【短編】灯は零れ落ちた闇と煌めきの声

さんがつ

【短編】灯は零れ落ちた闇と煌めきの声

精霊の森と呼ばれる深い森を一人の少女が歩いていた。

やがて林の向こうから、高い場所から何かが落ちたような音が聞こえ、彼女の足に地の響きが伝わった。


この音と響きは、「生きているもの」が地に落ちた音だと、少女は知った。


(熊?…ちがう、もっと小さい、何か…)


彼女のに人間の唸るような声が届く。


(これは迷い人が落ちた?確認しないと…)


急いで音の発生場所に向かう少女。

そんな彼女のに小さきものの、慌てる声が届く。


「人間、落ちた」

「人間、足が変」


小さきものの、小さな声に導かれるように、長い耳の少女は足早に駆ける。

少女は新雪のように白く輝く髪をフワフワとなびかせて、林の中を迷うことなく、真っすぐに目的地である崖の下へと向かった。


少し開けた崖の下。

そこに居たのは横になっている人間の男。

少女が近づくと、男の域は浅く意識は朦朧としており、天を向いて倒れているが、右足があらぬ方へ向いているのが見えた。


(崖から落ちて、足が折れた)


眼前にそびえる崖を見れば、まだ息があるのが奇跡に思えた。

男の傍にかがみ、視線を顔の方へ向けると、少し長めのボサボサの黒い髪の隙間から、赤い血が見えた。


(頭を打った?)


ハァハァと浅い息を繰り返す男。よく見れば先ほどから覚醒と気絶を繰り返しているようだ。

暫くすると男の様子を観察する少女の長い耳に、男の上着の中でクシャリと紙がつぶれた音が届いた。


(後悔の音?無念の音?)


少女の長い耳が男の念を拾うと、続けられた彼の願が鮮明に聞こえる。


『まだ手紙を渡していない。それまでは死ねない』

「……」


やがて男が大きく息を吐くと、そのまま意識を失ってしまった。

このままでは彼は死に逝くのみだ。

ならば…と。

少女はその場で踵を返すと、近くの沢に向かい布を水に浸す。

背負っていた荷物の中から、節の水筒に水を入れ蓋をする。

そして近くに自生している薬草を見繕って、袋の中へしまい込んだ。


「これで良い」


そう言って少女は男の元へと戻って行った。




*****




男の傍に戻った少女は、意識の無い男の世話を始めた。


「良くなれ」と言っては、男の腹に手を当てた。

「良くなれ」と言っては、男の首の汗を拭った。


一晩中、少女の献身は続いた。

そんな健気な姿に神は男の願いを聞き入れてくれたらしい。

翌日の朝、男の怪我は、もう命を奪うものでは無くなっていた。




*****




小鳥のさえずりで目覚めた男は、視力の定まらぬの目で周囲を見回しながら、自由ではない左足をさわった。

崖から落ちた時の右足の怪我が治っているのを認めると、自分は崖から落ちて死んでしまったので、身体が動くようになったのだと勘違いを起こした。


「さて…どうしたものか」


男は思案にくれたが、そんな悩みも腹のなる音で途切れた。


「人は死んでも腹が減るし水も飲みたいのか…」


男は死後の世界が、生の世界とさほど変わらない事に苦笑いを浮かべ、腹のなる音を聞いていた。

そんな男の耳に、聞きなれない声が聞こえて来た。


「死ぬない」


果物を採りに行った少女が男の元に戻ると、男の意識が回復しており、上半身を起こして、自分の体をペタペタと触りながら、妙な事を呟いていた。

そんな男の言動がおかしく、少女はつい声をかけてしまったのである。


少女の声に驚いた男が、声の主の姿を認めると、また妙な事を呟いた。


「天使…の迎えが来たのだろうか?」


テンシ…?とは?

視線を定めるように、目を細めた男。

少女はゆっくりと近づきながら、先ほど発した男の言葉を否定した。


「テンシない」


やがて近づいた人影が、見目麗しい少女の姿だと知った男が、驚きで息を飲むと、再び男は妙な事を呟いた。


「美しい…。天使のようだが、羽は無いのか?…」


まじまじと自分を見つめ、妙に感心したり納得したりする男の言動に、少女は髪をかき上げ、笑みを携えながら否定の言葉を口にした。


「ハネ?ない」

「まさか、エルフ…なのか?」

「人間は、おもしろい」


先ほどから人間の男は驚いてばかりだ。

エルフの少女はそんな男の様子を見つめると、彼の足の怪我が良くなっている事に安堵した。


「あぁ、足は治った…のかな?それとも私は死んだのだろうか?」


(人間の男は面白い。驚いたり、驚いたり、また驚いたり、また驚いたり)


そんな面白い人間の男の為に採ってきた果物を渡すと、受け取った男の腹が「ギュルル」と音を立てた。


「アハハ」


(人間は忙しい!忙しくて腹がなる!)


エルフの少女は、礼を言いながら果物を頬張る面白い人間の男を、面白そうに眺めていた。




*****



人間の男とエルフの少女は、お互いの意思の疎通に苦労はしたが、彼が古代文学の学者だった事が幸いし、暫く話を続けると会話が成立し始めた。


「ここは天国では無い?」

「人間は面白い。ここ、人間の精霊の森、言う」

「君はエルフ…で良いのかな?」

「人間は言う、そう」


人間の男は、自分は崖から落ちた時に死んでしまい、天の国に召されたのだと勘違いを起こした事を告げた。

そんな突拍子もない話をエルフの少女は面白がって聞いていたが、彼が少女の献身に盛大なお礼を告げると、彼の身体から聞いた事のない澄んだ音が聞こえ、エルフの少女の全身を駆け抜けた。


「命を救ってくれた事、感謝する。ありがとう」


それは男の純粋な感謝の思いの音色だった。

エルフの少女はその音の余韻の甘さに満足そうな笑みを湛えた。




*****




エルフの少女が看病を続けていると、男の具合が随分と良くなった。

少女はここまで回復すれば、彼の無念が晴らせると思い、彼に森から出るのかを問うた。けれど人間の男は心を乱すばかりで何も答えない。


エルフの少女は彼の心に、焦りの音色があるのを聞き分けると、彼の未練が手紙以外にもある事を知った。

ならばもう少し面倒をみてやっても構わない。

エルフの少女はそう判断し、暫く一緒に過ごす事を提案した。


こうしてエルフの少女は、人間の男に自身の生業の手伝いを提案した。

少女の提案を聞いた男は勢いよく肯定の返事を寄こした。

男の晴れやかな顔を見た少女は、彼の中の焦りが喜びに変わった事を知り、同時に安堵もした。


(あぁ、人間は、忙しくて、忙しくて、やっぱり面白い)


エルフの少女は可笑しくなって、いつものように満面の笑を湛えた。




*****




人間の男が崖から落ちた日から約半年ほど過ぎた。

エルフの少女は、歩けるようになった彼を伴い、以前と同じように忘れられた古い祭壇の手入れをしながら森の中を旅していた。


半年も共に過ごせば、人間の男にも情が湧いてくる。彼は自分の名前をフォーランドと名乗った。

名を聞かれたエルフの少女は自分の事を「ナナイ」だと告げた。

フォーランドは彼女の名前を「ナナイ」だと思ったが、実はそうでは無い。

彼女は単に「名、無い」と告げただけだった。


それでも嬉しそうに「ナナイ」と自分に呼びかける男の様子が面白くて、ナナイはそのまま彼にそう呼ばせた。

一方のナナイと言えば、フォーランドの長い名前をどうしても声に出す事が出来ず、フォーランドの事を「フォー」と呼んだ。


ナナイとフォー。

お互いにそれは相性のような呼び名だったが、口にしてそう呼べば妙にしっくりと来た。

だから彼らはお互いにそれを名前をとして呼び合った。




*****




ナナイは、年頃になると村から出された。

そこから森や山の中で生を繋ぎ、小さきものの小さな声を拾って、捨てられたかつての祭壇や社の手入れをして過ごして来た。


そんな彼女の生業いに、今まで外で待つだけだったフォーランドが付いて来るようになった。

やがてそれが自然な事となり、一緒に過ごす時間も多くなった。

とは言え、ただの人間のフォーランドが祭壇や社に触れるのは憚られる。

フォーランドはナナイの傍で彼女の様子をただ見るだけだったが、彼は古代文学の学者だったので、ナナイが何をしても何もしなくても物珍しく、目にするもの全てに興味が向いて、何かを見つける度にいちいち驚いた。


いままで孤独に生きて来たナナイである。

賑やかなフォーランドの言動に、人間の生業は驚く事だと、面白がって楽しんでいた。


暫く一緒に旅を続けているとフォーランドはナナイに年齢を問うた。

ナナイはその質問に対し暫く思案をしたが、数えた新月の数から自分が生まれて60年程経った事を伝えた。


「ナナイが60歳だって???」


そう言われても、自分の年齢なんて本当は分からない。

ただ短に村を出てから60年は経っている事を伝えたつもりである。

フォーランドが驚いたのは、ナナイは10代後半の少女だと思っていたら、自分の母親より年上だったからだ。

相変わらずフォーランドはよく驚くし面白い。

ナナイは可笑しくて、いつものように満面の笑みを湛えてフォーランドを見ていた。


そしてナナイはふと気が付いた。

フォーランドは人間だ。もしかすれば、エルフの大人のような姿をしているが、実はまだ子どもかも知れない。

ナナイは抱いた疑問をフォーランドにぶつけると、案の定、フォーランドはまだ37歳らしく、やはり彼はまだ子供なのだと合点がいった。


「まだ子供」

「はぁ~。エルフと人の時間の流れ方が違うのは、本当なんだね~」


フォーランドの項垂れる様子が微笑ましく、ナナイは自分が彼よりも随分大人な存在なのだと、得意になっていい気分だった。

それにフォーランドがまだ子供だと思うと、彼が食物を沢山食べる事にも合点がいった。きっと彼は成長期の子供で、沢山の食物が必要なのだ。


そう言えば人間の供物は見た事のない物や、獣や魚が備えてあり、フォーランドはそれらを食していた。彼が子供ならそれでは足りないかも知れない。

ナナイは自身の神に彼の食物が足りない事を伝えた。


そんなナナイの願いが届いたのだろう。

その日から怪我をして助からない兎を見つけたり、親に置かれた飛べない鳥を見つけたりした。

ナナイは彼らに「あなたの命を人間に分けてくれないか?」と頼んだ。

彼らは迷うことなく「逝くのが少し早くなるだけで、罪にならないのであれば、神の遣いに従いましょう」と言って、魂の抜けた体を差し出してくれた。


ナナイは抜けた彼らの魂に感謝の意を伝えると、抜け殻になった体をフォーランドに与えた。フォーランドもナナイの祈りを真似て、感謝を述べるとそれを口にし、命の亡骸を頂いた。


ナナイと共に過ごすうちに、フォーランドはあまり肉や魚を好まなくなった。

ナナイは子供だから食べるように勧めたが、フォーランドは自分の体はもう大人の体なのだと何度も告げた。

そうなると、フォーランドが色々な食物を取るのは、彼が成長期だからでは無く人間だからなのだと、改めて気付かされた。

そう言えば人間は弱い生き物だ。だから沢山の生き物に支えて貰わないと生きていけないのだ。


人間が多くの命の上にあるのは、神によってそう造られたから。

ナナイは改めて生ある物の生き方の違いに感心した。

そうなると人間は他の生き物と随分と違うように見える。

特別に面白い生き物かも知れないと、フォーランドの食べる姿を見てまた感心した。


「人間は弱い。生きる為、沢山の命が要る。人間は本当に面白い」


食事の度にナナイはそう声に出して、満足そうに笑みを湛えていた。




*****




フォーランドと過ごす時間が増えるにつれ、ナナイは今まで多くの時間を一人で居た事に気が付いた。

そして二人で過ごす時間が、一人で過ごした時間と大きく違う事も感じていた。


フォーランドが傍に居る。

ただそれだけの事で時間はゆるりと流れ、空気に甘さと重さが加わり、妙に心地が良い。誰かと一緒に過ごす事で、こんなに大きく自分をまとう空気が変わるものだと、その変化を不思議にも思っていた。


今までの事を振り返れば、ナナイは村に居た時も森に居た時も、ずっと一人だった。

だから村の中に居ても、森の中に居ても何も変わらなかった。

つまりナナイはフォーランドと出会うまで、空気に重さがある事を知らなかったのだ。

そして独りの時の軽やかな空気を思い出せば、本当に今まで自分の傍には誰も居なかったのだと痛感し、昔の自分を憐れむような思いも抱いた。


ナナイが空気の密度を感じるようになると、その重さが日を重ねるごとに愛おしく感じ、気が付けば寝る前に重さを抱きしめる事が日課となっていた。

そんな毎日を過ごすうちに、フォーランドも元の人間の暮らしに帰りたいのでは無いかと考えるようになった。


ナナイはフォーランドと出会う前の一人の時間と、今の時間との違いを知ったがゆえにフォーランドの思いを案じたのである。

きっと多くの人間の中で暮らしていたフォーランドは、もっと重くて甘い空気の中にいたのでは無いか…。だとすれば、フォーランドは人の世に戻った方が良い…。

だからナナイはフォーランドにこの森に来たきっかけと、心残りを解決してやろうと意を決して彼に問うた。


「フォー、なんで森来た?」

「え?」

「ケガした森」

「…」


フォーランドは、以前に問いかけた時と同じように戸惑いを見せた。

けれど腹積もりを決めたのであろう。小さく「うん」と頷くと、擦り切れが多くなった上着のポケットから小さな手帳を取り出した。


フォーランドは、ナナイに手帳の中身を見せ、書かれている内容を説明した。

そしてあるページにたどり着くと、書の一文をナナイに見せ、これが理由だと言った。


『何故、神の遣わしたエルフと人が交わる事が出来るのか?』


フォーランドはこの手記主の疑問を見つけた時、自分も同じ疑問を持ったのだとナナイに告げた。

ナナイの答えを待つように、神妙な面持ちで構えるフォーランド。

ナナイはこんな簡単な答えが分からないのかと、フォーランドには本当に面白いなと思った。


「人間は面白い」


得意になって言い切るナナイの言葉に、フォーランドは戸惑いを覚える。


「奇跡。番う奇跡、生まれる奇跡、死ぬ奇跡」


まるで子供に教える様に、ナナイはフォーランドに説明する。

そんなナナイの答えにフォーランドはまた驚いたのだろう。

ポカンとした表情を浮かべナナイの話を聞いていた。

けれどナナイがいつものように満面の笑を湛えると、フォーランドも合点がいったらしい。次第に大きな声で笑い出した。


「あはは、その通りだ!!あはは、ナナイ、君は最高だ!」


全く、フォーランドは、驚いたり、喜んだり、忙しい。

人間は忙しくて面白い!


「あはは、フォー、ソノトオリダ!!」


フォーランドの真似をしてナナイが答えると、そのはしゃぎっぷりにフォーランドは再び声を出して笑い出した。

笑い声が醸し出す甘い空気の中、ナナイとフォーランドは見るもの全てが妙に可笑しく、二人笑いながらその場に転げた。


やがて笑い疲れて二人が横に並ぶと、そのまま手足を広げて大の字となり、木々の揺れる音に耳を寄せた。

森の木々が風に揺れ、その音はかつて生まれる前に聞いた母なる海の波のよう。

耳に届くのは、空の響きと、心臓の音。そして息を吸う音と、吐く音。


「ナナイは姿だけでは無く性根も美しいのだな。そして君の見る世界も、きっと美しいのだろう」


フォーランドはゴロンと横向きになると、右ひじをついて頭を預け、少し見下ろすような形でナナイの顔を覗き見る。

フォーランドがいつもと違う角度でナナイを見たからだろう。

伸びた前髪が横に流れて、黒髪の隙間からフォーランドのこげ茶の柔らかな瞳にナナイが映っているのが見えた。


木々のざわめきの音と共に木漏れ日も揺れる。

日の光が揺れる度に、フォーランドのこげ茶の瞳に光が入り、瞳の中のナナイも煌めく。その何とも言えない眩しさに、ナナイは感嘆の声を漏らす。


「フォー、綺麗」


その言葉にフォーランドがハッと息を呑む。


「私はナナイとは違うよ」

「同じ」

「…」

「フォー、同じ」


何度も同じと繰り返すナナイの言葉に、フォーランドも答えた。


「…そうだね、一緒だね」


やがてフォーランドの顔がナナイに近づく。彼の唇がナナイの唇に触れると、ちゅっと、小さな音を立てて離れた。

初めて感じた柔らな熱。

嵐の前の静けさのような、凪いだフォーランドの瞳。


再びフォーランドの唇が触れると、フォーランドの心臓の音がナナイの耳に届いた。

それは今までよりも早く、力強い。

ナナイの体を巡る血もざわざわと騒ぎ出す。

甘く重くなる空気、心音が早くなる度に、空気の流れる速さが遅くなる。

その心地の良さが離れると、フォーランドは再びナナイの頬を撫でた。

ナナイはそれが返事だとばかりにいつものように満面の笑み返した。


三度、フォーランドの顔が近づく。

ついばむようなフォーランド唇がやがて強くなり、やがてナナイの中に熱がゆっくりと入って来た。


ぞわぞわと喉から熱が墜ちて、行き交うように喉の奥から心臓の音が聞こえる。

柔らかなそれがナナイの中をまさぐると、ナナイもそれに答える。

ナナイは知らなかった。

溶けあう自分とフォーランドの間にいつまで消えない境目があったなんて。


それは熱の境界線だった。

互いの境界の、その薄い狭間に、自分とフォーランドが生きている証明が詰まっているのだとナナイの中に墜ちて行った。


生きている。

私もフォーランドも生きている。

その命の熱を強く感じた瞬間、今まで見えていた景色が見えなくなって、いままで確かにあった境界線が溶けてしまいそうになった。

その心地よい感覚は、何故だかとても恐ろしく思えた。


自分もフォーランドも何もかもが溶けて世界と一つになる…。

その心地よくも、流される自我の恐怖に抗うかの如く、ナナイはフォーランドの肩にしがみつく。


―置いていかないで…。


その強い願いに答えるように、フォーランドはナナイを強く抱きしめてくれた。


その夜。

薪の揺れる灯りの中。荒く熱のある声が何度も「ナナイ」と呼ぶ。

朦朧とする闇の中、やがてその荒い熱がナナイの体の中を巡り唸る。


「愛してる」


フォーランドの掠れた声と熱が、ナナイの唇に何度も運ばれる。

陽炎の世界の中、過ぎ去る嵐の後、ナナイが汗ばむ黒い前髪をかき上げると、ナナイを映すこげ茶の瞳は、うっすらと涙を浮かべ、やはり煌めいていた。




*****




ナナイが煌めきを見たあの夜を超えて程なく。

ナナイは自分の身体が重くなっている事に戸惑いを覚えていた。

二人に旅で休む日があるとすれば、フォーランドの左足の痛みばかりだったのに、近頃はナナイの方が疲れやすく、フォーランドに休みを取りたいと申し出る事が多くなった。

そんなナナイにフォーランドはナナイが身ごもったのでは無いかと尋ねた。


そう言えば…。

ナナイが腹を触り確かめると、確かにナナイとは違う小さな鼓動が打つ音を聞いた。

まさか神が私にそれを認めてくれるのか?

大きな神の愛にナナイが呆然としていたら、フォーランドの「奇跡だ…」と言う声を聞いた。


そうか。これが奇跡…。

ナナイは初めて自身の為に下りた奇跡と、フォーランドの唖然とした顔の可笑しさに、何だか可笑しくて笑ってしまった。


その喜びの中、フォーランドは村に戻って子供を産み育てる事を提案した。

確かに旅の中で生み育てるより、村の庇護の元で産み育てる方が良い。

それにエルフに子が出来るのは稀であるから、彼らにとっても喜ばしい事のはずだ。


けれどナナイは、村のエルフ達が向ける「視線」の事を思い出していた。

…いや、大丈夫だ。

ナナイは考え直す。奇跡の赤ん坊ならきっと大丈夫だ。

そう考えを改め、フォーランドの提案を受ける事にした。




*****




身重のナナイを案じながら、村へ戻る日々を過ごすうちに、村に着くより先にナナイは赤ん坊を産んだ。

ナナイはこれもきっと神の計らいだと信じ神に感謝を捧げた。


「テンシだ…」


フォーランドが以前口にした言葉を何度も何度も言いながら、産まれたばかりの赤ん坊の頬を撫でている。

涙を流し、泣いて喜ぶさまを見たナナイは、やはりフォーランドは忙しくて面白いと、笑みを湛え二人の様子を眺めていた。


そしてナナイはフォーランドの言う「テンシ」の意味を知った。

まだ小さなその奇跡の命の事を、人間は「天使」と呼ぶのだ。

そう。この赤ん坊は神が私たちの元へと遣わした、天からの使いなのだ。




*****




赤ん坊が生まれて約2カ月程、移動を止めて近くの社で親子三人でゆっくりと過ごした。産後の動きが不十分なナナイを気遣って、フォーランドは不器用ながらも多くの果物を抱え帰って来るようになった。


出会った当初のフォーランドは、不自由な左足を少し引きずるように歩いていた。目も悪く、遠くのものがまるで見えない雰囲気だった。

けれど今では遠くに自生している果物を見つけては、木に上がり持ち帰って来る。

神の奇跡はフォーランドにも訪れていたのだ。

重なる奇跡の重さに、ナナイは何度も何度も神に感謝を伝えた。




*****




暫くすると三人は村への移動を再開した。

見覚えのある水場へたどり着いたのは、赤ん坊が生まれてから半年ほど経っていた。


「お前…まさか?」

「人間だ!」


エルフの村へと続く森の獣道。

およそ歓迎とは言えないエルフ達の声がナナイとフォーランドの耳に入った。

ナナイの耳にギリギリ、ガリガリと、硬いものを引っ搔く音が入ると、ナナイの脳裏に村で過ごした幼い日々の記憶が一気に蘇った。


そうだ…。

村ではいつも喉の奥を切り裂くような痛い音がしていたのだ。

だめだ。これはだめだ。


「ナナイ…?」


不安げに尋ねるフォーランドの声に自身の不安を悟られぬよう、努めて笑みを返そうとするが、強張った顔は動かない。

やがて二人の周辺にガヤガヤとエルフ達が集まってきて、ドカドカ、ガツガツと何かを壊すような音と共に、見覚えのある若いエルフの男がフォーランドの方へ怒りの表情を纏いながら近づいてきた。


そんな殺伐とした空気を察したのか、フォーランドの背中に背負われた赤ん坊が小さな声を発した。


「まさか!」


エルフの男はフォーランドの私の腕を取ると、身柄を拘束し、彼の背の布を引きはがすと、ぐずる短い耳のエルフの赤ん坊を見つけた。


「っ、何て事だ…」


更なる怒りを纏い、フォーランドを掴む腕に力が入るエルフの男。

その締め付けるような腕力にフォーランドの全身に痛みが走る。


「っつ!」

「っ!やめて!」


先ほどからナナイの頭の中は、ゴウゴウと、うねる様な轟音が響き、何をどうすれば良いか考えが纏まらない。


「フォー!!」

「っ!ナナイっ!」


それでもナナイは轟音をかき分け、夢中でフォーランドの元へと駆け寄ると勢いよくエルフの男の手を剥がし、威嚇しながらフォーランドを背にかばう。


互いに名を呼び合い、離れない意思を交わす。

そんな二人を集まったエルフ達は、まるで苦々しいものを見るかのようにゆがんだ顔をして、ナナイ達を睨みつける。

苦々しい面持ちでナナイを見る目が彼女に集まると、それに呼応するかのように、轟音は更に酷くなり、ナナイの頭の中を支配する。

混乱の渦の中に居るナナイ。そんな彼女の長い耳に、まるで氷塊のような冷えた声が届く。


「…まさかとは思うが、その人間は番いなのか?」

「そうだ!」


冷え冷えとする声を振り払うように、強く声を荒げるナナイ。


「その子を産んだのもお前で間違いないな」

「ナナイの子、フォーの子」

「…庇護を求めて戻ったのか?」

「そうだ!」


ナナイは足を思いっきり踏ん張り、まるで大切な者を護る神の如く、年老いたエルフの男に立ち、はっきりと自分の意志を告げる。

そんなナナイの懸命も空しく、年老いたエルフの男は更に冷たい言葉を吐き出す。


「人間はダメだ」


全てを無に返すその言葉に、ナナイは項垂れて絶望に覆われた。

そうだ…。

そうだ。そうだ。そうだった…。


ナナイはここでは己の願いは何処にも届かぬのだと、何度も何度も味わった事を思い出した。

そしてナナイの瞳に虚が陰り始める。

それでもと、ナナイの耳に抗うフォーランドの声が届く。


「構いません!私の事は構いません。ナナイと赤ん坊を…もう少し大きくなるまで。暫く預かってもらえませんか!」


真っすぐなフォーランドの強い意思の声に、ナナイは顔をあげ、自身の白い髪の隙間から彼の顔を見た。

表を上げて、真っすぐに前を向く、優しさを湛えるこげ茶色の瞳の彼の横顔が、だんだんと自身の涙で滲んでいく。


あぁ。

フォーランドは知らないのだ。

フォーランドは人間だから、知らないのだ。


ここではどんな願いでも、神には届かないのだ。

無知で哀れなフォーランド。

それでも届かぬ願いを懸命に神に伝えようと、抗う無謀な純粋さを叫ぶフォーランドにナナイの涙がボロボロと溢れ、世界を泡のような朧げな姿へ変えていく…。


「人間は勝手だ」


年老いたエルフの男はその冷ややかな声で、ナナイとフォーランドの心をザクザクと切り裂いていく。


「こんな事になるなら、村に留め置くべきだった。エルフには足らず、護り人にもなぬ、人間にかどわかされた哀れな子」


吐き捨てるような言葉がナナイの耳に入ると、あれだけナナイの頭を支配していた轟音が消え、そこから一切の音が消えた。


年老いたエルフの男の言葉に同意したのであろう。

他のエルフ達もナナイを蔑むような、憐れむような眼差しで見つめている。

涙に滲みながら暗転してゆくナナイの世界に、幼い日に晒された時と同じ、憐れみと侮蔑の眼差しが蘇る。


もうエルフの達の声はナナイに届かない。


「人間よ、もうここには来るな」


年老いたエルフの男がそう言えば、数人のエルフがフォーランドに近寄り、赤ん坊を取り上げると、フォーランドだけを連れ去って行く。

一方、ナナイと取り上げられた赤ん坊は、他のエルフ達によって、村の方へ連れ去られていく。

離れ行くフォーランドと赤ん坊。

その光景がナナイの目に入ると、ナナイは我に帰り、魂の求めるままに声を荒げた。


「フォーっ!!!」


ナナイの魂の叫びにフォーランドも答える。


「ナナイーーーっ!!!」


互いに求める二人の魂の叫びに、二人の赤ん坊も泣き叫ぶ。

求めても、求めても届かない。


その全身を切り裂く痛みに、ナナイはもう決して戻る事の出来ない深い暗闇の中へ墜ちていった。




*****




ナナイが物心がつく歳になると、自分が遣わされた世界は、騒音だらけの煩わしい場所だと知った。

騒音の殆どは、硬いものを引っ掻くような音で、音とたどれば、音の主が自分と同じエルフ達だと気が付いた。


やがて彼らの冷えた視線が無ければ、音が小さくなる事に気付いたナナイは、誰の目にも止まらぬように、捨て置かれた小屋の片隅で、隠れるように過ごす事にした。

殆ど食べず、ただ布に包まり、ひたすら目を閉じた暗闇の中、ただ生を繋ぐだけの存在になった。

それでもエルフの本性がそうなのか、時が経てば体だけは大きくなっていった。


ある日の事、村のエルフ達は、身体の大きくなったナナイを村から追い出した。

そして森で暮らすようにも言った。

ナナイは何もわからぬままに村を放り出されたが、その日から何故だか騒音がぴたりと止まり、やがて小さなものの小さな声が届くようになった。


そんな小さな声に導かれ、森を彷徨う内にナナイは、自分の居場所は村の外で、この緑に覆われた場所だったのだと、素直に置かれた環境の変化を受け止めた。

そして導かれるままに、捨てられたかつての祭壇や社の手入れをして生を繋げた。


やがてそんな生活に慣れて来ると、少しは自分の事を振り返る事も出来た。

まだうんと小さな頃、自分の両親は温かく、優しかった。

けれど嫌な音が聞こえ始めると共に、どういう訳か自分のせいで大人達が変わり、自分の知っている世界は大きく変わってしまった。


そんな罪深き憐なエルフの自分が、何故この地に私が遣わされたのか?

いつもそんな疑問を抱き、それを自分に問うてもいた。


そして今。

フォーランドと赤ん坊と引き裂かれたナナイは、幼い頃と同じように、部屋の片隅で布に包まり、ただ生が続いているだけの肉の塊になった。

フォーランドと共に感じた「命の熱」は既に儚いものになっていた。


そんな絶望の奥底でも、ナナイの小さな灯が消えないのは、時折フォーランドとの思い出が蘇るからだ。

波が寄せる、その間際の凪のような、刹那に現れる思い出に、ナナイは全力で意識を向け、儚くなった思いを渇望する。


フォーランドは赤ん坊を「天使」だと言った。

だから神が二人に遣わしたのだとナナイは思った。

けれど、それは逆だったかも知れない。

神が天使を遣わす為に、この地に先に私を遣わしたのだ…と。

だとするとナナイは合点がいった。


「罪深き憐なエルフの私が、何故この地に私が遣わされたのか?」


その問いの答えが赤ん坊だったのだ。

全ては天使が生まれる為の奇跡。

私は神に遣わされ、神はフォーランドをこの地に呼んだのだ。


…だとすれば、神様はなんて残酷なのだろう。

どうして天使を見守る事を赦してくれないのか。

どうしてフォーランドと居る事を赦してくれないのか。


…残酷?

いや。

それは…違う。

これは、奇跡なのだ。


そうだ。

ナナイとフォーランドの間に赤ん坊が生まれた事も奇跡なのだ。

これこそが神の慈悲。


ナナイは神に遣わされた。

だから神の意のままに過ごし、召されれば一つとなり消えゆく。

そんなナナイにも、神は慈悲をかけてくれたのだ。

別の道…ただ召される日を待つだけの日々に、抗う術もあるだと、神はナナイに教えたかったのだ。


明るい世界が一つと言うなら、抗う場所は暗闇なのだと。

静かな世界が一つと言うなら、抗う場所は煩わしいのだと。

自身の渇望の為に与えられた使命に抗えと。


全ては抗う為。

全てを溶かして一つに帰る道もあれば、それに抗う道もあるのだと。

それを知るために、ナナイはフォーランドと出会ったのだ。

それを知るために、交わりを経験し、魂の境界線と、狭間の熱を知ったのだ。


だとしたら。

このまま抗いを止めれば、やがて天に召されるだけだ。

だったら、私は抗いたい。


暗闇の中で瞬くフォーランドの眼差しを見たい。

騒音の中で私を求めるフォーランドの慟哭が聞きたい。

暗闇の中でフォーランドを探せる目が欲しい。

騒音の中でフォーランドに届く声が欲しい。


私は一つに戻らない。

もう一度フォーランドに会いに行く。

たとえ儚くなっても、確かに存在する境界線が溶けるその瞬間に…。


そうだ。私は変わったのだ。

フォーランド出会い、私はナナイになったのだ。

だから私は最後までナナイのままで居たいのだ。


ナナイは見た事も無い神に、受けた慈悲への感謝を伝えると、届かぬ新たな願いを胸に抱き、自らの神に祈りを捧げた。


どうか我らの残酷な神様よ。

私の願いを赦して下さい。

やがて来るその時に、私がナナイであるが為に、私はこの地で抗います…と。















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【短編】灯は零れ落ちた闇と煌めきの声 さんがつ @sangathucubicle

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