29 ひったくり少年との邂逅
少年にひったくりをさせた両替商ヤラーの店は、
そう聞いたオユンは迷路のような
「奥方ぁ。
「腸と何?」
「
「教えて。それ、知らない」
オユンの知識欲が勝っったところで、立ち止まってノイのウンチクを聞く。その間にシャルはオユンに追いついた。
「やれやれ、わが奥方は猪突猛進だな」
「今、ソレ、奥方に教えてる」
「す、すいませんでした」
オユンは店から駆け出したものの、ノープランだった。
「そのヤラーという人のところに、あの子がいるんじゃないかって」
ポシェットをひったくられたとき、オユンは一瞬、少年と目が合っていた。
(あの子の目は後悔していた)
ツァガントルー家で、オユンは引き取られてくる子供たちを見てきた。
中には、すさんだ目をした子供もいた。愛情を失くした目。そして、それを探している目。
(そういう目を、あの子はしていた)
「あのときの少年が、そこにいるとしたら、どんなふうに暮らしているか気になります」
「ホルスさま! 奥方さま!」
遅れてきたサンジャーが追いついてきた。
「ちょっと、問い聞きをしてきましたよ。ヤラーという両替商のところで働いているのは、トハという少年です。11歳。借金のかたに売られたようですね。年恰好、聞いてまいりましたが、村の
仕事が早い。
「なるほど。さて、どうする、奥方」
シャルはオユンに、空色のうす紙に包まれた深緑色のポシェットを手渡した。
「買い戻してくだすったのですか!」
「あぁ、サンジャーが」
うそではない。いずれサンジャーは、よい取引を、あの古物商に持っていくのだろうから。
オユンは戻ってきたポシェットを、やさしく抱きしめた。
「正面から行きます」
ヤラー両替商と書いた看板の店を見つけると深呼吸ひとつして、オユンは扉に手をかけた。
「こんにちは」
店の中は、そう広くない。両替商の象徴の鉄製の天秤が、飴色のカウンターにのっていた。
大陸に流通している通貨は、金貨、銀貨、銅貨。鋳造年で金貨の金、銀貨の銀、含有率もちがうものが、ちまたに出回っている。昔の貨幣を使う民族もいる。少し遠方の民族は、ちがう貨幣を使う。また、古い貨幣は、その骨董品としての価値も見出されるようになっている。それを正しく見極めるのが両替商の役割だ。また、価値がある物を持ち込めば、両替商は金を貸してくれることもある。
「どんな御用向きでしょうか」
カウンターの向こうの老人が、こちらに顔を向けた。
そのもっと奥の机に、赤みがかった金髪の少年の背中が見えた。机に向かって、帳面に書付けをしているようだ。
「ヤラーさん、これで思い出していただけるかしら」
オユンは、深緑色のポシェットをカウンターに置いた。
「ひっ」ひきつけのような声を、老人は出した。
「あなたの使用人が、このポシェットを、わたしからひったくったのですわ。ヤラーさん、あなたの監督責任が問われますわ」
「わしは知りませんでしたっ」
ヤラーは己の愚行を白状したも同然で、言い逃れに徹することにしたようだ。
背を向けていた少年が、ゆっくりと振り向く。もはや、帳面を付けているどころではなくなっている。
「こっ、こいつが勝手にしたことですっ。やつを罰してくださいっ。そいつは嘘つきでっ。手癖が悪くて、わしも困っておったのですっ」
一気にヤラーは言いつのり、座っていた少年の腕を乱暴につかんで、カウンターまで引きずってきた。少年は青ざめて、
「そうですよね。では、この少年は、わたしどもで矯正施設へ送ります」
オユンは真顔で言いのけた。
「へぇへぇ、そうしてくだせぇ」ヤラーが少年の腕をつかんだまま、カウンターの端を回り込む。そのとき、「やだっ」少年はヤラーの手を振り切り、両手で思い切り、カウンターの上の天秤をオユンたちに倒してきた。
どす、がしゃーん。
天秤やら
「放っておけ! サンジャー」
少年に手を伸ばそうとしたサンジャーを、シャルは止めた。
あっという間に少年は、店の外へ逃げ出した。
「大丈夫だ」シャルは落ち着いたものだ。「追いかけろ」、小声で精霊に命じた。
「お安いご用だヨ」
答えるノイの姿は、シャルとオユンにしか
「確保して! やさしくよ!」オユンは、あわてて言い添えた。
「まかせロ!」
ノイは、おひめさまドレスをひるがえして行った。
サンジャーは、にっこりとヤラーに向き直った。
「天秤代は弁償しますよ。適正価格でお願いします。わたしは
ここでも、サンジャーは仕切りまくった。
はぁっ、はぁっ、はぁっ。
両替商の店を飛び出したトハは、迷路のような
(早く
捕まったら、ブタ箱行きだ!
外に逃げなければならない。
なのに。
必死で走るのに、どうしてだが市場の中心に戻ってくる。角を曲がると、ヤラーの両替商の店の前に出てしまう。
「なんで……」
少年は半ベソをかいた。
(くすくすくす)
気になるのは、さっきから笑い声が聞こえることだ。
(精霊の輪の呪い。逃げられないヨ)
今度は耳元でささやかれた。
疲れ切った少年は、ぐらりと意識を失った。
「できるだけ、やさしくって言ったのに」
宿の寝台に寝かせた少年の顔を、オユンは手拭いでやさしく拭いた。
「ノイにしたら、やさしいほうだ」
シャルは手持無沙汰に、部屋の応接セットに座っていた。
トハは目覚めかけていて、その声を、ぼんやり聞いていた。
(母さんと父さんが、また何か言ってる……)
寝ぼけたままで、「母さん……」、うっすら目を開けると木の天井が見えた。漆喰の白壁。やわらかな寝台。
(家じゃない!)
トハは、跳ね起きた。
「きゃっ!」「お!」
小さく叫んだオユンとシャルを、トハは覚えていた。
ヤラーの店に乗り込んできた、ふたりだ。
(おしまいだ)
絶望した。
「ごめんなさい。びっくりさせ過ぎたわ」
オユンはひざまずいて、寝台のトハに寄り添った。
「わたしたち、あなたをつかまえにきたんじゃないの。ヤラーさんに、あなたを矯正施設に送るだの言ったのは、嘘も方便っていうやつなの。ああ言えば、あの
とても品のよい婦人から、〈やつ〉だの、〈
「わかっているわ。あなたが、ヤラーさんに命令されて、わたしのポシェットをひったくったこと。あなたはハシを、あぁ、村の
「言うことを聞かないと杖で、たたかれる……」
トハは、はじめてヤラーから受けていた暴力を言えた。
今まで、誰も聞いてはくれなかったのだ。トハに心があることなど、誰も気がついていないような扱いを受けていた。
「で、どうする。この少年を」
シャルが口をはさんできた。トハは、目を丸くしてシャルを見た。子供にとってもシャルは、きらきらした宝箱のように見えるのだろう。
「とりあえず、連れて帰らせてください。それから、引き受けてくれる家庭をみつけます」
「へぇ、お
「そ、そうでした」
オユンは寝台から身を起こしたトハに向き合った。
「ね。あなたさえ、よかったらだけど、わたしたちについて来てもらえないかしら。あなたが働き口をみつけるまで、衣食住は保証するわ。どうかしら。トハ」
「わたしのうつくしい奥方の言うことだ。今までの生活にくらべたら、きっと破格の待遇だぞ」
シャルは子供相手に、いきった。
「エリゲにくらべたら、ド田舎の生活になるけど、いいかしら」
オユンは、すまなそうに言い足す。
「おい、奥方。その言い方、わたしと領民に対して失礼だな」
「うわ、ごめんなさい。ずいぶんなスローライフを送れる村だから、働き手はいくらでも必要だと思うの。どうかしら」
「言い方が」
「とてもうつくしい村で、やさしい人たちが住んでいるの。わたしは、この
「オユンの、しあわせ感が伝わってこない……」
シャルの
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