狂想ノ曲 A
「ははっ、吸血鬼なんていないよ」
保険医を尋ねてここに来ると、必ずと言っていいほど彼女がいた。艶のある長い黒髪に陶器のように白い肌。出逢う頻度が高いこともあって勝手に親近感を抱いていた私は、「まるで保健室の幽霊みたい」と彼女に言った。すると彼女は「みたい、じゃない」と言った。
「…みたい、じゃない?ホンモノってこと?」
「そうなんだよ」
「……頭でも打った?幽霊なんかいるわけないじゃない」
「ははっ。確かに。保健室だからそっちの方が当然だな」
「そっちの方って」
「幽霊より病人説が濃厚ってこと。私には列記とした名前もある」
そして彼女は、鵜月彼方と名乗った。
今思えば初対面にしては不毛なやりとりだ。雛森結、と私は自分の名前を告げた。
それから、彼女とは顔を合わせるたびに話すようになった。特筆すべき内容でもない。他愛のない、女子高生同士がするような、よくある日常の会話だ。気兼ねなく言葉を交わせる関係性が続いて、今にいたる。
「そんな話、君は信じているのかい?」と彼女は言った。「信じてるも何も」と私は言った。「見たって言ってる生徒がいるの」先生から頼まれていた救急キットを室内に運びこんで片付けるついでに、生徒の間で有名な『吸血鬼の噂』について、彼女へ何となしに話してみたのだ。
この女学院には、吸血鬼がいるんだって。出現するのは、満月の夜。言葉を交わしているうちに隙を突かれて、血を吸われてちゃうんだってさ。血を吸われた相手は眷属になって、吸血鬼に攫われていっちゃう。吸血鬼は、学内で有名な女生徒らしいよ。
すると彼女は目を細め、諭すように続けた。「吸血鬼なんていない。そんなのは少女達の願望が生み出した幻想だ」彼女の言葉を聞きながら、しゃがみこんで棚の下の扉を開けた。彼女は私の両腕が塞がっていることに気づき、斜め上から「持つよ」と私の手から書類を取った。こういう優しい強引さは、彼女の好きなところの一つでもあった。
「誰が言いふらし始めたのか。ただの虚構だろ」
「虚構?……つくり話ってこと」
「そう。全寮制の女学院というこの閉鎖空間において、空想というものは時に救いとなる」
棚の中のものを取り出し、床に置いて、持ってきた救急キットを奥に入れる。前の担当当番の仕舞い方が雑だなと思うこともあったが、今はもう慣れてしまった。それに、時間がかかる分、その間は彼女の話の聞き役に徹せるということだ。私は彼女の話が嫌いじゃなかった。
「だけどまあ、夢を見ることは悪いことじゃない。その本筋と自分自身が無関係だと思えることは、ある意味で幸せなことだろうからね」
「……何が言いたいの?」
彼女には、少し遠回しな言い方をするクセがあった。真意を掴み切れず、私は眉根を寄せる。すべてを仕舞い戻し、棚の扉を閉める。空いた手で彼女から書類を返してもらおうとして、ファイルの端を摘む。それほど力を入れずともすんなりと手元に戻った。彼女はファイルを手にした私を、相変わらず柔らかな眼差しで見つめている。
「夢が夢であると言い切れる証拠は、どこにも無いということだよ」
「そうかも」私が頷くと、彼女は柔らかく笑った。
「例えばもし、君が〈そう〉なんじゃないかと聞かれたら、どうする?」
「〈そう〉なんじゃないかって?」
彼女は答えない。吸血鬼なのか、と尋ねられたらどうするのか、ということだろうか。「……うーん」出し抜けの質問に答えなど用意してあるはずもなく、私は首を捻った。無意識に上空へと視線が向く。
「何も答えない、というのが答えかな?」
「……答えられない、かな」
「ふふ、君らしいね」
どうやら回答の内容はそれほど重要ではなかったようだ。
「でも」
彼女の声色が、急に翳りを帯びる。一瞬で空気が鋭くなった気がして、私は少しだけ身を強張ばらせる。
「君が答えない限り、少女達は永遠に囚われ続けることになる。吸血鬼が存在する、という幻想が、彼女達の心を蝕んでいくんだ。時に甘美な妄想として。時に残酷な現実として」
そこで、私ははっと気づいた。彼女を取り巻く気配が、異様なものへと変わっていることに。……まただ。また、私は彼女のペースに乗せられてしまっていた。
彼女の言動に翻弄されることは、今回が初めてではない。そのたびに彼女の一笑を買い、次こそは引っかかってなるものかと警戒心を高めていたのに。最近は突拍子もない悪戯もなかったから、油断していた。いつの間に彼女の手中へと手繰り寄せられていたのか。
同い年とは思えない彼女の佇まいが、そうさせるのかもしれない。底知れない静けさ。普段と変わりない室内の風景に、彼女が纏う謎めいた色合いが混じり合い、話の先に靄が広がっていくようだった。
「君ももう気づいているんじゃないのか?」
「気づく?……何、に…」
「君が思案するべきは、他の女生徒のことなんかじゃない。ただひとりだけ。だろう?」
彼女が手を伸ばし、私のスカーフを手繰り寄せようとする。……私をからかっているのだろう。恋人ごっこじみた悪戯を彼女は好んで私に仕掛ける。しかし私はそうと判っていながら、彼女の妖艶な雰囲気に気圧され、狼狽えてしまうことも少なくなかった。有り体にいって、様になるのだ。
「……もしかして」彼女が。目の前にいる、彼女が。……上目遣いで彼女を窺うような視線になってしまう。しかし不思議と彼女を拒絶したいとは思わなかった。
「鵜月が〈そう〉なの?」
私がそう言うと、彼女の顔に薄く浮かんでいた微笑みが、より深いものになった。
「ふふっ、……ははははっ」
おかしいのが耐えきれないというように、彼女は高らかに笑い声を上げた。弄んでいた私のスカーフから手を放し、自分の口元に手を当てている。彼女の掴めなさは今に始まったことではないが、私は彼女に対して、違和感を覚えた。
「ははははは!……ようやく。ようやく聞いてくれたね。やっと、なれる。これでようやく……」
「……なれる?……ねえ、鵜月、あなた何を言って……」
呟きの意図が掴めず私が問うと、彼女はさも嬉しそうに溜め息を吐いた。
「ずっと待っていたんだ、この時を」
その笑みを見て、私は確信に近い感覚を得た。
「やっぱり、鵜月が……」
「ようやく、ここまで来られたんだ。私たちに相応しいエンディングを迎えようじゃないか」
私の言葉を遮るような形で、鷹揚と私に語りかける彼女。伸ばされた手指の先が、私の顔の輪郭をなぞる。私は、何も言えないでいた。
「どうしたんだい?君が知りたいことは、もう心に浮かんでいるだろう?」
彼女の言う通りだった。今、心に浮かんでいる疑問。それを口にすれば、この話は終わるだろう。
「知りたいなら聞けばいい。それとも今さら口を閉ざして、抵抗のつもりかな?」
彼女の言う通りだった。逡巡しているふりをして、私は抵抗していた。微かに持ち上げられていた顔。彼女の手が離れたことによって支えを失い、自然と視線が横に滑った。
「……まあ、駆け引きは嫌いじゃないけど。無駄な足掻きだよ」
だって。
彼女の言っていることが、もし冗談なんかではなくて。
本当だったとしたら。
おそらく、きっと、そうだ。私の勘は当たっている。
──しかし、私は答えあぐねていた。今、私が口に出そうとしている言葉は。
彼女に聞こうとしている台詞は。
この学院で、固く禁じられているものだからだ。
「……まだ沈黙を貫くつもりかい?」ふう、と彼女は溜め息を吐いた。「やれやれ。君にそんな頑固な一面があっただなんて、知らなかったよ。あまり感心しないけれど」そう言って数拍の沈黙の後に、彼女は言った。
「いいよ、君と私の仲だ。ひとつ教えてあげよう。フィナーレを迎えるためのとっておきを」
「……とっておき?」
ようやく、私は唇を開いた。彼女の言葉に、誘導させられていたとしても。今は、救済措置のようにも聞こえていた。彼女は薄い口唇を開く。
「望月学院に、吸血鬼は存在しない」
「!」
「存在しないんだよ。吸血鬼なんて、そんなお伽話みたいなもの。まさか君は、本当に信じていたのかい?」
今の自分の思考を、裏切るような言葉だった。……信じかけていた。彼女が、〈吸血鬼〉であると。そんな私の表情を読むと、彼女は「ははっ、君は本当に可愛いね」と軽やかな笑い声を零した。
「残念ながら、〈吸血鬼〉はこの学内に存在しない。いや、学内どころか現実にいるわけがないんだよ。いくらこの学院の少女達が信じていようと、所詮はあどけない少女達の憧憬と理想で塗り固められた、架空の話だ」
彼女はそう言って、もっともらしく話を否定しようとした。
……だが。
私はこれまで、何度か〈吸血鬼〉の噂を聞いたことがあった。
その中に、こんな話がある。
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