激憤ノ痕

 五時限目の終了を告げるチャイムが鳴る。「虎尾とらお」と教師に呼ばれて、教壇の方へと向かう。「戌亥いぬいを連れてきてくれ。あいつも虎尾を好いているみたいだし、うまくいけば言うことを聞いてくれるかもしれない」そんな言付けを預かって教室を出て、屋上へと足を向けた。


 特段お人好しというわけでもないが、人嫌いというわけでもない。頼られて悪い気はしなかった。不思議と人を寄せ付ける体質なのか、教師陣をはじめとして、同級生や下級生にあれやこれやと雑務の手伝いを頼まれることも少なくはない。「彼女のお迎え」は、その中のひとつ。もはや日課と化しているもののうちのひとつだった。


 屋上への扉を開ける。鍵がかかっておらずすんなりと開く。どうやらここに居るのは間違いないようだ。屋上へと出て見渡せる範囲は居ない。物陰になっている方まで探してみるかと思ったところで、頭上に軽い感触を覚えた。

 すとん、という微かな音とともにそれが地面に落ちる。


「……なんだこれ、紙飛行機?」

 開いてみると先日返されたばかりの中間試験のテスト用紙だった。戌亥すず、という名前だけ書かれており、解答欄はすべて空欄。もちろん0点だ。


 こいつは。

 「はあ」

 深い溜息が出る。何をやらせても平均以上こなしてしまう天才少女。少し本気を出せば学者論文に名前が乗るほど頭が切れる、ありえないくらいの秀才だ。


 そんな彼女は学院生活に不真面目だった。真面目に勉強する意味を見い出せないのだろう。無断欠席はもちろん、遅刻早退の常習犯。貞操観念が欠落しているのか、不純交友──つまり身体の関係を持つ女生徒が学院内に多数いた。そういうわけで教師陣は完全に手を焼いていた。そのお守りとして俺に白羽の矢が立ったわけだが。


 実際、俺の手に余ってもいた。何を言っても右から左。何を考えているのか、凡人には理解の呼ばぬ範囲ということなのだろう。


 半ば諦めを抱きながら、紙飛行機の飛んできた方向に目を遣ると、こちらを眺める彼女と視線が合った。


「……人様に向かって投げるとは、……まったく」


 頭を掻き、彼女の居る方へと梯子はしごを登っていく。拾った紙飛行機を軽く放り投げながら、そのまま彼女の横に腰を下ろした。


「戌亥。紙飛行機なんか飛ばしてないで、少しはまじめに受けたらどうなんだ?毎度毎度、世話させられる俺の身にもなってくれよ」

「ふふ、いまさら授業なんか。それに、そんな私のお世話をするのが、虎尾ちゃんのお役目でしょ?」


 完全に舐めきっている。

 もう一度溜め息が出る。人の面倒を見ることは得意だと思っていたが、彼女にはそんな自信が通用しなくなっている気がしていた。


「味をしめるなっつってんの。たまたまおまえを廊下で拾ってやったのが二ヶ月前?っは、そっからこんな子守させられるなんてな……たまったもんじゃねえよ」


 半分愚痴だった。彼女のお迎えに上がるのは、これで何度目かわからない。そんな俺の様子など歯牙にも掛けない様子で、彼女は遠くを見つめていた。眼下には中庭の風景が広がっている。頬を撫でていく風はほどよくぬるく、ぽつぽつと灯りが付いていく光景も心地よかった。


 ゆったりした面持ちで何となしに視線を遣った彼女の顔。その大きく開いた首元に、見慣れないアザがあった。


「ん?お前……それ、痕、か?」

「え?……ああ。これ? 入れ墨だけど」

「そんなんあったのか」


 初めて見たような気がする。しかし今まで注視して見ていなかっただけのことらしい。

「痕って、ふふふ。キスマークってこと?……ああ。もしかしたら、こないだの子、吸血鬼だったのかしら」

「……吸血鬼?そんな話信じてんのか?ま、ロマンを追うのはいいことだと思うがな」


 まさか戌亥にロマンチストの一面があったなんて。意外だな、と思いながら遠くに目を遣った。

さて、教師には6限目に出るよう促せと言われているが、どうしたものか。


 そんなことを考えていると、不意に身体が横転した。


「っおい、戌亥……戌亥!なにやって……っく」


 突然、彼女が俺の上に馬乗りになろうとしていた。手首を掴まれ、抵抗ままならぬまま彼女に優勢を取られてしまった。彼女は俺のお咎めを物ともせず、ネクタイに手をかけていく。


「人間って本当に弱い生き物よねえ。いけないって解ってるのに、求めてしまうんだもの。……虎尾ちゃんは知ってるでしょ?私がどういう女の子で、日頃、どういうことをしているか」

「……戌亥、なに言って……あっ」


 慣れた手付きでするすると外しながら、まるで音そのもので耳を撫でていくような声色に、不覚にも甘酸あますい感覚が走った。彼女はシャツのボタンを外し、指先で腹の上をなぞる。


「今まで二ヶ月毎日ずっと一緒に居たのに、一度も手を出されないなんて。おかしいと思わなかった?」

「っは………やめ……!」


 反抗する俺を抑えつけたまま、彼女は俺の首筋に顔を寄せて囁いた。

「虎尾ちゃん…もし、私が吸血鬼だったら、どうする?このまま、虎尾ちゃんの白くて柔らかいこの鎖骨に噛み付いて、血を吸ってしまうかもしれないわ」

「戌亥……!いい加減にしろ……、っ!」

「っふふ。ねえ。知らなかったでしょう?私、意外に力が強いの。……私にも虎尾ちゃんのこと、いーっぱい教えてほしいな。……例えば、虎尾ちゃんの下のお名前、とか?」


 その言葉に、俺は強い抵抗感を覚えた。

「……前にも言っただろ。俺は自分の下の名前が嫌いなんだ。教えるわけがない」


 それは、何度も言ってきたことだった。

 誰に何を言われても、俺は「ひめり」という下の名前を他人に明け渡すことは、絶対にしたくなかった。釘を刺したはずだ。俺の前で、お願いだから名前の話をするなと。


 何度も、何度も何度も。


 ぐ、と力が籠もる。悪ふざけがすぎる。こいつは、自分以外のものをすべて見下している。いい加減、その態度にも腹が立っていた。


 こんな憤りを彼女に覚えるなど、初めてのことだった。

 しかし、彼女に対して、その感情を抱いて然るべきだったのかもしれない。


 何故、俺は、今まで我慢していたのだろう。

 何度も何度も何度も、何度言っても、わからないこいつに。

 ──もう、限界だった。


 噛み潰した奥歯が、ぎりりと鳴る。

 言ってはいけない言葉であることを理解していた。

 だが。

 彼女を止めるには、もうこの手段しか無いと思った。


「……なんだろ」

「え?……虎尾、ちゃん?」


!」


 呆けた顔をする彼女。

 そうだ。その顔だ。してやったぞ。

 勝ち誇ったような気持ちになる。それと同時。


 後悔の波が、押し寄せてきた。


 わかっていたことなのに。

 俺は、なんてことを。


 彼女の一番そばに居たのは。



 彼女を一番理解してやってたのは、俺だったじゃないか。

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