第9話 不和と暗合
――あれ、鍜治君? 帰ってたと?
家のあるブロックまで差し掛かったタイミング。後ろから不意に声を掛けられた。どこか聞き覚えのあるその声に振り向くと――小柄ながら凹凸のはっきりした体に、黒目がちのくるくるした眼が印象的な、若い女性がいた。
彼女の名前はすぐに思い出された。
「……あれ。松田……さん?」
「うんうん、ひっさしぶりー!」
中学の時のクラスメート、松田仁美だった。当時僕が密かに好きだった別の女の子といつもつるんでいて、時折少し邪魔にさえ思えたこともあったが――実際のところはごくさばさばして気のいい、話しやすい奴だった。社会性が高く、行事やクラブ活動でも、常に中心になってみんなを引っ張っていた。
「おおー、前の同窓会以来だったかな?」
高校卒業時にみんなで集まった、今のところ最初で最後の同窓会を思い出す。
高校での三年間は皆それぞれに成長やなにがしかの開花をもたらしていたようで、未成年ゆえ酒こそ入っていなかったが大いに盛り上がったものだ。
松田仁美は特に男子から再認識されて、人気を集めていた――
「……今日はどうしたん?」
「ああ、うん。あたし今、夏休みなんだけど……ここんとこ母が調子悪かもんで、自治会の当番とかを代わりにやっとってねー」
仁美はそう言いながら、小脇に抱えていたクリップ式の
「これ、回覧板。ちょうどあんたん
片目でウインクしながら、いたずらっぽく顔の前で両掌を合わせて拝むようなしぐさをする。なるほど、僕に遭ったことで、玄関での長くなりそうな立ち話を回避できるというわけか。
「わかったわかった。あ、俺多分夏休み一杯こっち
言いながら、ついつい彼女の胸元に引き寄せられる自分の目に、軽い自己嫌悪を覚えた。
「ほんと? 助かるー、父さん長期出張中だし、あたし免許まだだし」
「そっか。 ……ところで署名って、なんの?」
ふと気になって聞いてみる。前の自治会長を務めていた元市議さんの意向というか深慮で、ここ恒ヶ丘二丁目の自治会では、あまり政治向きの署名などには関与しないことになっていたはずなのだが。
「ああ。あのね、震災で修理できないまま空き家になってる家、この近所にも多かたい? 15班の坂本さんとこもそうなんだけど……なんか変な宗教団体が買い取ろうとしてるって話で。なんかほら、世間で色々物騒な事件とかもあったけん、不安がる声が多いみたい」
「うへぇ……」
阿蘇に拠点を置いていた某宗教団体が、都内での毒ガステロで日本社会に衝撃を与えたのは、僕らが生まれるより少し前の事だ。親たちの世代にとっては強烈な記憶で、みな未だにその手の話には強い警戒感を示す。
そりゃあ、向こう三軒両隣の距離にそんなものの拠点が出来るかもとなれば、署名の一つや二つは廻って当たり前だが――はて、もしかして。
「えっと、その宗教団体ってあれか? 変な白法被と雨合羽で、ノボリ旗立てて練り歩いてる奴だったり?」
「あ、そうそう! 鍜治くんも見たことあっと? なんかもう、教義がどうこうのより、見とるばかりで暑苦しくて、あれば我慢しとってだけ気色悪かよねぇ……」
「うん、今も藤宮さんとこの火事現場でさ、敷地に入ろうとして、あそこの息子の誰かともめてたみたいだったけど……ん、教義?」
教義がどうこう、という部分に言及するということは。
「松田さん、なんか知ってるの?」
そう探りを入れると、彼女の表情に一瞬、何かひどく暗いものが漂った。
「うん、なんかね……小耳にはさんだ話だけど。空から『なんとか童子様』が下りてらっしゃるのをお迎えするだとか、童子様のご加護で死んでも生まれ変わるとか……解脱して天人に成れるとか」
「うわぁ、インチキくせぇ……! 仏教っぽい言葉使ってるけどそれ絶対違うわ」
「だよねえ……」
仏教や宗教史については僕だって齧った程度の知識しかない。だが、それでも「天人」がいわゆる六道の一つ、インド起源の「
つまり
僕は、ともかく松田仁美とスマホの電話番号、それにLINEを交換してその場を辞した。
家に入り、回覧板を玄関に置いて買い物袋と財布を母に渡す。
「あ、お帰り。重かったでしょ」
「どうってことないけど……ナスはダメだったよ、買ってない」
「ああ、そう。しょうがないなあ、この暑さだものね」
母のねぎらいを背中に聞き流しながら、そのまま二階の自室に上がる。
放送局ごとに仕分けして件のウイスキー箱に収納してあった、ベリカードの束をもう一度引っ張り出した。
(もしかしてもしかすると……こりゃ本気で何かおかしなことが起きてるのかも……)
仏教系を装う、ことによるとドイツ起源の宗教団体。ミイラと焼死体、二つの遺体が発見された藤宮幸一氏の野菜無人販売所。ラジオから漏れ聞こえた、あり得ないはずの伯父の声――結びつきそうにもないが、奇妙なことが集中しすぎている気がする。
もしや、伯父がこのラジオとベリカードを僕によこしたのは、単なる形見とかではなく。なにか、隠されたメッセージがあるのではないか――そんな突拍子もない考えが頭に渦巻いている。
改めてベリカードを手繰り、問題のドイツの放送局、「Celestial Flower Broadcasting」のものをしげしげと凝視する。すると、昨晩は気づかなかったのだが、その十数枚のカードには、いずれも何やら手描きの数字が、赤鉛筆で薄く記されていた。
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