく体を乾かして暖を取る必要があった。

 タオルと缶詰のスープを見つけ、それを抱えてガレージへ運びながら、僕は必死で口を引き結んだ。吐き気とは別の何かがこみ上げた。質素な調度品も床や壁も、生活のためのこまごまとしたものも……建物の中のあらゆるものが、生々しすぎた。まだここに、住人がいるんじゃないか。いまにもドアを開けて、帰ってくるんじゃないか。ここで生きて暮らしていた、ほんとうの持ち主たちが。

 耳には泥でも詰まっているみたいだった。まともに聞こえない周囲の音のかわりに、自分の呼吸音と心音が異様に大きく聞こえた。

 ガレージではユキタムが、ひどく古そうな薪ストーブに火をつけようと苦戦していた。脚つきのバケツみたいな、移動式のものだ。

 制服の上着を脱いでスチール製の棚や椅子にかけたみんなは、僕の持ってきたタオルで髪や体をいた。もちろん完全に体を乾かすことはできなかったけど、いまは我慢するしかない。みんなげいバイクのそばや棚の前に身を落ち着け、冷えた手足や不安を訴える心臓を、どうにかなだめようとむなしく努力した。

 あの子どもはみんなから離れて、床の隅で背中をまるめ、目だけをフードの陰から光らせていた。気の立った猫みたいだ。

 かばんに簡単な食料は入っているし、この建物の居住スペースから食べられそうなものも集めてきた。だけど誰も、何かを口にする気になど到底なれないでいた。家の中からいろんな道具を拝借しながら、それでも侵入者であることへの引け目から、誰もが冷たい床の上にじかに座っていた。

 雨音がつづく以外は、耳がしそうなほど静かだ。誰もいないから……だけどそれならどうして、僕たちは生きているんだ? ちくでんじゆうの照明と、簡易ストーブの火明かりが、三台のバイクを照らす。ガレージに運び込まれた鯨油バイクは、急に知らない場所へ連れてこられたサーカスの猛獣たちみたいにこころもとなげだった。

「……何が起きたのか、誰か見てたか?」

 寒々とした静けさに破れ目を作るように、ユキタムが問いを発した。無理やり絞り出した声には、いつもみたいな力がない。

「アスユリに、何があったんだ? どうしてあんなことになった?」

 あのとき書庫にいた者、つまり僕以外の全員が顔を見合わせ、銘々にかぶりをふった。

「なんで、アスユリがあんな……」

 ニノホが指の爪をむと、押し殺したすすり泣きがガレージの中に響いた。ノラユだった。

 舌打ちをして、モルタが僕をにらみつけた。

「お前、中庭で見たんだろ? アスユリは、お前のところで死んだ。……お前が何かしたんじゃないだろうな」

「やめろよ、モルタ。コボルがするわけないだろ、あんな……」

 言いかけて、ユキタムが言葉をすぼませる。具体的に何が起こったのか、それを表す言葉を僕らは持ち合わせていなかった。はっきりしているのは、アスユリが死んでしまっていたということだけ。それから──

 モルタをいさめながら、ユキタムが僕の後ろへ視線をふり向けた。

「……おい、コボル。その子ども、誰なんだよ?」

 まったく気配を消して、あの子どもはガレージの隅から写本士たちを注意深く観察していた。おびえたようすで、ずっと体をこわばらせたままだ。僕にもわからない、そう伝えようとするのに、声が出なかった。……中庭にいたときにはあれだけ自然と会話できていたのに、僕ののどは、またもとに戻ってしまっていた。

 いつもみたいに書いて伝えるしかない。ひざの上にノートを広げて、ペンを走らせた。手の震えが制御できずに、線はあちらへこちらへとのたくった。

『わからない。中庭の、樹の上にいた。』

 僕の乱れた文字を、モルタやユキタムはけんにしわを寄せて読んだ。

「どういうこと? この街の子どもなの? 生存者なんて……」

 こめかみを押さえて言いさし、ニノホは言葉を飲み込む。生存者がいるはずはない、僕らはそう信じてきた。事実、外に生きた人間は一人も見当たらなかった。だけどそれならば、僕たちが生きているということも疑ってかからなくてはならなくなる。

『一人でいたんだ。怖がってた。』

「だろうな。こっちも怖くてどうにかなりそうだ」

 言うなりモルタが棚を殴り、大きな音を立てた。モダがびくっと肩をすくめる。

「モルタ。この子たちを怖がらせても、あんたの生存率は上がらないわよ」

 いくらか血色を取り戻したニノホが言うと、モルタが激昂した。

「うるせえよ! 親が軍人だからって、わかったふうに指図するな! 仲間が、アスユリが死んだんだぞ、なんで平然としてられるんだ」

 その言葉が、ふたたびニノホから表情を奪った。

 ユキタムが点火した小型の薪ストーブが、ガレージ内をゆっくりと暖めはじめる。だけど腹の底に根を張ってしまった寒さは、決してほぐれようとしなかった。

 モルタが子どもを睨みつけ、近づいてくる。僕は慌てて立ち上がった。完全に頭に血が上っている。止めないと、何が起きるかわからない。だけど僕が立ったからといって背の高いモルタ相手にはなんの威嚇にもならず、ますますいらたせる効果しかなかった。

 モルタは僕を押しのけると、うずくまっている子どもに手を伸ばした。

「こいつが何かしたんじゃないのか。おかしいだろ、王都は滅びたはずなのに、こんなガキが残ってるなんて──」

 モルタの手から、子どもはすばやく逃れる。思いがけず、その動きは速かった。ユキタムとホリシイが暴走しかけるモルタを後ろから羽交い締めにしようとし──目をまるく見開いて、そのまま体の動きを静止させた。

 床をうように走って逃げた子どもの、白いマントのすそから何かが伸びている。小型照明の光をはね返して、それは赤く輝いた。細いロープに似た、硬質なつやをまとうそれは、装身具でないことを誇示するかのように床と水平に空中をくねり、積み上げられた箱の後ろへ隠れる子どもにぴたりとついていった。

 全員の視線が子どもに、正確には子どもの体についていった赤いものの軌道のあとに、くぎけになった。モルタは怒りをぶつけようとしていたことを忘れ、きようがくのまなざしを子どもの盾になった木箱へ向けている。

 あの赤いものは、しっぽだとしか思えなかった。確かに、そんな動きだったんだ。猫や馬の尾じゃない、あれは──

「……龍」

 うずくまって泣いていたノラユが、凍えるようにささやいた。

「は?」

 戸惑いが声になって、モルタの口から漏れた。ほかのみんなも、モルタと同じ顔をしていた。僕もだ。

 龍? メイトロンの龍はあかいのだと、そう言っていたのは確かノラユだ。サーカスのテントの上を舞う、はりぼてのドラゴンを見上げながら。龍なんて、伝説上の生き物だ。サーカスにだって、人魚や人馬や高山の猛獣はいても、龍はいない。実在しない生き物なんだ……

「龍、って……だってあの子、人間だろ?」

 ホリシイが言うけど、その声にはちっとも自信がなさそうだった。

 モルタが動かないのを察して、子どもがゆっくりと木箱の陰から顔を出す。

 慌てて走ったせいで、きんが後ろへずり下がり、頭部があらわになっている。せてあごのとがった小さな顔の周りを覆う、赤い髪。波打つ頭髪はまばらにしか生えておらず、髪に覆われていない部分はてらてらと光っていた。とぼしいあかりしかない中でも、その光る部分がサーカスで見た人魚の下半身を覆っていたものとそっくりなのが見て取れた。それは、頭に生えたうろこだった。貧弱な赤い髪は血のようにのたくりながら、頭頂部から頰へとべったり貼りついている。

 こぼれ落ちそうなふたつの目、外を冷たくらしている雨雲と同じ気配をはらんだ目が、僕たち全員を映す。

 外の雨音が、わずかに強くなった。まるで水でできた厚い壁が、この建物の外側を覆っているみたいだ。

「に……人間じゃない? もしかして、ほんとに龍?」

 しばらくの沈黙のあと、こわばった空気に穴を開けるように、ホリシイが顔をゆがめた。笑おうとしたのだろうけれど、顔の筋肉がうまく動いていなかった。

「龍って……メイトロンの神話の?」

 モダもホリシイと同じように顔を引きつらせている。

「じょ、冗談だろう。これは、生き残りの子どもだ。俺たちみたいに、建物の中にいて助かったんだよ」

 ユキタムがみんなを見回した。その通りだという返事を求めている。が、誰もユキタムに答えることができなかった。

 僕たちが生きていること自体、おかしいんだ。僕たちがいたのは王城の中庭で、屋根のないあの場所はじんにさらされていたはずだった。それに建物の中にいて助かるのなら、アスタリットの兵士たちは? 塵禍が建物で防げるのなら、そもそもメイトロンの王都が壊滅しているはずがない。ペガウだって、アクイラだって、被害はもっと小さかったはずなんだ。

 全員が得体のしれない恐怖につらぬかれながら、二本の足で立っている子どもへ視線を注いだ。マントの裾から伸びている人間の体には備わっていないはずのもの、先の細いしっぽがゆっくりとくねる。空気中へ目に見えない糸でも繰り出すように動くそのしっぽには、硬そうな突起が並んでいて、隙間なく表面を覆う鱗の色は──ニノホが近づけた照明のだいだいがかった色を差し引いても、はっきりと紅かった。

〈呪いだ〉

 僕たちのそれよりも深い灰色のひとみが、小型照明の光を飲み込んでいる。

〈あの娘が、書庫に仕掛けられていたじゆに触れてしまった〉

 あの声だ。しゃべっている。だけど……おかしかった。こんなにはっきりと声が聞こえるのに、目の前の子どもは、まったく口を動かさない。

〈……誰なの、君は?〉

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