海の初恋

古都 一澄


「僕はただ、絵が好きなんだ。」

「でも、好きな理由なんて言わなくたって良くて。」

「ほら、好きを言語化すると、この感情に名前が付いてしまうからさ。」


「わからないままでいいんだ、この感情が何であるかなんて、そんなのどうだって良いんだよ。」

「大事なのは……そうだな、忘れない事かな。」


「作品名も、作者名も、色使いも、忘れてもいい。ただ、言葉で語れない程、自分の心を動かした何かを、どうか忘れないで。」


「きっとそれで、幾分か人生は素敵になる。」


 氷室さんは最後にそう言った。美術部の先輩で、それはそれは、途轍もなく絵が上手かった。

 立ち振る舞いや話し方も含めて、中性的な美しさ、という言葉が相応しい、そんな人。

 明日何食べようかな、と呟きながら地球儀を二時間回すような、変わった面も持っていたけれど。


 まさかこれが、氷室さんが私に話した最後の言葉になるだなんて全く思っていなかった。

「じゃあ、また来週。」と部室の鍵を閉めた氷室さんは、次の週から学校に来ることはなかった。






 全日本学生美術展に応募したものの、誰かの栄光を支える側となった自分の作品を見ながら、一人になった部室で私は筆を片付ける。


 忽然と氷室さんは居なくなった。この部には私だけしかいなかったかのように。清々しいほど何も言わず、黙って去っていった。

 高校を退学したのだと、風の噂で聞いた。女子更衣室にカメラを仕掛けた、と。週明けだった事もあり、クラスメートたちは氷室さんの話題でひっきりなしだった。

「渚沙の先輩だったんでしょ? 大丈夫なの? 」と冷やかしと関心の入り混じった目で友達から見られたけれど、私は何も言わなかった。


「えーあの人顔はカッコいいと思ってたのにー」「でもクラスでは嫌われてたらしいよ」「ほら、やっぱあんなのじゃなくて俺にしとけよって」「それはない」「それはないねえ」「ええー釣れないなぁ」

 ものの一週間も経つと、どうせ話題なんて直ぐに変わる。既に私のクラスは、一日で飽きたようだった。


 私はというと、どうしていいのかわからなかった。氷室さんはそんな事しないと思っていた。私は氷室さんを尊敬していたし、好意的な感情を抱いていたから、尚更。

 でも、顧問から美術部の活動を控えるよう言われたので、私はそれ以上何も聞かなかった。心の中の空白はとうとう埋まらなかった。



 私ももう高二だ。今は七月、もうすぐ夏休みが始まる。本格的に勉強を始めないと、大学のこともある。来年の一月。私の高校生活最後の、全日本学生美術展。


「……それで、終わりにしよう。」


 私は今まで、ありとあらゆる絵画コンクールに応募してきたけれど、自分の作品が日の目を見ることはなかった。

 インフルエンサーの真似をして、インスタの裏垢でもコソコソと絵を上げていた。誰にも見つかることはなかった。そして、自棄になってインスタはアンインストールした。アカウントを消せなかったのは、どこか期待していたから。もしかしたら誰かが、私の絵を見てくれるかもしれない、と。


「……寂しくなったな、」


 柄にもなくこんな事を呟いてみる。今日が、一学期最後の部活の日。

 新入部員は誰もいなかったから、これがこの部の最後の夏。

「描けば寂しくないよ」と隣で笑う人はもういない。


「何で盗撮なんかするかなあ、あの人なら描いたほうが良いって言いそうなのに。」


 よりにもよって女子更衣室。カメラが見つかったのはそこだけらしい。

 もし盗撮がしたいのなら、美術室に置くのが手っ取り早いと私は思うのだ。ここにカメラなんて置いてあっても、画材で煩雑としているから見つかりにくい。


「私には大して魅力が無かったってこと? 」


 掠れた自分の声を消すように、思ってもみないことを呟いてみる。

 まあ、だからといって私のスカートでも覗かれたらブチギレ案件だ。


「でもなあ、あの人に限ってそんな事しないと思うんだよ、」 


 夏の暑さの象徴のような蝉の鳴き声がガラス窓越しに聴こえる。耳を刺す三重奏。


「なあ、どう思う、その辺の蝉さんたち。」


 木製の椅子を引き摺って、私はよいこらしょ、と立ち上がった。

 一人でクーラーを占拠するには、部室は少し広すぎる。


「……なんてね。」


 私は、取り敢えず一学期に描いた絵をまとめる。

 暗い部室の中に、光は入らない。

 確か氷室さんは少し薄暗い方が好きだったな、なんて。


『鯨』『廃材』『アナスタシア』『校舎と水道』『懐かしいまち』


 机の上に絵を並べてみると、こんなに描いたんだなあ、としみじみと思った。追憶と言うには些か味気ないが、それでも絵を描いていた様々な瞬間をありありと思い出せる。


 カーテンを閉めて、電気を消した。元々点いているようで点いていない蛍光灯だ。取り替えはもう必要ない。来年、ここは廃教室。


「来年の一月までは、居座るからね。私は描き続けたいんだから。」


 そう呟いてから鍵を閉める。二週間前、氷室さんがしたのと同じように。









 氷室千隼という名前を知ったのは、私が中学三年になったばかりの時だ。

 高校受験もそろそろ考えないといけない時期に、私は勉強なんてそっちのけで、絵ばかり描いていた。


 志望校の欄にやっとシャーペンが乗ったのは、氷室さんの絵を見たからだ。高校生の絵画コンクールを漁っていたら、優秀作品の中に強烈に目を引く作品があった。

 それが、彼の作品だった。彼の名前と共に高校名が書かれていたから、私はその日、志望校を決めた。氷室さんとは一学年しか違わなかったから、本当に嬉しかった。来年私がこの学校に入学すれば、一年間はこの人と会える。そう思った。


 氷室さんの作品は、桜の花びらが舞い踊る中、少女が振り返っている絵だった。

 かろうじてわかるのはそれだけだった。

 少女が泣いているのか、叫んでいるのか、笑っているのか、わからなかった。

 桜の花びらを模った桃色が散る中、鯨や白鳥といった、動植物が踊っていた。

 そして、とにかく迫力が凄かった。これ以上何も言えないほどに。


『初恋』 


 その題名が、すとん、と私の胸に落ちた時、私も氷室さんの絵に恋をした。

 私もこんな絵を描きたい。この人の描く絵が見たい。絵ってこんなに、こんなに、人を感動させるものなんだ。

 もっともっと、私も描きたい。



 猛勉強というほどの勉強量でも無かったけれど、とにかく私は高校に合格した。私は迷わず美術部に入り、氷室さんと対面した。


 驚きだったのは、美術部の部員が氷室さんしか居なかった事だ。

 部活見学に行った時、部活というより同好会かな、と目を細めて彼は笑った。

 宿題してもいいし、ゲームしててもいい楽な所だよ、と右手をひらひらと振る氷室さんに、私は「絵が描きたくて来ました。よろしくお願いします」と入部届を提出した。

 彼は、部活見学期間は入部して良かったっけ、と逡巡した後、まあいいや、と椅子に座る。絵が描きたいんだったらここにあるもの自由に使っていいよ、と付け足して。

「一人だけなんですか? 」

「あともう一人高三の先輩がいる。受験勉強でほぼ部活に来ないから、基本一人だね。」

「そうなんですね。」


 結局、私は何も言わなかった。

 氷室さんの作品が好きだったこと。

 どんな人なのだろうと興味を持ったからこの学校に来たこと。

 氷室さんの絵を描く姿に、惹かれていたこと。

 端に置いてあった制作途中の絵も好きだったこと。

 穏やかな雰囲気の中で過ごす時間が、何よりも大切だったこと。









——きっと、初恋だったんだ。








「……ああ、そうだったのか。」







 そうだったのか。私は彼の作品じゃなくて、彼に恋をしていたのか。

 なんで、どうして。なんでだよ。

 どうしてそんな単純なことに、今になって気付いたんだ。

 ああ、遅い。遅すぎるよ。今更そんな、どうしろっていうんだ。







 もうあの人は、ここにはいないのに。






◇◇◇









 高校生活最後の全日本学生美術展。

 題名記入欄に、『海の初恋』と書いて、私は顧問に提出した。


 やっぱり私の作品は、入賞しなかった。自分の全力以上のものを詰め込んだ自信作だったから、結果を見ながら泣いた。

 コンクールの結果を、氷室さんはどこかで見てくれているんじゃないかという希望もあったから、尚更。


 そして、滲む涙を堪えながら、私は優秀作品の一覧を見つめる。

 二年間追いかけてきた人の名前が、そこにはあった。


『記憶』 氷室千隼


 キャンバスの真ん中に青年の後ろ姿が描かれていた。右手は絵を描いていて、左手は汚い水をかけられたように濡れている。

 右側に描かれているのは、間違いなく美術部の教室だった。古びた教室で、女子生徒らしき人影が奥にいる。穏やかで静かな、私の好きなあの雰囲気。

 左側には、悍ましさすら感じさせる、私の知らない教室の風景があった。いじめの様子だとわかった。汚れた赤に染まった苦しさと怒りが、濁流のように溢れてくるような、そんな左手。


 その絵を見て、私は全て理解した。

 私にしか伝わらないであろう、彼の苦悩と幸せ。


 氷室さんは、盗撮なんてしていない。










——わからないままでいいんだ、この感情が何であるかなんて、そんなのどうだって良いんだよ。


「わかりません。わかりませんよ、先輩、」


——大事なのは……そうだな、忘れない事かな。


「何を忘れるっていうんですか、私はあなたに憧れて、この部に入ったのに、」


——作品名も、作者名も、色使いも、忘れてもいい。ただ、言葉で語れない程、自分の心を動かした何かを、どうか忘れないで。


「全部全部、忘れませんよ。あなたへのも、あなたと過ごしたも。」


——きっとそれで、幾分か人生は素敵になる。


「先輩はどうなんですか。高校生活は素敵なものだったんですか、」


ありもしない罪を擦りつけられて、退学にまで追い込まれて、それで、それで。


「私は先輩のことを、本当に何も知らないけれど、」




「でも、でも、あなたの右手が幸せを描くのなら、」


「その右手の中に、私もいたのなら、」









「好きだって伝えておけば、どんなに、どんなに幸せだっただろう、」





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海の初恋 古都 一澄 @furutoko

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