絵を描く

琴瀬咲和

青色に彩られた絵

 薄暗い部屋。


 カーテンは開いておいたが、まだ夜は明けていなかった。私はちらりと窓を見て、またすぐに視線を戻して筆を動かす。

 部屋を照らしているのは、月明りだけだった。


 私は窓を開け放ち、部屋の中心でイーゼルに向かい合っていた。

 筆を動かしていると、無心になれる。意識を全て筆に向けることができる。それも私が絵を好きな理由の一つなのかもしれない。

 段々と部屋が明るくなってきた。もうすぐ夜が明ける。開けてある窓から、小鳥のさえずりが聞こえてきた。


 私は筆を置き、椅子から立ち上がって大きく伸びをする。

 絵を見ると、やはり青ばかり。パレットも、色々な種類の青に彩られている。私が青色ばかり使うのは、私の好きな色だったことが理由かもしれないし、もしかしたら違うかもしれない。

 私は絵を見て自嘲的な笑みをこぼし、再び伸びをした。体が痛い。


 そして私はまた椅子に座り、筆を手に取る。

 久しぶりに暖色系の絵の具を使おうかな、なんて思ったが、やはり青色に手を伸ばしてしまった。

 私の絵の具入れには、青色が多い。

 青色、群青色、瑠璃色、藍色、紺色……。他にも色々な青がある。私は瑠璃色が一番好き。名前も色も素敵だから。初めて瑠璃色を知ったとき、とても惹かれてしまった。

 水色も好きだけど、青、濃い青のほうが好き。

 水色は、涼しく感じられる色。青は、海の色。濃い青は、……明けない夜の色。明けない夜はないけれど、でも、必ず夜が明ける保証もない。

 私は瑠璃色に手を伸ばし、パレットを瑠璃色に彩った。


 再び筆を動かす。

 左の頬が暖かくて振り向くと、夜が明けていた。

 私は思わず綺麗、と一人呟く。

 良かった。今日も夜が明けた。

 でも私の心と絵は暗い。心は暗闇に包まれていて、絵には夜空が描かれていた。


 私が夜空ばかり描くようになったのは、いつからだろう。

――ああ、そうだ。あの日から、私は夜空ばかり描くようになったんだ。




『ごめん。別れよう』


 いつも通り、近くの絵の具屋で絵の具を見ていると、彼がそう告げた。

 私はとても動揺した。なんで、と小さく呟く。私と彼は、上手くいっていたはずだ。私はいつも、彼に気に入られるように頑張って——。


 ぽろりと目から涙が零れ落ちた。彼は私が泣くといつも涙を拭ってくれたのに、今日は拭ってくれない。彼は、悲しそうな目でこちらを見つめていた。


『ごめん。別に、君のことが好きじゃなくなったとか、好きな人ができたとか、そういうことじゃない。』


 それなら、なんで? 私のことを嫌いになったわけじゃないんでしょ? お願い。別れたくない。


 そんな言葉が心に積もっていった。


『……ただね』


 私は黙って彼を見つめ、続きを促す。


『……ただ、君が、僕の前でずっと無理をしている気がしたんだ』


 図星だった。

 私はぐっと唇を噛み締める。


 たしかに私は、無理をしていた。

 彼に気に入られるために頑張った。でも、別れたら私の今までが全部無駄になってしまう。

 そして別れたら、きっともう彼とは話せなくなってしまう。


『ごめん』


 彼はずっと謝っている。


 私が悪いのに。悪いのは全部私なのに。あなたは悪くないのに。謝るべきなのは私なのに。


『……じゃあ』


 彼が私から離れ、手を上げて優しく笑う。


『元気でね。新しい恋を見つけて、幸せになって——』


 彼の笑顔は、私の大好きな笑顔だった。

 彼はどこまでも優しくて、また涙が溢れた。

 私はしばらく泣いたあとに涙を拭い、青色の絵の具をたくさん買いとぼとぼと家に帰った。

 そして私は、夜空を描いた。

 自分の中の暗闇を、思いを、絵にぶつけた。

 それから私は、夜空の絵ばかり描くようになった。

 きっと私が他の絵を描けるようになるのは、立ち直ったときだ。




 私はかたりと筆を置く。

 今描き終えた夜空は、そこそこのできだった。


 窓を見ると、もう朝日が昇っている。その眩しさに、目を細めた。

 ふっと息を吐き、私はベッドに寝転がる。そして目を瞑り、彼との思い出を蘇らせた。


 彼とは高校で出会った。隣の席になったことがきっかけで、話すようになった。

 連絡先を交換していたので、高校卒業後はたまに連絡を取り合っていた。

 そして二十四歳の頃。彼が私の近くの家に住んでいると知り、会ってどこかに出かけるようになった。私が彼を好きになったのは、いつだったのだろう。もしかしたら、会ったときからずっと、好きだったのかもしれない。

 二十五歳になり、彼が私に告白をしてきた。私の返事はもちろんオーケーだった。

 そして一年ほど交際して、二週間ほど前――別れを告げられた。

 あのときのことを思い出すと、今でも涙が溢れてくる。

 でもなぜか、今日は涙がでなかった。

 彼は、青が好きだった。私は瑠璃色が好きだけれど、彼は『青ならなんでも好き』と笑っていた。


 私はそっと目を開け、ベッドから降りイーゼルに近づいた。絵の具入れから色を取り出す。

 イーゼルに立てかけたキャンバスを新しくして、洗うのが面倒くさかったのでもう一つのパレットを取り出し、絵の具を垂らした。

 今垂らした絵の具は、青じゃない。赤だ。

 を描けそうな色をパレットに垂らす。

 赤、オレンジ、黄色、緑……。

 そして私は筆を手に取り、絵の具をつけてキャンバスを彩り始めた。

 彼との思い出が蘇っては消え、蘇っては消える。シャボン玉みたいな思い出。

 筆は何も考えなくても動いた。腕が痛くなっても書き続ける。私は休むことなく、キャンバスを彩り続けた。


 そしてできあがった、私の絵。それはどの絵よりも輝いていて、今までの絵の中で一番のできだった。

 それは、朝日の絵。でもこれは、窓の外の朝日じゃない。彼の太陽みたいな笑顔を思い浮かべて描いた、朝日の絵。

 窓の外に視線を移す。

 彼の笑顔が頭に思い浮かんだ。

 私はきっと、彼を忘れることはできない。新しい恋を見つけることはできない。でも絶対、立ち直って見せる。

 私は窓に近づいて、頬を緩めた。

 部屋は朝日で照らされていて、明るかった。そして何より、私の心の暗闇も、少し薄れた気がする。


「――ありがとう。だいすき」


 そんな言葉が、朝日に吸い込まれて溶けた。

 また、新しい一日が始まる。

 振り返ると、青色に彩られた絵が何個か。そして赤色に彩られた絵が一つ置かれていた。

 絵は、とても綺麗で素晴らしい――。


                                   【完】

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絵を描く 琴瀬咲和 @mirietto

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