Mr. ショッピングモール

崇期

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「キャッチ&ソリューション」

 夜のとばりがおりた窓の外を見つめながら、頭の中でつぶやく。あの、今月頭にオープンしたばかりのペーン・ショッピングモールのきらびやかなネオンが、マスコットキャラクターであるペンギンのマークが、視線の先にある。キャッチ&ソリューション──お客様の声を拾い、お客様の声に答える……チラシの隅に載っていたそんなキャッチフレーズまでなぜか記憶している。


 私はいまだ職員室にわだかまっていて、もう十分以上、近隣住民からの苦情の電話と格闘していた。学校がチャイムを切り忘れていて、真夜中にチャイムが鳴ったということだった。

「ただでさえうるさい生徒の声に迷惑してるのに、夜ぐらい静かに過ごさせろよ!」

 その壮年期男性であられよう声は、十四分ほどにわたり思いの丈をぶちまけると、電話を切った。


「はぁー……」


 冒頭には、「先生たちもお忙しいだろうと思って、この時間に電話したんだけどよ」という実にセリフがあった。おかげで、苦情は管理職に任せることになっているのに私が出るはめになったのだ。こんな時間まで居残っている私も悪いんだけど。

 キャッチ&ソリューションか……。私にとっては、生徒がお客様だ。学校にとって保護者がお客様であるのと同様に。


轡水ひすい先生、まーだそんな時代遅れなことやってんスか?」


 これは昨日、化学教師のMがくれたセリフ。Mはもう紙のテストは古代遺物と廃止して、すべてのテストをGoogleフォームでやっているらしい。

「採点も自動でやってくれるし、ちゃっと作ってちゃっと配信したらいいんですよ。一度テンプレート的なやつを作っておけばコピーしてくり返し使えるし。URLをClassroomクラスルームに貼りつけてですねー……」

「いや、やり方はわかってるよ、さすがの私も」


 いろいろ微妙な問題があるんだって。要領のいいあんたにはわかんないだろうけどさ。ご想像どおり機械音痴の四十女ですけど。


 私しかいないのに、カサコソと物音がした。首を回して発信元を探すと、キャビネットの隙き間に、小さなネズミの姿が見えた。


「ネズミ……嘘でしょ……」


 私は田舎生まれなので、田んぼの稲刈りが済むとそこを拠点としていた野ネズミが身を隠す場所を求めて住宅にあがり込んでくることを知っている。でも今は八月。田んぼは青々としているぞ?


 デスクにあった雑誌をくるくる丸めて立ちあがり、ふと我に返る。ゴキブリじゃあるまいし。しかし、ケーブルとか齧られたら事だ。明日みんなに話して、駆除を考えなきゃ──。


「轡水センセ……」


 私は再び首を回した。


「ひ、す、い、先生」


 野ネズミに注視した。小さな小さな鼻はこちらを指している。ひくひく動いているのがわかる。


「嘘……でしょ?」


 ネズミは秒速で動いて、私のデスクに駆けのぼった。


「お仕事ごくろうさんです」


「あ、はああ……」後ずさり、隣のデスクの山積み書類を床に落としてしまう。


「まあ、そう怯えないで」とネズミは言った。「毎日毎日、こう遅くまでお仕事するのもどうだろうって、私たち、話してたんですよ」


「なぜあんたたちネズミが人間の──」そう言って、私は激しく咳き込んだ。精神的ショックによる……アレルギー反応?……なにかだ。「わかった、あんたたち夜行性だから、遅くまで人間にいられちゃ迷惑なんでしょ? なにを企んで──」


「動物の勘ってやつで」ネズミは小さな手で鼻をこすって、いたいけにひげを震わせた。「あんまり働きすぎると、先生、病気になっちゃうんじゃないかって、ずっと心配してて。それで……轡水先生。いつも窓の外の、ペーン・ショッピングモールのこと、見てるじゃないですか」


「あれだけ派手な明かり振りまいてると、つい見てしまうというか……。オープンしたばかりで話題になってるし」


「この答案用紙の丸つけ、私たちがやっときますんで」ネズミはいつの間にか、私のやりかけの仕事の上に移動し、白いプリントに影を落としていた。


 床からまたささやかな音がして、ネズミが三匹増えた。そして煙のような怪しい光のようなぐるぐるしたものが立ちのぼり、地味なオフィスルック姿の若い男が三人現れた。


「おーい、おいおいおい……」


「私の兄弟たちです」デスク上のネズミが言った。「こいつらに先生の仕事をやらせます」


「なんで?」と私は訊いた。


「キャッチ&ソリューション!」とネズミが答える。「この言葉の意気込みには励まされる思いです。その昔──といっても、太古の昔ですよ?──困ったら天を仰げ、という言葉が流行しましたが、祈れば雨が降ってくる、といったご都合主義的なレスポンスにはしらけちゃうのが現代でしょ? ただ、庶民が求めることを企業も求めるのだという姿勢は──」


 私はふるふると首を振った。なんなんだ、この演説するネズミは。


「とにかく」とネズミは語を継ぐ。「『あとは小人さんたちがやってくれる』の中に潜む願いと悲しさのことはよーくわかっているつもりなんですよ。だから、私たちが先生の仕事を片づけている間に、ちょっと車を飛ばしてペーンで羽を伸ばしてきては? ほら、速水はやみ先生がこの前おっしゃってたじゃないですか。ペーンも夜行けば、それほど混雑はしてないって。お惣菜とかに『2割引』のシールも貼られているかもですよ?」



   ◇◇◇



 ヴェランダで星を眺めて、それでもなにも報われなければなにも変わりはしない未来を見ているようなものだった。しかし、ペーン・ショッピングモールのネオンだけは、私にも近づくことが許されたらしい。

 

「開店してすぐは人が多くて近づけないでしょう? しばらく経ってみんなが飽きたころに行きますよ」


 ペーンの話題になるとそう答えていた。元々、タイミングよく時流に乗るとか流行を追うタチじゃない。だからこそ、GoogleフォームじゃないんだしSEの元夫にも逃げられたんだし、それをやったところで私のことを感謝する生徒は一人も生まれないのに補習させるのはかわいそうだからと三十七点の生徒もなんとか六十点以上にできないかと四苦八苦して残業ばかりしているわけだけれども──。


 私は走行距離が十二万キロのアクアを駆って、ペーン・ショッピングモールへ向かった。

 ネズミは言った。「ペーンは二十一時が閉店です。十分前に『蛍の光』が流れますから、それを聴いたらすぐに戻ってきてください」──そして、人間の姿ですでにデスクに着いていそいそと赤ペンを走らせている兄弟たちを指した。「こいつらも一時間しか働かせられないんで。ネズミ界も労基ろうきとか、結構厳しくなってるんですよ」


 二十時を過ぎていたが、駐車場の空きスペースを探すのに苦労した。店内も夏休みとあってあちこちに子どもの姿があった。生徒と会うかも……と身を縮こまらせかけたが、思えば、なにも悪いことはしていない。


 むしろ、労あって益なしの残業から開放されたということで、気持ちがぐんぐん軽くなり、眩しいばかりのフロアを踊るように歩き回った。


 ああ、新しい店舗って、どうしてこうも輝かしいんだろ。見るものすべてが、なんかいいのよ。店員がやる気あるからこっちも充実しちゃう。都会にしかないお店もあるんだって言ってたな。若者たちしか発音できないような名前の店も。人々がペーン・ショッピングモールに飽きる日が来るとは到底思えない。よかった、今夜来といて──。

 

 ドリンク販売店に並んで買ったほうれん草スムージーのカップを片手にたい焼き屋さんが後片づけしている様子をぼんやり眺めていたら、突然降って湧いた、あのメロディー。


「はっ、これって……」そう、蛍の光!


 ああ、短い夢の国だった。学校に帰らなきゃ……果てしなく嫌。でもネズミたちに残業させるわけには。


 私は出口を探し求めて、はたと気づく。そういや、駐車場の空きは地上に見当たらなくて、二階に停めたんだった。私は急いでエスカレーターへ向かうと、同じく向かっていた親子連れを躱して、我先と乗り込んだ。




 ふー、いてててて。恥ずかしげもなく転んじゃった。


 学校へ戻った。ネズミたちはいなくなっていた。デスクの三十枚の答案用紙を恐る恐る手に取る。すべて仕上がっていた。ちゃんと第九問・第十問で点数が調整されている! 細かな赤い文字がびっしり。ほんとにこれ、ネズミが書いたんか? 私の筆跡じゃん。

 私はキャビネットの隙き間へ視線を送って、帰り間際に手に入れたおつまみ用のチーズをネズミたちにあげようと思った。しかし、包装シールを半分剥がして、気づく。


 あ、これ、〈チリパウダー入り〉? ビールによく合います……いやいや、ネズミはビールは飲まないから。急いでたからよく見なかったんだ。しまったな。仕事やってもらって罰ゲームはちょっとね。


 私はネズミたちへのお土産を諦めて、デスクに戻った。また今度、別の物を手に入れたときに。




 翌日もその翌日も一人居残りしていた。

「あー、Wordの表がまたおかしくなった。なーんでこうなるかな。一太郎よ、カムバック!」


 顔をあげると、光沢あるグレーのタキシードを着こなした中年男性が大判プリンターの真横に立っていた。


「ほぅわ! あ、あなた、どっから入ってきたんですか⁉︎」


 私は振り向いてキャビネットの隅を凝視する。ネズミのやつが報酬(チーズ)もらいに来たか?


「私は、ペーン・ショッピングモールと申します」と、紳士を気取った男はぺこりと頭を下げた。


「…………」


「お客様、先日当店にお越しになられたときに、こちらをお忘れになりませんでしたか?」


 男が近づいてきて、差しだした手の中に、私のオフィスサンダルがあった。私は椅子から腰をあげるとそのぼろサンダルをすばやく回収した。


「こーんな汚い物を手で触らないでください。ほら、拭いて(ウェットティッシュを渡す)。すみませーん、年甲斐もなくエスカレーターを二段飛ばしで駆けのぼって派手に転んじゃってですねー、あははは、わざわざどうも……」


「それから、こちらはご来店記念ということで……」男はデスクに手をおろし、クローシュをそっとどけるように手をあげた。おつまみ用チーズが現れた。


 トップシールに〈プレーン〉と書かれてある。


「あ、ども……」


 そんなやりとりの後、男の姿は消えてなくなっていた。


「ショッピングモールさん?」


 立ちあがり、職員室を出て廊下や非常階段へ走ったものの、謎の紳士は影も形も。品のある人は長居をしない、とはよく言うけれど……。


 深い海のような色の廊下を外灯が照らし、細く長い影が斜めに数本、伸びている。「足長おじさん!」とか叫んでみたかった。そんなことをせずとも、もう十分でしょう、という気はしているが。

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