敬慕ノ色

 夕暮れ迫る放課後の美術室。一枚の絵を見ていた。


 ウェーブを巻いた長い髪の女性が、相手を後ろから抱き込み、首筋にキスをしている。緋色に染まった女性の髪は、柔らかそうな素肌を流れるようだ。見方によっては「女性が、その相手を逃がさないように抱き込みながら首筋に噛みついている」ようにも見える。


 題名は『愛と苦悩』。恐らく、ムンクが描いたあの有名な絵画「愛と痛み」をオマージュしたものだろう。


 ……とても長い時間、眺めていたような気がする。気づけば美術室に人が入ってくる気配があった。そこに現れた見覚えのある姿に、私は恭しくお辞儀をする。


「誰かと思えば、鹿賀かが姉様ではないですか。ごきげんよう」

「……ごきげんよう」


 律儀にも同じ深度で挨拶を返してくれる、鹿賀美咲かがみさき姉様。ひとつに結われた三つ編みが右肩の上に滑る。彼女は、私が尊敬する先輩のうちの一人だった。


狼谷かみやさん。なにか美術室にご用事が?総務部の見回りでしょうか」


 頭の位置を戻すや否や、本題を切り出す彼女。淡々とした物言いは静かな印象すら纏うが、冷ややかにも感じる瞳は、彼女の芯の強さをも物語るようだ。彼女が芸術方面に優秀な生徒であることはこの女学院の誰もが知っていることだが、それ以外にも一目置かれる要素を持っているようにも思える。


「あ、いえ。今日は委員会ではなく私用で。伊槻いつき先生を探していて、ここにいるかと思って来てみたんですが……誰もいなかったようなので、つい作品鑑賞を」

「そうですか」と彼女は言った。


「伊槻先生はこちらには、来ておりませんね。本日は部活動がお休みですので、部員もおりません」

「なるほど」納得しかけて、疑問が浮かぶ。「……では、姉様は何を?」

 

 姉様は一拍置いて口を開いた。

「描きかけの絵が、あと少しで完成なんです。来週から試験期間が始まりますので、どうしても今週中にと」


 それから、私が部活動の活動承認是非を司る総務部の一員であることを考慮したのか「今日放課後に教室を使わせて欲しいと、顧問には許可を取っています」と付け加えた。


 私は鹿賀姉様であれば例え無許可でも黙認するつもりだった。権力は乱用するべき、というのが持論だ。嘘ですが。


「狼谷さん、絵がお好きなら見ていかれますか。今しがたご覧になっていたものほど立派なものでは、ないかもしれませんが」


 姉様からの誘いは意外だった。が、嬉しさの方が勝って、私はふたつ返事で受諾する。

「それは嬉しいお誘いですね。ぜひ、お願いします」


 鹿賀お姉様のご提案とあれば。この狼谷、地獄までお供する所存です!

 というのは冗談ですけど。いや、冗談というのも半分冗談です。

 ……言葉の綾ですよ、姉様。


***


 画材道具の準備をする姉様から時折、解説してもらいながら、美術室に格納されている絵を鑑賞して回った。一通り見終え、さてではそろそろお暇しようかと思っていたところだった。


「狼谷さんなら、面白いと思われるかもしれません」

 そう言って、踵を返した姉様。その後ろ姿が「ついてきてください」と言っているような気がしたので、私は何も言わずにその後を追った。


 ──連れて行かれたのは、美術準備室の最奥。壁一面を隠すようにして、天井から吊るされたカーテンが揺れている。


「描きかけにはなりますが……」

 言うが早いか、姉様はカーテンを開放した。

「──…っ」


 その壁一面は、極彩色の薔薇の花で埋め尽くされていた。

 ……いや、よく見ると生花ではない。これは、写真……。


 いや、異常なほどに精巧に描きこまれた模写。


 絵画だ。

 頭ではそう認識しているのに。

 まるで本当に、薔薇の群生を目のあたりにしているようだった。

 

 一瞬、どこからか薔薇の香りが漂ってきたような気がして、咄嗟に自分の口元を手で覆った。

「う……本物、みたいですね」

「……いいえ、これは偽物です。いくら精密に描いたとて、現実を模写したもの以上にはなり得ませんから」


 姉様は軽くかぶりを振って、そこに描き出されている風景画を愛おしそうに指先でなぞりながら、滔々と言の葉を紡いでいく。


「描かれたイメージは、視線と技術……つまり芸術家が目と手を使って表現する肉体的な行為に過ぎません。視覚芸術とは、芸術家の人格と肉体をそのまま反映する個人的な思い込みのようなもの。私はそう考えています」


 私は姉様の声を聞きながら、自分自身が絵を見ている状態であることも判らなくなるほどに、まるで金縛りにでもあったかのように、咲き誇る薔薇の絵画に目を奪われてしまっていた。


 見た者を取り込んでしまう。

 そんな異様で、美しく、悍おぞましい絵だった。

 だから、だろうか。


「……私が」

「……?」

「私が、吸血鬼なんです」


 そう告げた私は、うまく笑えていただろうか。


 落ち着きを取り戻すべく、私の口から咄嗟に出たのは、嘘だった。

 自身が嘘吐きであるという自覚が、無意識にそうさせたのだろう。心が落ち着きを取り戻そうとして、習性に走ったというべきかもしれない。そんな私の心情を知ってか知らずか、「貴女が」と鋭い光を宿したままで彼女は言う。


「貴女が〈吸血鬼〉なら、私は、それでもいいと思います。……いえ。そうであって欲しいと、一体何度願ったことか」

「姉様?」

「すみません。狼谷さん。……私は今、混乱しているんです」


 ふるふると、こめかみに手を当てて軽く被りを振る姉様。

 葛藤をしているのか、懊悩を抱えているのか。

 瞬時に判断を下せないのは、私も同じだった。


 何を、どう、彼女に言葉をかけたらいいのか、判らない。

 気づくと、姉様が私の目の前に立っていた。


「貴女が私を尊敬してくれていると、自惚うぬぼれてもいいのでしょうか」

「姉様……?」

「狼谷さん」

 彼女の瞳が、私を仰ぐ。


「私は貴女に、いつの日から惹かれていたんだと思います。貴女が紡ぎ出す虚構は、私に現実じゃない夢を見させてくれるようで」


 それは告白のように響いた。

 意識の外で高鳴りだす、心音。

 手を伸ばせば届く距離に、貴女が立っている。


「だから。……私のために、嘘を吐いてくれませんか」

「姉様、」


 差し迫る彼女の気迫に押されてしまいそうになりながら。

 震える息を押し殺すように、私は、彼女のために用意していた返事を告げた。


「……もちろんです」


 彼女は静かに唇を開くと、揺れる瞳を私に向けたままで言った。


?」


 それからのことは、よく覚えていない。

 ただひとつ、確かなのは。


 そのとき姉様が浮かべた微笑みは、ひどく寂しげだったということだ。


 胸が締めつけられる想いがした。

 貴女にそんな表情をさせたいんじゃ、なかったのに。


 きっと私は、取り返しのつかない嘘を吐いてしまった。

 でも。私の嘘で、貴女を幸せにできるというなら。


 私はどこまでも、貴女のための嘘にまみれる。

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