第9話


 ◆


「とても人間には見えないな」

 はじめて聞いた人間の言葉はそれだった。僕を〈発見〉した大人の一人が、そう言ったんだ。僕はそのときまだ、言語を知らなかった。音だけを記憶していたその言葉の意味を知ったのは、だからナガナ師に読むことと書くことを教わってからだった。

 発見されたあのときも、とても寒かった。大人たちが扉を開けていなかったら、僕は真っ暗なところで凍え死んでいたと思う。寒くて、最後の食料は尽きていて、みんな冷たくなって……

 あのときと同じように、外へ通じる扉を開かなくては──このままではまずいことになると、僕は恐れに突き動かされて、必死に念じた。

 開いたのは扉じゃなく、僕のまぶただった。

 息を吸うと、防塵マフラーが鼻と口にへばりついた。雨で濡れているんだ。制服もぐっしょりと重く、全身が冷たかった。

 ふたつの目が、こちらをのぞき込んでいた。こぼれてきそうなくらい大きな雨雲色の目と、貧弱な頰。知らない顔が、僕のことをじっと見ている。

 慌てて起き上がった。生きているわけがなかった。空に塵禍が見えたのに。塵禍が通過したあとに、生きている者はいない……

 マフラーを引きはがして思いきり息を吸う僕のそばに、大きな目の持ち主がぺたりと座り込む。白いマントを身に着けた、小さな体。六つか七つくらいの子どもだった。

〈大丈夫か?〉

 樹の上から響いてきた、あの声だった。

〈……生きているか?〉

 まなざしは睨みつけるようだった。それなのに、声はひどくろうばいしたようすで頼りなく、それぞれがちぐはぐだった。

〈死んでないの──?〉

 僕からの問いは、いかにも間が抜けていた。なぜ質問できるのか、まだ混乱していた。僕は声を出していない。口すら動かしていない。なのに、言葉を発している。

 自分の生死すらまともにわからないというのに、肺は新鮮な空気をほしがり、圧迫された首は鈍く痛んだ。

 中庭全体が、黒くよどんでいた。つややかな葉を差し伸べていた植物たちの枝から、濁ったしずくがしたたり落ちる。

 すすり泣きが聞こえて視線を上げると、植え込みの陰にうずくまって、ノラユが肩を震わせている。周りにはほかの写本士たちが頭をかばったり、おそるおそる空を見上げたりしている。……みんな、生きていた。

 地面に触れた手に、ずるりとぬめる感触がある。僕の手の先に、断ち切られたロープのように、細い三つ編みがのたくって落ちていた。その三つ編みの先に途方に暮れたアスユリの顔があって、ぐにゃりとおかしな姿勢で体を横たえていた。顔色が真っ白で、目と口を薄く開けているのに胸は上下せず、瞳はぴくりとも動かない。

 四つん這いになって、アスユリの肩を揺すった。触れる前から体温が完全に失われているのがわかったけれど、そんなことには構わずアスユリを起こそうとした。僕が揺するのに合わせて頭がぐらぐらと動くのに、アスユリの表情は微動だにしない。黒く広がる汚れのただ中に、生気をなくして横たわっている。悲鳴が喉元へせり上がったけれど、外へ出すことはできなかった。

〈その人間は死んでしまった〉

 子どもが言った。せた頰の周りに、赤い髪が波打っている。

〈書庫にじゆが残っていたんだ。触れて呼び覚まして、体を乗っ取られた。……ここにいることを、向こうに気づかれた。じきに追いかけてくる〉

 この子は何を言ってるんだろう、それどころじゃないのに。

〈アスユリが。仲間が大変なんだ〉

「アスユリ!」

 誰かが叫んだ。全員、頭からずぶ濡れだ。ニノホが仰向けに倒れたアスユリに覆いかぶさるように、その顔をのぞき込む。ユキタムもモルタも、アスユリに呼びかけ、それからほかの者たちの無事を確かめようとした。ホリシイが水を吸ったマフラーを引きはがしてき込む。モダはノラユのそばで、がくぜんと目を見開いていた。

〈黒犬の呪具に触れたんだ。呪いに操られて、この人間は食いつぶされた。死んでしまったんだ〉

 黒犬? 呪いってなんだ? ここを襲ったのは、塵禍じゃないのか。

〈早くここから逃げろ。黒犬が来る。殺されてしまう〉

 塵禍はどうなったんだ?

 サイレンはもうやんでいた。すさまじい勢いの雨も上がり、だけど中庭にこぼれ込んでいた陽光はその名残すらなかった。

〈逃げて。早く〉

 子どもが立ち上がる。まっすぐに立っても、背丈は僕の胸までほどしかなかった。

〈……逃げて〉

 逃げる? 何から? その前に、アスユリを助けなきゃならない。脈も呼吸もないみたいだ、でも助けなきゃ──

「コボル!」

 声に打たれて、僕はびくりと顔を上げた。モルタが顔を引きつらせ、らいつきそうなほど歯をいて僕を睨んでいる。

「何があったんだ。なんだこれは、説明しろ!」

 モルタが僕の胸倉をつかんだが、マフラーや制服にまとわりつく泥のような汚れがその手を滑らせた。

「静かにして!」

 一喝すると、ニノホはアスユリの胸の上に両手を重ね、せいじゆつを試みはじめた。心臓をなんとか揺すろうとし、口から空気を送り込む。……だけどアスユリの体は、ただぐらぐらと揺れるばかりだった。

「塵禍……やっぱり、塵禍だったよな」

 ホリシイが青ざめながら、かすれきった声でつぶやく。

「なんで、俺たち生きてるんだ……?」

 友達の困惑が、空気を伝ってくるのがわかった。きっとここにいる全員が、同じ疑問を抱いていた。ちがうのは、あの子だけだ。

 写本士たちは、一斉に視線を一か所へ集めていた。

 マントをすっぽりとまとった子どもが、立ちすくむ。その目はまばたきすることをやめて、中庭へ集まった者たちを真っ向から注視していた。

「……誰?」

 息の上がったニノホが、引きつった顔を向ける。アスユリが息を吹き返すことはなかった。蘇生を試みたぶん、体の周りにまった濡れた黒い泥が、制服と頭髪、色を失った頰を汚していた。

 小さな子どもは一歩も動こうとせず、写本士たちへまなざしを注ぎつづけた。一瞬、その視線が僕を見た。……うろたえているみたいだった。顔に表れた狼狽がすぐさま恐怖に変わるのが、文字を読むように読み取れた。

 子どもは短い手をふり回し、僕らの背後を指し示した。中庭の出入口を。

 子ども、なんだろうか。言い表しようの見つからない不自然さが、その全身に絡みついている気がした。

 ──と、冷えきった体を鋭くつらぬく気配が訪れた。──音もなく、何かが来た。何かよくないものが。混乱しながらも、追い詰められた神経が危険を感じ取る。

 突然、ホリシイが叫んだ。

「あ、あれ……!」

 子どもの後ろ、中庭の奥を指さすホリシイの手が、ぶるぶると震えた。

 濡れた植物たちの向こうに立つそれが、僕の目にははじめ、アスユリに見えた。ニノホのおかげで息を吹き返したんだ。また全身が真っ黒になってしまっているけど──中庭へ入ってきたときのアスユリとほんとうにそっくりな、黒い影がそこにいた。

 だけど三つ編みをくねらせたアスユリは、息をせず同じ場所に倒れている。

 影は人のようにも、獣のようにも見えた。ぴたぴたと、その足元へ葉末から雨のしずくが垂れる。目も口も確認できないそれが、こっちを向いているのがわかった。首筋があわ立つ。

 あれは、ここにいてはならないものだ。理屈を無視して、その直感が僕たちに襲いかかる。

「な、なんだよ……なんだよ、あれ!」

 ユキタムが叫ぶ。逃げようとして足をもつれさせるモダを、モルタが突き飛ばすようにまっすぐ立たせた。

 来る。四つ足を地につけ、黒い影が力を込める。

「は──走って!」

 ニノホがノラユの手を引いた。中庭の出入口へ向けて、全員が駆け出す。モルタがあらん限りの力で、先頭を走った。

 僕は、みんなと同時に走ることができなかった。あの子が怯えきった目を見開いたまま、同じ場所に立ち尽くしていたからだ。

 そこにいたら危ない。アスユリとよく似た黒い影が、枝も木の葉も一切揺らさず近づいてくる。

 あれに捕まってはまずい。

 なのに逃げ道を指し示した子どもは、凍りついたように動こうとしない。

 手を伸ばした。小さな体は、僕の力でもあっさりと動いた。子どもを引っ張って、僕は仲間たちのあとを追った。アスユリは地面に横たわったままで、薄く開いていたはずの目が閉じていた。ニノホがやったんだ。

 アスユリの鞄が、動かない体のわきに投げ出されている。口が開きかけて中身までひどく濡れている鞄に、僕は手を伸ばした。──鞄の中のノートとペンを、つかみ取った。ここへ置いていったら、失われてしまう。アスユリの書いたものと、書くための道具。それを持って逃げろと、頭の中で誰かががんがん叫んでいた。

 ぬかるみをまともに踏んでしまい、ずるんと足がすべった。膝をついて立ち上がろうとするけど、僕に引っ張られたあの子が倒れ込んで、すぐには起き上がれない。

 わずかのすきに、黒い影が迫ってくる。関節を無視して、泳ぐように近づく。まともな生き物の動きではなかった。

「何やってる、この間抜け!」

 重いもの同士がぶつかり合う音が、がいの真上から降ってくる。モルタだった。真っ先に廊下へ走ったモルタが、取ってきたしよくだいを黒い者の頭部へ振り下ろしていた。一撃を加えるとモルタは燭台を投げ捨て、僕の襟首をひっつかんだ。マントの子もろとも引きずりあげられ、あとは無我夢中で廊下を走った。

 全速力で、正面玄関へ向かう。黒い影が追ってきていた。モルタの攻撃も、大してスピードを落とさせてはいないようだった。

 もうすぐ外だ。だけど──外へ出て、平気なのか?

 何もわからないまま、僕たちは走って逃げた。追われるままに、ひたすらに逃げた。王城の中にいたはずの兵士たちがいない。一人もだ。かわりに深くつやめいていた床に、黒い煤か塵のようなものがばらまかれている。小さな山になった塵のそばに、ライフルによく似た形の棒が転がっているけど、頭がそれを認識することを拒む。

 先頭に立って外へ駆け出たニノホが、バイクに飛びついていた。

 外で鯨油バイクのエンジンが始動する。

「コボル、乗って!」

 ニノホの髪が、いつもと同じに勇ましく揺れていた。

 僕は子どもを自分の前へかかえ上げ、バイクにしがみついた。ユキタムとモルタがそれぞれのバイクを発進させる。重力を振り払って、濠に架かる橋を駆け抜ける。ユキタムのバイクにノラユも乗っているのが見えた。三台の鯨油バイクが、メイトロンの王城を離れる。

「とにかく、基地まで──」

 叫ぼうとしたニノホの声が、ふつりと途切れる。

 来たときよりもひどい光景が、バイクが切り開く景色につぎつぎと立ち現れた。

 監視気球の三分の二は屋根の上に落ち、残りは大きくかしいで苦しそうに空中にとどまっていた。路上に、人の形をした黒い煤の山がいくつもできている。

 基地の向こう、僕らを乗せてきた飛空艇が係留されているはずの地点に、船のすがたはなかった。

「……冗談でしょ」

 ニノホが歯嚙みする。

 ありえない。だけど目に飛び込む光景が現実だと教える。ここは二度目の塵禍に襲われたんだ。

 ふり返ると、あの黒い影が王城の門の上に見えた。飛び降りて、追ってくる。

 バイクのタイヤが路面に積もる黒い塵──塵禍そのものか、あるいはアスタリット兵士だったもの──を巻き上げ、乗っている僕らに噴きかかりそうになる。加えて、ニノホとユキタムのバイクには三人ずつが乗っていて、普通に走れる状態ではなかった。

 三台のバイク以外、動くものはない。大きな音と埃を立てて走るバイクを、黒い影はしつように追ってきた。サイドミラーをのぞき込んだニノホが、苛立ってうなり声を上げるのが聞こえた。

「コボル! その子、落とさないでよ」

 怒鳴り声が飛び、僕は片腕で抱え込んでいる子どもをさらにきつくふとももと座席に固定した。自分の体もバイクからふり落とされないようにしながら、どうしてそんなことをやってのけられたんだろう。あとで僕の両腕は、ひどい痛みに襲われるにちがいなかった。

 マントを着た子どもは、全身を固くして息を殺している。

 ニノホのバイクは先頭に出ると、煤が積もる大通りをやにわに右へ折れた。体が重力にもぎ取られそうになる。タイヤが舗装に嚙みつき、すさまじい埃を巻き上げる。横合いの路地へ入り込むと、ニノホは鋭く弧を描いてバイクを停めた。飛び降りて走るニノホと、後続の二台がすれちがう。

「おい、ニノホ──」

 急停止しようとしたユキタムのバイクがバランスを崩しかけ、きわどいところで後ろの二人の重みを支えた。路地のさらに奥まで進んで、モルタもバイクを停止させる。視界の端に、モダがきつく目をつむっているのが見えた。

「そのまま走って!」

 ニノホは叫ぶと、道端に倒れて塵の山と化している兵士のなきがら、そのそばに落ちている黒い塊を拾った。ライフルだ。

 弾倉の底をたたいてセットされているのを確かめ、ニノホは建物の影に片膝をつく。ためらわずに銃を構える。

「ばか、逃げるんだよ!」

 ユキタムがどなった。僕は子どもの頭を押さえてバイクから離れ、建物の壁にぴったりと背中を貼りつけた。

「逃げきれない。ここで止める」

 低く言うニノホの横顔は、まるで別人だった。写本をするときの集中とはちがう。何かが顔面の皮膚を突き破っていまにも飛び出してきそうな、痛いほどの集中だ。

 前触れはなかった。すさまじい音が城下の路地に響き渡り、音のあとで僕たちは引き金が引かれたことを知った。十発、二十発の連射が、ニノホのまっすぐな髪にでたらめな波を描かせる。全身がけいれんしているみたいだった。金属と火薬のにおいが、マスクをしていても鼻に襲いかかってきた。

 空になったやつきようが路面に散らばり、頭蓋をく耳鳴りが居座りつづけた。

 発砲しながらニノホは叫んでいて、でもそれは言葉でも人間らしい声でもなかった。

 がむしゃらな連射が空気を引き裂き、耳が完全におかしくなっていたから、突如目の前へ躍り出たそれは真っ黒い夢みたいだった。あの黒い影が、渦まく嵐の形をして、横道へ逃げ込んだ僕らの前に立ちはだかった。

 銃口が赤く光る。ほぼ距離のない相手へ、ニノホがとどめの一発を撃った。けんに穴を穿うがたれて、黒い影の動きが止まる。

 撃たれた相手は倒れなかった。その瞬間、僕は夜が眼前に現れるのを見た。暗闇が視界いっぱいに拡散し、その中心に、正しく並んだきばがあった。獲物にみかかろうとする牙は大きく上下に開き──黒い霧と一緒に空気中に拡散し、ばらけていった。……消えた。

 ニノホが立ち上がる。ライフルを支えようとして、手を滑らせた。鉄製の武器が、重い音を立てて落ちる。引きずられるようにもう一度膝をつくニノホの肘を、バイクから飛び降りたユキタムがつかんだ。

「……倒した、よな?」

 ユキタムがささやくが、ニノホは呼吸しているだけで精いっぱいのようすだ。僕は子どもの頭を抱え込んだまま、建物の外壁に背骨を這わせ、どうにか立ち上がった。目がとらえる距離がでたらめに伸び縮みする。寒さも恐怖も、皮膚の表面からはくして漂っているようだった。

「行こう」

 ユキタムがニノホを支えながら、こちらへふり返った。

「ど、どこに?」

 ユキタムの鯨油バイクを支えているホリシイが、裏返った声を上げた。

「とにかく近くの建物に入る。こいつにいまバイクの運転はできない」

 僕はそのときのニノホの顔を、忘れないだろうと思う。顔面は石灰の色になり、引きつった目だけが燃え立つようにぎらついていた。防塵マフラーの下に牙が生えていたとしたって、驚かない。……乱暴ではあっても、ニノホは信頼している先輩写本士だ。それが、仲間に支えられていなければいまにも誰かに襲いかかりそうな緊迫感に支配されている。

 ニノホが使ったライフルは、塵禍の一部となった兵士のかたわらに重々しく横たわっている。銃身がまだ熱いのが、触らなくてもわかった。モルタが下を向き、短く悪態をつく。誰もその銃を拾おうとはしなかった。

 ユキタムが力の入っていないニノホの体を支えながら、そばの建物のドアを蹴った。施錠されていないドアは、あっけなく開いた。

 視線を下へ向けると、白いフードの陰から大きく見開いた雨雲色の目が、じっと僕を見ていた。

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