氷結魔導士のはやすぎるいろいろ

25 帰る場所

　そして、オユンはというと。

　ふたたび、幾重にも、うす布の帳（とばり）（カーテン）に囲まれた白夜（びゃくや）のような場所をさまよっていた。

　きっと精霊も、ここにいるはずだ。

「ノーイ……」

　呼んでみる。こだまは帰ってこない。

　それでも、あきらめずに呼んでいると、「——奥方ぁ」聞き覚えのある声がした。

　さぁっと、前方の、うす布の帳（とばり）（カーテン）が消えて、金色巻き毛のおひめさまが現れた。

「迎えに来てくれたんだぁ」、ノイは思い切りオユンに抱きついてきた。

「迷子になっちゃったんだヨぉ」

「よかった。心配したんですよ」

　精霊が羽のように軽いというのは本当だ。オユンも、ぎゅっと抱きしめ返す。

「ごめんねー」

　くすんくすんとノイは、鼻をすすった。

「ノイ、鏡に映ったのがうれしくって、じぃっとみていたら吸い込まれちゃった」

「もう大丈夫です。帰りましょうね」

　帰り道などわからなかったが、オユンはノイの手を握りしめた。

「うん。大丈夫だヨ。ほら」

　ノイが指さした、ずっと先に、小さな蒼（あお）い明かりが、ゆらゆらとしていた。

「あそこに帰っておいでって、アルジが言ってる。でも」

　ノイは、オユンの瞳をのぞき込んだ。

「奥方が帰りたいところが別にあるなら、ここから行けばいいと思うヨ？」

「え？」

「逃げるなら、今がチャンスってことだヨ」

　ノイは大真面目だった。

「ここから、いろいろなところの鏡に通じているようだから、奥方が願う場所に行けると思うんだ」

「そんなこと、したら」オユンは言葉に詰まった。

「ん。もちろん、アルジは悲しむね。でも、ノイたち、オユンより長生きだからね。すぐ切り替えるヨ。気にしなくていい」

　自分はまだ、逃げたがっているように見えたのだろうか。

　シャルも、そう見ていたのだろうか。

「……わたしが気にします」

　あの蒼（あお）い光はシャルが灯したものだ。

（見失いたくない。わたしは）

「行きましょ」

　オユンはノイと手をつなぎ直した。

　蒼（あお）い光へと歩いた。

　向こうから、光が近づいてくるようでもあった。

　ぶわっと一瞬、強い風にあおられて身体（からだ）を持ち上げられたと思ったら、〈鏡の間〉に戻っていた。

「手間取らせるんじゃない」

　不機嫌オーラ満載で、シャルが立っていた。

「おまえまで、鏡にすくい取られてどうする」

「申し訳ありませんでした。ただいま戻りました」

　オユンは頭（こうべ）をたれる。

「わたしが鏡に引き込まれてから、どのくらいの時間がたちました？」

「ほんの数分というところだ」

　結晶体の光は、２メートルほどの高さを青白く浮遊していた。カンテラ代わりであるらしかった。　

「あ、あの」

　オユンはシャルに聞きたいことがあった。　

「——わたし、十二日女（じゅうにひめ）に会いました。あれは金杭（アルタンガダス）の宮殿の一室でしょうか。もしかしたら、シャルが導いてくだすったんですか」

「そんな、おせっかいをするはずがないだろう。鏡と鏡がつながったなら、そういうこともあるということだ。おそらくは、おまえと銀針（ムング・ズー）の日女（ひめ）の絆が強くて、そうなったんだろ。ノイ！　いつまでオユンの腰に手をまわしている」

　シャルは長衣（ローブ）をひるがえすとオユンの手をつかんで、ノイから引きはがした。勢いあまったオユンはシャルの胸に手をついた。

「……！」

　シャルの長衣（ローブ）から上半身の素肌が見えた。

「なんで、長衣（ローブ）の下、着てないんですかっ」　

「おまえがわたしの服を着て行ったからだろっ！」

「……そうでした」

　オユンは、脱衣場に脱いであったシャルのチュニックを着ていった。

　シャルは風呂からあがって、脱いだはずのチュニックがないのに気づき、部屋を見渡したら、寝台にオユンの着ていた灰色ドレスが取り急ぎな感じで投げ出されていたから、瞬時にいろいろをさとって、自分の黒い長衣（ちょうい）をひっつかんで夜の街へ飛び出したのだ。

「むしろ、ズボンをちゃんと履いてきたとほめてほしい」

「も、もちろんです。そうです、よね。ズボン……」

　シャルが、とるものもとりあえず来てくれた様子を想像したら、ふき出しそうになってオユンは、あわてて両手で口元をおさえたところを。

「爪！」

　シャルに両手をつかまれた。

「ぼろぼろじゃないか。塀なんかをよじ登るから」

「あっ、あ、そうですね」

「こんな爪で、わたしの敏感な部分を触ろうと考えたのか」

「考えてませんからっ！」

「あのさー」

　おひめさま姿に飽きたか、ノイは若草色のクラシックなドレスをからげ、両脚を広げてしゃがんでいた。

「そろそろ帰ろうヨー」

　おもむろに立ち上がる。

「アルジ、かけっこして帰ろ。ノイが、いちばんになったら今日、奥方の隣で寝るからねっ」

　そして、ドレスの両裾を持ち上げると、もう駆け出した。ヒールのある女物の靴を履いているはずなのに、早い。あっという間に夜のしじまに消えた。

「精霊ごときに、わたしが負けるとでもっ」

　シャルが、すぐに追いかけようとする。「待って！」、その黒い長衣（ちょうい）をオユンは引き留めた。

「そんな恰好で街中を走ったら、シャルだけが変態扱いですっ。ノイは、ほとんどの人に視（み）えないんですからっ」

　真夜中といえど、誰が見ているかわからない。

「そうだった」

　オユンも念入りに自分の灰色の長衣（ちょうい）の前を合わせ直す。

　実は、長衣（ちょうい）の下は男物のチュニックに紫のペチコートだ。シャルのことを言えない恰好だった。

「帰りましょう」

　オユンは左手をシャルに差し出した。その薬指には細い指輪が光っている。

　シャルは、その手を右手で受けて、「——おまえ、迷わず帰ってきたのか」と聞いてきた。

　それは、あの鏡の道が通じる世界で、オユンが逃げ出そうとすればできたのを知っていた口ぶりだ。

　死亡説をくつがえして十二日女（じゅうにひめ）の元へ舞い戻るか、まったく他の新しい人生の出発点にすることもできただろう、と。

「わたしは」

　オユンは、今、言っておきたいと思った。

「あなたにとっては、わたしと過ごす時間など短い夏ほどの時間としても、わたしはあなたを、がっかりさせたくないんです」

「——するわけがない。壁をよじ登る奥方なんて生きてきて、はじめて見た。出会ったときの剣の突きも鋭いものだったし、29歳というのは、なかなかいろいろできるものだな」

　シャル・ホルスは大人の余裕で、オユンを評す。

「それにしても、都会の夜は明るい」

　シャルはオユンを抱き寄せた。

「星が見えない。この〈牝狼（メスオオカミ）の月〉（夏に区分される月）なら、もっと流星群が見えるはずなのにな」

（あっ。今日って）

　そのとき、オユンは、重大なことに気がついてしまった。

「どうした？」

　シャルは腕の中のオユンの動揺を、すぐに察した。

「いえ。なんでも」

（なんでもなくは、ないんだけども）

「帰ってから言いますね……」

　オユンは、シャルの碧眼（へきがん）を下から見上げる形で答えた。

「なんだ。もったいぶるな。わたしを、ものすごく愛してしまったと、今、気がついたか」

　魔導士のドヤ顔は見飽きないものだ。思わず、オユンは、「——うぅん。ちが（違）」と言いかけた。

「ちが？」

　とたんに、シャルが泣きそうな顔になった。すごくわかりやすい。

「ちがっては、ない」

　急いで言い直す。

（いつ言おう……）

　オユンは、30歳になっていた。