37 奥方は記憶喪失設定
テラスに面した差配人の館の応接間には、かるい食事とお茶がテーブルに用意してあった。
この時期だけの発酵途中の葡萄酒も、デカンタに満たされていた。
「朝、樽から出した葡萄酒です。夜には発酵がすすんで、また味わいが変わるのですよ」
ゼスは、いつにもまして口調がなめらかだ。もう一杯飲んでいるにちがいない。
それから、家令のハッロ・レカェケムの姿がない。
「奥方さま。家令さんを広場のバザーに、お借りしましたわ」
やってきたハシは、刺繍をふんだんに散りばめた祭り用のよそ行きを身にまとっていた。以前からオユンの姉のような存在だったが、最近のハシは、いっそう貫録がつき、オユンの母親のようだ。
「今日は、このハシがお側におりますからね。大丈夫ですよ」
実質、母といえる。
ハシは、駆け落ちまで決行した思い合う
オユンの弟御たちも悪い人ではなさそうなので、もてなして、なんとか帰ってもらおうというのがゼスとハシの考えだった。
そのあたたかなもてなしで表面上は思いのほか、場はなごやかだった。
オユンの右側にはシャル。左側にハシが座って、オユンをがっちりサポートしているが。
ハシの正面にゼスが座り、オユンの正面にはアルワン、シャルの正面にタヴィスである。
「ツァガントルー領にも秋祭りがあります。収穫を祝うんです」
タヴィスが語り出す。
「お祭りのイベントで、きょうだいで大縄跳びをしました。百回飛んだかな。この記録は、まだ破られていない」
(そうだったわ)
思わずオユンは、うなずきそうになるが止める。
「きょうだい、みなでボールあてっこをした。オユンは誰より剛速球だった。そのうえ、幼いものにも容赦ないんだ」
(あぁ、そうよ。負けたくなくて)
「タヴィス
アルワンが、たまらず口をはさむ。
「姉さんは
(そうよ。あの中にアルワンがいた。よく勉強をすっぽかそうと逃げてたのを追い回してた)
弟たちは多すぎたし、入れ替わりが激しかった。
「姉さん。ツァガントルー領に、一度、帰っておいでよ。子供時代に暮らした場所で過ごせば、きっと記憶も戻ると思うんだ」
「さぁ。羊の肉のパイが冷めないうちに召しあがれ」
ハシが絶妙に話の腰を折ってくる。
「君たちの行動は、ツァガントルー伯の御考えとは別物と見受けるが」
シャルは、真っ先にパイをたいらげた。
アルワンの表情に、うすい怒りが浮かぶ。
「ぼくたちは、姉の無事をたしかめたかっただけです。10年、探したんです」
(ありがとう。ぴんぴんしてました)
オユンは、いつもの半分の大きさにフォークでパイを割ると口に運んだ。
「生きていてくれて、どんなにうれしかったか。たとえ、魔人の愛人となっていても」
アルワンの言葉に、どうとりなしていいものか、ゼスとハシが固まったのがオユンにもわかった。
「愛人」応えたのはシャルだった。
「公の場では、わたしは奥方と呼んでいる」そして、まだ熱い茶を一口すすると、「『うつくしい』とか『いとしい』は、ふたりきりの寝台の上でしか言わない」と誰向けにか、ほほえんだ。
「まぁ! 御領主さまったら!」
ハシの手元が上の空になって、ゼスの茶碗に茶をそそぎ過ぎた。手に茶が散ったゼスは、「
「——できれば、わたしたちとオユン姉さんだけで話したいのですが。無理ですか」
タヴィスが静かに切り出した。
「わたしの前では、オユンが本心を話さないだろうと言っているように思えるが」
シャルが、ななめ方向に座っているタヴィスを見据えている。
「正直、魔道のちからで姉を惑わしているのではとは考えていますよ」
タヴィスはシャルの喉元辺りをみつめて話した。横に切りやすそうな、のど仏だなと思って。
「わたしの魔道など、そこらへ飛んで行ったり、物を冷やしたりするだけなのだが」
「十分ですよ」
「それにあいにく、ここは、わたしの領地だ。このシャル・ホルスが
「……」タヴィスは、ため息をつくと左の手で自分の灰色の髪をかきあげた。
「奥方さま。テラスに出ましょうか。せっかくのお天気ですし」
ハシは早くも男どもを、うっちゃることにした。
ここは差配人ゼスの館だ。ゼスの妻であるハシが
両手を胸の上で重ねていたオユンは、つつましくうなずいて立ちあがった。
応接間は、そのままテラスへ続いている。扉を全開にすれば中庭全体が見渡せる。
アルワンは、あわてて、そのあとを追うために席を立った。
シャルは座ったままだ。
「
タヴィスは、わざと
「いつも、そばにいるからな。たまには遠目で、うつくしい奥方を見ているのもよい」
実際、シャルは目をほそめて、オユンのうなじと結いあげた髪のおくれ毛を見ていた。
(公の場でも「うつくしい」とか言ってるぞ。この魔人)
タヴィスは、いささかあきれた。
そのうえ、たしかに、この男は美貌であるので、こちらも見飽きない。
(これは案外、オユンには上書きされたか)
ちくりと、タヴィスは胸が痛んだ。かつて、オユンを拒絶したのは自分だったのに。
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