32 血のつながらない弟
胸壁から、ひらりと飛び降りたのは、すらりとした
一気に、オユンまで距離をつめてきた。
その気配を感じ取った瞬間に、オユンはすばやく勝手口の扉をすり抜け、城内に戻っていた。
「来てはダメだと申し上げたでしょう!」
ゼスが、勝手口の前に立ちはだかった。
「すいません。一刻も早くたしかめたくて」
おそらく、若者はゼスのあとをつけてきた。ツァガントルー家の者なら、基礎行動だ。
「落ち着いてください。でなければ、不法侵入者として自警団に引き渡しますよ!」
「……はい」
若者は勝手口の向こうのオユンを気にしながら、おとなしくなった。
家令もゼスと同じく、勝手口をふさいでいる。
「御事情、うかがいましょうか。それによっては、引っ立てますけどね」
勝手口の3センチほどの隙間からオユンは、その様子をうかがっていた。
「ぼくの姉は10年前に死んだとされているんです。でも、ぼくは信じられなくて——」
若者は立ち話にふさわしくない身の上話を、日の角度が変わるほどの時間、話し続けた。
「日が暮れるので、今日のところは差配人の館へ、ゼスとともに帰っていただきました」
家令は、一日の終わりにシャルに報告した。
シャルは日中、魔導士協会の定例会議に出かけていた。
「要約すると、オユンの弟に、オユンが生きていることがばれてしまった。その場はオユンは記憶喪失で、ここで保護していたということにした。一回、会わせないと、納得しないだろう、その若者は。ということか」
「ツァガントルー家の一年の収入記帳で、金貨一袋分とか、出所の知れないものがあって、父親を酔いつぶして聞き出したら、姉の夫から送られてくるのだとわかったと、その弟君は」
「なんだか性格に問題がありそうな弟だな」
さて、どうしたものかとシャルは考える。
(とりあえずは、オユンに聞こう)
「で、オユンはどうしたい?」
真夜中、奥方の部屋にシャルはやってきて、オユンに聞いた。
どうせ、オユンは眠れなかったので、それはいい。
しかし、やってきたシャルが自分のひざにオユンを乗せてしまうのは、どうかと思う。
「記憶喪失説でいきましょうと、ゼスさんは」
オユンは昼間の話を持ち出した。
「そうだな。オユンが生きていることが、ばれてしまったのだからな。しかし、お
「お酒が入ると、ご陽気になる方でした」酒は、そんなに強い人ではなかったと、オユンは思い出していた。「でも、わたしが生きていると関係各所にばれるのは、ちょっと」
ツァガントルー伯がオユンの生存を知っていたことは、かくしたい。
「そこは、弟御に口止めしよう」
かくして差配人、ゼス・ドゥルゥの館でオユンは10年ぶりに、弟と対面することになった。
気持ちのよい秋晴れの日だ。
「姉上!」
ゼスの館の応接間に、オユンがシャルと家令を伴い入ってくると、若者は駆け寄ってきた。反射的に一歩、しりぞいたオユンに、若者は泣き笑いのような表情になった。
「アルワンです。姉上——」
若者にはオユンは記憶喪失だ。シャル・ホルスに保護されたときは、物心ついてからの一切の記憶を失くしていたと、ゼスが言い聞かせている。
(アルワン……)
オユンは若者の赤みがかった髪、黄色味をおびた茶の瞳に、幼かったころの面影を探した。
(ちいさな弟たちのなかに、そういう名の子がいた。元気が、あまっている子だったかな。勉強の時間に、よく逃げ出していた気がする……)
オユンは、きょうだいが多い。ひっきりなしに、ツァガントルーの養父が孤児を引き取っていたからだ。
「ごめんなさい。昔のことは思い出せなくて」
申し訳なく思う気持ちは本当だから、オユンの言葉は若者にしみたようだ。
「いいんです。無事だっただけで。魔物に殺されたと聞かされていましたから。でも、ぼくたちは信じられなくて。魔物に襲われたという砂漠から離れた土地で、姉さんが持っていた財布を兄たちは発見したから。だから、どこかで、姉さんは生きているんじゃないかって」
財布。オユンは、久しぶりに思い出した。
「財布の中に姉さんは、ツァガントルーの領地に伝わる金運の〈
(そうだった、そうだった)
「ほら。これです」
アルワンは、ふところから大事そうに財布を取り出した。
(わー。なつかしい)
10年振りに見る自分の財布を、オユンは思わず、しみじみとみつめる。それを、アルワンは見て、「何か思い出せそうですか」と期待を込めた目をした。
「ごめんなさい。思い出せない……」
オユンは、改めて記憶喪失設定を徹底する。
「10年間、シャル・ホルスさまに保護されていたということですが」
アルワンは、オユンの側に座っているシャルに目をやった。初対面で、シャルに真正面から対峙するとは、若干
「どの時点かで姉がツァガントルーの娘だと、お気づきでしたよね」
いきなり、核心をついてくるし。
「父に金貨などを年に一回、送ってましたよね。少なくとも、ぼくが領地経営に携わってからは、すでに」
追及が、ハンパない。
「なぜ、ツァガントルーに姉を帰さなかったんです」
「わたしのお手つきだからな」
一言でシャルはすませた。身もふたもない言い方で。
オユンは表面温度があがってしまい、ハンカチを取り出した。
「父は金で納得したのですか? ぼくは納得できません。姉を帰してください」
「肝心のオユンの気持ちはどうなんだ」
しごく、真っ当なことにシャルは気づいている。
「それ。姉の名前を、どの時点で知ったのです? 姉上、もしかして、ところどころは思い出しているのではないですか」
アルワンは必死の面持ちでオユンをみつめてくる。
(うわぁ。この子、かしこいわ)
オユンは内心、冷汗をかいた。
オユンの名を、どうしてシャルが知っているのか。どうしよう。オユンから聞いたということでは記憶喪失の設定が、そこからほころびる。
「奥方さまの御衣類に御名前が刺繍してありまして」
家令が、しれっと、うその開示をした。
「また、御持ち物の刺繍の図柄から、出身地方を推察いたしました」
家令ハッロ・レカェケムは雄弁だ。
「いくつか考えられる道筋をたどり、ツァガントルー伯に行き当たり、問い合わせし、その御意見を尊重した結果の今現在でございますよ。帰してくださいなどと、わが主人を人さらいのように申し立てられるのは遺憾ですな」
(いや、人さらいだから)
オユンは、なつかしく思い出した。
家令に言い込められたアルワンは押し黙った。
(ごめんなさい。ツァガントルー父さまとシャルの間で話はついているのよ)
オユンは、アルワンを情愛を込めた眼差しでみつめた。
(ありがとう。10年、探してくれたなんて)
そばで成り行きを見守っていたゼスが、「あなたの姉上は生きていた。あなたは姉上をみつけた。それで大団円ではないですか」と、入ってきた。
「そうですね……」
アルワンは目頭をゴシゴシこすった。
涙がボロボロとこぼれた。止まらない。
見かねて、オユンは持っていたハンカチを差し出した。
「ううっ」
アルワンは素直にハンカチを受け取り、顔を覆った。
「姉は、とてもやさしかったんです。ぼくは身寄りがなくてツァガントルー家に引き取られたのですが、姉は、ぼくにとっては姉であり、母であり……」
そこで、アルワンは、ふっと顔をあげ、オユンをみつめた。
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