夏期講座の怪人

鳥尾巻

うわさ

 その噂を聞いたのは、7月の終わり頃。

 僕の通う美大は夏休みでも図書館や実技室の一部は開放されていて、構内にはまだ学生の姿が見える。


「すげぇんだって」

「何が?」


 僕は食堂の隅で同じ建築学科の早乙女の話を聞き流していた。好きな建築の本を読んでいたからだ。

 彼ときたら派手な青髪でイキっているくせに噂好きのオバちゃんみたいだ。美大といえど他の科に比べて地味な学生の多い建築学科では浮いてる。


怪人ファントムだよ」

「中高生の悪戯だろ?」


 噂は実技室や講義室の黒板に残された絵の描き手。チョークの絵だからすぐに消されてしまうのだけど。

 夏休みは一般講座やデッサン講習も開かれてるから、その中の誰かの悪戯じゃない?


「あんなのガキに描けるかよ。一回見てみろって」


 そう言って早乙女が見せてきたのは目撃者が撮ったと思われる画像。

 ボッティチェリ、ゴッホ、モネ、フェルメール、若冲や北斎、広重などの浮世絵まである。

 誰もが一度は目にしたことのある名画が、チョークと黒板の色を活かした陰影だけで見事に再現されている。僕は思わず身を乗り出した。


「すごい」

「だろ?特に害もないから学校側も事件にはしてないみたいだけど、学生の悪戯にしても手が込んでるよな」


 次にどの教室に現れるか追う奴もいる。バンクシー気取りの愉快犯?誰が言ったか「夏期講座の怪人」の噂は夏の間ずっと学内を賑わせていた。


 そして僕はその犯人に思わぬところで遭遇することとなる。




 その日は教授の資料整理の手伝いをしていて遅くなってしまった。近道のため絵画東棟の近くを歩いていると、誰もいないはずの一階デッサン室の中に人影が見えた。


 もしかしたら怪人?僕は好奇心でドキドキしながら外廊下の方から中に忍び込んだ。

 夕闇が迫る薄暗い部屋に置かれた石膏像やイーゼルの間に紛れて前方に目を凝らす。


 その人物は一心不乱にチョークで線を描いていた。斜めに差し込む濃い橙色の光に照らされたそれは、クリムトの「接吻」。


 影でよく見えないが描き手の背は低い。やっぱり中学生?僕はもっとよく見ようと身を乗り出した。その拍子にイーゼルの脚に爪先を引っ掛けてしまい、派手な音を立ててしまった。


「誰!?」


 声は細く頼りなく震えていた。女の子だ。振り返った彼女の表情は見えない。そっと近づいてみれば、身を竦めて固まっている。横に逃げればいいのに。

 僕は安心させるようにゆっくり声をかけた。


「大丈夫、誰にも言わないよ」

「……ほんと?」


 白いチョークを握り締めた小さな手。マスクに隠れた口元。乱れた長い前髪の間から大きな目が潤んで僕を見上げる。怯えているのに強い光を灯した瞳の輝きに一瞬ドキリとする。

 粉で汚れたその服は……どう見ても、大学専属の清掃業者の制服だった。僕は驚きを隠して、目の前の絵画を見上げる。


「これ、君が描いたの?」

「……うん」

「すごいね。ここの学生?……じゃないね」

「ごめんなさい」

「謝らなくていいよ。僕ただの学生だし」


 僕が笑うと、彼女はようやく安心したように肩の力を抜いた。


「僕はやなぎ 和仁かずと。きみは?」

「……マヤ」


 小柄に見えるが同い年だという彼女は、僕の質問にぽつりぽつりと答えてくれた。昔から絵が好きで、ここの無料公開講座に参加したのがきっかけで、描く魅力に憑りつかれたのだそうだ。

 

「私親もいないし、払える学費もないの。働きながら無料の講座に通うのが精いっぱい。ここの職員になればどの講座も無料なのよ」


 マスクを外したマヤは「画材を買う余裕もない」と寂しそうに笑った。昼は清掃の仕事、夜は絵の勉強、時々描きたい欲求に抗えなくて、仕事終わりに空き教室で絵を描いていたら、噂になってしまっていた、と。


 でもこれはすごい才能だ。チョークでここまで描けるなら、本物の画材を使って描いた彼女の絵はどんなものだろう。


「僕みたいなのが言っても無責任に聞こえるかもしれないけど……君の描いた絵が見たいな」

「ほんと、無責任ね。貧乏だから仕事しないと生きていけないの」

「……でも、好きな道を選べるとしたら、何がしたい?何になりたい?」


 マヤは僕の質問に答えなかった。

 

 薄い唇を微笑みの形に引き上げて、チョークで汚れた両手を打ち合わせる。白い粉が斜めに差し込む陽光の中、妖精の粉のように舞い上がる。

 もしここが魔法が使える世界なら、今のできっと彼女の願いは叶えられたのかもしれない。

 そんな幻想を抱くほど、交わしている会話も彼女の存在も現実味がなくて、まるで夢の中にいるみたいだ。


「君に見つかったから、もうやめる」

「え、もったいない」

「描くのはやめないよ」


 鮮やかな笑顔に見惚れる。彼女は身を翻すと、ほうける僕を残して立ち去った。その日を境に学内を騒がせた怪人ファントムは、最初から幻だったように姿を消した。


 数ヶ月後。

 あのほんの一瞬の出会いを忘れられずに過ごした僕の目の前に、新入生として彼女が現れる。


「よろしくね。柳先輩」


 彼女はあの日僕が見惚れた笑顔で鮮やかに笑った。

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