30  ただいま、わが城

 フフシルという村は、万年氷を抱く山岳地帯のふもとにある。

 ゆえに、いにしえから他国に干渉されにくく、自治に近い暮らしを続けてこれたのだろう。

 シャル・ホルスの荘園である、その村は早くも秋の気配をたたえていた。

 

「お帰りなさいませ!」

 オユンたちが村に着き、馬車から降りると荘園の差配人、ゼス・ドゥルゥの妻、ハシが真っ先に迎えてくれた。

 その姿を認めたトハはオユンの陰に、さっと、かくれた。


「えぇっと」

 オユンはトハの背に、そっと手を添え、ハシの顔色を見ながら切り出した。


「この子はトハ君。身寄りがないので、連れ帰ったの。誰かのお宅で住み込みで働けたら助かります。当座、かかる費用は、わたしたちがみます。お世話をお願いできますか」


「請け負いましてございます。いらっしゃいな」

 やわらかなほほえみを浮かべ、ハシはトハを手招きした。

 

 この少年に突き飛ばされたことは、覚えていないようだ。たとえ覚えていても、ハシは根に持つような人ではない。頃合いを見て話そうと、オユンは思った。


「ノイ、しばらく、トハ君についていてくれる?」

 オユンは、村人から見れば誰もいない方角を見て頼んだ。


「任されタ」

 ノイは村人には聞こえない声で答えて、おひめさまドレスの裾を、くるんとひるがえした。すると、元の小姓姿に、またたく間に戻っていた。


「うわ。早着替え! どこに、ドレスしまった?」

 感心しきりのオユンを、「くわしくは家令に聞くネ」と話を切って、しゅるんとノイは消えてしまった。


「さてと」

 シャルがオユンの腰に手を回してきた。

「ここから城へは馬車では行けぬ」


「そうでしたね」

 必要以上にシャルはオユンに接近している。標高の高い、この村は涼しい。それでも。「いや、暑苦しいです」、オユンはシャルの腕から逃れようとした。


「しっかりとひっついていなければ危ないだろう」

 シャルはつもりだ。

 彼らにとっての移動方法は、それが基本だ。馬車に乗ったり歩いたりは、暇つぶしだ。


「ですけど」

 そんなに、ひっつかなくても。


「おや。オユン、少し、重くなっていないか」

 オユンの腰に両手をまわしたシャルが、腰回りを測る仕草をした。


「そっ、それは。食っちゃあ馬車に乗っているだけの旅でしたからっ。も、もしかしたら、体重、ふえたかも⁉」


「わが寵愛で、おまえの加齢は防げるが、体重の増加までは防げない。自重しろ」


「うわー、油断しました!」

 金杭アルタンガダスのサンジャー邸の食事は、毎回、デザート付きだった。ハチミツたっぷりの焼き菓子や、牛の乳を攪拌かくはんした生クリームとか、とにかく、すべてが口に運ぶ手が止まらなくなる、おいしさだったのだ。


(当分、スイーツはがまん……)

 オユンは決心した。

(それから)


「最初の10分は歩きます!」宣言した。


 シャルが目をほそめる。

「そんなに、見た目を気にするとは。安心しろ。10キロぐらい体重がふえたからと言って、わたしの愛は減りはせぬ。かえって、ぷにぷにして抱きがいがあるというもの」

 そうして、オユンの腹あたりを、つんつんと人差し指で突いた。 


「そこまで、ふえてないと思いますけどっ」

 ちょっと、オユンの額に血管が浮きそうになる。ぷいと横を向いて、歩きはじめた。

 

「オユン」

 シャルが追いかけてきて、オユンを背中から抱きしめた。

「ごらんよ。わが城だ」


 シャルの言う方角を見あげると、魔導士の城が金色に染まった木々の向こうの岩山にシルエットを見せていた。

 岩山の一部のように張りついた城は、かつては砦城だった。

 いくつかの塔と居館を、のこぎり型の狭間のある胸壁が囲んでいる。


「うつくしい城だと思わないか」

「思います」


 うすい雲が空に流れていて、日差しの強弱が城の外壁をなぜなでていく。

 居館のスレート瓦が、暗青色にも灰色にもみえた。


「この銀髪碧眼ぎんぱつへきがんの魔道師のカンちがいのせいで、思いがけなく、おまえが暮らすことになった城だが——」

 やや、ねっとりとした口調でシャルが言ったのは、先日、トハを説得するのにオユンが言ったことだ。


(しまった。かなり根に持ってる)

 オユンは腰に回されたシャルの両手に、自分の両手を重ねた。

「えーと。思いがけないことから、人生って転がって行くんだなって。その」


 ぎゅうとシャルの腕に、ちからが込められ、オユンの左の肩にシャルの形のよいあごがのせられた。

「新婚旅行は楽しかったか」

「楽しかったですよ」

「明日からはスローライフだな——」


(うわぁ、そこも根に持ってる)


「は、早く、うちに帰りましょうか。家令さんに、お土産、買ったんですよね」

「うん。こんなド田舎には売っていない繊細な焼き菓子だ——」


(ぐぅ~、粘着質め)


「ここは山脈に降った最初の雪のように、うつくしい村です。下界の汚濁は入り込めないから、村人は、みな心根が清く。ゆっくりと時間が流れていて、わたしは、ひさしく忘れていたものを思い出しました」

 

 向かい合っていたら言えないだろう。恥ずかしい。

「それは、シャルがわたしを、ここに連れて来てくれたから、わかったことなんです」


 オユンの左手は、シャルの左手をなぞった。シャルも左手の薬指に指輪をしていた。それは、オユンの左手の薬指にしているものと対になるものだ。


「オユン」

 シャルの声が、オユンの左の耳をくすぐった。

「わたしは、あのとき、おまえのことを本当の日女ひめだと思ったんだ。カンちがいなどではなかったんだよ」


「……」ささやかれて、オユンは心拍数があがった。暑苦しいも何もあったものではない。いとおしい。


 シャルの腕を腰から離すように、オユンは身体からだを反転させた。

 すっぽりと、その胸に包み込まれる。


「帰りましょう。お城わが家へ。わたし、家令さんの作るパンが食べたいです」


 オユンはシャルの胸で深く息を吸った。

 見あげると、シャルの碧眼へきがんとかち合う。


(自分からのキスは何度めだろう)


 そうっとオユンが背伸びすると、シャルが心持ち背中をかがめてくるのだ。

 そのままキスしないでいると、シャルは『待て』をしている仔犬のような面持ちになっていく。


(これは、しあわせというものではないかしら)




 そうして。

 物語なら、銀針ムング・ズーの侍女と、カンちがい魔導士は、こうして、しあわせになりましたとさ、と、しめくくる。



 でも、これは実際のお話だから——。




 つづいていく。

 10年後に。

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