第8話

 細い声が、僕に話しかけた。

〈みんないない。誰も、いなくなってしまった〉

 まるで、鳥が鳴いているみたいだった。それほど自然で、きれいな声だった。

〈お前は誰だ? どこから来た?〉

 樹の上の子どもが問う。おびえた猫みたいに背中をまるくこわばらせている。その周りに、きらきらと金の鈴がるされていた。赤い糸で結わえられ、星か雨つぶみたいにさまざまな高さで吊るされたそれは、やっぱり何かのお祝いの飾りのようだった。金の鈴と赤い糸、文字を書かれた白い紙の飾りのただ中で、子どもは警戒しきって、気配をとがらせている。

〈お、下りておいでよ。そんなところにいたら、危ないよ〉

〈誰だ?〉

 不思議だ。おかしい。会話が成立している。ノートもペンも使わずに、はじめて会った相手と。

〈僕は……写本士だよ。アスタリット星国の国立図書館から来た。ここにある本を救出するために──〉

 伝えきる前に、枝が騒いだ。空気がとがるのを、全身の皮膚が感じる。

〈書庫へ入ってはだめだ〉

 相手の声が、危うげに揺らいだ。命令するというより、懇願の響きだった。うつろを抱いた巨樹の、枝という枝がざわめく。風もないのに揺らぐ枝が、吊るされたおびただしい鈴を震わせた。樹の上の子どもがとっさに耳をふさぎ、幹に頭を押しつけて体を縮めた。

 このときになって、僕はやっと恐怖を感じた。状況の異様さが、ようやく神経をかき乱しはじめた。

〈だめ。書庫へ入るな。……あれが、起きてしまう〉

 樹の上の誰かは、はっきりと怯えていた。枝葉を透かしてこぼれ込んでいた陽光が、青黒くかげっていることに僕は気がつく。細い悲鳴が、廊下の向こうから聞こえた。

 何が起きたのか理解できないままに、心臓だけが拍動で恐怖を訴えた。浅くなる呼吸に、防塵マフラーが邪魔だった。

 樹が鎮まる。同時に鈴が鳴りやみ、ふいに重力すら消えたかのような、無音が訪れた。

 静けさの中を、ととと、と軽やかな足音が鳴る。廊下をのぞける窓の向こう。誰かが走ってくるのが見えた。黒くて顔はわからない。ただ、兵士でないのは確かだった。もっと細身で小柄だ。そして背中に、長く伸ばした三つ編みが揺れている。

 樹の上の誰かは、完全に気配を消している。そうやって生き延びる小動物みたいに、巧みに。だから、真下に突っ立っている僕の存在が、とてつもなく邪魔なはずだった。

 中庭へ下りる階段の上に、影が立つ。それは真っ黒で、濡れていた。まるで頭のてっぺんから黒いインクをかぶったみたいだ。その黒に染まりきらない、細い二本の三つ編みは灰色だった。たった四段の階段を下りて、さまようような足取りで中庭へ入ってきた真っ黒な影──それはまちがいなく、アスユリだった。

 何かまずいことが起きたにちがいない。アスユリに、何かあったんだ。怪我をしているのか、足取りが不自然だ。僕は自分がここにいることを知らせようと、身を乗り出しかけた。だけど片方の手は、空洞のある巨樹から決して離れようとしなかった。

 怖がっている。樹の上の子どもが、アスユリのことを。

 玉砂利を踏んで近づいてくる足音は、いびつなリズムを刻んでいた。ひざをまったく曲げないで、片足を引きずってくるみたいな。

 一瞬だけ──僕はちらと、樹の上の誰かを見上げてしまう。そのわずかな視線の動きが、アスユリの形をした影にこちらの存在を知らせた。影がこちらを見る。

 地面をる音。砂利がかみ合ってきしみ、はじける。つぎの瞬間には、黒く濡れた顔が、息がかかる距離に迫っていた。

 目も口もなかった。ただ人の輪郭をした真っ黒なものが目の前にあって、それがこっちを向いてるんだということだけがわかった。

 アスユリ、と呼ぼうとした。さっき僕は、樹の上にいる子どもと会話をすることができたんだ。なのに喉がぴたりとふさがって、声が出ない。いつものかすれた音さえ出なかった。アスユリの顔の真ん中、やや下あたりがくぼんだ。真っ暗な穴。口を開けたんだとわかった。

 叫び声が、ばくりと開いた黒い口から噴出した。アスユリの声じゃなかった。獣がたけっているみたいだ。言葉も知性も、そこにはなかった。

 黒い影はどうもうに叫びながら上を向き、やがてけたたましい笑い声を上げた。影が動き、伸びてきた手が僕の腕をつかんだ。気づくと僕は、植え込みに背中から突っ込んでいた。投げ飛ばされたのだと気づくがすぐに起き上がることができず、天地の感覚をとらえそこなう視界に、巨樹の幹を伝い上る黒いすがたが映った。

 しゃんしゃんと、鈴が鳴る。何かをことほぐような音色が中庭にあふれ、真っ黒な人影が樹をい上ってゆく。

 大気がうねり、空が暗くなる。サイレンが響く。軍の警報だ。

 鳥の断末魔のような長い音が、樹の上で響いた。あの子どもが、人間とは思えない声で叫んでいるのだ。仲間に危険を知らせようと、必死で悲鳴を上げている。だけどあの子がこの国の人間であるなら、危険を知らせるべき仲間は、もうここにはいないんだ。

 黒い影はアスユリの三つ編みを背後に引き連れて、あっというまに枝の上へ到達した。

 鈴が騒ぐ。無数の音の連なりが、血管の中まで入り込んでくる。庭の枝葉が鈴の音におののいて、その震えが体に伝染する。

 僕は走った。どうやって起き上がったのかはおぼえていない。なにが起きているのかわからない、でも樹の上に登って、あの子を助けないと──

 ちょうど僕が、巨樹の幹にしがみついたときだった。羽虫の群れみたいな影が、空を黒くしていった。につしよくのように辺りが暗く沈む。

 恐怖が体をつらぬいた。手足が動かない。目がとらえる危機に、意識が追いつかない。

「コボル、何やってるんだ!」

 ずっと後ろで誰かがどなる。足音。悲鳴。エンジン音。さっきまで満ちていた鈴の音が静まり、現実味のある音が耳に戻ってくる。だけど、その音のすべてが小さい。

 中庭から見える空を、真っ黒な砂嵐が覆ってゆく。本物を見たことがなくても、わかった。塵禍だ。あれが。でも、どうしていま? 塵禍が短期間に同じ場所を襲うことはないはずなのに。もしその危険があるなら、国軍が立ち入っているはずがない、そのはずなのに──

 頭上から破滅が降ってくる。アスユリそっくりの黒い影が、枝の上に両手両足で立つ。僕は完全に、なすすべがなかった。

〈逃げて〉

 慌てた声が、こちらへ響く。だけど僕は、動けなかった。同じ声が二重になって、同時にこう叫ぶのが伝わった。

〈助けて〉

 無我夢中だった。砂利を拾い、こんしんの力で樹の上へ投げた。枝の上の黒い影を狙った。ふたつ。三つ。四つ。当たらない。五つ目の小石を投げたのは、僕じゃなく青い制服の写本士だった。

「なんなんだよ、あれは!」

 ユキタムの投げた小石が、黒い影をかすめた。目も鼻もわからない顔が、ゆらりとこちらを向く。それが見えたかと思うと、僕は後ろざまに転倒していた。上から重いものがのしかかる。黒い影だった。枝の上から飛び降りて、邪魔をする僕に襲いかかったんだ。

 叫び声がして、いくつもの手が伸びてくる。書庫から中庭へ出てきた写本士たちが、僕から黒い影を引きはがそうとする。

 膝がみぞおちにめり込み、冷たい手が喉を絞めつけた。暗かった視界に、赤い色が滲んでゆく。黒くて冷たい影の肩から、やっぱり二本の三つ編みが垂れていて、丁寧に編まれたその髪は、アスユリの灰色のままだった。

「アスユリ、やめて!」

 ノラユが泣きわめく。必死の思いでつかんだ相手の手首は、こちらの手が痺れるほどに冷え切っていた。

 そのとき、空が千々に砕けた。鮮烈な光とごうおん。雷が僕の目と耳を麻痺させ、直後にすさまじい雨が、衝撃とともに全身を打ち据えた。中庭を襲う雨は、まるで滝だった。

 気道をふさがれ、腹部に体重をかけられて、僕は完全に抵抗するすべを失った。


 ◆


 大地の中央に、巨人が立ち上がった。

 石と土を母胎とし、地中から生まれた巨人である。

 目路の限り、まわりに生きた獣はおらず、そよぐ草さえなかった。ただ頭上に星々がひしめくばかりであった。

 巨人は手を伸ばし、星のひとつを取った。空からつかみ取っても、星はあかあかと輝きつづけていた。

 巨人は手すさびに、星を北へ向けて投げた。遠く飛び、やがて地面にぶつかると、星ははぜて明るく燃えた。大変温かな炎であった。

 その炎を気に入った巨人はまた星を取り、投げた。北東へ、東へ、西へ、南西へ。それぞれに炎が生まれた。海へ投げた星だけは、水に飲まれて燃え立たなかった。

 火の手を上げる五つの土地が、巨人の周りに生まれた。その明るいかがり火を目印として、巨人は星の落ちた地を巡り歩くことにした。火のもとに、自分の仲間となる者が集っているかもしれぬと考えた。

 最初の土地へ行った。北の土地である。巨人の投げた星の火で目をぎらつかせた犬たちが、無数に群れておぞましいにおいを放っていた。悪臭を嫌って、巨人は犬の群れに背を向けつぎの地へ向かった。

 北東へと、巨人は星の火をめざした。たどり着いたそこでは、巨人の投げた星に翼を打たれたおおわしが横たわり、ゆっくりと燃えていた。大鷲はすでに動かなかった。巨人はまたつぎの地をめざした。

 東の地では、しのつく雨が絶えることなく降っており、巨人が到達すると同時に星の火は消えた。雨はますます激しくなり、巨人は自分の手すら見えないほどであった。

 からがら雨雲の下から逃れると、巨人はつぎの地へ向かった。西の地には炎に耐えるため甲羅に隠れた大亀がおり、決して巨人のために顔を出そうとはしなかった。南西の地では海の波が、少しずつ炎を削り去ろうとしているところであった。

 巨人は疲れた足を引きずり、大地の中央へ戻った。

 どこにも、巨人を歓迎する者はいなかった。なぜ周りの地に仲間がいないのかといぶかった。

 巨人の体は、まだ東の地の雨でぬれており、ひどい寒さがかれを悩ませた。

 体が乾くのを待ちつづけるうち、巨人のあしもとから草木が芽を吹いた。茎を絡め、根を張り、植物は巨人の体から滋養を吸い取って生長した。

 やがて植物にいましめられ、巨人はその場から、二度と動くことができなくなった。

 草木に満たされ、葉陰と果実を求める鳥や獣を憩わせながら、巨人はいまもそこに立っているのである。

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