第5話 火事
熊本のドライバーは総じて運転マナーが悪い。
右折レーンのない場所でたった一台の車が右折のために停車待機していたとしても、「直進優先」をタテに目もくれずにそのまま進む。
ごくまれに、右折車を認めると自分が停車して車の流れを止めてくれるドライバーもいるのだが、ひどいのになると、そうやってたった一台を通しその後の車の流れをスムーズにしようとしている運転者に対して、後ろから狂ったようにクラクションを連打する始末だ。
埴山からの帰り道は最短距離なら高速道路のトンネルをくぐった後、側道沿いに実家のある住宅地へ向かうコースになるのだが、それだと最後に信号機もない場所で右折を試みることになる。僕はそれを避けて、トンネルを出たあと一つ南側の表通りを東へ直進していた。
不意に、エアコンの冷風に異臭が混じった。
「――うわっ、何だこれ」
いがらっぽい煙の臭い。焼き魚かスルメのような生臭さと、ビニールを燃やすような刺激臭が入り混じっている。激しく咳き込みながら、あわててエアコンを「内気循環」に切り替えた。
これ以上入ってくることはなくなったが、咳がなかなか止まらない。前方でブレーキランプが点灯するのを見て、僕も車のスピードを落としてブレーキングに備えた。
後ろから緊急車両のサイレンが響いてくる。二車線の道路に長々と伸びていた車列は、その接近に合わせて蛇が身をよじるようにもぞもぞと進行方向左側へ動いて道を空けていった。
僕が家へ向かうためには、もう少し先で左折しなければならない。車線に戻り消防車のあとを追うように前へ進んでいくと、道路の南側対岸に煙を噴き上げる現場が見えた。
「ありゃ。藤宮さんとこじゃないか?!」
この辺りの農家だった家が息子三人で土地を分配した結果、唯一農業を続けた息子がこの場所で小さな畑と野菜の販売所を営んでいた――その場所だった。
「参ったな……」
親交があったわけではない。だが中学のころから見慣れていた風景が一つ、唐突に目の前で消えたのだ。
呆然としながら左折しかけたとき、道路のこちら側で魂が抜けたような表情でしゃがみ込んでいる三人ばかりの男たちが見えた――彼らは一様に、巡礼者風の白法被の上に半透明のビニール雨合羽を羽織っていた。
「お帰り。表通りでなんかあったみたいだけど、あんた見た?」
家に帰ると、母がサイレンについて尋ねて来た。ここまで聞こえていたらしい。
「スーパーの北側のさ、野菜販売所が燃えてた」
「あら、やだ……」
母はそういうと暗い表情になった。
「あそこねえ、藤宮さんの一番上の息子さんがずっと寝泊まりしてたって話なのよね」
「マジか……」
こっちもさらに暗澹とした気持ちになった。
粗末な柵で囲っただけの地所の中に農機具やトラクター、水タンクといったものが雑多に積み上げられ、野良だか飼い猫だかよくわからない猫の親子が出入りしていた。
そんな妙な場所だったが畑は見事なもので、季節ごとに実に多彩な野菜がすくすくと伸びてしげり、実っていた。
夏にはオクラが夢幻のような白い大輪の花を咲かせ、トマトが丸々とはち切れそうな赤い実を輝かせた。春先にはキャベツが青々と葉を広げていた。
残り二人の息子は相続した土地で、自動車整備工場だの酒屋だのを経営していたのを知っている。
猫の出入りも相まって、なんとなく「長靴をはいた猫」の末息子を連想したりしたが――童話と違って現実はいかにも因果が巡らず、混沌として残酷だと思われた。
* * * * *
食事の間は特に火事について過度に言及することもなく、僕は運転疲れを配慮して後片付けを放免され、二階の自室に上がった。
机の上に伯父のラジオとウイスキーの箱を置く。箱に掛けられた紐をほどくと、中身が詰まっているのか蓋が少し押し上げられた――伯父の意志がその下からはい出してくるかのようなイメージを喚起されて、少しだけ背筋がぞくっと粟立つ。
莫迦な。中身はただの紙切れだ。
らちもない妄想を振り払うように蓋を取った。一番上に黄ばんだ紙のマニュアル。表紙には飛行機のコクピットめいた、計器パネルのモノクロ画像が印刷されている。
その下に、膨大な数のカード類があった。大きさも施された印刷、レイアウトなどもまちまちだが、いずれも周波数や電波出力らしい数値が紙面に記載されている。香苗はよく知らないようだったが僕はこれがベリカード、つまりVerificationCard(受信確認証)と呼ばれるものであることを、伯父から聞いて知っていた――というか、おぼろげに覚えていた。
ちょうどトランプのカードを配るような塩梅で、僕はそれらのカードをなんとなく発行元ごとに分けて整理し始めた。
「78年とか、ずいぶん古いものまであるんだな……」
古いものはもっぱら国内の放送局だが、年代が下ると海外のものが増えた。伯父が語学力をつけて様々な国へ積極的に受信報告を送ったのだろう
伯父や父が少年だった時代には内外のラジオ放送を聴取することが趣味として流行していた。これを「Broadcast Listening」の頭文字をとって「BCL」という。 今日持ち帰ったラジオ、スカイセンサーは、その当時ソニーが発売した、BCL用の高性能ラジオだ。
受信した際に、放送局のコールサイン、日時、受信者の所在地、受信環境やアンテナの仕様、といったデータを添えて受信報告を送ると、放送局側はそうした有用な技術データを提供してもらった礼として、趣向を凝らした受信確認カードを送付してくれる、という仕組みだったらしい。
伯父のような少年たちは、このベリカードを収集することを、ちょうど切手や蝶の標本を収集するのと同様に、趣味として楽しんでいたというわけだ。
ベリカードの送付元はさまざまだった。
BBCやラジオ・オーストラリアといった英語圏のものがあるかと思えば、北京放送、モスクワ放送、平壌放送など、冷戦時代の共産圏の放送局のものもある。
タワーブリッジのペン画やカンガルーの写真といった、国ごとの特色やお国柄を反映したものが多く、見ていて飽きない。
そうした中に、何枚か、とりわけ目を引く風変わりなデザインのものがあった。
五弁の花びらを持つ花から、稲妻を抽象化したとがったS字が五方向に出ているような形。そんな平面構成の図案が、鮮やかなインディ・ブルーの紙に銀か、若しくはアルミの箔押して施されたものだ。
「Celestial Flower Broadcasting ……天の花放送、とでも訳したもんかな?」
局名は英語だが、下段の方に記されている文章はドイツ語のようだ。裏面に印刷されたパステルカラーの雲や天使、十字架といったモチーフからすると、それはどうも何らかの宗教コミュニティが運営するローカルな放送であるらしかった。団体名らしき箇所には、AugenReiten religiöse Körperschaft とあった――
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