3  魔導士の城

 びょうびょうと、オユンは風の音だけを聞いていた気がする。



 起きて。起きるの。

 これは悪い夢だ。

 早く覚めて。



 かっと、オユンは目を見開いた。

 やわらかな寝具の感触が背中にある。夢から覚めたと、ほっとする。

 が、見なれぬ、くすんだピンク色の天蓋てんがいに心臓がはねかえった。

 ばっと起き上がると、そこは見知らぬ部屋の寝台の上だった。


 しゃん、ん、ん。

 やさし気な鈴の音がした。


(う)

 オユンは、右腕をひっぱられる感覚に顔をしかめる。右手首には綾紐あやひもが結わえられていて、その紐は天蓋てんがいの上部に吊るされた小さな鈴の束につながれていた。

 オユンが動けば紐がひかれる。紐がひかれれば、鈴が鳴る。そういう仕組みだった。

 すぐに右側壁面の両開きの扉が開き、誰か入ってきた。


「お目覚めですか」

 すらりとした暗い髪色と目の男だった。襟なしの長めの灰色の上着に、白い立ち襟のシャツを合わせている。静かな佇まいで、声はおだやかだった。


「――」

 ここはどこですか。あなたは誰ですか。

 オユンは、そう言おうとして声が出なかった。


「無理をしてはいけません。声は出さないで。わがあるじのくちづけのせいで、咽喉のどが、かるい炎症を起こしているのです」

 ため息まじりで、男は申し訳なさそうな顔をした。

あるじ日女ひめを得て歓喜のあまり、気持ちを抑えきれなかったようで」


 さぁぁ~と、オユンの顔から血の気が引いた。


 くちづけ。

 砂漠。

 日女ひめ

 ひょう

 黒い長衣ローブの男。

 くちづけ。


 男は、オユンの右手首の綾紐あやひもをほどいてくれた。

 拘束する気はないらしい。


 寝台の側に置かれた小さめのチェストの上に、ピューター製の水差しがあった。

 オユンはそれを手に取ると、いきなり中身を床にぶちまけた。

 床は、つや消しの黒タイルだ。


 スカートのポケットにはハンケチが入っていた。佳き日のための特別製のハンケチ。それに床の水をしみこませて、オユンは、ぬれていない、つや消し黒タイルの床に文字を書いた。


   ここは どこ

   あなたは 誰


 男は、オユンの意図をくみとった。

「ここは氷結ひょうけつの魔導士の城。わたしは、この城の家令かれいです」


   わたしを 

  どうして ここに


「わがあるじの花嫁だからです」


「——」

(なんですって?)

 思わずオユンは男の顔を見上げた。

(そんなこと、知らない)


 男はオユンの顔色を読んだようだ。

「それは、そうでしょう。互いの先祖が約束したことですから」


(先祖?)


 さらに、男は続けた。


「今ですと何代前の王にあらせられるか。銀針ムング・ズー小心王しょうしんおうの時代です」


(知っているわ)


 オユンは銀針ムング・ズーの王国史をそらんじていた。そもそも、嫁ぐ日女ひめの辞典として随行ずいこうメンバーに加わった。


 小心王しょうしんおうは三代前の王だ。

 内乱を起こされ殺されかけたが、金杭アルタンガダスに亡命して再び王家を復興した王だ。


「あるとき、小心王しょうしんおうは、銀針ムング・ズー日女ひめ氷結ひょうけつの魔導士の血筋にめとらせるという約束を交わしたのです」


  そんな昔の約束


 オユンは気を取り直して、水文字を床に書いた。

 家令と言った男は、それを、ちゃんと読んでくれた。


「あなたがたにとりましては、〈そんな昔の約束〉でしょうね。こちらのあるじは何かと忙しくしており、その約束を、すっかり失念しておりまして。つい先日、思い出したら、そちらでは、こちらより日がたっておりましたということで」


 オユンは大混乱していた。

 だが、大体はわかってきた。 

 誰かが何かをまちがえている。


 そのとき、ばぁんと、部屋の扉が開いた。

日女ひめが目を覚ましたか!」

 銀髪長身、黒衣の青年が入ってきた。

 

 その顔に覚えがある。

 ひっと、オユンは床に座ったまま、あとずさった。


「何? 水差しをひっくり返したのか。片付けろ」

 青年は家令に言いつけた。

 そして、オユンに近づいてきた。

ころもの裾がぬれているよ。日女ひめ


 触れられる。恐怖にオユンは叫んだ。

日女ひめじゃなひ!」

 かすれてはいたが、声が出た。


 少し間があった。「ふふっ」っと、青年の碧眼へきがんが、ほほえんだ。

「このわたしが、だまされるとでも」 

 

日女ひめじゃない!」

 もう一度、オユンは声を張った。


日女ひめ

 青年は、まだ、そう呼ぶ。


「わたしは侍女です!」


「わかった、わかった」

 しまいには、子供をなだめるような言い方を。


「わたしは!」

 もう、オユンは、おかしくなりそうだった。


「ちょっと、ちょっと、いいですか」

 家令だと言った男が割って入ってきた。

「あなたは日女ひめじゃないと?」


「そう! 日女ひめじゃなひ!」

 オユンは裏返る声でふんばった。


「まだ言うのか」

 青年が。


 まだ言うは、そっちのほうだ。オユンは息が荒くなった。


「しばし、あるじは黙っていなさい」

 とうとう家令が、青年を黙らせた。


「もう一度、聞きますよ。あなたは日女ひめですか」

 家令は、ゆっくりとオユンにたずねた。

 だから、オユンも、せきばらいし、声をととのえてから答えることができた。


「ちがいます。私は日女ひめ付きの侍女です。このたびの十二日女じゅうにひめ金杭アルタンガダスへの輿入こしいれにあたり、随行ずいこうメンバーに選ばれた者です」


あるじは、あなたを日女ひめだと言っているが」

「カンちがいでしょう。わたしは最初から侍女だと言っている」

「あなたが日女ひめでないという証拠は」


 証拠と言われてオユンは困った。示せるものがない。でも、それこそが日女ひめではない証拠ではないか。


銀針ムング・ズー日女ひめなら王家の紋章入りの装身具などを身につけているはずでしょう。でも、ほら、このとおり。わたしは何も持っていない」


「説得力がうすいですね」

 家令が納得するには決定打が足りないようだ。

 どうすれば。オユンは眉間にしわを寄せて考える。そうだ。


銀針ムング・ズー十二日女じゅうにひめは15歳です。わたしは……、に、にじゅうく29、です」


 オユンは日女ひめの家庭教師だった。まなを卒業して、すぐ日女ひめの側にあがった。もう7年になる。


「15歳と29歳というと、どうちがう?」

 家令が真顔で聞いてきた。


「お? お肌のツヤがちがいますよ。15歳は水を浴びると、蓮の葉に水を受けたときのように、お肌の上で、ぷるぷるの水滴になります」

 オユンの声がふるえた。のどが痛いだけが理由ではない。

 自分は二人の美丈夫を前に、何を説明させられているのだ。


「ぷるぷる?」

 青年が、とまどうように反芻はんすうした。


「年齢の自己申告は、いかようにでもできる。説得力がうすい」

 家令が、また、つっぱねてきた。


(なんて、かたくなな奴らなの)

 オユンは腹がたってきた。


「だから! 日女ひめは花嫁の輿こしに乗って! 純白のドレスに青いコートの花嫁衣裳を着ていたでしょう! 冠もかぶっていた! わたしは! 後続の馬車に乗って! ほら! これは侍女の衣装! いつもよりは豪華だけど!」

 うす青の衣装で、くるりと回ってみせる。 

「わたしは日女じゃない! オユン・ツァガントルー。代々、銀針ムング・ズーに仕えてきた家系ですっ」


 家令が銀髪碧眼ぎんぱつへきがんの青年をふりかえった。

あるじよ。こちらの盛大なカンちがいのようですね」

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