この世界は甘いのか

8  初めての夜が明けて

 蒸し風呂で、ほてらされ冷やされて、オユンは、ぼんやりした。

 魔導士の今度のキスは、お行儀よく玄関口でオユンの出方を待つものだった。


「こおり——」

 さきほど与えられた氷は、口中でとけた。

「もっとください」と言うように、オユンは魔導士のくちびるをむ。

 これだけ脱水状態にされたら、むさぼりつくしかなかった。


(はしたない女だと追い出されるのか——)


 向かい合った二人の身体からだにはドームから降ってくる、こまかな氷がつもりはじめていた。

 オユンは円形の段に背をついて普通なら、すり傷をつくるところが、氷のベールに守られている。

 

「おまえに、くちづけより先の精気を与えたい」

 魔導士は耳元でささやいてきた。

 

 オユンの人生は、金杭アルタンガダス日女ひめの侍女として赴いて、生きた辞書として精進し、異性とは縁のない生涯になるはずだった。

 今、自分をみつめている蒼眼へきがんは、いまだ読んだことのない書物。ならば、いっそ。


(みつめてみようか。読み尽くしてみようか——) 


 あとのことは覚えていない。

 やはり虹色の光彩がさく裂して、オユンは気を失ったらしい。


 

 しばらくののち、満足した魔導士はオユンの身体からだごと抱え上げて精霊に告げる。

「ノイ、今宵こよい、奥方は、わたしの部屋で過ごす」


 ノイは風呂場の入り口で待機していた。

「わかった。明日の朝は起こしに来るなとカレイ家令に伝えておくヨ」

「おまえは気が利く」

 魔導士は、にっこりと笑った。それを見て、精霊もほほえむ。

「アルジ。よかったねぇ。待ちに待った奥方が来てくれて」

「あぁ。手ちがいはあったが、このさい、小さなことは気にしない」


 人より長い時間を生きる魔族は、ときとしてアバウトだ。




 そして、次にオユンが目を覚ましたのは、薄水色のとばり(カーテン)が天蓋てんがいから下がる寝台の上。それは魔導士の部屋の寝台だった。


(記憶が飛んだ? まぁぁぁったく、覚えてないっ)


 左隣には青年が眠っている。端正な顔立ちの男だ。銀の髪は下手な女より、つやつやとしていた。

 その身体からだにかるくかかっている寝具をめくったら、何も着ていなかった。

 オユンは弟たちで、男のま裸は見慣れていたものの、スケールがちがった。「……」、見なかったことにして、寝具を男にかけ直した。

 それにしても、すやすやと眠っている。まぁ、この男にしたら、自分の城だ。やすらいでいるのだろう。だが、オユンにとっては、まったくの見知らぬ土地、見知らぬ城、見知らぬ男なのだ。ここで、どうやって生きていけばいいのだろう。

(いや、追い出されることが目標なのだったわ)


 オユン自身も衣服をつけていないところをみると、認めたくはないが現実を受けとめなければならない。腕やらももやら、やわらかい場所に、かるく打撲のような跡まである。下半身も気だるい。

(なっにも覚えがないけどっ)

 とにかく。

 これで、この男の気がすんで、「もう、いい。出ていけ」と言ってくれれば。

 

(それにしても、きれいな顔立ちだなぁ)

 まじまじとオユンは男の寝姿を堪能した。

 口ぽかんとか、よだれたらして眠ったりしていない。さすがだ。

 とにかく、この男が機嫌よく目覚めてくれれば。

(でも、待て)

「期待外れであった。斬首ざんしゅ」とか。まさか。


(ひぃぃぃぃ)

 オユンは寝台の上で身もだえた。



 それを魔導士は、しばらく前から目覚めて観察していたらしい。

 その碧眼へきがんと、オユンは目が合った。

「起きてるなら起きてるって言ってくださいよっ!」


「なんだ。照れかくしか」

 男の左手がオユンの右腕をつかみ、自分へ引き寄せた。

 オユンは引っ込めたい衝動をなんとか抑え、笑顔を作った。

「ま、魔導士さまにとって、わたくしなど、お粗末なものであったことでしょう。お恥ずかしい限りでございます。そろそろおいとまいたしましょう」

 どうにかして、「出ていけ」という言質をとりたい。


謙遜けんそんか。昨晩とはうってかわって。わたしから精気を吸い取るだけ吸い取って去るつもりか」

「いや、くれとは言っていない」

「もっとくださいと言った」

「あれは脱水症状でしたよね」

 うすぼんやり、オユンは思い出していた。


「だから、わたしはおまえに注いだ。ほら。打撲の直りが早いだろう」

 青年は、オユンの腕のやわらかいところを指さした。そういえば、さっきあったあざが、もうない。

 もっと言えば、他に、あったはずの、あちこちの刀傷がなかった。いちばんひどく残っていた右腕の傷もない。

 きれいに治っていた。


「わたしが精気を与えたからだ。寿命も、また伸びたんじゃないか」

「ひぃ」

 あまりに寿命が延びるのも、こわい。


治癒ちゆの見込みない病気にでもかからない限りは天寿をまっとうできる」

「あ。無敵ってわけじゃないんですね」

「あくまで、お守りのようなものだ」

「あ、ありがとうございます。もう十分よくしていただきましたし、きょ、今日にでもおいとましようかな」

「さっきから、なぜ、おまえは、暇乞いとまごいばかりしようとする」

「いえ。わたしはまちがえて連れてこられた身ですし、そろそろ」

「言ったはずだ。次の銀針ムング・ズー日女ひめが育つまではと」

銀針ムング・ズー日女ひめにこだわらなくてもっ」

「祖父がした約束だ」

 義理堅いのか。


「でも、銀針ムング・ズーの王家のほうは忘れているんですからっ。もうこだわらなくてもっ」

「——自分だけを愛してほしいと、おまえは言うのか」

 魔導士が、ひた、とオユンをみつめた。


 そんなこと、いつ誰が何時何分に言った?

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