憧憬ノ花
花のような人。それが、
気まぐれか、それとも暇を持て余していただけだったのか。別に理由は何でもよかった。彼女が声を掛けてくれたのは、学園の温室で花に水遣りをしていた時だった。
「かわいいスイセンね」
最初、自分に話しかけられているのだと思わなかった。だからホースから出る水を止めるために顔を上げて、そこに立っていた一人の女生徒に驚いた。
「……どうも」
あたしの不愛想な挨拶にも、にこりとその人は微笑んだ。整った顔立ちに、柔和な雰囲気。一瞬で、自分とは住む世界が違う人だと思った。彼女はそんなあたしの心情を察することもなく、口元に弧を描いたままで問うた。
「お花が好きなの?」
「あ、いえ。教室の水遣り当番で」
咄嗟に素直な言葉が出た。が、その後すぐに、わざわざ否定から入らなくてもよかったか、と思った。人並みに、花を眺めることは嫌いではなかったからだ。しかし訂正するほどのものでもないかと自己完結。自分がコミュニケーションに長けている方ではないという自覚は、今更だ。
ただ彼女を真っ直ぐに見つめ返した。彼女は気にする素振りもなく「そう」と言って微笑んだ。無礼だとか思わないタイプの人間なのだろうか。
「あまりにも似合っていたから。お花も喜んでいるわ」
「……話せるんですか」
「ふふ」と彼女は笑った。「どうかしら。でも、喜んでいるように見える」
「……そうですか」
どうやら彼女の瞳には、この花達が笑っているように見えるらしい。
「それじゃあ」と彼女は言った。スカートの裾を摘み上げ、仰々しくお辞儀をする。
「ごきげんよう」
出た。この学院の挨拶だ。いわゆるお嬢様学校というヤツで、あたしは未だにこの手の文化に慣れないでいる。ただ強制されることもないので、それなりに周囲とは距離を置いて関わっているつもりだ。むろん、自分がお嬢様所作に染まるわけもない。
「……ごきげんよう」
小さく会釈を返して、その女生徒の背中を見送った。
それから、彼女とよく話すようになった。あたしが当番で温室に向かうと、いつも彼女がいた。特に下級生に慕われている様子で、あたしが彼女を訪ねるときは、彼女が下級生に囲まれていることが多々あった。あたしがひとりで花の世話をしているときは、彼女からあたしに声を掛けてくれることもあった。
そんなやり取りを経て、学内ですれ違う回数も増えた。後々に判明したことだが、彼女の名前は
「
「なにかあったの?」
「もしかして二人ってそういう関係?」
……話したことのないクラスメイトから話しかけられるのは、大抵、彼女絡みのことだった。「知らないよ」と突っ撥ねるのはいつものこと。普段それほど親しくもないクラスメイトへ教えてやる義理も感じない。というか、一番知りたいのはあたしの方だった。
……なぜ、彼女があたしなんかと仲良くしてくれているのか。聞くタイミングは、いつだってあったはずだった。だけどあたしは何故か、その理由を聞けないでいた──いや。知りたいと思いながら知るのが怖いと思っていた。その矛盾に気づかないほど、あたしは鈍感ではなかった。
そう。
あたしは、知らないふりをしていたのだ。
貴女と居られる時間があれば、それでよかった。
それ以外、何も求めていなかった。
──求めていないつもりだった。
***
「ごきげんよう、
「……失礼します」
その日、あたしは先輩の部屋に招かれていた。人気のない廊下から、彼女が開けてくれた扉を潜り、室内へと踏み入れる。ほのかに花と紅茶の香りがした。
学院生は寮生活が基本だ。部屋の間取りは自分の部屋と変わらないのに、家具の種類や色合いで、まったく違うもののように思えた。繊細な家具のシルエットが、大きな窓を覆うレースカーテンから透けてくる月明かりに照らされている。
「はい、どうぞ。眠れない夜には、ノンカフェインのハーブティーね。自家製なの」
「ありがとうございます」
着席したテーブルに置かれたソーサーとカップを手に持つ。口元に近づけると、爽やかな甘さが鼻孔を抜けていく。彼女と時間をともにするうち、紅茶というものがなじんできたようだ。味の違いが判るほどには至っていないが「おいしい」と思える感覚は育ってきたように思う。口をつけて、喉を湿らせる。「おいしいです」と味気ない感想を零すと、彼女はにこりと微笑みを浮かべた。
彼女の部屋にお呼ばれされることは今日が初めてではない。何がしたいのか、あたしから尋ねることはなかった。それは彼女に従順なふりをして、彼女との縁が壊れることを心の何処かで怯れていたからだ。
伏せていた視線を上げると、同じくティーカップから口を離した彼女と目が合った。
「ところで、恩さんはご存知?この学院にまつわる噂を」
「噂、ですか?」
「ええ。満月の夜の〈吸血鬼〉の話」
「ああ。……聞いたことは、あります」
その手の話は、この学院では有名だった。
「仲のいい二人の女生徒がいた。傍から見ても仲がいい女生徒達が、ある日突然、同時にいなくなってしまう。それをみんなは〈吸血鬼〉に攫われた、なんて言うわ」
彼女の言うような話を、あたしは小耳に挟んだことがあった。
しかし所詮、噂話だろう。自分に達観的な部分があることを、あたしは既に自覚済みだった。
「女の子ってみんな、そういう話好きですよね。なんか、ロマンチックな話なのかもしれないですけど、……あたしは信じてないです」
そう言うと、彼女は肩を揺らして笑ってみせた。現実にはありえない。そう言ってしまったようで、彼女の思うところに水を差してしまったかもしれないと、視線を伏せた。彼女は続ける。
「噂によるとね、その〈吸血鬼〉は、満月の日になると自分の衝動を抑えられなくなるそうよ。血が吸いたい、血を見たい……そして、最も深愛を抱く相手にそれを求めてしまうんだとか」
彼女は微笑みを崩さないまま、こう言った。
「ねえ、恩さん。今日、どうして貴女がこの部屋に呼ばれたか、わかる?」
「え……」
気づくと、手首を掴まれていた。振り払おうと思えば振り解けるほどの力だ。
しかし真っ直ぐに見つめられる瞳に囚われて、咄嗟に動けなかった。
「先輩が……」
だめだ。その先は、聞いてはいけない。
どくん。本能が、心臓を高鳴らせた。
ぐっと、自然と腕に力が籠もる。
「せんぱいっ……!」
振り払おうとして、
「なんて」
「……え?」
寸でのところで、止まった。
「冗談よ」
……とくん、とくん。悪戯に逸った心音が、引いていく。
「ふふ、びっくりした?……ごめんなさいね、驚かせてしまったかしら」
再び見た彼女の顔は、少しも崩れていなかった。
「冗談って……ほどほどに、してくださいよ……」
彼女に苦情を言うための言葉は、思った以上に狼狽を孕んでいた。
それからしばらくの間は、他愛もない話をした。学院生活のこと。最近読んだ本のこと。今の時期に咲く花のこと。一通りを話し終えてふと仰いだ窓から見えた夜空には、丸く大きな満月が出ていた。
「──女の子は、一人ひとりが特別なお花なの。丁寧にお世話をすれば、きれいに咲いてくれるものよ」
「……あるんですか」
「え?」
「先輩には、あるんですか。特別なお花が」
彼女は窓から月を見上げていた。彼女と視線を交わらないなら、素直に吐露できると思った。
「……どうかしら。女の子は、平等に大切だもの。もちろん、恩さんも」
それは、予想していた答えだった。
当然だ。
だって、彼女は兎枝美也子。
手の届かない存在であることは、最初から判っていたことではないか。
偶然出逢って、話しかけられ、部屋に呼ばれて。勝手に期待を抱いていたのは、こちらの方だ。貴女が慈しみを注ぎ、伸び伸びと育つ花のひとつに、あたしはなれない。
……それならいっそ、貴女の手の中で枯れ果てたい。
「咲かせられなかった」唯一の枯れた花でいたい。
そんなことを思うなんて馬鹿げている。
だが、もう抑えられなかった。
これは理性じゃない。衝動に近かった。
あたしは、笑っていた。
「美也子先輩。貴女が〈吸血鬼〉なんでしょう?」
再び視線を戻した先に、貴女はどんな顔をしているだろうか。
あたしが貴女の特別な花になれるだなんて期待なんか、させるから。
自分のものにならない貴女なんて。
──ここで、あたしと朽ちてしまえばいいのだ。
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