第2話 はちきんおばあさんの不思議噺(ばなし)

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「ねぇ、お寅(とら)さん、ちょっと聴いてくれる?」

 刻屋(ときや)旅館の玄関脇にある、惣菜(そうざい)売り場の扉を開けて、陳列棚に惣菜を並べていた、刻屋の女将(おかみ)、お寅さんに声をかけたのは、向かいの『朝日湯(あさひゆ)』という銭湯の女将さんだった。

「なんぞね?春恵(はるえ)ちゃん、あんたがうちとこへ、愚痴(ぐち)を言いにくるなんて、先代のばあさまが、亡(のう)なって以来やいか?」

「愚痴やないき、相談、とも違うか?とにかく、話を聴いて。不思議なことが起きたんよ」

「不思議なこと?」

「そう、それが何か、良くないことの前触(まえぶ)れか、事件でも起きるんやないかと……」

「事件?それ、探偵団の相談かえ?」

「そう、そうとも言える。わたしは気のせいや、ゆうたんよ。でも、旦那が気になるって言うから……。で、こういう謎めいたことは、刻屋の女将か若女将さんに相談するのが一番やって……。隣のマツさんにゆうたら、尾鰭(おひれ)がついて、変な噂になったら、うちの商売に差し障(さしさわ)るかもしれんし……」

「床屋(とこや)のマッちゃんには聴かせれん話ながやね?そいたら、中で話そう。そこの丸椅子に座り。お茶でもいれるワ。ついでに、千代も呼んでくるき。謎解きは千代の得意分野やき……」

 朝日湯の女将、春恵は千代より少し年上で、物静かな婦人である。(ただし、マッちゃんに言わすと、それは外面のことで、実は相当なヤキモチ焼らしい)

 あまり他人に相談事を持ち込むタイプではない。(と、周りからは思われている)

 嫁にきた当時は、姑(しゅうとめ)の嫁(よめ)いびりの愚痴(ぐち)をお寅さんや千代にしていたが、先年、姑が亡くなってからは、気のいい亭主を尻に敷いて、銭湯の女将として、店を切り盛りしている。そんな春恵が店の用事を差し置いて、刻屋に相談事にくるとはよほどのことだと、お寅さんは思ったのだ。

 春恵は言われたとおり、惣菜売り場の中に置かれている、テーブルの前の丸椅子に腰をおろした。

「春恵さん、相談事があるって?」

木綿(もめん)の着物の上に、白い割烹(かっぽう)着(ぎ)を身につけた、刻屋の若女将の千代が台所から、土間を通って玄関脇に現れた。

「ああ、千代ちゃん、居ってくれてよかった。不思議な謎解きは、顔(がん)回(かい)の生まれ替わりの千代ちゃんに限る、って、うちの旦那がいうもんでね。わたしも千代ちゃんが賢いことは子供の頃から知ってるし、こんなこと話せるのんは、ここだけやと思ってね……」

「前置きはエイきに、ナニがあったか、はよう話しや。あんたも商売があるろう?」

お茶を入れた湯(ゆ)呑(のみ)をお盆に乗せて、お寅さんが出てくるなり、春恵をせっつく。

「うん、わかった。けんど、ここだけの噺にしといてよ。噂になって、商売に差し障りがあるとイカンき」

そう前置きして、春恵は噺を始めた。

五日ほど前の夕刻。銭湯が一番込み合う時間帯。男湯の暖簾(のれん)をはねて、客が入ってきた。その時番台にいたのは、主人の憲男(のりお)だった。その客は銭湯にくるには、少し変わった格好だったので、憲男はよく覚えていた。男は木製の風呂(ふろ)桶(おけ)と手(て)拭(ぬぐ)いを抱えてはいたが、山(やま)高帽(たかぼう)に黒のモーニング風の背広とズボン。白いワイシャツに、黒い蝶ネクタイ。大きな黒縁(くろぶち)の眼鏡。男なのに、パーマをかけたような縮れた髪。おまけに、リンカーンのような立派な顎(あご)髭(ひげ)まで生(は)やしていたのだ。

男は無言で、入浴料を小銭でちょうどの額を番台の隅に置くと、脱衣場(だついば)の数人の客の中に紛れていった。

「今日は混んでいるわね」

と、馴染(なじ)みの女性客が女湯の暖簾をくぐってきたので、主人はそれっきり、風変わりな男性客を気に掛けることはなかった。

「お父さん、番台、代わるわ、晩(ばん)御飯(ごはん)、食べてきて」

春恵が女湯の方から、そう声をかけ、憲男は男湯の方へと、番台から降りる。風変わりな男性はまだ、浴場(よくじょう)にいるのか、見渡した脱衣場には姿がなかった。

三十分ほど、晩飯と休憩に費やし、憲男は再び、番台へ帰って来る。

「まあまあ、もうちょっと、休んだらエイのに……」

と、春恵は気遣(きづか)う。

「今日は忙しいろう?おまん、中の用事もあるし、堅(けん)太(た)の飯も用意しちゃり」

堅太というのは、風呂(ふろ)焚(た)きや三(さん)助(すけ)と呼ばれる、雑用係の二十歳(はたち)くらいの若者だ。今は薪(まき)をくべているところだろう。煤(すす)や煙(けむり)にまみれた身体は、客が帰ったあとの仕舞(しま)い湯で洗い流すのだ。飯は、その前のわずかな時間帯に済ませるのが、常だった。

「そうや、男湯で変わった客が居(お)ったろう?モーニングみたいな背広に蝶ネクタイしてたでぇ……」

風変わりな客が店に入ってから、かれこれ、一時間。脱衣場には、それらしい人物はいない。憲男は客はもう帰ったあとだと思ったのだ。

「いえ、そんな変わった格好のお客さん、見ませんでしたよ」

「そうかぁ、まだ、湯船(ゆぶね)に居るんかなぁ?」

気にはなかったが、憲男はその客のことは忘れて、番台の上で、出入りする、男女の客の応対におわれていた。

結局、その客がいつ帰ったのかは、わからないままだった。

「まあ、それだけのことやったら、主人か、わたしが女湯のお客さんに気をとられている間に、黙って出ていった、って思うでしょう?」

春恵は、そこで聴衆者(ちょうしゅうしゃ)の二人の反応を伺(うかが)った。

「つまり、それだけでは終わらなかったのね?」

と、千代が尋(たず)ねた。

「さすが、顔回の生まれ替わり、千代ちゃん、察しがいい。そうなのよ、それから、毎日、同じ客がきて、同じように、いつの間にか、いなくなっているのよ」

「春恵さん、わたしは顔回の生まれ替わりじゃあないわよ。ただの旅館の若女将。まあ、それは置いといて、そのお客さん、毎日、同じ格好、つまり、モーニング風の背広に山高帽でやってくるの?」

顔回の生まれ替わりと、いわれることに、ひとこと苦言(くげん)を呈(てい)して、千代は質問を続ける。

「そうなの、毎日、それも決まって、混み合う時間帯によ」

「それで、いつ帰ったかわからないの?」

「そうなのよ。ちょうど、うちとこ、夕ご飯を交代で食べる時間やし、女湯が混み合う時間帯でしょう。男湯の方ばかり、見ていられないしね」

「でも、ご主人も春恵さんも気にしてたんでしょう?脱衣場は番台からよく見えるんだから、浴場から出て、着替えて、表に出るまでの時間、ずっと、女湯を見ていたなんて、考えられないんだけど……」

「そうなのよ。だから、主人が気味悪がって、まさか、透明(とうめい)人間(にんげん)なんじゃあないか、なんて言い出すのよ」

「透明人間はないわね。脱衣場から、浴場へ入るのは見たんでしょう?」

「うん、昨日はわたしが番台に座っていた時に、はいってきたから、ずっと、気にして、洋服を脱ぐのを見ていたわ。ただ、その時、女湯にお客が来て、シャンプーとか、買ってもらっていたから、実際、浴場に入るところは見てないの」

「今日はまだ来ていないわよね?昨日までで、何回来たの?」

「昨日で四回目のはずよ。わたしが見たのは昨日が初めてだったけど……」

ふうん、と千代があれこれ、想像していると、

「はははは、この『まえたにこれみつ』って、面白い……」

という、笑い声と言葉が背中のほうから聞こえてきたのだった。

振り向くと、大きな柱時計──グランド・ファーザーズ・クロック──の前の座敷に座って、貸本屋から借りてきた、『少年』という、月刊誌の漫画を読んでいる、息子が眼に入った。

「なんやの?急に大きな声出して……、お客さんが居るんやから、漫画見るんやったら、奥の部屋で見なさい」

「ごめん、ごめん。そっちの話が面白くて、聞き耳を立てていたんやけど、『ロボット一家』って、漫画が可笑(おか)しくって、つい、笑い声が出ちゃったんだ。

ところで、その怪しいお客の話だけど、いくつか確認したいことがあるんだ」

そういいながら、漫画本を閉じ、座敷からサンダルを履(は)いて、千代の息子が、女性連のテーブルに降りてきた。

「なに、確認したいことって?」

「まず、その客は初めての客だったの?例えば、誰かが嫌がらせとかのために、変装(へんそう)してきたっていうことも考えられるでしょう?」

「さすが、千代ちゃんの息子さんね、よく、そんなこと思いつくわね。ただ、わたしが見た感じだけど、近所の人や常連(じょうれん)さんではなかったわ。脱衣場で裸を見たから、間違いないと思う」

「じゃあ、次の質問。脱衣場の箱、鍵がかかる箱に脱いだ洋服を入れたんだよね?その箱は毎日、点検しているよね?洋服が残っていたとか、閉じて、鍵がかかったままの箱があったなんてことはないよね?」

「うん、たまに、箱に忘れ物していることはあるわよ。着替えた下着とか、入れ歯とかね。多いのは、腕時計。珍しいのは、カツラの忘れ物ね。でも、この4、5日はないわよ。鍵をしたまま、帰る人もいないことはないけど、番号を控えて、3日たったら、合鍵で開けて、中を確認するわ。大抵(たいてい)、空(から)のことが多いわよ。昨日はなかったはずよ」

「と、いうことは、モーニング風の背広も山高帽も、その日の内に消えている、ってことだね?」

「そうよ。服だけ残ったら、裸で帰ったことになるでしょう?」

「いや、着替えて、目立たない格好で出ていったと思うよ」

「でも、そのお客、持っていたのは、木製の風呂桶とタオルと石鹸箱(せっけんはこ)くらいよ。服を入れる袋なんて、持ってなかったわ」

「ああ、それは、いくつかの方法がある。例えば、かなり前の時間帯に、別人に化けて、着替えと袋を持ち込んでおく。あるいは、共犯者がいて、着替えを持ち込んだってことも考えられる」

「それはあり得るわね。でも、なんのために、そんな、手間のかかること、せな(・・)ならんの?朝日湯のご主人だったから、気がついたけど、誰も気に留めない可能性だってあるのよ」

「ああ、何故(なぜ)?つまり、動機(どうき)については、まだはっきりしていないね。ただ、トリックは、今いった仮説(かせつ)で、ほぼ間違いないと思うよ。あとは、実際にその客に接して見るか……」


「おじさん、今日はまだ、例のお客さん来ていないよね?」

朝日湯の男湯の暖簾をくぐって、刻屋の息子=S氏、あるいは、『ボン』と表現する=が、番台に座っている、朝日湯のご主人に小銭で銭湯代を払いながら、尋ねた。

「おや、刻屋のボン。例の相談のことで来てくれたんか?ほいたら、お金はイラン。こっちがあげんとイカンほうや」

「いや、形だけでも受け取ったフリをして。例のお客の相棒が、もう来ているかもしれんき……」

と、小声でボンはいった。

「そうかぁ?ほいたら、帰りに返すき、ワシが居らんかったら、番台のもんにゆうてよ。それと、例のお客はまだ来てない。まだ、混む時間帯には、間(ま)があるきにね」

「うん、少し、早めに来て、様子を窺(うかが)いたいこともあるきね。今、お客さんで、近所の人とか、常連さんではない人はいる?」

「さあ、ひとり居るけど、確か、猪口屋(いぐちや)さんのお客のはずや」

猪口屋というのは、同じ町内にある、小さな旅館のことである。

「どの人?」

と、脱衣場にいる数人を見回しながら、ボンは尋ねた。

「今は脱衣場には居らんね。浴場やろう」

「どんな感じの人?」

「ああ、中年の髪の毛の短い、小男や。ほかは常連さんやし、ボンでもわかるろう」

「よし、じゃあ、捜査を開始するよ」

ボンはそういって、脱衣場にはいっていくと、空いている脱衣箱を探しながら、鍵のかかった箱の番号を控えていった。

「おや、刻屋のボンやないか?今日はどういた?内風呂がノウ(・・)が悪いがかえ?」

そういって、番台前から脱衣場にはいってきたのは、近所に住む、中学校の国語の教師、俳優(はいゆう)の嵐寛寿郞(あらしかんじゅうろう)に似た、アラカン先生だ。

「あっ、先生こそ、家のお風呂は?」

「ああ、ワシとこの風呂は小さいきね。週に一度は銭湯の大きな湯船につかりとうなるがよ。ボンはいつもやったら、千代さんと女湯へはいるがやなかったかね?」

「それは弟。僕は何年も前に卒業しているき」

「そうかぁ?千代さんと女湯へはいれるなんて、夢のようや。いやいや、教育者のいうことやない。で、ボン、さっきから、脱衣箱をにらんで、なにしてるんや?」

「そうだ、ジョンを連れてくるんだった」

ジョンというのは、アラカン先生が飼っている、大きな雑種犬なのだが、ボンに非常になついており、いつも放し飼いのせいか、ボンについてくるのだ。しかも、名犬と呼ばれるほど、優秀な能力を持っている。

「ジョン?まさか、なんぞ、事件かえ?勇(ゆう)さんが、また、泣きついてきたがかよ?」

勇さんというのは、坂本(さかもと)勇(ゆう)次(じ)、県警の刑事の愛称(あいしょう)だ。

「勇さんやない。ここの女将さんからのご依頼」

「えっ!春ちゃんが?そりゃ、雪が降るぞ」

「そうか、先生も一応、井口探偵団のメンバーやったね?」

「一応ってことはないろう?ジョンの飼い主やし、小政(こまさ)の兄(にい)さんがくる前は、ワシが千代さんの相談役やったがやき」

「うん、知識、常識なら、先生やもんね。それじゃあ、ちょっと手伝うてよ。怪しい男、しかも、何人かの集団の可能性もある陰謀(いんぼう)が進められている……」

「ええっ!そんな陰謀団がきちゅうがかよ?そりゃ、大事(おおごと)やいか。勇さんじゃあアカン。マル暴(ぼう)の杉下さんを呼ばんと……」

「いや、先生、そんな可能性もあるって話。それを調べているの」

頭の回転が早いのはいいけど、早とちりの気があるなぁ、外しのハマさんほどやないけど……、と、ボンは先生を心の中で評価していた。

「おや、こいつはお珍しい!先生とボンがお揃(そろ)いとは……」

そういって、脱衣場にはいってきたのは、すぐ隣で理髪店(りはつてん)を営む、松岡(まつおか)勝(まさ)次(つぐ)、通称(つうしょう)マッちゃんだった。つまり、朝日湯の女将が相談できない、といった、そのマッちゃんなのだ。

怪しいお客のことを先生に伝え終えて、ふたりで手分けして、常連さんや近所の人以外を注視しようと話が進んだところだったのだ。

「あれ?先生のお口が『マズイ』って動きましたでぇ?アッシに内緒の話ですかい?それとも、アッシの悪口をいってなさったんですかい?」

「マッちゃんの悪口なんかゆう訳、ないろう?噂はしていたけどね」

ボンが咄嗟(とっさ)にごまかしの言葉を発した。

「アッシの噂?どんな噂ですか?エイ噂でしようね?」

「ああ、もちろん、マッちゃんの噂を広める能力のことさ。それを使うかどうか、まあ意見が割れたってところさ」

「なるほど、ボンはアッシの能力を認めるほうですよね?すると、先生が……」

「いや、おまんの能力は認めているよ。ただ、今回はやめたほうが、という意見なが(・・)よ」

「おや、そしたら、事件ですね?どんな事件ですか?ええ、アッシも男だ、内緒にしなくちゃあならねぇことは、口が裂(さ)けても洩(も)らしませんぜ」

「なかなか、鋭い勘やね。今の言葉、忘れなよ。忘れたら、ばあちゃんが『江ノ口川のドブに放り込んじゃお(・)』ってことになるし、村八分(むらはちぶ)、ならぬ、町(まち)八分にされると思いよ」

「わ、わかりました。他言は無用。しかと承知いたしました」

「よし、そこまで約束したがやし、マッちゃんも一応、探偵団のメンバーを自認しているから、今回の件、手伝うてもらおう」

そういって、ボンは手短に今回の調査について、マッちゃんに説明する。

「僕はその怪しいお客がくるまで、そこの縁台(えんだい)で脱衣場を注視している。先生とマッちゃんは浴場で、見かけん人を注視して欲しい。マッちゃんは、見かけん人が居ったら、気安く声をかけて、どこの誰かの情報を仕入れて欲しい。これはマッちゃんの得意(とくい)分野(ぶんや)だからね」

「合点(がってん)、承知之(しょうちの)助(すけ)でぇい」


「それで、マッちゃんや先生まで捲(ま)き込んだ調査は、上手ういったがかね?昨日はエライ遅(おそ)うまで、風呂屋に居ったようやけど......」

翌日の朝、惣菜売場の準備を整えて、余裕ができた時間帯。日曜日と祭日が並んだ連休の初日である。我が家に一台きりの、足とカーテンがついた『ナショナル製』の白黒テレビが置かれた和室で、珍しく、宿題のプリントを仕上げている、孫にお寅さんが話しかけた。

「あっ、お母さん、抜(ぬ)け駆(が)けはダメですよ。わたしも話を聞きたいから、ちょっと待ちよってください。みっちゃんと洗濯もの干してきますき」

そういって、千代は二階のもの干(ほ)し場(ば)へ洗ったばかりのシーツや、亭主のワイシャツや下着類をカゴいっぱいに詰めて運んでいった。

「はい、お待たせしました。昨日の調査の話を始めてちょうだい」

和室の座卓(ざたく)に座って、千代の合図でS氏の話が始まる。

「まず、結論からいうと、怪しいお客がいつの間にか居なくなる、って謎は解けたよ。ほぼ、昨日、僕が想像していたとおりだった」

「つまり、その怪しいお客は、何かしらの意図(いと)を持って、目立たない格好に着替えて、出ていったってことね?」

「そう、さすが、がん、やない、老舗(しにせ)旅館の若女将」

「あんた、また、顔回のっていいかけて、ごまかしたわね?エイ加減(かげん)にしいよ。それで、どんな手を使って、番台にいるご主人か春恵さんの眼をすり抜けたの?」

「いや、それより、アテはなんでそんなことするのかを知りたいき(・)」

「ばあちゃん、ごめん、まだ、その部分、つまり、動機についてはわかってないがよ。それは、今晩(こんばん)、わかると思う」

「ヘエ、今晩わかるがかね?あんた、小政の兄さんの上をいきそうやね?」

「じゃあ、昨夜(ゆうべ)の調査でわかったことを話すね」

先生とマッちゃんは脱衣箱に着物を入れると、タオル一枚で、前も隠さず、ガラス戸を横にあけて、浴場にはいる。ざっと、浴場の中を見回すと、見知らぬ客は、ただひとり。白髪(しらが)交じりの五分(ごふ)刈(が)り頭、歳(とし)のころはマッちゃんと同世代の小男が、ぬるいほうの湯船に浸(つ)かっていた。

先生とマッちゃんは目配(めくば)せをして、先生は入口近くの洗い場に、木桶を提(さ)げてしゃがみこむ。そこなら、はいってくる人間も出ていく人間も観察しやすいのだ。

マッちゃんは手桶を提げ、湯船の傍(そば)にしゃがむと、二、三杯のお湯を身体(からだ)に掛け湯としてかぶる。そして、湯船に音を響かせて、湯に入っていった。

「兄さん、見かけねえ顔だが、どっから来なすった?」

湯を両手ですくって、顔を洗ったあと、マッちゃんは、芝居がかった口調で同じ湯船に浸かっている小男に声をかけた。

一瞬、戸惑いの色をその顔に浮かべた男は、

「アタシですか?」と、マッちゃんに確認というより、迷惑だと言いたげに言葉を発した。

「オメエさん以外に、湯船にゃあいねえよ。何か、後ろめたいことでもあるんですかい?」

「いえいえ、滅相(めっそう)もない。急に見知らぬ人から声をかけられて、驚いてしまったんですよ。土佐のお人は、他所(よそ)ものには、冷たいって聴いてましたんでね」

「そいつは間違った、風評だぜ。土佐の人間は情(じょう)がふけえ。おまけに好奇心が旺盛(おうせい)だ。見知らぬ客がいたら、声をかけて、話を拡(ひろ)げるのが土佐ッポよ」

「そ、そうなんですか?ええ、それなら、なにも隠すこともありません。アタシは生まれは近江(おうみ)、滋賀(しが)の琵琶(びわ)湖(こ)の近くでね。土佐に知り合いがいるわけではないが、太平洋と坂本(さかもと)龍(りょう)馬(ま)に逢(あ)いたくてね。まあ、気楽なひとり旅、この近所の猪口屋って旅館にお世話になっているんですよ」

「そうけェ、アッシは何かご商売にきていなさるのかと思ってましたぜ。坂本龍馬はそんなに有名ですかい?」

「ええ、幕末(ばくまつ)の志士(しし)の中では、異色ですからね。おっといけない、長湯が過ぎた。アタシはこれで失礼しますよ」

男は浴場の壁にかかっている丸い時計に眼をやり、逃げるように、湯船から出ると、手桶に入れていた濡れたタオルを腰に巻いて、浴場をあとにした。

男がガラス戸を開く音で、ボンは視線を番台のほうから、浴場に移した。明らかに、見知らぬ人間。まだ、髭面(ひげづら)の怪しい男は現れていない。脱衣場は仕事を終えた、あるいは、夕食前を利用しての客で混み始めている。ボンは、お客が休憩に利用する、縁台風の長椅子から立ち上がり、浴場から出てきた男の傍にさりげなく近づいた。

男は左腕に白いゴム紐(ひも)で結ばれている、脱衣箱の平べったい鍵を右手に持ち替えて、33番の箱を開ける。濡れたタオルをその扉に引っかけて、素早く、白いデカパンに脚(あし)をとおした。

男は、湯上がりの身体を冷(さま)すこともなく、白いワイシャツとベージュのズボンで身柄(みがら)を整えると、急にあたりを見回した。ボン以外には、誰も男のことなど気に掛けるものはいない。

男はそれを確かめて、脱衣箱に鍵をかけた。ボンはその中にまだ、衣装が残っているのを視線の隅で確認したのだ。

 男は番台にいる主人の憲男に声もかけず、暖簾をくぐって、下駄箱へ向かった。

 ボンはさりげなく、その様子を暖簾越しに見つめている。そこへ、入り口のガラス戸を開けて、親子連れが入ってきた。その扉の隙間(すきま)から、黒い背広姿が垣間(かいま)見えたのだった。

 小男は、親子連れを避けるように身体を壁際に寄せ、開けっぱなしのガラス戸から表へ出ていく。黒い背広の男に、手のひらに隠していた何かを手渡した。おそらく、脱衣箱の33番の鍵であろう。

 そこまで確認して、ボンは脱衣場に戻り、33番の脱衣箱の前に進む。33番の左隣は27番、右隣は50番である。ここでは、4と9のつく数字は使われていない。50番の箱は使用中で、鍵がかかっている。32番も同様だ。

 ボンは27番の箱を開けて、木綿のチェック模様のシャツのボタンを外し始める。

「ボク、すまんが、その箱、わたしに使わしてくれへんか?」

 関西訛(なま)りの言葉に振り向くと、山高帽に裾(すそ)の長い黒の背広、顎髭が顔を覆うように生えている、均整(きんせい)のとれた身体つきの中年が、黒いメガネの中にかすかに迷惑そうな光を発して、ボンを見つめていた。

 視線を番台に向けると、主人の憲男が身を乗り出して、この男だと指をさしている。

「ええっ!なんで?ほかにも空(あ)いてるところ、あるやんか」

「いや、ごめんごめん、27はわたしの誕生日なんや。ゲン担ぎやないんやけど、かまわんかったら、代わってくれへんか?そうや、代わってくれたら、おんちゃん、オダチン(・・・・)あげよう」

 そういって、男はポケットから、板垣退(いたがきたい)助(すけ)の百円札を取り出し、ボンに差し出した。

「こんな大金もらえんワ、かあちゃんに怒(おこ)られる。代わってもエイよ」

「そうか、あり(・・)が(・)と(・)うさん(・・・)。けど、かまへん、親御(おやご)さんには黙っとき。バレたら、エイことしたご褒美(ほうび)や、ゆうたらエイねん(・・)。それと、もう一つ頼みがあるんや。これから、おんちゃんがすること、おかしいと思うても、黙っといてや。深いわけがあるねん。事情は言えんけど……」

「ふうん、そのつけ髭を取ったり、カツラを外すんか?」

「ぼ、ボク、どうしてそれがわかるんや?」

「まあ、近くで観たら、カツラもつけ髭もわかるよ。おまけに、どうして、この27番の箱を使わんといかんがかもね」

「えっ!な、なんの話や?」

「まあ、エイワ、大人(おとな)の事情があるんやろうから、今日は、深うには追求はせんよ。おんちゃん、関西の人やね?大阪?いや、京都かな?」

「な、なんで、そこまでわかるのんや?」

「さっき、『ありがとうさん』て、ゆうたろう?『オオキニ』や、のうて……」

「ははは、ボク、京都では、どちらもつこうてはるよ。けど、使い方が、イントネーションとか、しゃべる速さとかは、大阪とはちょっと、違ごうてるかな?確かに、わたしは京都からきましたんや。ボク、名探偵明智(あけち)小五郎(こごろう)やな」

 男はそういった後、山高帽と一緒にウェブのかかったカツラを外し、つけ髭をビリッと音を立てて取り除いていった。そして、上着とズボンを脱ぐと、小さく畳んで、33番の脱衣箱を先ほど小男から預かった鍵で開ける。中から別の衣装を取り出し、脱いだ衣装と入れ替えた。

 すばやく、33番の箱の鍵を下ろして、まだ身につけていたワイシャツや下着を脱ぎ、素っ裸になると、27番に鍵をかけ、持参してきた木桶とタオルを抱えて浴場に入っていった。

「思ってた通りやったな、共犯者がいて、脱衣箱をふたつ使っていたんや。とすると、もうひとり、後から33番の服を取りに来るな」


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「まあ、あんたの推理が合うてたことは、わかったワ。けど、その男の正体と、目的は結局わからんがやろう?」

 S氏の話が終盤になったところで、千代が言葉をはさむ。

「そう、結論を急ぎなや。確かに、その点は解明できてないよ。けど、男のひとの正体は、ほぼわかったんだ。マッちゃんの報告待ちさ」

「マッちゃんの報告?マッちゃんになにを頼んだの?」

「男の人が浴場へ入ったんで、僕も服を脱いで、浴場へ入ったんだよ。男の共犯者が来るのは、男が出てからになるかと思ってね」

 浴場は親子連れと、常連客でひどく混みあっていた。マッちゃんは先生と代わって、入口近くの洗い場で、身体を擦っていた。先生は熱いほうのお湯に浸かっている。

 ボンはマッちゃんの傍に寄り、先に入ってきて、空いている洗い場を見つけ、木製の腰掛けに座った男を指差し、それが話題の人物だと伝えたのだ。

男の座った洗い場は、同じ列の奥のほうだった。何人かの客が洗い場の蛇口を使っており、男はそのわずかな隙間から、横顔が覗けるくらいだった。

男は、さっさと、身体を洗うと、ぬるめの湯船に浸かる。マッちゃんが身体をひねって、その顔を見る。男は湯で顔を洗うように、両手で顔を撫でた。

あっという間に、湯船から出て、タオルと木桶を持って、浴場をあとにした。

「カラスの行水や!」

そういって、ボンはあわてて、あとを追いかけた。

脱衣場と浴場を仕切るガラス戸から、脱衣場を覗くと、脱衣場は何人かの客で混みあっている。27番の箱の前に風呂上りの男がいて、その向こうに、客がいる。男はそっと、鍵を渡す。33番の鍵だ。つまり、第二の共犯者が登場したのだった。

27番の箱から、ワイシャツと目立たない、グレーの作業服上下に着替えて、京都からきたという客は番台に視線を向ける。番台には、主人に代わって、女将の春恵が座っており、女湯の客と話をしていた。

男はその隙に、番台の横をすり抜け、暖簾をくぐっていったのである。

 第二の共犯者は、前のふたりに比べると、かなり若い。中肉中背で、慎太郎カットに近い、スポーツ刈りである。こちらも目立たない作業着姿だ。双星製紙の従業員と見間違いそうな格好だった。

 若者は33番の箱を開けて、上着の内ポケットから、折り畳まれた紙袋を取り出し、あたりを気にしながら、箱に残っていた衣装を袋に詰め込んだ。

「これで、人間喪失の手品のタネは解明できたと……。さて、今度はこっちが手品を見せてやるかな」

 男が服を脱いで、27番の箱に鍵を掛ける。33番の鍵は27番の箱に入れたようだ。

 男が浴場に入ってくるのと入れ違いに、ボンは脱衣場に出て、裸のまま、番台の春恵のもとへ足を運ぶ。

「おばさん、謎は解けたよ。それでね、イタズラされたままだと、困るんで、ちょっと、罰を与えたいんだ」

「ええっ!ボン、もう謎が解けたの?さすが、井口探偵団ね。それで、どんな罰を与えるの?」

       ※

「な、ない!」

 脱衣場の混みあった空間に、若い男の驚く声が響いた。

「どうしなすった?」

 と、服を着て涼んでいた=フリをしていた=マッちゃんが何事かと、芝居がかった台詞で尋ねた。

「ここに入れていた、服がないんです」

「服?あんた、服は着ているじゃあないですか?しかも、あんたが使っていたのは、その箱じゃあなくて、お隣の、27番でしたよ」

「あっ、いえ、紙袋に入れて、もう一着……」

「もう一着ですって?なんのために?それも、別の箱に入れるだなんて、オカシイですね?」

「い、いえ、そ、それは……」

 若者は、しどろもどろで、言い訳が思いつかない。

「お客さん、どうされました?」

 そこへ、番台を夫に代わってもらった春恵が打ち合わせどおりに登場する。

「ああ、女将さん、このお客さんが、この33番の箱に入れていた服が無くなったっていうんですがね?この人は隣の27番を使っていて、ほら、服も着ているでしょう?それなのに、隣の箱を開けて、服がないって…‥、意味不明なことを言うんですよ。ボケるには、まだ、若いと思うんですがね」

「い、いや、じつは、頼まれて、上着をここに入れていたんです。それが、入れていた袋ごと無くなっているんです」

「頼まれた、って、どなたが?何のためにですの?ここは駅前のコインロッカーではありませんよ。勝手にそのような使われ方をされては困ります」

「いえ、そのかたは、お風呂に入って、服を忘れてきたんです。それで、僕にとってきて欲しいと……」

「では、そのかたは服を着ないで、しかも、箱の鍵をかけたまま、お帰りになったの?鍵の持ち出しは厳禁なんですけど……?」

「まあ、女将、そうゆうちゃりな。この人は頼まれただけやろう?ほら、ほかのお客が訝しむき、場所を変えようやいか」

 そろそろ、騒ぎが大きくならない程度の良いタイミングだと、アラカン先生がなかを取り持つような提案をする。

「そしたら、居間へ」

 と、女将が誘った。

「い、いえ、僕の勘違いでした。服は最初からなかったんです。失礼します」

 若者はそう言い残して、慌てて暖簾をくぐっていった。

「ボン、ちょっと、お灸が過ぎたかよ?」

  と、先生は傍で成り行きを見ていた、少年に微笑みを浮かべていった。

「あいつ、頼まれた、京都の男になんて言い訳するがやろうね?」

「ボン、あのつけ髭の男は京都の男ですかい?そしたら、ひょっとして、アッシの知っている男かもしれませんぜ。さっきは横顔と、湯船から出ていくところをチラリと見ただけでしたからね。誰かに似ているとだけ感じたんですが、本人だったかも……」


       5

「あんたも、小政の兄さんに似てきたねェ。それ、あんたの狂言やったがやろう?」

お寅さんが、一息いれるタイミングで、孫に尋ねる。

「それで、マッちゃんは京都からきたという男の正体を調べているのね?」

と、千代が息子に確認する。

「その、本人だったかも?ちゅうのは、誰ながぞね?アテらあが知っちゅう人かね?」

「まさか、お母さん、京都のお人ですよ、わたしたちの知り合いなわけないやないですか」

「それがね、ばあちゃんあたりは知っちゅうかも知れんがやと。僕は知らんけんど……」

「ええっ!昔、うちに泊まったことのあるお客さんかね?」

「それとも、有名な方?昔はだけど……」

「うん、母ちゃんのほうかな?」

「誰ぞね?マッちゃんは名前を言わんかったがかね?」

「ええと、姓は確か、京都の有名な場所……」

「祇園(ぎおん)?京都(きょうと)御所(ごしょ)?金閣寺(きんかくじ)?」

「千代さん、そんな姓はないろうがね?」

「そ、そうですね、じゃあ、東山(ひがしやま)?」

「あっ、思い出した。嵐山(あらしやま)や!」

「嵐山?まあ、ない姓ではないわね。それで、名前は?」

「長十郎(ちょうじゅうろう)」

「嵐山長十郎?歌舞伎(かぶき)役者(やくしゃ)みたいな名前ね?」

「嵐山長十郎、千代さん、そりゃあ、歌舞伎役者やないけんど、映画俳優さんぞね。大映(だいえい)か、東映(とうえい)か忘れたけんど、戦後も錦ちゃんの父親役とか、エイ役をもろうちょったけど、女性問題かなんぞで、顔を見んようになったねェ」

「そう、その忘れられてた俳優に似ているんだってさ」

「そりゃあ、別人ね。いくら落ちぶれたとはいえ、映画スターが、こんな田舎のお風呂屋には来ないわよ」

「でも、母ちゃん、あの変装、素人やないよ。役者さんやったら、と思わんかえ?しかも、早変り……」

「そうぞね、あれは、芝居じみちゅうぞね」

「うん、そういわれたら、お芝居に違いないわね?でも、元、とはいえ、映画俳優さんが、こんな場末のお風呂屋を舞台に、お芝居なんて、する?何の意味があるの?」

「だから、動機についてはわからない、と言っているだろう、事情があるんだよ。ただ、気がついたことがある……」

「なに、気がついたことって?」

「あの、目立つ扮装さ。朝日湯の女将さんは『リンカーンのような髭』って、言ってだけど、リンカーンは顎(あご)髭(ひげ)だけで、口髭はなかったよね?あの人は口髭もしていた」

「そりゃあ、リンカーンに化けていたんじゃない、顔を隠すためだったからでしょう?」

「うん、そうだね。だけど、あの、モーニング風の衣装と髭を見たら、誰かに扮しているとしか思えないんだ」

「まあ、あの人が嵐山長十郎という役者さんなら特にね。でも、誰に扮しているの?」

「幕末から明治の有名な人、薩摩(さつま)の西郷さんの朋友……」

「ああ、大久保(おおくぼ)利通(としみち)」

「そうそう、大久保利通の写真にそっくりなんだ」

「そりゃあ、嵐山長十郎の最後のはまり役ぞね。鞍馬(くらま)天狗(てんぐ)か新撰組(しんせんぐみ)の映画で、大久保利通役を演じたのが、嵐山長十郎ぞね。そのあと、女性問題が起こったがぞね」

「さすが、ばあちゃん、古い話はばあちゃんに限る。やっぱり、年の功やね」

「なんぞね?そんな古い話やないぞね。アテを年寄り扱いしなよ」

「でも、お母さんのおかげで、動機らしきものが、ぼんやりと見えてきましたね……」

「こんにちは、悦子(えつこ)さんおります?」

猪口屋と縦書きに書かれたガラス戸を開けて、土間の奥のほうに声をかける。

「はあい、あら、珍しい、ボンやないの、先生も一緒なんて、雪が降るんやない?」

猪口屋の女将、悦子が、千代と同じように、木綿の着物の上に白い割烹着姿で現れ、来客を見て、驚きの声をあげた。

「えっちゃん、挨拶は抜きや。お宅に泊まっているお客に大事な用があるんや。京都か、滋賀から来ているお客、居るやろう?」

「ああ、白髪交じりの短い髪の背の低い中年の方ね?あの人に先生が何の用?」

「悦子さん、他に関西方面から来ているお客さんは居らん?」

「あとは若い人が泊まっているけど、高松の人や」

「少し、歳のいった、二枚目か、顎髭の男性は居らんかえ?」

「なに?人捜しなが?そんな人、ああ、今朝早くにお帰りになった人、うん、まあまあ、二枚目やったね」

「今朝、宿払いしたのか……」

「ボン、逃げたのかな?」

「逃げた、って、あの人、なんか、悪いことして、警察に追われていたの?指名手配の殺人犯?」

「ち、違います、大将はそんなお方やありません」

三人の会話に割り込んできたのは、昨晩、慌てて、朝日湯から出ていった、若者だった。

「あっ、すみません、昨日のことで、おいでたんでしょう?服が見つかったんですね?その紙袋、昨日、僕がなくなった、っていってた袋です」

若者は先生が手に提げている紙袋を指差して、そういった。

「何のことか、ようわからんけんど、このお客さんに用があるがやね?ほいたら、二階にあがって……」

「いや、もうひとりの方ともお話したいのですが、同席してもらえますか?」

「あんたらぁ、なに者です?大将のこと、どこまで知っているんですか?」

「ああ、この人らぁは、井口の探偵団よね」

「あなたが、『大将』って、呼んでいる方は、俳優の嵐山長十郎さんですね?」

悦子に、二階の空いている部屋を貸してもらい、若者ともうひとりの近江からきた、小男を前に、ボンが話を切り出した。

「もうそこまで、調べがついたんですか?昨晩、衣装が盗まれた、と報告したところ、『ああ、あの少年の仕業(しわざ)や。明日にでも返しにくるやろう。わたしは会うわけにはイカン。明朝宿払いする。お前たちは残って、事情があってのことやと伝えておくれ』と、おっしゃっていました。そしたら、あんたが大将のゆうてた、少年なんですね?」

「はい、それで、その事情とやらを教えていただきたいんです。こちらで調べたところ、下(しも)=高知市の東側の地区=の役(やく)知(ち)町(ちょう)のお風呂屋さんで、先週、同じことがあったとか?長十郎さんとあなたがたの仕業ですよね?」

 実は先ほど、マッちゃんが報告にきてわかった情報なのだ。

「そこまで……」

 と、若い男は言葉を詰まらせる。

「いや、事情は話せま(・)へん(・・)。アタシどもは大将のおっしゃるとおりに動いているだけでお(・)ます(・・)。大将がただ事情があってのことだと伝えてくれとおっしゃった以上、それ以上はお話でけま(・・)へん(・・)」

 若者に代わって、白髪混じりの小男がキッパリと断りの言葉を発した。

「そうですか?穏便にことを済まそうかと思っていましたが、それでは、警察にお願いしましょう」

「警察?なんで、警察なんかに?」

「あんたらぁがしていることは、営業妨害や。脱衣箱をひとりでふたつ使うたり、鍵をかけたまま、帰ったり、いや、変な人間喪失を演じたことは、充分、営業妨害行為と認められるやろう?」

 と、 アラカン先生がボンに代わって、追求する。

「そ、そんな、ただのイタズラやないですか?被害は出てへんはずや」

「イタズラ?イタズラにしては、度が過ぎてますやろう?一日やのうて、5日連続やから、嫌がらせとしか思えませんワナ。女将も大将も不安になって、我が探偵団に調査を依頼してきたんですからね。調査費用という、被害が出ていますよ」

「そ、それは風呂屋のご主人と女将さんに謝ります。探偵の調査費用もこちらでお支払いいたします」

 そういって、小男と若者は深々と頭を下げた。

「では、差し障りのない範囲で、質問に答えてください。まず、あなたたちと長十郎さんのご関係を……」

 再び、ボンが追求者になった。

「わたしは弟子のひとりです。子役時代に大将に弟子入りしました。今は高松で、うどん屋をしていますが……」

 と、若者が先に答えた。

「アタシは元東映の大部屋俳優や。大将の下で随分映画に出させてもろうたワ。恩人やからな、大将は……」

「わかりました。おふたりとも、長十郎さんに恩を感じていらっしゃる。だから、秘密は話せない、ってことですね?」

 ボンの言葉にふたりは無言で深く頷く。

「では、ここからは、僕の想像する話をします。違っていたら、指摘していただいてかまいません」

 そういって、ボンはふたりに強い視線を送った。


「嵐山長十郎さん、戦前は大映におられ、戦後は東映に移られた。時代劇映画に数多く出演されて、主役級のものも何作かおありになる、一流の映画俳優ですね?戦時中は、大陸にて慰安団員として、活動されている。俳優一筋に生きてこられた……。ところが、戦争が終わると、GHQのお達しで、チャンバラ映画は上映禁止。現代劇にチョイ役で出るしか仕事がなかった」

そこまで、語って、S氏は眼の前で神妙に話を聴いているふたりの顔を見つめる。どうやら、異存はないようだ。

「たぶん、その時期だと思うのですが、ある女性と知り合います。一般の方だと想像しているのですが、ここは確認がとれていません。長十郎さんには、奥さまがおられましたが、その時にはもうお亡くなりになっていました。ですから、その女性とは、結婚を前提にお付き合いをされていたと思います。

さて、時は流れ、6年後、チャンバラ映画が解禁されました。鞍馬天狗の撮影が始まり、長十郎さんは、大久保利通役で出演します。戦前にも、演じたことのある、ハマリ役でした。大久保利通のあの肖像写真にそっくりだったからでした。」

S氏の話に、前のふたりは当時を思い出したのか、うんうん、と頷くように、首を小さく動かした。

「さて、時代劇映画に復帰できた長十郎さんに、不幸な事件が起こります。世間では、女性問題と簡単にいっていますが、実際はもっと複雑な事件でした」

S氏の言葉に、若い男が、

「それは、」

といいかけたが、隣の元大部屋俳優に肘を引かれて、口をつぐむ。

「ええ、噂の類いでしょう?でも、噂の中に真実が含まれていることは、ありますよね?

では、不幸な事件の真実を語らせていただきます」

嵐山長十郎が、時代劇映画に復帰した頃、彼には結婚を考えていた女性がいた。小百合(さゆり)という名の女性は、映画や芸能界とは無縁の一般人。長十郎が仕事がなかった頃は彼女の収入で生活していたこともあった。長十郎が安定した収入を手にできるようになったら、今度は彼女の勤めていた工場がつぶれてしまった。長十郎は彼女に結婚を申し込んだ。それまでは、収入の面で負い目があり、切りだせなかったのだ。歳もかなり、離れていたことも、原因のひとつだった。

小百合はそのプロポーズを受け入れなかった。もうひとつ、問題があったのである。長十郎には、先妻との間に、ひとり、息子がいた。ふつうの子供なら、問題はそれほど大きなものではなかっただろうが、息子は知的障がい者で、しかも、時々、狂暴化することがあったのだ。

戦時中は、施設──医師が常駐している──に入っていたのだが、戦後、長十郎の収入が極端に少なくなったため、施設を出ることになった。狂暴化は施設の生活で改善されたようだった。そこで、長十郎は息子を引き取り、小さな家を借りて、家政婦を雇い、息子の生活を支えていたのだ。

その家政婦が年齢を理由に辞めることになった。小百合はその後がまに収まったのだが、結婚するということは、息子の母親になるということ。先に長十郎が亡くなったら──年齢からその可能性が高い──自立できないその子をずっと面倒みなくてはならないのだ……。

息子はまた、施設に入れる、と長十郎はいった。だが、それは小百合が息子を追い出すということである。小百合は、長十郎のもとを去ることに決めた。

事件はその別れの日に起きた。

「小百合さんが暴行され、怪我をした事件、世間では、長十郎さんが別れ話に腹を立てて、愛人だった家政婦に手を出したってことになっています。しかし、小百合さんが被害届けを取り下げたため、不起訴処分となりました。でも、不起訴になる前に捜査員は真実を知ってしまったのです」

「いや、違います!世間の知っていることが真実です」

そこで初めて、若い男が異議を申し立てた。

「ヤスシ、黙って聴いていろ。アタシらが、そんなふうに反論することで、よけい、真相を究明されるんや。この子をただの小学生と思うたら、アカンのや」

「そうですね、ムキになって、否定されると、真実は別のところにあると教えてくれていることになるのですから……」

「そしたら、あんたは真実を知っているというのですか?」

黙っていろ、と言われたのに、ヤスシは確かめずには、いられなかったのだ。

「はい、知り合いの刑事さんを通じて、京都府警にいる、事件の担当者から、伺っています。小百合さんを暴行したのは、長十郎さんの息子さんだったってことを……」

「わ、わずか、一日で、そこまで、調べはったんでっか?なんて優秀な探偵団や。そやったら、こんな回りくどいことせんと、探偵団にお願いしたらよかったんや!」

元大部屋俳優は、そういって、両手の拳を握り締めた。

「ああ、残念ながら、探偵団は解散しています。今回のように、ご近所からの依頼とか、弱い人のための人助けの場合のみ、再結成することにしているんです。ですから、長十郎さんの人捜しのご依頼は、お請けできないことになったでしょうね」

「人捜し!どこまで知ってはるんでっか?大将の目的まで、調べはったんでっか?」

ますます、驚きの声が大きくなった。ボンは両手を差しだし、落ち着くようにという、仕草をした。

「今のは、トラップです」

「と、トランプ?」

「いえ、トラップ、日本語に訳せば、罠、俗にいう、引っかけってことです」

「引っかけ……?えっ!つまり、人捜しってことはデマカセ?知らないのに、知っているふりをして、アタシの口から……」

「ええ、長十郎さんの目的、つまり、今回のあなた方の行動の動機については、最初にお伺いしたように、我々は掴んでいなかったのです。ただ、お話を進めているうちに、何かヒントをいただけるかと思って、長十郎さんの過去をお話させていただきました」

「でも、アタシらは何もしゃべっちゃあおりまへんでェ」

「そうでしょうか?長十郎さんの女性問題の事件の話の時、それまでとは異なる反応をしましたよね?ヤスシさんだけでなく、あなたも……」

「あっ!」

と、ふたり同時に声をあげた。

「あんた、シャーロック・ホームズの生まれ替わりか?」

「いえ、まわりでは、『ルパンの生まれ替わり』とは、いわれていますがね……」


「それで?長十郎さんは誰を捜してるんや?変装までせんと、捜せん人なんかね?」

その日の夕食後、テレビのスイッチを消して、座卓の前にお寅さんと千代とボンが座っている。ボンが先ほどの猪口屋での結果を話し終えたところである。

「まあ、考えられるのは、その小百合さんという、元彼女ね?」

と千代が推理を披露する。

「さすが、顔回!とは、今回は言わんよ」

「えっ!千代さんの推理が外れたかね?」

「いや、半分は当たってる」

「半分?ほいたら、まだ他にも捜している人が居るがかね?」

ボンが無言で頷く。

「まさか、知恵遅れの息子なんて、言わんよね?」

その息子=ボン=の仕草の意味を理解して、千代が尋ねる。

再び、息子が無言で頷く。

「一緒に暮らしていたんではなかったの?」

「そうなんだ。あの事件のあと、知恵遅れといっても十六歳になっていたそうだから、自分が犯した罪には、それなりに自覚していたんだよ。それで、置き手紙を書いて、家出をしたらしい。運良くか、運悪くかはわからないけど、まわりは事件のあと始末で忙殺していて、部屋に閉じこもっているとばかり思っていたそうなんだ。それで、置き手紙を見つけたのは、二日後だったそうだよ」

「でも、知恵遅れの子供でしょう?そんなに遠くへはいけないし、食べ物にも困るよね?」

「長十郎さんたちも、そう考えて、特に、事件発生直後だから、警察には届けなかったんだ。すぐに帰ってくると楽観的な考えだったんだよ」

「それで、そのまま?五、六年経っているわよ」

「もちろん、二、三日後には、あわてて、捜索したさ。警察には、傷害事件の犯人を逃亡させた、と思われたしね。ただ、そのすぐあとに小百合さんが被害届けを取り下げて、事件のほうはカタがついた。警察にも家出人として、届けたんだけど、知恵遅れってことがかえって、捜索の範囲を絞り過ぎる結果になったんだよ」

「つまり、わたしがさっきいったように、遠くにはいけない、って先入観ね?」

「そうなんだ。でも、その子は知恵遅れといっても、十六歳、小学校の四、五年生くらいの知恵はもっている。しかも、小百合さんが家政婦として、面倒みている間に、彼女の人柄に好感を抱いて、色々な話を聞いたり、物事を理解するようになっていたんだ」

「ええっ!小百合さんに好感を抱いてた?嘘でしょう?だって、彼女を暴行したのは、その息子でしょう?」

「母ちゃん、顔回さんやろう?小百合さんは家政婦を辞めて、長十郎さんのもとを去ると決めたんだよ。つまり、息子の=自分の=もとから消えるってことなんだ。やっと自分を理解して、知恵遅れを少しずつ改善に向けてくれた人。おそらく、彼にとっては、新しい母親って認識はなくて、そう、初恋の人だった……」

「おそらくだけど……」

と前置きして、ボンは当時の状況を祖母と母親に説明する。

さようならを告げた小百合を息子はなぜ?と問い詰めたのだろ。小百合は、母親になれないことを説明できなかったはずだ。小百合が母親になる、それは息子が施設に入れられる、ということだ。それを理解する知恵はまだない。いや、理解したら、本当の父親を恨むだろう。つまり、どちらにしても、さようならの理由は話せなかったのだ。

小百合のその態度を息子は誤解して、暴行に及んでしまう。長十郎が気づいて、止めなかったら、死に至らしめていたかもしれない。

小百合は気を失い、救急車で病院に運ばれた。医師が暴行のあとに気づいて、警察に通報し、事件として扱われた。

長十郎は息子を庇い、酒に酔ったうえでの自分の犯行だと証言したが、担当刑事はその嘘を見抜いていた。だから、逮捕には至らず、告訴されることもなく、ただ、噂だけが走っていった。スキャンダルになり、彼は弁明することなく、映画界を去っていった。

一方、小百合は身体の傷が癒える前に病院を出て、告訴取り下げの手続きを済ますと、母親の実家のある、田舎に帰ったのだった。

「その母親の実家のある田舎というのが、土佐なのね?」

と、千代が息子に確認する。

「でも、わからんちや(・・)。小百合さんと息子を捜すために、なんで、銭湯で変な芝居をせな(・・)ならんがぞね?」

「それより、息子を捜すのに、なんで、高知にきたの?息子さんまで、高知で暮らしているのかしら?」

「まさか、千代さん、それは、ないろう。たぶん、小百合さんを見つけて、息子の情報をなんぞ知っちゃあせんか、訊く気やったがよね」

「そうですね、お母さんのいうとおりや」

「残念、不正解」

「ええっ!不正解?息子さんも高知に居るがかね?」

「そう、長十郎さんは考えているようだね。確信がある訳ではないけど、可能性が高いことを何らかの情報で掴んだんだろう」

「それで?お母さんの疑問点に戻るけど、あの風呂屋の狂言の意味は?また、そこまではわかってない、なんていわんろうね?」

「ああ、あれは勿論、ふたりを見つけるためさ」

「人を捜すのに、あんな変な芝居する?どうやって、見つけるのよ?」

「まず、母ちゃんたちが知らないことを教えよう」

「わたしらぁが知らんことが、まだあるがかね?」

「うん、小百合さんの母親の実家の商売がお風呂屋さんやったがやと……。それで、小百合さんと付き合って、最初のハマリ役の大久保利通の格好で、銭湯をまわったら、きっと小百合さんの耳か眼にとまる」

「なるほど、合点がいったぞね(・・)」

「じゃあ、長十郎さんは小百合さんの母親の実家を知らないのね?そしたら、高知中の風呂屋であんな芝居するつもりだったの?」

「いや、東と西で噂になれば、銭湯組合とかで話題になる。小百合さんなら、その芝居の理由がわかる」

「そうか、おおっぴらに、例えば、尋ね人欄とか、使えんものね?元とはいえ、有名俳優さん。事件のこと覚えている人もいる。そのスキャンダルの相手を未だ捜しているなんて、公にはできない。秘密裏に、ってことになるわね」

「ああ、ほいたら、息子のほうはどうぞね?息子も風呂屋で暮らしゆうわけがないろう?」

「ばあちゃん、どうして、暮らしゆうわけがないが?」

「ええっ!風呂屋で暮らしゆうっていうがかね?」

「そう、そこが知的障がい者の不可解な行動なんだ。これは想像だけれど……」

息子は小百合の母親の実家がお風呂屋だということを訊かされていた。それが、高知だということも……。

家出をした彼が向かった先は、四国の高知だったのだ。おそらく、京都駅から、宇高(うこう)連絡船(れんらくせん)を経由して、高知にたどり着いたのだろう。

「待って!おかしいわ。息子が家出をしたのは、事件の翌日か、遅くても翌々日よね?小百合さんはその時、病院で治療中のはずよ。小百合さんのいない高知にいって、なんになるの?」

「だから、不可解な行動、っていっているだろう?」

「いや、アテにはわかる。その息子の気持ち。エイかえ?息子は小百合さんを傷つけたことは自覚していたやろうけど、病院に入院したことは知らん。とにかく、小百合さんにおうて、謝りたい。カッとなって、暴力をふるってしまったが、ひとりになって、落ち着いたら、後悔して、大好きな小百合さんに逢わんとイカン、謝って、許してもらわなイカン。それだけの思いで家出したんや。そしたら、向かった先は小百合さんが、帰りますとゆうた、高知しかないろうがね?」

「さすが、ばあちゃん!ただのハチキンとは違う。老舗旅館の大女将、人生の経験値が半端やないね」

「それ、誉め言葉かね?年の功、いわれるより、まだ年寄り扱いされちゅう気がするちや(・・)……」

「いえいえ、お母さん、わたしも今のお話は、ふつうの経験では考えつかないことだと思いますよ。さすがやと思います」

「そうかね?千代さんにそうゆわれたら、まあ、誉められた気持ちになるちや」

「でも、まだわからないわ?息子さんは小百合さんに逢えるはずもない。高知には、知り合いだって居らんでしょう?どうやって暮らしていけたのよ?」

「うん、そこも想像なんだけどね、ばあちゃん、どう思う?」

「そりゃあ、家出の、しかも、知恵の足らん子供やろう?警察か、児童相談所が保護するろう?」

「あっ!そうですよね。まだ、子供やもん。どこかの施設に保護されますよね?でも、そうしたら、身元がわかって、長十郎さんところへ帰されますよね……」

「さすが、おふたりさん、老舗旅館の女将やねェ。半分くらいはあっているワ。けど、その保護した先、あるいは、人が公の施設やなかった。そして、公の施設に通報せず、自らが保護して、面倒を見てきたとしたら、どう?」

「そりゃあ、ないこともないろうけんど、見知らぬ子供、しかも、知恵遅れ、黙って匿(かくま)うやろうか?」

「ばあちゃんなら、どうする?その子は、知恵遅れだけど、必死で母親らしき人を捜すために、高知までたどり着いた。おそらく、腹を空かして、倒れる寸前……」

「母をたずねて、三千里、かね?そりゃあ、飯を食わせて、一晩は泊めるろう。土佐の人間やったら、皆、そうすると思うよ」

「お伽(とぎ)噺(ばなし)の世界ね?でも、元気になったら、警察に届けるでしょう?」

「その子が必死で、警察とか、施設にはいわんとってくれ、と頼んでもかえ?」

「ううん、難しい選択ね」

「アテはできん。きっと、母親が見つかるまで、面倒みちゃると思う。知恵の足らん子供が、必死のお願いしてるんやき……」

「そうですね。土佐の人間やったら、そこまで、面倒みますよね」

「おふたりの意見が合いましたね?たぶん、そうした理由で長十郎さんの息子さんは高知で暮らし続けていたと思うよ。そして、その保護した家庭とゆうのが、お風呂屋さんだったんだろうね」

「ええっ!そんな都合よく、事が進む?」

「だって、その子はお風呂屋さんを捜していたんだよ。だから、お風呂屋の前とか、お風呂屋さんの家で倒れた、って可能性は充分あるはずさ」

「じゃあ、その子はどこかの、お風呂屋さんで今も暮らしている?それを知った長十郎さんが、あんな変な行動をして、息子の行方を捜しだそうとした、ってことね?」

「そう、で、大切なことは、長十郎さんが、小百合さんか息子さんか、どっちか、あるいは、両方を見つけたかどうかなんだ」

「見つけたら、ハッピーエンドでしょう?」

「そうなることを祈りたいね……」

「そうならない、って感じているのね?」

「ええっ!なんでぞね?長十郎さんはふたりに逢いとうてあんな芝居までしたがやろう?逢えたら、嬉しいに決まっているろうがね?」

「芝居はいいんだ。逢うための手段としてだからね。でも、その芝居がバレたとわかって、なんで、姿を消さんとイカンがやろう?警察やない、こんな子供の僕に知られただけやで。かえって、大久保利通にそっくりな人が、人捜ししゆうと噂になれば、小百合さんが気づいてくれる確率は増えるよね?なのに、逃げる。これは、単なる人捜しではなく、悪いほうの陰謀の可能性があるんと違うかなぁ……」

「それ、『ルパンの生まれ替わり』の直感なのね?」


「千代ちゃんか、お寅さん、居りますか?」

翌日の午前、刻屋の惣菜売場の扉を開けて、傍のテーブルを拭いている、女中のみっちゃんに声をかけたのは、朝日湯の女将、春恵だった。

「あっ、はい、台所で、お惣菜を作っています。呼んできますき、おかけになって、お待ちください」

みっちゃんは、慌てて、布巾(ふきん)を手にしたまま、台所へかけていった。

「春恵おばさん、おはようございます。早いですね。例の騒ぎを起こした、猪口屋のお客さんが、ご主人に頭を下げにきましたか?」

そういって、柱時計の座敷から、土間にあるサンダルを履いて、ボンがテーブルに向かってくる。

「ボン、なんで、それを知っちゅうが?あんた、『ルパンの生まれ替わり』ゆうがは、マッちゃんのテンゴウやなかったがやね?」

「いや、それを説明すると長ごうなるき……」

「春恵さん、あんまり、うちの子を持ち上げんといてよ。それでのうても、勉強せんがやき」

「ああ、千代ちゃん、おはよう。朝早うから、ごめんね。うちとこ、今の時間帯しか暇がないのよ。けんど、お宅のボンは、噂には訊いちょったけんど、ホンマに名探偵ながやね?」

「いやぁ、それほどのことやない」

と、褒められたことに、はにかむように、ボンがいった。

「昨日、アラカン先生と猪口屋さんにいって、騒ぎを起こしたお客さんに、逢うてきたがよ。先生がちょっと、営業妨害になったって、強くいったら、朝日湯のご主人と女将さんに謝るっていってたから、まあ、そのことで、報告にきてくれたんやろうと……」

「まあ、そうやったがや。ほいたら、騒ぎの謎が解けたがやね?」

「うん、なぜあんなことをしたか?ってことはわかったよ。けんど、主犯というか、あの髭面の男は逃げられた」

「春恵さん、謝りにきた連中はなんで、あんな騒ぎを起こしたか、説明したの?」

「ううん、ただ、騒ぎになって、申し訳ない。ほんのイタズラ気分でやったことや、損害がでたなら、探偵料とかは、お支払いするって……。探偵料なんて、うち、払ってないのにね」

「うちは探偵事務所をしゆうがやないき、人助けはするけんど、無報酬やきね」

お寅さんが、惣菜を抱えて、話の輪にはいってきて、誰にいうでもなく、しゃべりながら、出来立ての惣菜を陳列棚に並べた。

「そいたら、お金やのうて、なんかお礼せんといかんね?たった二日、実質、一日で解決してくれたがやき……。そうや、うちとこの回数券、あげるワ。十枚綴りを三つ、いや、みっちゃんの分も合わせて、四つあげるワ」

「春恵さん、エイのよ。探偵団なんてゆうてるけど、みんな、暇人で好き勝手に探偵のフリしてるだけやから……」

「けんど、春ちゃんもそれやと、借りができたままで困るろうき、一つだけもろうとく。それくらいやったら、税務署も怒らんろう?」

        ※

「おう、やっぱり、ここに居ったんか?捜しよったぞ」

 そういって、惣菜売り場の扉から、顔をのぞかせたのは、春恵の亭主、憲男だった。

「どういたがぞね?店の準備の時間やろう?」

「いや、春恵に急用があって……、そうじゃ、ボンにも言わんとイカンことながよ」

「えろう、話が複雑みたいで、ようわからんけんど、憲男さん、ここへ腰を掛けや」

 お寅さんが、憲男の気を落ち着かせるように、中へと誘った。

「インマさっきやが、店に女性客が来て……」

「インマさっき、ち、まだ店はやってないろうがね?」

「ああ、そうゆうたら、お風呂やない、ご主人に頼みがあると……」

「あんた!どこぞの水商売のオナゴとできちゅうがやないろうね?」

「女の人って、美人?歳は若いひと?」

 亭主の話を途中で誤解して、春恵が眉を逆立てる。それに追い討ちをかけるような意味深な言葉がボンの口から発せられたのだ。

「あんた、美人とか若いとか、お、大人の会話やき、イランこといいなや!」

 千代が慌てて、息子の質問を遮るようにいった。

「いや、母ちゃん、大事なことながよ。その人、小百合さんかもしれんろう?」

「えっ?小百合さんって、例の……?」

「千代ちゃん、例の、ってなに?この人、わたしの知らん処に女が居るの?」

「アホらしい、『女房焼くほど、亭主もてはせぬ』憲男ちゃんがあんた以外の女に眼がいくもんかね。ましてや、浮気なんぞ、できるわけがないろう?もし、浮気してたら、褒めてあげるワ」

「お母さん、そこまで言わんでも……。けど、憲男さんが春恵さんにベタ惚れなのは事実ね」

「母ちゃん、そんなこと言わんでも、小百合さんというひとが何者かを春恵おばちゃんに説明したら……?」

「そうやった、春恵さんは、事件の顛末(てんまつ)を知らんがやった。エイかえ、上手う説明できんかもしれんけど、きちんと訊いてよ。あの髭面の男は元俳優さんで、あの格好が当たり役やったがやと。そんで、その格好で、お風呂屋で不思議なことが起こったら、噂になって、その小百合さんという、昔、結婚まで考えた人に伝わる、そう考えて、あんな芝居したがよ」

「付け加えると、その小百合さんという人の母親の実家はお風呂屋を経営しているそうなんだ」

と、ボンは母親の説明に注釈を加える。

「ほいたら、あの騒ぎは人捜しするためやったが?アホ臭い。それこそ、探偵でも雇うたらエイやないの?人騒がせにも程があるワ」

「そう、そうね、けんど、わけがあって、おおっぴらにはできんかったがよ。探偵ゆうても、秘密を守るとは限らんし、費用もかかるしね」

「春ちゃん、もうエイかえ?それより、憲男ちゃんの用事を訊かんとイカンろうがね?」

お寅さんが、話の道筋を正常に戻した。

「そうやった。アンタ、黙ってないで、その女の人がアンタになんのお願いをしたか、話さんかね」

と、自分が話の腰を折り、亭主が黙ってしまったことは棚に上げ、春恵は憲男にきつい言葉を投げかけた。

「ああ、その女が小百合さん、いう人かは知らんでェ。名を名乗らんかったき。ただ、ボンの質問に答えると、まあまあ、の美人で、歳は春恵、オマンと同じばあ(・・)よ。美人ゆうたち、オマンや千代ちゃんには勝てん」

「はい、はい、お追従はエイですき、肝心(かんじん)な頼まれ事の内容のほうをお願いします」

「おう、そうやった。頼まれ事は簡単なことや。あの騒ぎを起こした人か、その仲間に手紙を渡して欲しいっていうのや」

「手紙?その内容は?」

「そんなん、訊けんし、白い封筒で封をしていたし……」

「アンタ、なんもいわんと預かったがかね?うちとこは、ずいぶん、迷惑したんやとか、嫌味のひとつもいわんと……、ああぁ、やっぱり、美人には甘い人やワ」

「それで、その封筒は、まだ持っているの?」

「いや、夕べ謝りにきた、猪口屋のお客が、朝のうちに、旅館を引き払う、ゆうてたから、堅太に急いで届けさせたワ」

「堅太君に?大丈夫?あの子ちょっと、オツムのほうが……やろう?」

「大丈夫やろう、猪口屋の泊まり客はそのふたりだけやし、女将の悦子ちゃんが気が利(き)くき……」

「気が利くねェ?効きすぎて、噂にならんとエイけんど、朝日湯の旦那が、若い美人から、手紙を頼まれたって、あらぬ、噂が……」

「ばあちゃん、そんな噂より、手紙が大事ながよ。僕、猪口屋さんへいってくる」

ボンはサンダルばきのまま、惣菜売場の扉を開けて、飛びだしていった。

「ボンって、見かけによらず、行動派ながやねェ?パイプ咥えて、推理する、探偵さんやないがや。やっぱり、ホームズとゆうより、ルパンながやねェ?」

「春恵さん、変な噂、拡めんといてよ。それでのうても、あの子、変わりもんと思われちゅうき……」


「ワン、ワン」

「あっ!ジョン、賢いねェ、今、お前を迎えにいこうと思うちょったところよ」

刻屋を飛びだし、ボンが東へ走っていると、アラカン先生の家から、大きな、洋犬と日本犬のミックス犬が、しっぽを振りながら、飛びだしてきたのだ。どうやら、ボンの匂いを嗅ぎ付けて、遊んでもらえると思ったのだろう。

ジョンが足元にじゃれついてくるのを、右手を差しだし、『待て!』の合図を送って制すると、ボンはジョンの横をすり抜け、先へと急ぐ。ジョンはすぐに反転して、ボンのあとに続いた。

ボンが、猪口屋に迫ると、玄関のガラス戸が音をたてて、中から、坊主頭=五厘刈り=の青年が出てきた。朝日湯で雑用係として住み込みで働いている、堅太だった。

「あっ!ケンちゃん、ちょうどよかった、お使いは済んだの?手紙はお客さんに渡せたの?」

堅太とボンは顔見知りだが、歳の差もあり、あまり、口をきくこともない。加えて、堅太は人見知りが激しく、朝日湯の主人か女将以外で彼と話をするのは、彼の頭を五厘刈りにした、散髪屋のマッちゃんくらいだった。

だから、堅太はボンの問いかけに、緊張したのか、身構えて、言葉を発しない。

「あらあら、ケンちゃん、刻屋のボンやいか、知り合いやろう?」

堅太のあとから、猪口屋の玄関から出てきた、女将の悦子が、ふたりに気づいて、堅太に声をかけた。

「う、うん、ボ、ボク、し、仕事があるき……」

と、堅太はボンを避けるように朝日湯のほうに駆けていった。

「まあまあ、仕事熱心やねぇ。お使いができたき、お饅頭(まんじゅう)とお茶をご馳走したら、帰りが遅くなったら、女将さんに叱られる、って。ゆっくりしていけばエイのにね……」

「堅太さん、いくつなんですか?」

「えっ?ケンちゃんの歳のこと?そうね、見た目はまだ、子供、中学生くらいだけど、もう立派な大人よ。二十二歳になったかな?」

「いつから、朝日湯で働いているんでしたっけ?」

「そうね、中学出てからだと思うから、六年くらい前かな?」

「朝日湯さんの親戚なんですか?家族同様に暮らしているようだけど……?」

「家族同様ね?家族やったら、あんなに、こき使わんろう?親戚か知り合いから、無理して、預かったのかもしれんね、詳しいことは知らんけんど……」

「ま、まさか……?」

「まさかって、どうしたの?」

「あっ、いえ、こっちの想像の世界。それより、堅太さんが届けにきた、手紙は、お客さんに渡せたんですか?それで、あのふたりの客は?」

「ああ、それでボンがきたのか?ちょうど、出発するところにケンちゃんが来て、手紙はお客さんに渡せたよ。その場で封を開けて、中身を読んで、ビックリしたのか、大喜びで、ケンちゃんに、お駄賃(だちん)や、ゆうて、聖徳太子(しょうとくたいし)をあげたんよ、まあ、千円札やったけどね……」

「それで、そのまま、出発したんですね?どのくらい前?どこへ行くとか、いっていませんでしたか?」

「そうね、十五分くらい前かな?どこへ?そうだ!若い人が大将に知らせんと、っていってたから、その大将って人のところよ。どこかは知らんけどね……」

「十五分、もう無理かな?そうだ、悦子さん、その客が着ていた、浴衣かどてらはあります?洗濯してないやつ。あったら持ってきてください。ジョンに匂いを嗅(か)がせますき……」

「やっぱり、あいつら、指名手配の犯人やったが……?」

「お母さん、朝日湯のケンちゃんって、春恵さんのほうの親戚の子でしたっけ?」

息子が飛びだし、朝日湯の夫婦も風呂屋の開店前の準備のために、お礼の挨拶をして帰っていった。テーブルの上の湯飲み茶碗を片づけながら、千代がお寅さんに何気なく尋ねたのだ。

「ああ、そんなことゆうてたな、詳しいことは知らんけど……」

「何年前でしたかねェ、ここへきたの?下の子が生まれる前やったけど……」

「そうやねェ、五、六年になるろうか?義務教育の中学校を出た、ゆうか、追い出されて、仕事は見つけられんし、風呂屋の雑用くらいはできるろう、親戚のほうは口減らし、飯さえ食わせてもらえたら、エイ、くらいで引き取ってもろうたがやろうね?」

「そうですか、わたし、もしかしたら、って思ったんですけど……」

「もしかしたら、って?」

「いや、いいんです。そんな偶然、あり得ませんよ」

「偶然っち、……、ええっ!ケンちゃんが、例の長十郎さんの息子?そりゃあ、まさかぞね」

「そうですよね。さっき、春恵さんには、人捜しって説明したけど、小百合さんっていう、元婚約者のことしか伝えていなかったですね。ついでに、息子のことも話してたら、反応が窺(うかが)えたでしょうけれど………」

「マッちゃんにでも訊いてみるかえ?」

「ダメですよ。確かに、お隣だし、ケンちゃんとお話しできてるのは、マッちゃんくらいですけど……」

「そうやねェ、あの男の情報は七分が法螺(ほら)で二分が出鱈目(でたらめ)で、本当は一分、あるろうか?やきねェ」

「女将さん、そんなことゆうたら、マツさん、可哀想(かわいそう)ですよ。最近、ボンと仲良くなって、ボンが上手(うま)くおだてて、確かな情報を提げてきていますよ。昨日も来ていて、ボンが喜んで、マツさんのこと褒めていましたよ」

 そういったのは、片づけを手伝いにきた、みっちゃんだった。

「ヘエ、うちの孫、ひとの扱いかたも、小政さんを超えてきたがかね?誉め殺(・・・)しの手を知ったがやろうか?」

「それより、みっちゃん、昨日、マッちゃん、どんなことをうちの子に知らせにきたの?」

「詳しくは知りませんよ。お茶を運んだ時に、チラッと訊いただけですから……」

「うん、それはしゃあない。訊いた部分でエイのよ」

「ひとつは、朝日湯の怪しいお客は、嵐山長十郎に間違いないってこと。ひとつは、下(しも)のお風呂屋で同じ様な事件があったこと、もうひとつ……」

「もうひとつ?そこまでは訊いてたけど、まだあったが?」

「ええ、それは、朝日湯さんで起きた出来事を、下から順番にめぼしい銭湯で尾鰭をつけて、言いふらして、たぶん、市内のお風呂屋さん中に拡まっただろうと……」

「そうか、マッちゃんの一番の得意技、噂を拡める能力を使うたか。お風呂屋に注意(ちゅうい)喚起(かんき)ってゆうたら、いっぺんで噂が伝わるワ。それで、小百合さんらしき女性が、噂を訊いて、朝日湯へ手紙を持ってきたのか……」

「ほいたら、千代さん、マッちゃんは長十郎さんの人捜しにひと役こうたことになるやいか?」

「それで、うちの子、慌てて、猪口屋さんへ走ったがか?これで、長十郎さんと小百合さんが逢うことになるかもしれんきね。ただ、あの子は、それが、エイ結果やのうて、悲劇になるかもしれん、と思うちゅうがよ……」


       10

「それで?ジョンは、猪口屋のお客の匂いを追いかけて、居場所へ辿りついたがかね?」

「いや、いくらジョンが名犬ゆうても、電車通りから、タクシーに乗ったお客の行き場所まではわからんよ」

昼過ぎに帰ってきて、遅めの昼食を食べ終えたボンに、お寅さんがその後の経過を問い質したのだ。

「タクシーに乗ったのはわかったの?ジョンがタクシーを見て吠えたの?」

「まさか、母ちゃん、ジョンにそこまで、期待しなや。それやと、名犬やのうて、エスパー(・・・・)犬や。タクシーに乗ったのがわかったんは、闇市の出口のお肉屋さん。あの店員さんか店のお嬢さんか知らんけど、若い女性に、こうこうゆう風体(ふうてい)のふたり連れ、見んかったか?十五分くらい前に?って訊いたら、見てたっていうんだ。タクシーを停めて、東のほうへいったって……」

「そうか、あそこのお肉屋、電車通りをほぼ完全に見えるもんね。朝の時間帯やったら、お客も居らんろうし、今日は祭日やし……」

「うん、そう思うて訊いてみたがよ。けど、東のほうゆうたら、高知駅か桟橋か?あるいは、はりまや橋近辺か、その先の五台山か、さっぱりわからん。すぐ、近く、例えば、城西館くらいやったら、ジョンが匂いを嗅ぎつけることもできそうやけどね。それ以上やと難しい。ただ、タクシーの会社は『みくに』さんやったらしいき、勇さんに頼んだら、何処まで走ったか調べられると思うけど、事件やないし、警察は使えんよね?」

「かまうもんかね、市民のための警察や。アテらぁの税金で飯を食いゆうがぜ。アテも税金、納めゆうがぜ」

「そうよ、いえ、税金、うんうんは置いといて、勇さんには貸しがあるのよ。この前のハマさんのお手柄にする事件。特にジョンには、相当の借りがあるはずよ?」

「そしたら、頼んでみようか?これ以上は、マッちゃんやアラカン先生では、コトが足りんきね。ジョンでも無理やし……」

 と、湯呑の番茶をボンが口に運ぼうとすると、

「こんにちは!千代さん、おりますか?」

と、惣菜売場の扉の辺りから、若い男性の声がした。

「あの声は……」

「噂をすれば、やねェ……」

食卓のある奥の部屋から、一旦土間に降り、下駄を突っ掛けて、千代はその声の主のところへ急ぐ。

「あら、勇さん、久しぶりやいか?」

と、すぐさっきまで、噂をしていたことなど尾首にもださす、県警の刑事に千代は挨拶をする。

「ええ、ちょっと、忙しくなって、ゆっくり、飯も喰えんがです」

「あら、昼ご飯、まだなの?」

「ええ、腹ペコですき、なんか喰わしてください」

「あら、ちょうど、息子が今、昼ご飯食べたところ。余りもんやけど、鯨の煮込みがあるワ。お味噌汁も暖めてあげるき、座って待ちよって……」

「へぇ、ボンも忙しいがですか?遅い昼ご飯ですね?」

「ちょっと、探偵をしているんでね」

と、食後のお茶を飲み終えて、ボンが土間に降りてくる。

「探偵?また、なんか事件ですか?」

「それ、こっちのセリフや。忙しいって、最近、殺人とか、強盗とかの凶悪犯罪は新聞には出てないよ。刑事課の凶悪犯罪係がなんで忙しいが……?」

「それがね、杉下さんからのたってのご依頼があってね」

「杉下さん?この前、電話して、京都の事件のこと調べてもろうたばっかりやけど……」

「ああ、それで、急に思いついたように、僕に振ってきたがや」

そこへ、千代とみっちゃんが、お盆に勇次の昼食を乗せて、テーブルに運んできた。

「杉下さんがなんのご依頼?勇さんより、優秀な刑事はようけ居るろうに……?」

「あっ!千代さん、それはいわんといてください」

「そうだよ、本当のことでも、みっちゃんの前では……」

「ボ、ボン!もっとひどいやいか……」

「まあ、勇次さんをイジメんといてください。わたし、警察のことは詳しゅうないですき……」

そういって、みっちゃんは、お盆を提げて、台所へ帰っていった。

「なに、今のセリフ?みっちゃん、勇さんを庇(かば)ったってこと?」

「そうみたいね?勇さん、あんた、脈があるやないの、みっちゃん、勇さんを気にかけているのよ」

「本当ですか?う、嬉しい……」

「まあ、もうちょっと頑張って、お給料が上がったらね。それより、杉下さんからのご依頼、ってなに?こっちのほうなの?」

と、千代は自分の頬を人差し指で斜めに撫でた。

「けど、◯◯組は幹部と組員が何人も捕まって、おとなしゅうなったがやろう?」

「そうながです。けど、暴力団は一つやない。縄張りがあって、めったに抗争は起きんがですけんど、弱みにつけ入るのが、アイツらの常套手段ですき……」

「◯◯組と違う暴力団が蔓延(はびこ)ってきゆうが?」

「ええ、東のほうに関西から、別の組が蔓延ってきゆうがです。縄張り争いが起きそうで、ハジキを持ったチンピラを捕まえたんですが、どうも、殴り込みの計画があったようで……」

「じゃあ、暴力団同士の抗争が起きそうだから、あんたを補充したってこと?格闘技、全くダメなあんたを……?」

「母ちゃん、勇さんの特技、この前の事件で……」

「ああ、射撃の腕は一流?ええっ!それで選らばれた?じゃあ、ドンパチ騒ぎになって、あんたの特技が必要になるってこと?怖すぎるやないの?安心して寝られんやいか……」

「まあ、ドンパチ騒ぎが起きんようにするのが、杉さんたち、マル暴係の思惑なんでしょうね。僕は最悪の場合の切り札や、って、杉さんいってました。それと……」

「それと?」

勇次が微妙に言葉を濁した気がして、千代が話を促す。

「杉さんの冗談でしょうけど、『おまん(・・・)と居ったら、刻屋の若女将と話す機会が増えるき』って……」

「ははは、母ちゃん、モテるねェ、小政さんだけやないがや、顔回のファン、あっ!いいすぎた……」

「忙しいところ、頼み事があるがやけんど、今日の昼ご飯は僕の残りものみたいなもんやき、タダにしちゃお。ばあちゃんには内緒でね」

勇次が、もうひとつの特技の速や飯で、どんぶりのご飯を食べ終えた時、ボンがそう切り出した。千代は息子が食べ終えた食器類の片づけに台所へ向かった。お寅さんは、早くも、夕御飯の準備を始めていた。

「なんです?ボンの頼み事ゆうたら、探偵のほうでしょうけど……、女性関係の悩み事は僕には相談せんろうき……」

「あたり前や、女の子のことやったら、小政さんに……、いや、あの人はモテすぎるから、参考にならんか?けんど、モテたことのない、勇さんよりましか……?」

「ボン、さっきから、ひどいセリフが続いていますよ。まあ、マッちゃんの法螺やなくて、本当のことですけんど……。頼み事する相手にいうセリフやないでしょう?」

「ごめん、ごめん、女の子のことなんて、勇さんがいうからや。頼み事というのは、『みくにハイヤー』さんが乗せたお客の情報ながよ。こればっかりは、警察の力やないと教えてもらえんき……」

そういって、ボンは猪口屋の客が、闇市前の本丁筋五丁目の電停近くから、東へタクシーに乗っていった件を簡潔に説明する。

「今朝のことながやね?簡単や、ちょっと、電話借りてエイかね?」

勇次はそういって、立ち上がると、玄関を入った場所にある黒電話の受話器を持ち上げた。手帳を開いて、電話番号を探そうとしているのを見て、

「勇さん、みくにハイヤーは、眼の前の電話番号表にあるよ」

と、千代が勇次の使った食器類を片づけながら、教えてくれた。

「あっ、そうでした。ここは、旅館でした。タクシー会社は一覧表に載っていますよね」

そういって、勇次は眼の前の電話番号表の『みくにハイヤー』の欄を見ながら、ダイアルを回した。

「もしもし、みくにハイヤーさん?社長さん、居りますか?あっ、こちらは、県警の坂本といいます……。あっ、社長?坂本です。先日はご協力ありがとうございました。またまた、申し訳ないんですが、今朝、そちらのタクシーを利用した客を調べているんですが、本丁筋五丁目の電停北から、東へ向かった、男性二人連れなんですが、何処まで走ったか、調べてもらえんかと……」

そこまで、いって、受話器を持ったまま、少し時間を置く。

「はい、二人のうち、一人は白髪交じりの短髪で小男、もう一人は若い男です。えっ?乗せた運転手が食事に帰っている?代わってくれますか?」

電話に出てくれた運転手はベテランで、乗車した客は全部覚えていると豪語(ごうご)している男だそうだ。当然、今朝のことだから、よく覚えていた。

闇市から出てきた二人連れを肉屋の前で乗せた。行き先は桂浜にほど近い、旅館だった。タクシーの中で、世間話をして、感じたことは、観光客ではないと思う。関西人で間違いない。行き先の旅館は名前だけ知っているように思う。誰かがその旅館に泊まっていて、落ち合うつもりのようだった。

「旅館の前で少し車を停めて、様子を伺っていたら、中年の男性が出てきて、何かしゃべったあと、中に入って行きました」

と、かなり詳しく、電話口で話してくれた。

「怪しい奴だと思ってましたよ。刑事さんが調べているんでしょう?アタシの勘も捨てたもんじゃあない。この道三十年、やきね……」

と、最後にマッちゃんのようなセリフをいって、受話器を切った。

「旅館の名前は?」

と、受話器を置いた勇次にボンが尋ねる。

「ああ、南海(なんかい)荘(そう)というところや。電話してみようか?」

「そうやね、嵐山長十郎とは名乗ってないろうけんど、京都からのお客さんゆうたら、わかるろうきね?」

勇次は、電話の横に置いてある電話帳のページを捲り、南海荘の番号を回す。

「ああ、そうですか?お昼にお引き取りになった?朝方、訪ねてきた二人連れと一緒にですね?それで、何処へ向かったか、わかりませんか?ええっ!桂浜を見てこよう、といっていたんですか?はい、どうもありがとうございました」

「桂浜か、今から行って間に合うかな?」

「ボン、前にジープを停めているから、一緒に行こう。ボンの、いや、『ルパンの生まれ替わり』の予感を信じるよ」

「うん、じゃあ、ジョンを連れてくる」

そういって、表へ出ようとしたら、

「ワン、ワン」

と、呼ぶ声がした。

勇次が乗ってきたジープの横で、ジョンがふたりを急かすように、吠えていたのだ。

「もしかして、ジョン君って、予知能力があるがですか……?」


11

勇次はジープの屋根に赤い回転灯を取り付けると、サイレンを響かせて、電車通りへと車を走らせる。緊急車両として、信号を無視して、桂浜へと向かっていった。

 ジープの中で、ボンは勇次に朝日湯で起きた出来事を説明した。

 桂浜のバス停近くに、ジープを停めると、

「おう、ハヤ、警察が来てくれた」

 と、桂浜水族館の作業着を着た中年男性が勇次に話しかけたのだ。

「何かあったがですか?」

 と、助手席から降りてきたボンが男に尋ねた。

「おや、子供連れ、犬まで連れてきたがかよ?変わった刑事やのう」

 男の周りには、数人の男女が、怯えるような顔をして、勇次やボンを見つめている。

「我々は通報があって来たものではありませんが、何か警察に通報しなければならない事態が発生したのでしょうか?」

「そうながか?あんまり、早いと思うた。一分も経(た)ってないき。けんど、あんたらぁは警察官やろう?子供の格好してるのは、そうか、探偵さんか?金田(かねだ)正太郎(しょうたろう)くんやな?」

 金田正太郎とは、人気漫画『鉄人28号』の主人公の少年探偵のことだ。

「いや、あんた、要(い)らんこと言わんと、何があったか、ゆうてください」

 今度は、ボンに代わって、勇次が警察手帳を男に差し出して、怒ったような口調でいった。

「インマさっき、水族館から、出てきたお客が、龍(りゅう)王(おう)岬(みさき)から、飛び下りたがよ」

「飛び下りたって、砂浜にですか?」

「テンゴウいいなや!海に決まっちゅうろう。それより、岬の鳥居の前で、女性が刃物で刺されて、血だらけながよ。たぶんやけど、飛び下りた男が刺したがやと思う」

そこへ、救急車がサイレンを響かせて、敷地内に入ってきた。救急隊員が担架を担いで、龍王岬へと向かう。ボンと勇次とジョンがそれに続いた。

急な石段をかけ登り、赤い鳥居の前に、地味なカーディガンとスラックス姿の女性がうつぶせの状態で倒れているのを見つけた。救急隊員が数人の野次馬をどかして、女性の傍らにしゃがみこんで、状態を確認する。

「まだ、息はあります。すぐに病院に運んでいいですか?」

そばに近づいてきた勇次を刑事とにらんで、隊員のひとりが確認した。

もう一人は、応急処置を始める。

「いや、僕は通報を受けた所轄(しょかつ)のもんではないんで……、たまたま、ほかの事件の調査中だったんですが……」

「ワン!」

と、ジョンが吠える。

「勇さん、人命が第一や。所轄には、勇さんが状況を説明したらエイがやない?県警の刑事やきね……」

「そうや、人命が第一。早く病院へお願いします」

勇次の言葉に救急隊員が素早く行動を起こし、女性を担架に乗せると救急車へと運んでいった。

それと入れ替わるように、パトカーと警察車両のジープが到着した。高知南署の刑事と警察官数名である。

「おや、本部の敏腕刑事やないか?エライ早い到着やな?手柄たてるもんは、普段から、事件に敏感やないとイカンがやろうけんど……」

「ああ、桑野(くわの)さん、担当が先輩でよかった。実は、別件で桂浜にきたんですが、殺人未遂と犯人の自殺と思われる事件に遭遇しまして……」

勇次は南署の部長刑事、先輩にあたる桑野警部に状況を説明した。

「そうか、人命が第一や。事件の解決より優先や。それで、刺した男は海に飛び込んだがか?よし、海岸線を調査や。借りれる漁船の手配を頼め」

桑野警部は、部下たちに的確な指示を与え、事件の目撃者への聞き取りを始める。

「ボン、どうする?僕らの調査はできそうにないけんど……」

「勇さん、この事件が、ひょっとしたら、僕が悲劇的な予感がするといっていたもんかもしれないよ?」

「ええっ!それって……」

「さっきの女性が小百合さんで、海に飛び込んだのが、嵐山長十郎……」

「ワン!」

「ジョン君もそう思うがか……?」

「それで?あんたの予感が当たったの?」

桂浜から、勇次が手配してくれた、別の警察車両で、ボンとジョンは帰ってきたのだ。ジョンは土間で、千代からもらった、焼き芋を美味しそうに食べている。ボンは居間の座卓に乗っている木製の菓子鉢から、栗饅頭を摘まんで、かぶりついたところだ。

送ってくれた、制服姿の警察官に礼をいって、千代が居間に帰ってきて、息子に問いかけたのだ。

「勇さんが残って、捜査に立ち合っている。今晩、ここへ寄るって……。僕とジョンは捜査の邪魔になったらイカンき、送ってもらった」

桂浜での出来事を語った後、ボンは母親に事情を説明したのだ。

「じゃあ、まだ、予感は確定的ではないのね?」

「うん、けんど、送ってくれる、ジープを待つ間に、目撃者の人に訊いたがよ。海に飛び込んだ男の風体とか、連れはいなかった、かとか。刺された女性とは顔見知りのようだったとか、ね」

「あんた、勇さんの仕事やろう、それは……?ホンマ、探偵が板についてきすぎや。けど、エライ!と褒めてあげるワ、今回だけは……」

「別に母ちゃんに褒めて貰わんでもエイ。小政さんには褒められたいけどね」

「まあ、どっちでもエイけんど、目撃者からの情報を話しや」

「ああ、まず、海に飛び込んだ男は、中年の色白で、品の良さそうな人やったって。とても、人を刺し殺すような人物には見えんかったって……」

「それって、嵐山長十郎の可能性が高いやないの?」

「うん、それにね、龍王岬に登ってきたのを見ていた人が言うには、男と刺された女性は顔見知りのように、話をしもって、石段を登ってきたんやと」

「顔見知り?じゃあ、小百合さんの可能性も高いってことか……?あっ!でも、長十郎には部下というか、連れが居ったがやない?高松のうどん屋と近江の元大部屋俳優……」

「うん、そこは確定的ではないんだけど、男は水族館に入ったのは間違いないそうなんだ。その時はひとりだったらしい。けんど、入る前に、切符売り場の前で、誰かと話をして、別れたようだったって、最初に僕たちに話しかけた水族館の職員さんがいっていた。ただ、相手は男というだけで、顔や風体は見ていない。ふたりだったかも、わからんそうなんだ」

「ふうん、でも、状況はあんたの予感が当たったって感じね?」

「あとは、刺された女性が助かって、話が訊けたら、エイがやけんど……」

「海に飛び込んだ男はどうなの?前に勇さんが、発砲して、肩に怪我したまま、飛び込んだ悪党のように、逃亡を図ったのかしら?」

「時(とき)影(かげ)か……、勇さん、それを思い出したらしいよ……」


12

その晩、ボンの予想より遅い時間に勇次は刻屋の玄関のガラス戸を開けて、重い足取りで入ってきた。

「エライ、疲れた様子やね?捜査が大変やったが?」

いつもの玄関脇の丸いすに座りこんで、みっちゃんが淹(い)れてくれたお茶を飲んだあとも元気のない勇次を、千代は心配顔で尋ねたのだった。

勇次は無言で首を横に振った。

「刺された女性が助からなかったの?」

「はい、さすが、顔回の生まれ替わりですね……」

そういわれたら、いつもなら、眉を逆立てる千代も、フッとため息をつくだけだった。

「勇さん、お疲れ様やったね。僕の勝手なお願いに付き合わせて、担当やない仕事をさせてしもうて、ごめんよ」

パジャマ姿のボンが座敷から、土間に降りてきて、母親同様、元気のない勇次を気遣った。

「いや、ボンのおかげで、事件の全貌が読めたがですき、こっちがお礼をいわんとイカンがです。何も知らんと、あの桂浜の事件に関わっていたら、事件はお宮入りにはならんでも、相当、暇がかかっただろうと、桑野警部がいってましたき……。どうも勘違いして、ボンの手柄なのに、僕の手柄と思い込んでいるようで……」

「いや、いいんだ。勇さんの手柄になって、勇さんのお給料があがって、みっちゃんと結婚できたら、僕も嬉しいよ」

「ボ、ボン、そこまで考えてくれてたんですか?う、嬉しい、いや、感動です」

「あんた、感動するのはエイけんど、みっちゃんにいつ告白するの?わたしらぁが応援しても、本人が結婚してくれ、っていわんと、埒が明(あ)かんやろう?」

「母ちゃん、みっちゃんに聞こえるよ」

「聞こえるように、ゆうてるの」

と、母子は小声でいいあった。

「ところで、さっき、うちの息子のおかげで事件の全貌が読めた、ってゆうたけど、そしたら、この子の悪い方の予感が当たったってことよね?」

「ええ、女性が亡くなる前に、病院の医師が、女性が話しておきたいことがある、というので、僕も立ち会うたがです……」

『自分は、山本小百合、自分を刺した人は嵐山長十郎さん、でも、これは、心中です。ふたりで死ぬためにあの人はわたしを刺したのです。決して、殺人犯ではありません……』

そう言い残して、息をひきとった、と勇次は涙目で語った。

「嘘やね」

「えっ?ボン、今際(いまわ)の言葉やで?何で嘘つかなイカンがよ?」

「長十郎さんを殺人犯にはしたくないからさ」

「わたしもそう思うワ」

「ええっ!千代さんまで……?」

「まず、凶器、殺傷能力のある、ナイフのようやったよね?小百合さんと長十郎さんは何年も音信不通状態だったんだろう?もし、仮に心中だとしたら、いつ、ふたりで決めたの?桂浜で会った後だよね?そしたら、凶器を長十郎さんが持っているのって、不自然だよね?」

「そうね、わたしもそう思う。心中といっても、無理心中よ……」

「無理心中……、千代さんもそう思うがですか?いや、実は、桑野先輩も、殺人か、無理心中か?難しいな、っていうてました。けど、殺された人が、死ぬ寸前に、犯人を庇うて、嘘の証言するでしょうか?」

「犯人やのうて、その家族の、ために、ね……」

と、ボンが呟くようにいった。

「家族?長十郎さんの家族って……?」

「行方不明の息子よね?前の傷害事件でも、息子を庇って、被害届けを取り消しているものね……」

と、千代は自分を、納得させるように、呟いた。

「でも、小百合さんは息子が家出したこと、ましてや、その息子が高知にいるらしいことなど、知らんがやないですか?」

「知っていたと思うよ。もしかしたら、その居場所もね……」

海に飛び込んだ男の遺体は見つからなかった。桂浜の波は複雑で、沖に引かれてしまうと、外洋まで運ばれることもあるのだ。警察は、結局、心中事件として、捜査を終わらした。小百合の最後の証言を疑いながらも採用したのだ。

小百合の遺体は検死の結果、胸を刺された、大量出血によるものと発表された。心中の相手の名は不明、新聞では、ほとんど、記事にはならなかった。嵐山長十郎の名は世間には話題にもならなかったのだ。

「若女将は居るかえ?」

桂浜の事件から、ほぼ一週間後のお昼前、刻屋旅館の玄関のガラス戸を開けて、レイバンのサングラス、バーバリーの高級なスーツ姿の男が入ってくるなり、惣菜売場のテーブルを拭いていた、 みっちゃんに声をかけた。

県警のマル暴係の主任、杉下警部だ。みっちゃんは、何度か逢っているはずなのだが、一見、警察官というより、ヤーさんと誰もが思うその容貌に、すぐには返事ができなかった。

「あのう、どちら様でしょうか?」

と、恐る恐る、尋ねた。

「みっちゃん、ワシや、前に、ハマさんの送別会で、ここの二階で一緒に飲んだろう?」

「ハマさんの送別会?えっ!警察のかたですか?あっ!思い出した。暴力団担当の杉下警部さんでしょう?」

「なんや?警察官に見えんがか?こんな刑事らしい刑事は居らんと、まわりはいいゆうぞ?」

みっちゃんは何故か、脅迫されているような気がして、次の言葉が出てこない。

「誰かと思うたら、マル暴の杉下警部さんやないですか?先日は、京都府警に調査をお頼みして、ありがとうございました」

柱時計の座敷にボンが姿を見せ、困っているみっちゃんを助ける。嵐山長十郎の女性問題という事件を調べるため、京都府警に知り合いがおり、なおかつ、顔がきく杉下警部に千代が電話した件の礼をいったのだ。

「おう、名探偵君、元気そうやいか。若女将は?留守かえ?」

「たぶん、二階のもの干し場ですよ。みっちゃん、呼んできて。顔回のファンがきちゅうってね。あっ!ただし、小政さんやないことも伝えてよ」

「おい、おい、顔回のファン、ち、なんぜよ?ワシは大事な用があってきちゅうがぜよ。若女将の顔が見たいがやないがやき」

「大事な御用?うちは暴力団にミカジメ料など払っていませんよ?この町内では、一軒もないはずですよ。顔役さんがにらみを効かせていますからね……」

「ボン、ワシの用は暴力団のことばっかりと思うたらイカンぜよ。さかもっちゃんがなにやら、ボンか若女将に頼まれごとをしちゅうらしいやいか?マル暴が忙しいき、助っ人を頼んだに、どうも、他のことに気を取られちゅう。暴力団との関わりは緊張して居らんと、何が起きるかわからんき。今朝も、ボンも知っちゅう、◯◯組の幹部やった、虎乃(とらの)介(すけ)の豪邸前で、発砲騒ぎになるところやったがやき」

「虎乃介の豪邸?あの人身売買を企んでいた?あそこ、空き家になったままやないがですか?」

「それよ。空き家やったがやけど、要塞のような造りやろう?今、◯◯組は落ち目で、関西に本部がある✕✕会系の末端組織が喧嘩をふっかけゆうがよ。チンピラ連がハジキを提げて、組事務所を狙いゆうらしい。それで、◯◯組の組長が、要塞のような虎乃介の豪邸へ逃げ込んだがよ。それを知ったチンピラが、要塞に入る前にと、襲撃を企てた。ところが我がマル暴係は優秀やき、それを事前に察知して、チンピラどもを一網打尽(いちもうだじん)に逮捕よ。銃刀(じゅうとう)不法(ふほう)所持(しょじ)の現行犯でね……。ところが、さかもっちゃん、チンピラ相手やのに、油断したのか、顎(あご)に一発喰ろうて、ノックダウンよ。まあ、大した怪我やない。二、三日アザが残るくらいやが、さかもっちゃんらしゅうないがよ。あいつ、格闘技はアカンけど、逃げ、つまり、防御は上手いんや。動体視力がエイきやのに、今回はヘマやった。そしたら、さかもっちゃん、マル暴の仕事が済んだ後で別の捜査をしていたんやと。ワシは知らんかったが、他の係員が教えてくれた。どうも、桂浜の心中事件を追っているようや、っていうんや。そしたら、ここが絡んでいるはずやろう?京都の事件とも関係しているようやし……」

「勇さん、怪我したの!?」

中途半端に杉下警部の話を聞きかじった千代が、階段を降りてくるなり、そういって、警部を驚かせた。

「おう、若女将、相変わらず、キレイで若々しい、若女将の顔を見ると、嫌なことも忘れる。いや、そんなイラン話をしにきたがやない。勇次からの伝言や」

「杉下さんに伝言を頼まなイカンほど、勇さん、怪我の具合が悪いがですか?」

千代の問いに警部が答える前に、階段から降りてきた、みっちゃんが、真っ青な顔をして、奥の座敷に駆け込んでいった。

「いや、怪我はたいしたことはない。検査のため、病院に行っただけよ。唾(つば)でも治る、若女将の唾やったら、一発で良うなるろう?ははは、これは冗談やけんど……」

サングラス越しでいわれたら、とても笑えない、母子(おやこ)であった。

「みっちゃん、勇さんの怪我、たいしたことないんやと……」

と、息子が奥の座敷に向かって、大きな声でいった。

「みっちゃん、勇次のこと、心配しゆうがかよ?脈があるってことかよ?」

「杉下さんが勇さんにマル暴係の手伝いをさすき、みっちゃん、心配しゆうがですよ。相手もピストルを持っちゅうがでしょう?」

「ボン、スマン。けどな、勇次は今のままじゃあ、刑事として、大きゅうなれんがよ。ワシもいつ異動があるかもしれん。今のうちにあいつを鍛(きた)えなイカンがよ。今、あいつはここの面々のおかげで、刑事として上昇気流に乗っちゅう。今が一番、鍛え時ながよ。ワシが居るき、絶対、あいつを危険な目には遇わさん。みっちゃんにそうゆうといてや」

「うん、杉下さんの下で働いて、立派な刑事にならんと……」

「お父さんのような名刑事にね……」

「ところで、勇さんからの伝言って、なに?」

千代が、一旦、台所に入って、お茶を運んできたところで、会話が再開する。

「おう、ボンが、いや、若女将も知りたがっちゅうことよ。桂浜の事件のことや。まずは亡くなった小百合という女性やが、鴨部(かもべ)の『寿(ことぶき)湯』という銭湯の外孫やった。山本小百合が本名。三十六歳やが、未婚。寿湯は、ジイさんと小百合の従妹(いとこ)が経営しゆう。従妹の名は加奈子(かなこ)。既婚で、旦那は養子。市役所の職員やそうや。従妹には、子供はまだない」

と、小百合の家族構成を語ったところで、お茶をぐっと飲む。

「従業員はいないんですか?風呂(ふろ)焚(た)きをする人とか……?」

「居るには居るが、近所の年寄夫婦が小遣い稼ぎに手伝いゆう程度らしい」

「その、従妹のご両親は?」

「ああ、旦那=父親は戦死。母親も小百合が来る前年に病気で亡(の)うなったそうや」

「ほいたら、小百合さんが来てくれて、大助かりやったがですね?」

「そうや、おかげで、人手不足でやめる寸前やった風呂屋を続けられるし、婿養子の話も巧くまとまったそうや。小百合のことは、一旦置いといて、長十郎のほうにいくぜ」

と、今度は、一口だけお茶を飲んだ。

「長十郎の息子は名前を長太(ちょうた)という。生きてたら、今年、二十二歳」

「長太さん……、堅太やないがや……」

「あんたも、疑うてたの?でも偽名を使っていることもあり得るから……、年齢はぴったりながやき……」

「はあ?堅太って誰や?」

「あっ、エイんです。母子の会話ですから……、先を続けてください」

「ああ、ほいたら、続けるでェ。息子の長太は、六年前、失跡している。現在も行方不明のままや。ほかに家族は居らんから、もし、生きていたら、嵐山長十郎の遺産相続人やな」

「遺産って、あるんですか?」

「ああ、まだ、確実なことやないが、長十郎には、不動産がある。それと、俳優を辞めてから、資産運用して、株式等の債券をかなり持っているらしい」

「へえ、資産家ながや」

「今は、小さなレコード店を経営していて、俳優時代の弟子の一人が店長しているそうや」

「弟子?そうや、あの、元弟子やった、高松のうどん屋と、元大部屋俳優はどうしたんやろう?長十郎さんから連絡がないことにおかしいと思わんがやろうか?」

「ああ、その二人については、さかもっちゃん、調査中やと。名前がヤスシだけのうどん屋やから、なかなか、見つけられんがよ。高松はうどん屋が多いきね。大部屋俳優も姓名が不明やから、難渋しているやろうな……」

「猪口屋旅館の宿泊者名は偽名のようですね?うどん屋は田中(たなか)一郎(いちろう)、大部屋俳優は鈴木(すずき)三郎(さぶろう)。長十郎さんは佐藤(さとう)栄(えい)吉(きち)ですよ」

「ははは、そりゃあ、偽名(ぎめい)です、って言っているのと同じやな」

「ほかに、何か、勇さんからの伝言はありますか?」

「ああ、桂浜の事件やが、目撃者の証言をまとめた全容を伝えてくれ、ってことや。たぶん、知っちゅうことも多いろうけんど、聴いちゃってくれ……」

そういって、杉下警部は事件について語り初めた。

長十郎と元弟子の二人を乗せたタクシーの運転手の証言で、三人は一緒に桂浜の砂浜に入っていったそうだ。

桂浜の売店の従業員の証言では、三人は坂本龍馬の銅像を見たあと、海辺で太平洋を眺めていたという。長十郎と思われる男が、水族館に入って、あとの二人は、桂浜を離れたらしい。

数十分後、水族館から出てきた、長十郎を地味な服装の女性が待っていて、何か話をしたあと、龍王岬のほうへ向かったという。

龍王岬にいた観光客は、あまり、二人には注目していなかったため、女性が刺される場面を目撃した者はいなかった。長十郎がフェンスを乗り越えて、海へ飛び込んだのを目撃した女性の悲鳴に、まわりの人々が異変に気づいたのだ。だから、最初は男が飛び降り自殺をしたと騒ぎが持ち上がり、売店の店長が110番をかけたのだ。だが、赤い鳥居のそばに女性がうずくまり、次第にうつ伏せに倒れていったのを発見するのに、時間はかからなかった。

女性は胸──左側の心臓のやや下──をナイフで刺されており、倒れた時に、胸からナイフが抜け落ち、赤く血だまりが広がっていったという。

死因は大量の出血によるもの。救急治療による医師の努力もむなしく、一時は会話ができるまでになったが、それはロウソクが燃え尽きる前の一瞬の輝きのようなものだった。

「小百合の事件前の行動やが、わかっているところをいうと……」

事件当日、小百合は急に、今日一日、お休みを貰いたい、と、祖父にいったという。しばらく、休みらしい休みを取ってなかった孫に、理由も訊かず、承諾した。

小百合は、地味な服装で朝食を済ませて、出かけていった。それが家族との今生の別れになった。

「祖父のいうには、その前の日の夕食時に、井口のお風呂屋で、変な服装の客が変な行動をしたことを、近所の別の風呂屋の大将から訊いた、と話題にしたら、そのことを詳しく知りたいと言って、近所のお風呂屋へ出かけたそうや」

「マッちゃんの噂が半日で鴨部まで拡まったがや……」

「マッちゃんの噂?また、ワシにはわからんことを母子で確認しゆうがか?まあ、エイ、警察では事件ゆうても、心中事件としてカタがついちゅうがよ。あとは、ボンと若女将がどんな結論を出すかは、警察は感知せん。ほかに知りたいことがあったら、いつでも、ゆうてきいや」

「あっ、最後にひとつ、長十郎さんが泊まっていた、南海荘に確認して欲しいがですが、事件当日、長十郎さんを訪ねて男が二人きたあと、長十郎さんが、どこかへ電話をしなかったか、したなら、電話局に問い合わせて、どこにしたかを調べてください」

「長十郎が電話をしたと、どうして思うんや?」

「小百合さんと桂浜で待ち合わせする電話をしたはずです」

「それは、朝日湯の大将が預かった手紙に指定してきたがやないかえ?」

「それはあり得ません。何故なら、小百合さんはその手紙がいつ長十郎さんの手に渡るか計算できないんです。早くても、その日の夕方、銭湯の客として、長十郎さんかその仲間がきた時点でないと渡せないと考えていたはずです。あんなに早く、長十郎さんの元に届くとは思っていなかったはずです」

「そうよね、長十郎さんたちが、銭湯のすぐ近くの旅館に泊まっていて、それを朝日湯の主人が知っているなんて、小百合さんにはわからんことやもんね」

「ほいたら、手紙に連絡先が書かれてあったがか?」

「だと思います。けど、その連絡先が寿湯だったのか?」

「そういわれると、小百合は朝早く、出かけて、そのままやった……。桂浜に行くまで、どこに居ったがやろう?」

「それが、事件になんらかの問題を生むことなの?」

「わからん。でも、謎の空白の時間ながよ。気になるがよ。それが、行方不明の長太さんにつながることかもしれんき……」

「ボン、それは『ルパンの生まれ替わり』の直感かよ……?」


13

「みっちゃん、お久しぶり」

強面の警部が帰ったあと、まだ勇次の怪我が心配で、惣菜コーナーのテーブルを上の空状態で片づけていた、みっちゃんに、若い女性が声をかけた。

「あっ!真(まこと)さん、ご実家に帰っていたんでしょう?いつ、お帰りになったんです?」

真は顔役さんこと、山本長吾郎が経営する、『山(やま)長(ちょう)商会(しょうかい)』の従業員で、小政の後輩=弟分=にあたる、石川悟郎(いしかわごろう)の婚約者だ。

ふたりの結婚を唯一反対している、石川家の当主──つまり、悟郎の父親──のもとへこの夏の終わり頃、悟郎と長吾郎と共に挨拶に行っていたのだ。真に会って、父親は簡単に結婚を許した。ワシの嫁にしたいくらいじゃ、といって、傍に座っていた、奥方にイヤというほど腿をつねられたらしい。先に帰ってきた、顔役さんがお寅さんに笑いながら報告しているのを、みっちゃんは訊いていたのだ。

そのあと、三人は京都の真の実家に挨拶に行き、結婚の承諾をもらった。真はひとり、残って、つかの間の親子水入らずの時間を過ごしてきたのだ。

「そうや、先に『おめでとう』を言わんとイカンがった。真さん、このたびは、ご婚約、おめでとうございます」

「あっ、お礼を言わんとイカンのは、ウチのほうや。刻屋の女将さん初め、みっちゃんにも心配してもろうて、顔役さんが、いの一番に挨拶に行っておいで、って……」

「わたしはなんちゃあ、していませき、ボンと話をしただけですき」

「そのボンのおかげや。そこにはみっちゃんの思いも含まれていたんでしょう?みっちゃんはボンのお姉さんやから……」

みっちゃんは、言葉につまる。自分のことをこんな風にいってくれる人は、刻屋の家族以外では初めてなのだ。真は忖度(そんたく)のない本心で言葉をかけてくれる。

「ああ、石さん、エイお嫁さんもろうて、果報もんや」

と、みっちゃんは心から、ふたりの結婚を祝福していた。

「あらあら、みっちゃん、ボーとして……、マコちゃん、イスに座わってちょうだい」

そこへ、千代ができたての惣菜を運んできた。みっちゃんは気を取り直して、

「お茶をいれてきます」

と、台所へかけていった。

「おじゃまします」

と、真がイスに腰を下ろしたすぐあとで、惣菜売場の扉を開けて、黒い着流し姿の男性が入ってきた。

「あら、どなたかと思うたら、十(じゅう)兵衛(べえ)さんやないですか?」

「姐(あね)さん、ご無沙汰しております」

と、まるで、任侠映画の渡世人のようなセリフを十兵衛は口にした。

「十兵衛さんが居るってことは、睦実さんも来ているってこと?」

十兵衛は石川悟郎の双子の妹、睦実を陰から護衛する役目が多い。千代はそれ以外で十兵衛が高知に来たことを知らない。

「睦実お嬢さんは、来られておりません。今回は、石川の当主から、真さんを護衛するように命じられて来ました」

「そうなんですよ、千代姐(ねえ)さん。悟郎さんのお父様が、大事な跡取りの嫁や、間違いがあっては、祖先に顔向けができない、と大袈裟(おおげさ)におっしゃって……」

「あらあら、つい先日までは結婚に猛反対していた御方が、変われば変わるもんやねェ」

「なるほど、石川家の当主の性格がようわかるね」

と、また突然、柱時計のある座敷から、息子の声が聞こえて来た。千代が振り向くと、

「ああ、まずは、ご挨拶やった。マコちゃん、今回は本当におめでとうございます。十兵衛さん、いつぞやは、お世話になりました」

小学生とは思えない、丁寧な挨拶に真も十兵衛も呆気にとられて、言葉が出てこない。

「十兵衛さん、逢うたばっかりで、恐縮ながやけんど、ひとつ、頼みたいことがあるがよ。十兵衛さんにしかできないことながよ……」

「わたしにしかできないこと?」

「あんた、また、変な狂言描くつもりね?十兵衛さんに、どこかへ忍び込ませる気なのね?」

突然のボンの申し出に、十兵衛と千代がほぼ同時に言葉を発した。

「さすが、がん、やなかった、老舗旅館の若女将……」

「あっ!ボン、『顔回の生まれ替わり』って言おうとしていた……」

真が可笑しそうに、半端な笑顔を浮かべて、そういった眼の前には、一瞬、眉を逆立て、そして、諦めたようにため息をつく千代がいたのだ……。

「でも、忍びやのうて、もうひとつの特技、あっ!十兵衛さん特技が有りすぎて、そういってもわからんよね?武芸百般やし……」

「あんた、前振りが長いよ。マッちゃんに似てきたんじゃないの?」

「うん、噺の盛り上げ方は、参考になるね。いや、それはおいといて、十兵衛さんへの依頼、それは……」

その日の夕刻、辺りは裸電灯の街路灯の光だけの薄暗い小路。朝日湯の裏手、ボイラー室があり、その釜に向かって、五里刈りの坊主頭の青年が、季節外れの、元は白地の、汚れたランニングシャツにグレーの作業ズボン姿で、燃え盛る炎に薪を投げ込んでいる。

「長太、長太やないか?」

その薄汚れた背中に向かって、ボイラー室の出入口から声をかける男がいた。

聞こえなかったのか、薪を炎の中に投げ入れたまま、青年はじっと炎を見つめている。

「長太、長太、わたしや、お父ちゃんや」

そういいながら、男は、薪やボロ布、ゴミのような木屑が散らばっている、ボイラー室へ足を踏み入れた。

やっと、誰かが声をかけてきたことに気づいて、青年は振り返った。そこには、外の街路灯の光と、ボイラー室の裸電灯と釜の炎の光との複雑なコントラストの光の中に立っている、髭面の男性の姿があった。

「お、おんちゃん、誰や?こ、ここは、お客の来るとこと、チャウでぇ、誰も入れたら、イカン、って、お、女将さんにいわれちゅうがやき……」

少し、怯えるように、青年は男にそういった。

「客やない。あんたに用があるんや」

そういって、男は もう一歩前に進み、怯える、青年の前にしゃがみ込んだ。

「あんた、名前を?自分の名前、言えるか?」

髭面の男は関西訛りのイントネーションで、ゆっくりと、優しく言葉を投げかけた。

「な、名前?け、ケンタや」

「ケンタ、それは本当にあんたの親御さんがつけてくれた名前か?ずっと、その名前で呼ばれていたんか?」

「ケンタはケンタや、ほかに名前は、な、ない」

「わたしのこと、覚えてないか?おまえのお父ちゃんやでぇ」

「う、ウソや、父ちゃんは戦争で死んだんや。死んで、神様になって、そ、空の上から、オイラを見守って、く、くれているんや……」

男が無言で、堅太の傍にさらに近づく。堅太は怯えたように、身を縮めた。

「あんた、なにしてんの?この前の悪さをした人やない!変な噂をたてるだけでは気が済まんと、堅太を脅して、どうするつもりぞね?」

番台の仕事を亭主の憲男と替わって、女将の春恵が釜焚きの様子を覗きに来たのだ。そこに、先日、人騒がせな狂言を演じた、髭面の男が堅太をいじめている場面が眼に飛び込んできたのである。

「お、女将さん……」

と、いって、堅太は男の脇をすり抜け、春恵の胸に飛び込む。とても、成人式を済ませた、男の行動ではなかった。

「女将、確認したい。その子の名前はケンタで間違いないか?長太、いや、名前のわからん子を預かったのではないのか?」

 髭面の男は立ち上がり、春恵に向かって、そう尋ねた。

「なに寝ぼけたことゆうてんの?この子の名前は堅太、姓は田所。わたしの姉の子や!父親は軍人さんで、ガダルカナルの戦いで戦死した。姉は身体を壊して、今は実家の母親と暮らしてる。この子は知恵遅れやけど、気が優しく、働きもんや。ウチの大事な甥っ子や。なんぞ、文句があるがか……?」

 堅太を胸に抱きしめながら、春恵はキッパリと啖呵(たんか)を切った。

「おばさん、春恵おばさん、ごめんなさい。その言葉を聞きたかったがよ」

春恵の背中のほう、街路灯の光の下から、聞き覚えのある声がした。

「ボン、ボンやないの?えっ!この人ボンの知り合い?」

「申し訳ない、ボンに頼まれまして、女将さんと堅太さんの間柄を確認させていただきました」

そういって、男はゆっくりと、つけ髭をはずしていった。

「あら、そのお顔、確か、顔役さんとこにおいでてる、石さんの伯父さんですよね?」

ボイラー室の裸電灯の光で、髭のなくなった、『進藤(しんどう)英太郎(えいたろう)』似の顔を見て、春恵は不思議そうにそういったのだ。

十兵衛は石川家の家人であるが、親族でもある。複雑なので、悟郎の伯父だと、町内では通しているのだ。

「この前、山高帽をかぶってきた人とは違う、山高帽の男はもう少し、背が低くかったし、こんなに立派な体格ではなかったわ」

十兵衛は上背もあれば、筋肉質の引き締まった身体をしている。嵐山長十郎の裸を見ている春恵には、その違いはすぐにわかった。

「ケンちゃんごめんよ。ちょっと、みんなで、お芝居の練習をしよったがよ。どうやった?この小父さん、お芝居上手やったろう?」

と、ボンが優しく堅太に声をかける。

堅太が顔を上げて、周りを見ると、ボンのほかにも顔見知りがいる。散髪屋のマツさん、アラカン先生、きれいな、旅館の若女将さん、可愛い、犬のジョンもいる。

「な、なんや、お、お芝居の、け、稽古やったがか?そ、そういえば、こ、この人、え、映画に出てた。ち、(片岡)知恵蔵(ちえぞう)さんの、え、映画で、あ、悪(あく)家老(がろう)、や、やった人やろう?」

それは、本物の『進藤英太郎』や!とはいえず、

「ケンちゃん、よう覚えちゅうねェ」

と、ごまかすしかなかった。

「春恵おばさん、この前の人間喪失の事件の真相がわかりそうながよ。明日、杉下警部さんが、調査の結果を知らせてくれたら、僕の結論を話せると思う」

「堅太が何か、事件に関係していたの?」

「うん、可能性があった、そう思い込む、条件に合っていたってことかな?偶然だったんだけどね……」


14

「あんたも小政の兄さんに似てきて、変な狂言描くのが好きになったねェ。ケンちゃんが春恵さんの甥っ子やと確認するために、十兵衛さんまで使うたがかね?」

翌朝、小学生のボンは学校への登校の準備を済ませ、急いで朝飯をかけ込んでいる。一仕事を済ませた祖母の質問に、

「ばあちゃん、ごめん、時間がないき、詳しゅうには話せんけんど、堅太さんが長十郎の息子、長太の可能性もあったがよ。戸籍も、戦争中のことで正確やないし、何より、春恵おばさんが甥ということを隠していたんだよ。知的障がい者と血縁関係だと知られたら、春恵おばさんの娘さんたちの縁談に差し支えると思ったがやろうね。それで、ご主人の憲男さんにも、親戚の息子だと、曖昧な説明をしていたらしい……」

と、味噌汁の油揚げのきざみを箸で摘みながらいった。

「甥っ子やと、血のつながりは濃いわな。娘らにとっては従兄弟やから、世間体を気にしたんか……?」

「偶然、ケンちゃんと長太が同い年で、知的障がい者だった。長十郎さんが朝日湯を芝居の舞台にしたのは、その年頃の男性、特に、知恵の足らんような従業員か家族のいる銭湯だったからなんだ。役知町のお風呂屋さんにも、そういう人が居るがやと……」

「そうやったがかね?合点がいったぞね」

「けんど、昨夜の春恵さんがケンちゃんを庇うて、十兵衛さんにゆうた、啖呵は凄かったですよ」

と、先に食事を済ませた、夫の食器を片付けにきた千代が会話に入ってくる。

「普段、ケンちゃんには、キツイこともゆうてるようやけど、それは世間体を気にしていただけ、本当は姉さんの大事なひとり息子やから、心の底では、ずっと、可愛がっていたんや……」

「うん、ケンちゃん、女将さんに叱られる、って、よくいってたけど、昨日のケンちゃん、春恵おばさんを本当のお母さんのように頼っていたもの。家族の中では、優しくしてもらってたんだよ、きっと……」

「家庭の中のことは、他人さんにはわからんきねェ。うちもしょっちゅう、アテが怒鳴りゆうと思われちゅうけんど、アテは滅多なことでは、怒鳴ったりしやあせんぞね。ねえ?」

「えっ?ええ……、お母さんは根は優しい人ですから……」

「千代さん!あんた、インマ、言葉、つまったね?」

「あっ!イカン、学校に遅れる。ばあちゃん、そいたら、続きは学校から帰ってきてからやきね……」

祖母の機嫌の雲行きが怪しくなったのを察して、まだ、時間的に余裕があるのに、ボンは、荷物を背負って、玄関に向かっていった。

「あっ、へ(・)こすい(・・・)!逃げた……!

さあ、仕事、仕事。今日もやること、いっぱいや……」

「千代さん!あんたも逃げるがかね?まあ、よう似た母子や……」

その日の午後、学校から帰ってきたボンに、杉下警部から電話連絡があった。長十郎が宿泊していた、南海荘に確認をして、長十郎がどこかへ電話をかけたことが判明した。

「その電話をした先やが、白(はく)梅園(ばいえん)という施設。まあ、精神(せいしん)病院(びょういん)やね」

「そこに、小百合さんがいたってことですよね?何の用があったがでしょうね?」

「ボン、白梅園に行ってみるかえ?さかもっちゃんが行きたがっちゅうき、付き合うちゃってくれんかよ?今から、そっちへ迎えに行かすき。十分あれば、着くろうき、準備しときよ」

そういって、ボンの返事も訊かずに電話が切られた。

「ばあちゃん、白梅園って、知っちゅう?」

と、惣菜コーナーの商品を整理していたお寅さんに尋ねてみる。

「白梅園?気違い病院の『白梅園』のことかえ?そんなら、五台山の近くにある。大きな病院よね」

「五台山か、桂浜に行くなら、種崎(たねざき)から、渡船を使う手があるか……」

「あんた、白梅園に行くがかね?アテらぁは怖(こ)うて、よう入らんところぞね」

「大丈夫、勇さんが一緒やき……」

「でも、そんなところを、小百合さん、何で連絡先に指定したがやろうね?」

と、お寅さんを手伝いにきた、千代が息子に向かっていった。

「そりゃあ、そこに居るからやろうがね」

と、お寅さんが孫より先に答えを出す。

「でも、お母さん、小百合さんはいつ長十郎さんから、連絡がくるのか、わかっていないんですよ?その日の内にくるかどうかも……」

「そ、そうやった……」

「それは、簡単さ。連絡先を複数書いてあったんだよ。何時から何時までは、どこそこ、とね。長十郎さんが電話する時間帯には、白梅園にいるって書いてあったんだよ」

「なるほど、さすが、アテの孫や」

「お母さん、わたしの息子です」

祖母と母親の言い争いを横目に見ながら、ボンは、右手で髪の毛をかき回していた。金田一(きんだいち)耕(こう)助(すけ)の真似をしている、小政の影響だった。

そこへ、サイレンを響かせて、県警のジープが、玄関先に停まる。

「あああ、あんなに派手な音たてて、近所にウチとこで殺人事件でも起きたと思われるワ」

と、お寅さんがぼやく。

「マッちゃんが跳んで来そうですね?」

と、千代がそれに言葉をかぶせる。

「お、女将さん、大丈夫ですかい?犯人は……?」

と、噂をしていた本人が、玄関から入ってきた、県警の勇次の後方から、勇次が挨拶するより先に声をかけてきたのだった。手には、お客の顔をあたる、カミソリが握られていた。

「やっぱし、思ったとおりや……」


15

「山本小百合さん?」

と、受付の看護婦が勇次の問いを復唱するようにいった。

「はい、あっ、そうや、この写真の女性です」

と、勇次がポケットの手帳に挟んでいた、小百合の顔写真を看護婦に提示していった。

「ああ、先日、宮崎(みやざき)さんのところへおいでたかたですね?」

「先日、というと?」

「この前の祭日の日でしたよ。わたし、休日出勤やったから、よう覚えてます」

「宮崎さんとは?患者さんなのですか?」

「あのう、この子は……?」

刑事に代わって、質問をした小学生を不思議そうに眺めながら、看護婦が勇次に尋ねた。

「ああ、事件の協力者です。玄関先につないでいる犬の飼い主です」

実は、勇次が刻屋の前にジープを停めると、サイレンの音に気づいて、ジョンがジープのドアの前で待機していたのだった。今、ジョンは病院の玄関前の植木にロープでつながれているのだ。

「ああ、そうなんですか、ええ、宮崎さんは患者さんだったんですよ」

「だった?では、退院なさった、ってことですか?」

「いえ、その日のお昼頃、お亡くなりになりました。もう、ご高齢でしたし……」

「ご高齢?若い、二十歳過ぎのかたではなかったのか……。それで、宮崎さんと面会に来られた、女性のかたとのご関係は?」

「さあ、知人だといっておられましたけど……」

「よく、面会に来られていたのでしょうか?」

「いえ、その日が初めてだったと思います。宮崎さんは四、五年前にこちらに来られたんですが、面会に来られたのは、今回が初めて、最初で最後のかたでした」

「それで、女性のかたは宮崎さんと面会できたのでしょうか?」

「わたしは詳しくは知りませんが、ちょうど、宮崎さんがお亡くなりになる寸前に病室に入られて、お話はできなかったと思います」

「では、宮崎さんのご遺体はそのかたが引き取られたのですか?」

「いいえ、そのかたは単なる、知人だそうで、お葬式は当病院から出しました。宮崎さんは身内のかたが……、そう、元従業員さんがいるだけで、ご親族は一人もいらっしゃらないのです」

「元従業員?宮崎さんは会社を経営なさっていたのですか?いやいや、最初から、話が混乱しているようなので、まず、宮崎さんのお歳、職業、ここへ入院された経緯から、お教え願えますか?」

「お歳は、七十二歳でした。では、宮崎さんの担当だった者を呼んで参りますから、どうぞ応接室へ……」

そういって、受付の看護婦は勇次とボンを事務所の隣の応接室に案内したあと、中年の医師らしき男性を連れてきた。真田(さなだ)と名乗った宮崎老人の担当医師は、県警の刑事ということで、少し緊張気味に話を始めた。

「宮崎さんは、四年前の冬にご自宅が火事になりましてね、同居の奥さんと息子さんを同時に亡くされまして、そのため、精神に異常をきたしたのです」

「では、お身内はいらしゃらないのですか?」

「ええ、息子さんは一人息子で、独身。ご親族もいらしゃらないようです」

「では、ここの費用は、どなたが?」

「町内会の民生委員さんが手配してくれました」

「宮崎さんは何か会社を経営していたようですが……?」

「ああ、ご商売をされてました。お風呂屋さんです。火事になったのも、釜に残った、灰が原因だったといわれているんですよ」

「お風呂屋さん!ボン、つながったぜ」

勇次が興奮した声をあげ、真田医師をびっくりさせた。

「あっ、すみません、今、捜査中の事件との整合性が出てきたもので……」

と、ボンが言葉を挟む。

「では、次に、先日の月曜日、──祭日の日ですが──のことを伺います。宮崎さんがお亡くなりになった時刻、死因、お亡くなりになる前に、女性のかたが面会に来られたそうですが、そのあたりのことを詳しく……」

勇次の問いに、真田医師は、ゆっくりと語り始めた。

その日の朝、普段どおりに朝食を済ませた宮崎老人の様子がおかしい、と回診の看護婦から、連絡があり、病室に真田医師が向かった。どうやら、食べ物を喉に詰まらせたらしい。そのためか、暴れたようで、ベッドの金具に頭をぶつけて、内出血を引き起こしていた。

「救急治療室に運んで、食べ物は取り出せたのですが、内出血のため、身体が衰弱していまして、あとは、本人の体力しだいの状況でした……」

と、真田医師はそこで、間をおいて、

「元の病室で、点滴を行っている時に、山本小百合さんという、宮崎さんの知人のかたがいらっしゃって、最後を看取られました」

と、宮崎老人の最後の様子を語ったのだった。

「では、小百合さんという女性は宮崎さんとはお話しできなかったのですね?」

「はい、宮崎さんの意識は戻らないままでしたから……」

「では、女性は何のために、宮崎さんに会いにきたのか、お話しにならなかったのですか?」

「そうですねぇ。わたしも遠いご親族のかたかと思ったものですから、宮崎さんがお亡くなりなった原因とか、お葬式、あと、身の回りの荷物、お預かりしております、預金通帳のことなど、お話ししたのですが、自分は知り合いといっても、商売、同業者の、しかも、その家族というだけ、御臨終に立ち合えたのは、単なる偶然だとおっしゃいました」

「しかし、宮崎さんが火事にあって、こちらに入院したのは、四年前。その間、一度も来られたことのない、しかも、それほど親しい間柄でもない人ですよね?単なる見舞いに来られたとは、思えないのですが……」

「ええ、そうですよね。そのあたりのことは、言葉を濁していらしてましたが、宮崎さんに何かお訊きしたいことがあったようなのです。火事になる前のことらしいのですが……」

「誰か、人捜しのお話ではなかったですか?」

「人捜し?いえ、そこまでは……、あっ、そうだ!彼女、宮崎さんのお身内とか、従業員とか、身近な人はいないのか、訊いていました。てっきり、宮崎さんの荷物の受け取りのことだと思ったのですが……、そうか、人を捜していたのかもしれませんね?」

「従業員?お風呂屋で、家族以外に働いていた方がいらっしゃったのでしょうか?」

「ええ、釜焚きとかの雑用をする男の人が一人……」

「勇さん、そういえば、さっき、受付の看護婦さんが、宮崎さんのお葬式の話の時に『元従業員さんがいるだけで……』とか、いってなかった?」

と、黙って、勇次と医師との会話を聴いていた、ボンが勇次に確認するように尋ねた。

「ああ、ゆうてたな」

「と、いうことは、看護婦さん、その元従業員さんに会ったことがあるがやない?そうやないと、担当でもない看護婦さんが、宮崎さんの親戚はいない、元従業員がいるだけ、なんて知らないと思うよ」

「けど、宮崎さんを見舞いにきたのは、今回の小百合さんが最初で最後、ってゆうてたで。元従業員さん、見舞いにきてないはずやろう?だから、僕は今回の事件と関係ないような気がしたんやけど……」

「見舞いにはきてない。けれど、看護婦さんには会っている、としたら、入院時に付き添うてきたんやろうね。でも、その時だけで、看護婦さんが『元従業員さんがいるだけ』って、言い切るかなぁ?何回か会って、事情を訊いた結果のような気がするんだけど……。宮崎さんからは、そんな情報はもらえないし、民生委員さんだって、同じだと思うよ」

「あっ、それなら、さっきの看護婦を呼んできましょう。宮崎さんの入院時のことはわたしは詳しくないもので、わたしがここへきたのは、三年前ですから……」

「ああ、わたしがいってた、宮崎さんのところで働いていた元従業員のかたのことですか?」

真田医師に再び呼び返されて、少し緊張した表情だった看護婦は、勇次の質問の意味を理解して、安心したように尋ねた。

「そうか、真田先生は、その頃まだここへきてなかったですね?前の新谷(しんたに)先生と引き継ぎをされて、宮崎さんの担当になったんでしたね?」

「ああ、そうだよ。だから、わたしは宮崎さんが入院した時の事情には詳しくないんだ。君は当時から、勤務していただろう?早く、刑事さんの質問に答えてあげなさい。そろそろ、回診の時間なんだよ」

少し怒り気味に、話が進まないことに医師は時計を気にして、看護婦にいう。

「はい、でも先生、宮崎さんところの従業員さんなら、先生もご存知のはずですよ。ほら、神崎(かんざき)さん、雑用係をしていた彼、元は宮崎さんところで働いていたんですよ。訊いていらっしゃらなかったですか?」

「ああ、あの神崎君がそうなのか?いや、訊いてなかった」

「その、神崎さんという方はおいくつ位の方ですか?」

と、ふたりの会話に勇次が言葉を挟む。

「そう、もう、成人式は済ませたわね?去年だったかしら……?」

「その方、今、雑用係をしていた、とおっしゃいましたが、今はしていない、ということでしょうか?」

と、今度はボンが質問をする。

「ええ、宮崎さんがお亡くなりになったので、ここにはもう、用がない、といって、お辞めになりました。最初、宮崎さんの付き添いでおいでて、ここで働かせてくれ、というので、院長が、雑用係として雇われたのです。さすがに、お風呂焚きは、お上手でしたよ。薪の減りかたが、半分になりましたから……。そうそう、宮崎さんの荷物もその方がお持ちになりましたよ」

「神崎さん、下のお名前は?」

「確か、長太さんだったかしら?長太郎さんを省略していたのかしら?本人は長太といっていましたけど……」

「長太!ボン、ついに見つけたよ!」

「ええっ!刑事さん、神崎さんが何か犯罪に関係しているんですか?あの人、ここを出たこと、一度もないんですよ、この四年間……」

「勇さん、長太さんはもう、ここには居ないんだよ」

と、ボンは興奮気味の刑事を戒める。

「確認したいのですが、長太、いえ、神崎さんはここを出て、どこへ行かれたのでしょうか?ご家族とかいらっしゃるのでしょうか?」

と、ボンが続けて、言葉を発した。

「ああ、それはわたしも気になって、尋ねたんですよ。そしたら、あてはないけど、なんとかなる、土佐の人は親切だから、といっていました。きっと、行き先は決まってなかったと思います」

「では、もうひとつ、宮崎さんを訪ねてきた女性と神崎さんはお会いになったのでしょうか?あるいは、神崎さんのことを女性は知り得たのでしょうか?」

「あの、えーと、山本小百合さんでしたっけ?ちょっと陰のある美人の方……。神崎さんとは会っていないと思いますよ。あっ!でも、顔は見たかも知れない……」

「えっ?それはどうゆうことですか?」

「いえ、病室は一階で中庭に面しています。神崎さん、宮崎さんが危篤だと聴いて、中庭から、病室を心配そうに見つめていたそうですから……」

「病室には入って来なかったのですか?唯一の身内でしょう?」

「はい、ここで働く以上はここの規定に従う、とおっしゃって……、病室に入れる職員は限られているんです……」

「それで、病室の窓越しに、女性が神崎さんを見つけたのでしょうか?」

「はい、中庭をしばらく、見つめていました。神崎さんにも気がついたと思います」


16

「ワン、ワン」

と、玄関先から犬の吠える声がした。

「あれ?ジョンが吠えている。何か変わったことが起きたのかな?ちょっと、見てくる」

ボンはそういって、玄関で靴を履きかえて、表に出てみる。ジョンは吠えるのを止めて、病院入口の門の側の植木のほうを睨んでいた。その木の陰に、ひとりの男性がたたずんでいる。病院内に視線を巡らせているのか、顔が左右に動いている。何かを探しているようだ。ただ、夕暮れ時で、逆光のうえに、サングラスで顔がよく見えない。

「ジョン、あいつの匂いに心当たりがあったんか?」

「ワン」

と、ボンの問いかけに、ジョンが一声吠える。『イエス』という答えだ。(と、ボンは思っている)

「よし、ジョン、綱を解くから、あいつが逃げないように、あいつの向こうにいって、見張っていてよ。勇さんを呼んでくるき」

そういって、ジョンのロープを首輪からはずす。ジョンは全速力で門に向かって走り出し、サングラスの男をまるで無視して、なお遠くまで走ったところで、振り返った。ボンは両腕で輪を作り、オッケーを示した。

「ボン、ジョン君がどうかしたがかえ?」

と、勇次が玄関先に出てきて、ボンに声をかける。

「勇さん、あの入口付近に居る男、ジョンの嗅覚に覚えのある者のようながよ。ゆっくり、近づいて、職務質問してもらえんかな?」

「ああ、あのサングラスの男か?見るからに、怪しそうやな?けど、ジョン君が反応するって、最近、誰かの匂いを嗅がしたんか?」

「あっ!もしかしたら、うどん屋や!」

「うどん屋?うどん屋が何かしたっけ?」

「ほら、嵐山長十郎の弟子だった、高松でうどん屋しているといってた、ヤスシって男だよ」

「そうか、よし!職務質問や……」

勇次はそういって、足早に入口に向かって行く。男がそれに気づいて、入口から離れようと背を向けた。

「ワッ!な、なんや、この犬?」

いつの間にか、足元にジョンが近づいてきていて、男の足を止めていた。

「ちょっと、申し訳ないですが、警察の者です。職務質問をさせて頂きます。確か、ヤスシさんでしたね?井口町の猪口屋旅館に先週、お泊まりだった、高松でうどん屋をしているとのことでしたが……?」

「な、なんやて?警察?刑事がなんでこんな精神病院に居るんや?いや、それより、なんで、オレがヤスシで、猪口屋とかいう旅館に泊まっていたって、わかるんや?高知の警察には、超能力者でも居るんか?」

「まあ、超能力者に近いもんが居ります。ジョン君ゆうて、臭覚は人の六千倍以上。あなたの猪口屋さんに残してきた、浴衣の匂いをしっかり、覚えてくれてますんや」

「この、鈍臭(どんくさ)そうな、雑種の犬がか?」

「ワン!」

「ほらね、悪口をいわれたこともわかるんですよ。さあ、立ち話もなんですから、病院の応接室をお借りして、ゆっくりご事情をお訊きしましょうか……?」

「あっ!あんた、あの時の……、探偵団ゆうてた、大将のこと色々、調べてた子やな?」

勇次にうながされて、ヤスシは病院内の応接室に入っていった。ソファーに座ると、刑事のあとから、小学生らしい少年が部屋に入ってきたのだ。ヤスシにはその顔に見覚えがあった。

ボンは黙ってうなづく。

「この子は、さっきの犬の、まあ、飼い主や。あの犬──ジョン君──と会話ができる、唯一の人間や」

「犬と会話ができる?前には『ルパンの生まれ替わり』や、ってゆうてたな……」

「会話ができるといっても、ジョンが僕の気持ちを察してくれるだけです。先ほど、あなたの横を全速力で駆け抜けたのも、あなたが逃げ出さないように、僕が頼んだことを察してくれたものです」

「ジョン君とこの子は兄弟のように育ってきたからね。以心伝心ってやつやろうね」

「なるほど、兄弟のようにか……、あの犬、名犬ながやな……?」

「さて、ヤスシさんいいましたか?本名をお訊きしてよろしいでしょうか?」

「ああ、名前は『タニヤスシ』山、谷のタニの一字にヤスシは家康(いえやす)のヤスに志(こころざし)のシや。けど、なんで、オレがこんな取り調べを受けなイカンのや?病院の中、覗いていただけやでぇ……」

「わかりませんか?あっ!職務質問ですから、取り調べではありません。答えたくなければ、黙秘して結構です。それより、我々がこの病院に居て、ヤスシさん、あなたにお訊きしたいことがある、その理由があなたには、おわかりになるはずですけどね……」

「そしたら、オレと同じ目的があって、ここへきたってことか?」

と、康(やす)志(し)は誘導尋問に引っかかって、先ほどいった『病院の中を覗いていただけ』という言い訳が嘘だったことを露呈してしまった。

「どなたかを探しているのですよね?あなたが『大将』と呼んでいた方の関係者ですよね?」

「そ、それは……、黙秘や!黙秘する」

「康志さん、あなた、先週、桂浜に行ったあと、嵐山さんと別れて、今日まで、どこに居られましたか?」

と、ボンが質問者になった。

「桂浜に行ったことまで、調べたんか?いったい何の目的で、大将のことを調べるんや?ちょっとした、人捜しで、変わったことをしただけやないか……」

「あなた、桂浜の事件をご存知ないのですか?」

と、勇次が驚いたように尋ねた。

「まずは、桂浜へ行ったあとのことを色々お話しください。我々の調査については、そのあとで、お話しできる範囲で説明しますから……」

と、ボンは勇次がいった『桂浜の事件』のことはまだ、康志には話す時ではない、と判断して、同じ質問を繰り返した。

「ああ、あんたに言われて、風呂屋の主人と女将に謝りに行った。翌朝、旅館を出て、大将と合流して、桂浜の坂本龍馬像を見に行ったんや。大将は水族館も観て帰る、ゆうて、そこで別れた。オレはそのあと、高松へ帰ったワ。桂浜で何ぞあったんか?オレは関係ないでぇ……」

「だいぶ、省略していますね?手紙のことも、電話して、桂浜で待ち合わせしたことも……」

「手紙……電話……、いったい、どこまで……?」

康志は驚きを隠せない。

「警察を舐めてはいけませんよ。ところで、大将──嵐山長十郎さん──とは、その後連絡をされましたか?」

「いや、連絡がないんや。その……、高知での用事が済んだら、高松のオレの店に寄るってことやった。音沙汰がないから、まだ、高知の用が済まんのかと思って、高松から出てきたんや」

「高知での用事とは、人捜しでしたね?小百合さん、見つかったんでしょう?あなたがここへ様子を伺いに来るってことは……電話の指定先がこの病院だったんでしょう?」

「ちょっと、待ってくれ!あんたらはどこまで知っているんや?」

「あなたが思っている以上にです。だから、事実を隠さずに話してください。そうしたほうが、あなたのためにもなると思いますよ」

「オレのためにも?それじゃあ、オレの知らんことも教えてくれるということやな?」

「そう、例えば、長十郎さんの行方。息子さん──長太さん──のことも……」

「ええっ!坊っちゃんのことも……?教えてくれ!そのために、あんな風変わりな狂言をしたんやから……」

「では、質問に答えてくださいね?猪口屋さんを出る朝、手紙を受け取りましたね?朝日湯の遣いの方が持ってきたはずです」

ボンの追求に康志は、黙ってうなづく。

「山本小百合さんからの手紙でしたね?それを読んで、長十郎さんに急いで、手紙を届けた。電車通りでタクシーを拾って、桂浜に近い旅館に向かった。手紙の内容は詳しくはわかりませんが、長十郎さんに連絡をして欲しいと、書かれていたはずです。その連絡先にこの病院があった。他にも、寿湯という、銭湯の電話番号も書かれてあったでしょうが、長十郎さんが手紙を読んだ時間帯には、この病院が指定されていた……」

そこで、話を止めて、康志の表情を読み取るように、瞳を見つめた。

「どうして、見てもいない、手紙の内容まで、わかるんや?あなた、『ルパンの生まれ替わり』って、冗談やなかったんやな?大将が、『不思議な子供に逢うた、計画と違うが、ワシはここを出る』といって、猪口屋から別の旅館に移ったんや。確かに、大将がいってたとおりや。ただの小学生やなかったんや……」

「その、別の旅館が『南海荘』、桂浜に近かったから、小百合さんとの待ち合わせ場所を桂浜の水族館前に指定した。そうですね?」

「もう、何を聴いても驚かん。オレも寛(かん)治(じ)さんも、桂浜の坂本龍馬像を見に行きたかったからな。小百合さんは少し、到着するのに、暇がかかるようなので、浜で時間を潰した。小百合さんに逢えるとなったから、大将が、オレと寛治さんに、『ご苦労さんやった。仕事があるだろうから、ここまででいい。首尾はあとで連絡する。康志の店に寄るから……』というんで、そこで別れた。小百合さんには、オレらは逢っていない」

「寛治さんというのですね?大部屋俳優だったという、あの方のお名前……」

「ああ、そうや。どうせ、調べて、知っているんやろう?優秀な警察やから……」

と、康志は開き直ったようにいって、

「ところで、さっきから、気になっていたんやが、桂浜で何ぞあったんか?それで、その日か時間帯か知らんけど、桂浜に居った、大将やオレらぁを調べているんか?オレは何も知らんし、目撃もしてないでぇ……」

「あんた、それじゃあ、その大将が何をして、どうなったか、知らんのか?」

「勇さん、高知に居らんかったら、知りようがないよ。地方新聞に小さい記事で、名前も伏せられていたんだから……」

「た、大将が?どうかしたんか?」

「山本小百合という女性を刃物で刺して、自分は崖から、海に飛び込んだ。覚悟の自殺や。遺体は沖に流されて、行方不明のままやけどな。警察は小百合さんが長十郎を庇って最期に証言した『心中事件』として、終わらした……」

「た、大将が、小百合さんと……心中?」

「無理心中ですよ」

と、ボンは言い切った。

「嵐山さん、芸名ですよね?本名は?」

と、絶句している康志にボンが質問する。

「た、大将が、死んだ……」

康志はボンの質問にすぐには答えられず、心の整理をするように、独り言を、そう呟いて、

「大将の本名は神崎跳七(かんざきちょうしち)、神様のカミにふつうのサキ。チョウは跳ぶという字に数字のシチや……」

「では、嵐山さんの息子さんの名前は『神崎長太』さんですね?」

「ああ、そうや!坊っちゃんのこと知っている、ゆうたな?それは坊っちゃんが生きているってことなんか?」

「ええ、たぶん、数日前までは……」

「数日前?そしたら、今は……?」

「それより、あなたたち──長三郎さんを含めですが──長太さんの行方については、生死の確認すらできてなかったのですか?高知にいらっしゃったのは、長太さんが高知で暮らしているとの情報を得てのことではなかったのですか?」

「情報はあった。ただ、数年前に、長太さんらしい少年を見たという、曖昧な情報や。それを聴いたのが、一月前のことや。それで、高知やったら、小百合さんが居る、ひょっとしたら、長太さんの行方に何ぞ心あたりがあるかも知れん。けど、おおっぴらには捜せん。まだ、六年前のスキャンダルを覚えているもんも居る。せっかく、役者を辞めて、今はレコード店だけやのうて、芸能プロダクションを作る構想もあるんや。新たなスキャンダルは絶対ご法度や……」

それで、銭湯における、おかしな狂言をすることになった。

「オレと寛治さんは芸能プロダクションを立ち揚げる話に呼ばれて、京都に居ったんや。それで、三人で高知へ来たんや……」

康志と寛治は、一旦、自宅に帰って、お互いの商売の都合をつけた。康志は父親がまだ元気で、うどん屋は父親のあとを継いだばかり、家を空けることには、問題なかった。寛治は居酒屋を経営しているのだが、こちらも女房が切り盛りしているから、当面は支障はなかった。

別々のルートで高知に入り、最初、寛治が、大きな銭湯で、さりげなく、長太のような知的障がい者が働いている、銭湯を聞きだした。それが役知町と井口町の銭湯だったのだ。

「それからのことは、もう知っているやろう?」

「今回は、寛治さんは高知には来てないのですか?」

と、康志の話が一段落したところでボンが尋ねた。

「ああ、大将から連絡がないから、寛治さんに電話したんや。寛治さんのほうにも連絡がない。寛治さんところ、奥さんが働き過ぎて、熱を出して、寝込んだのよ。それで、寛治さんに頼まれて、オレひとりで、大将の行方を捜しにきたんや。手掛かりは小百合さんが指定してきた、この病院。手紙は大将が持ったままで、もうひとつの連絡先は、オレも寛治さんも覚えてない、というか、そこまで手紙を読んでなかったんや。だから、手掛かりはこの病院だけやったんや……」

「ここで尋ねたら、小百合さんの居場所か連絡先がわかる、と考えたのですね?警察に相談すれば、よかったのに……」

と、勇次が警察官らしいことをいった。

「それは最後の手段や。大将は小百合さんに逢えた。それから、長太さんの手掛かりを掴んで、捜している。そう考えたんや。だから、その手伝いをせんとイカンと思って、警察には訊けんかったんや……」

「今までのお話を伺ったところでは、長十郎さんは息子の長太さんのことを公にしたくない、秘密のうちに捜し出したい、と、思ってしまいますね?家出してから、数年間、警察に頼めば、かなりの確率で、発見できたと思うのですが……」

「それは……、坊っちゃんが知的障がい者だからよ。世間では、嵐山長十郎に息子が居ることは秘密なんや……」

「知的障がい者、とおっしゃいますが、どの程度の障がいなのですか?家出して、高知までひとりでやって来て、仕事もしていたようなのですが……?」

「仕事をしていた?風呂屋の手伝いやろう?オレは坊っちゃんのことはよう知らんのや。知能の程度のことも……」

「最後に訊いておきたいのですが、長十郎さんが小百合さんと無理心中する理由に何か心あたりはありませんか?どうも、突発的な行為とは思えないんです。凶器を持っていたことも、龍王岬に登っていったことも、計画的な行動だと思うのです」

「まさか!大将が最初から、小百合さんを殺すつもりだったっていうんか?それはない!大将はそんな悪党やない!」

「ええ、ですから、計画は何通りかあって、その最悪の状況になったのではないかと思うのです。例えばですよ、長十郎さんは小百合さんと寄りを戻したかった。つまり、結婚を申し込んだが、断られた……」

「いや、結婚を考えていたかもしれんが、小百合さんがあれから、ずっと独身でいるとは限らない。断られることは織り込み済みや。それに、今回の目的は坊っちゃん=長太さん=の行方を捜すことや。小百合さんとの仲は別ものや」

「そうですか?では、その最終目的が達成不可能となったら、いかがですか?」

「それも、織り込み済みや。見つからんことも想定していた」

「そうですか?きっと、それ以上の状況が生じたのでしょうね……」

「大将が自殺する理由がなんだったか?それは誰にもわからんことや。大将も小百合さんも亡くなってしまったんやろう?それより、生きている、坊っちゃんのことを教えてくれ。さっきから、妙に話を坊っちゃんから反らしている気がするんやが……」

「勇さん、話してエイかな?捜査上の機密事項のような気もするがやけんど……」

「捜査上の機密事項?何ぞ、坊っちゃんは犯罪に絡んでいるんか?」

「いえ、そうゆう意味の機密事項ではないんです。長太さんの行方、いや、身柄を我々、警察が保護したい。ですから、不用に情報を流したくないのですよ。やっと見つけた、手掛かりですからね……」

と、勇次がここでボンから話を代わる。

「じゃあ、坊っちゃんを見つけたんですね?居場所がわかったんですね?」

「ううん、康志さん、職務質問に協力していただいて、嵐山長十郎さんのことも教えていただいたので、すこしだけ、機密をお話しします。長太さんは、ここ、白梅園で四年間働いていました。今はもう、お辞めになっています。教えられることはそれだけです」

「ここにいた?では、小百合さんはそれを知っていたんですね?」

「それは教えられません……」

「そうだ、康志さん、長太さんの顔はわかりますか?数年前の顔でいいのですが……?」

と、ボンが急に思いついたような言葉を発した。

「坊っちゃんの顔?ええ、大将から写真をいくつか見せてもらっています」

「勇さん、さっきの看護婦さんに確認して。ひょっとしたら、長太さんの写真、集合写真とか、病院の催しのスナップ写真とかに写っていないか……」


17

「神崎さんの写真?ええ、きっとどこかに写っていると思いますよ。新谷先生の送別会とか、患者さんたちとのレクリエーションの時とか……。あっ、そうそう、俊子(としこ)さんが辞める時、記念に、って、ふたりで写した写真が一枚残っているはずだわ。俊子さんったら、寿(ことぶき)退社(たいしゃ)なのに、神崎さんに気があったのかしら?まあ、神崎さん、見た目は凄かったから……」

「見た目は凄かった?それは、筋肉隆々のタフガイってことですか?」

事務所にいた、看護婦に長太の写っている写真がないか、と尋ねたら、訊いていないことまで、語り出したのだ。

「あら、残念、まったく正反対」

「正反対?」

「ふふふ、刑事さん、神崎さんのことをお調べですの?それでしたら、写真を捜している間に担当の先生とお話しなさったらいかが?磯辺先生呼んできますから……」

「担当の先生?神崎さんはここの従業員ですよね?患者さんではなく……?」

「ええ、入院患者さんではないのですけど、治療はしていましたのよ。ここへ来た時とは、別人のようになりましたのよ、磯辺(いそべ)先生のおかげで……」

「治療したって、知能が回復したってことか……?」

看護婦が謎めいた言葉を残して、磯辺という医師を呼びに事務所を出たあと、勇次が独り言のようにそういったのだ。

しばらくして、事務所のドアが音を立てて開けられると、白髪でボサボサの頭髪の初老の男性が、白い医務服のポケットに両手を入れて部屋に入って来た。

「神崎君のことで警察が訊きたいことがあるって?彼女が何か仕出かしましたかな?それとも、被害者のほうかな?」

磯辺先生は、事務所の椅子に腰を下ろしながら、面倒臭そうにそういって、黒ぶちの眼鏡越しに、勇次を睨みつけた。

「彼女?いえ、こちらがお訊きしたいのは、神崎長太さんのことなのですが……」

そう、勇次が初老の医師にいった時、

「ありましたよ!神崎さんの写真。俊子さんとのツーショット」

そういいながら、赤いアルバムを手に、看護婦が戻って来た。

「ほら、この写真です」

と、アルバムの台紙に貼られた白黒写真を勇次の前に指し示した。その写真には、ふたりの人物が写っている。向かって左に、背の高い──ふたりを比べてだが──短髪の人物が笑顔を浮かべて写っている。右には、どこか寂しげな表情の妖艶(ようえん)な美少女が写っている。上半身の写真なので、服装は同じような襟付きのシャツとわかるが、下はパンツかスカートかは、わからない。

「この左の人物が神崎さんですよね?」

と、なぜか違和感を抱きながら、男性と思われる、背の高いほうの人物を勇次は指差した。

「ふふふ、やっぱり、間違えた!」

と、看護婦は愉快そうにいった。

「ええっ!では、この右の美少女が神崎さんというのですか?からかわないでください。僕が捜しているのは、神崎長太さん、男性ですよ」

「からかってなどおらんよ。刑事さん、人間を見た目で判断してはイカン。犯罪捜査でも同じじゃろうが……?」

初老の医師は生徒に教える教師のように勇次に問いかける。

「でも……」

「康志さん、この写真の美少女が長太さんに間違いないですか?」

言葉につまった勇次に代わって、ボンが隣にいる康志に確認した。

「えっ?ええ、髪型が女性のような長い髪になっていますが、坊っちゃんに間違いありません。もともと、男性にしては細い顔立ちで、女性的な面影のかたでしたから……」

「ええっ!じゃあ、この美少女が長太君ってこと?確かに、見た目で判断したらイカンワ……」

「身体と心が一致していない、一種の精神病じゃよ」

と、初老の医師が呟くようにいう。

現在なら『性同一性障害』と呼ばれるものだ。

「神崎君は男に生まれたが、精神は女の子だった。そのうえに、言葉の障害、吃音症(きつおんしょう)の傾向があって、自己を主張できなかったのじゃよ。だから、まわりは『知的障がい者』として扱ってしまった。ますます、自己を閉鎖することになったんじゃ……」

「それを磯辺先生がお治しになったんですのよ!論文を書けば、学会で評判になるのに、神崎さんを見せ物にはできんとおっしゃって……、欲がないんですよ、この先生。そこがわたしは好きなのですけどね……」

看護婦は誇らしげにそういった。

「美智子君、神崎君は吃音が治ったから、精神の治療は簡単だったよ。本来の女性として、身体のほうを変えればよいだけじゃからね。本人もそれを望んでいたし、まわりに反対する者もいなかったしね」

「坊っちゃんの、どもる癖が治ったんですか?大将がずっと、気にしていたんですよ。医者にもずいぶん相談したんですけど……」

「吃音は、ここへ来た時には、ほとんど、治っておったよ。興奮した時だけ、どもるくらいだった。ほら、横溝(よこみぞ)正史(せいし)の探偵小説の主人公、金田一耕助のようなものじゃよ」

「治ったって、自然にですか?」

と、ボンが尋ねた。

「うん?この子は?刑事さんのお子さんかな?奥さんが居る顔でもないな?ワシと同じのようじゃから……」

(イランことをいう先生やなぁ……)

と、勇次の苦虫を噛み潰したような表情を横目に見ながら、ボンは心で呟いていた。

要らぬことをいったと、本人も気づいたようで、さっき、自分で例に出した、金田一耕助のごとく、ボサボサの白髪をかき回して、

「吃音が治ったのは、宮崎さんのおかげやと、本人がゆうとった。なんでも、家出して、別れた母親を捜しに土佐へ来たが、土地勘もなく、金もなくなって、訪ねた宮崎さんの家の前で、倒れてしまったそうや。腹を空かしていた神崎君に飯を喰わしてくれて、事情をどもりながら、話したら、その母親が見つかるまで、ここに居ったらいい。風呂屋やから、手伝うてもろうたら、こっちも助かる、といって、家族の一員にしてくれたそうや。宮崎さんの息子さんも吃音の癖があって、ゆっくりと喋ることに気をつければ、治ったって教えてくれたそうや。その宮崎さんの家が焼けて、父親のような存在だった、息子さんと、女将さんが焼け死んで、主人──命の恩人というべき人──が気が狂うてしもうた。自分ができることは、主人に一生寄り添うことやと決心して、ここで働かせてくれ、と院長に土下座して頼んだんや……」

白髪頭をボサボサにしたまま、磯辺医師は長太の事情について、三人に語った。

「その命の恩人が亡くなって、ここには用がない、と出ていったのですね?」

「そうや。彼女──ワシは彼とはいわん──は自力で吃音を克服し、自力で身体と心の病も治した。女性として、立派に社会で生活できる……」

「何処へ行くつもりなのか、先生はお訊きにならなかったのですか?」

「うむぅ、君の眼は、ワシが訊いた、と思うとるな?ワシは精神科医じゃ、眼を見れば、心の中もわかる。ははは、これは、大法螺じゃがな」

「先生、警察の捜査ですよ。ご冗談はいわないでください。病院の資質が疑われます。それでなくても、『気違い病院』だと、職員まで、白い眼で見られるんですから……」

「いや、これはすまぬ。少年よ、決して、この病院がワシと同じ、変わり者の集合体だとは思わんでくれよ。中には、この美智子(みちこ)女史のような、顔は悪いが心は正常、という職員も居るからな」

「先生、顔のことはいわないでください!まだ、嫁入り前の乙女ですよ」

「あのう、夫婦(めおと)漫才(まんざい)はもうけっこうですき、ボンの質問に答えてくれませんか?」

「おう、夫婦漫才とは、刑事さん、なかなか、気の効いたセリフじゃのう。少年よ、君の質問は何じゃったかな?ああ、そうじゃった、神崎君の行き先じゃったな?何処とは訊いてないが、神崎君はあの容姿を活かした仕事を探すと思うぞ」

「と、いうと?水商売、ってことですか?」

「まあ、そうなるろうな。身元保証人もおらんからな……」

「ボン、探しに行こう。看護婦さん、美智子さん、いいましたか、この神崎さんの写真、お借りしますよ。複製したら、お返ししますから……、そういうことや、康志さん、一緒に行きますか?市内まで送りますよ。ジープの後ろ、ジョン君の隣ですけど……」

「ふうん、けっこう、調査が進んだやないの。写真があるがやき、市内に居ったら見つかるがやない?そんな、妖艶な美少女やったら……」

門限とされている、午後6時をはるかに過ぎて帰宅した、息子に、調査の成果を訊いた千代は、門限破りの罪は不問にして、感想を述べたのだ。

「勇ちゃん、けっこう刑事らしい取り調べができてるやないの?また、手柄たてられるかもしれんな?」

傍で訊いていた、お寅さんが意外そうにいった。

「ばあちゃん、手柄にはならんよ。事件は『心中』で結論が出ているんだからね。長太さんを見つけても、事件の真相はわからないと思うよ」

「事件の真相?」

「長十郎さんが何故、無理心中をするという選択をしたのか?小百合さんと逢って、数分か、遅くとも、三十分以内で、決心したことになるんだ。その、最悪の状況が何だったのか?ううん、思いつかないんだなぁ、そんな最悪の状況が……」

「小百合さんに振られて、息子が女の子に変身したことを知って、世の中に失望してしまった、のじゃないの?」

「いや、小百合さんに振られるのは、想定内。長太さんが女の子に変身していても、もともと、知的障がい者だったんだから、プラスマイナスしたら、プラスになるよ。生きていたことで大満足だと思うよ」

「お母さんはどう思います?人生経験の豊富な人間としては……」

「また、アテを年寄り扱いしゆうね?考えられることは、小百合さんに振られただけやなくて、ひどいことを言われたがやないかね?長太君を今まで、探さんと放っておいたこととか……」

「そうや、長十郎さんプライドが高いから、お風呂屋での狂言を笑われた、バカにされたんじゃない?」

「ばあちゃんのほうが近いかも……?」

「あっ、そう。まあ、わたしは思いつきを口にしただけのことだから……」

「小百合さんのほうか……?そうか!それは考えられる。目撃者は……」

「あんた、ルパンの霊がついたがやない?あんな病院へ行くから……」


18

「ボン、寿湯へ行ってどうするんや?小百合さんの初七日が済んだばかりで、休業中らしいよ」

翌日、ボンは学校の授業が終わると──一応、小学生なので、上の空ではあったが、授業は出席──先生にさようならも言わずに校舎を飛び出した。昼休みに、県警本部に電話を入れ──校長先生に緊急連絡が生じましたと、断りを入れて──勇次を呼び出し、授業終了予定時刻に、学校の正門前集合を指定したのだ。

鴨部にある『寿湯』は刻屋より、学校に近い。一旦帰宅するより、時間短縮を計ったのである。

「休みのほうが都合がいい。ジイさんと従妹の加奈子さんの両方から、情報を得ることができるからね」

ジープの助手席に座って、運転している勇次と会話をしているのである。

寿湯には、勇次から、訪問する旨を伝えている。小百合が亡くなって、風呂屋の営業に支障が生じているらしい。小百合はそれくらい、寿湯にはなくてはならない存在だったのだ。

「いったい、どんな情報をふたりから得ようと思っているんや?小百合さんのことで、まだ足りないことがあるんか?」

勇次も一応、県警の刑事である。亡くなった──殺された──被害者の家族には、担当の南警察署の刑事が面談して、供述を取っており、その内容は把握している。小百合の事件前の行動はほぼわかっているのだ。白梅園にいったことは、昨日判明して、前日から、死亡するまでの行動がほぼ、わかったことになった。

「もう少し、過去のことを知りたいんよ」

「過去のこと?」

「うん、小百合さんが、母親の実家に戻ってきた時のこととかね」

「ええっ!もう五、六年前のことやろう?」

「長十郎さんと縁が切れた頃……。ふたりが久しぶりに逢って、あの短時間に心中──無理心中かもしれんけど──を決心したとしたら、その原因は現在やのうて、過去にあったがやないろうか……?」

「過去にか……、それはあり得るね。さすが、『ルパンの生まれ替わり』や!」

「その原因はきっと、お互いの秘密に関わることやろうね?弟子の康志さんには、心あたりがないようやから……。小百合さんが、従妹さんに何か話しているんじゃないか、と思うんだ。年齢が近い、女性同士だし、長十郎さんと別れて、居場所も離れているし……」

「それは『ルパンの生まれ替わり』の直感ながやね……?」

「刑事さん、小百合を殺した犯人は見つかったがですか?」

寿湯の隣に建てられた、小百合の従妹、加奈子夫婦が住んでいる、小ぢんまりとした二階建ての家の居間に招き入れられた勇次とボンに、寿湯の年老いた主人がいきなり詰問するように尋ねた。

「いえ、沖に流されたようで、遺体は発見できておりません」

心中事件として解決しているのだが、小百合の祖父=金(かな)雄(お)=は小百合は殺されたと思っているのだ。勇次は敢えて、それを否定しなかった。

「海に飛び込んだ、というが、小百合を殺して、逃げたんじゃあないがですか?ちゃんと、調査したんですか?心中なんて、結論づけて……、小百合は心中なんぞする娘やありませんき!」

「おじいちゃん、小百合ちゃんが死ぬ前に『心中だ』とゆうたんよ。刑事さんだけやのうて、お医者さんと看護婦さんも訊いていたんよ。小百合ちゃんが嘘ゆうて、亡くなるわけないろう?

すんません、祖父は小百合ちゃんを頼りにしていましたき、まだ、諦めがつかんがです……」

金雄の隣に座っていた加奈子が、祖父をたしなめ、勇次に詫びをいった。

「その、小百合さんが『心中だ』といったことに、我々も疑問を感じているんです」

と、ボンが金雄の眼を見つめながらいった。

「あのう、この子は……?」

と、毎度同じ質問を勇次は加奈子から受けることになった。ジョンは連れてきていないから、ジョンの飼い主とは言えない。少し、そこで沈黙の間ができる。

「小百合さんがお亡くなりになった朝、お手紙をお渡しにおいでた、銭湯の女将さんに依頼を受けて調査している、探偵団の者です」

と、ボンが自己紹介をした。

「ああ、井口の朝日湯さんの?ええ、この前、小百合の死亡を知らせてくれた刑事さんがゆうてました。小百合の身元がこんなに早くわかったのは、井口の探偵団のおかげやと。朝日湯さんにも、小百合の葬儀に来てもろうて、小百合が朝日湯さんに寄ったこともお訊きしました。そうですか、あんたが、名探偵さんでしたか?いや、その名探偵さんにお願いします。小百合が死ななイカンわけを調べてください。ワシも先がしれていますが、それを知らんうちは死んでも死にきれませんき……」

金雄が一気にそういって、座卓に頭をぶつけるほどにお辞儀をした。

「いえ、名探偵ではありません。お顔をお挙げください。素人がこの刑事さんについて来ているだけです。でも、おじいさまのお気持ちはよくわかります。刑事さんと協力して、できる限りのことはいたします」

「あのう、この子、本当に小学生なのですか?」

あまりに、丁寧なボンの言葉に加奈子が呆れたように尋ねた。

「ええ、普通の小学生の基準には外れていますが、間違いなく、小学生です。僕も時々、小学生と思えずに、敬語を使うことがありますき……。きっと、環境のせいでしょう。天下の『ハチキンさん』の孫で、『顔回の生まれ替わり』が母親ですから……」

勇次の説明に寿湯の爺さんと孫は、余計に混乱した顔で見つめあっていた。

「すみません、僕のことはそれくらいにして、本題に移らさせてください。今日、お伺いましたのは、小百合さんが、こちらに帰ってきた当時のことをお訊きしたいのです」

と、ボンが話を軌道修正する。

「小百合が帰ってきた当時?それが今度の事件に何か関わりがあるのですか?」

「あるかもしれない、まあ、可能性があることはひとつひとつ検証しないといけないんです」

「なるほど、名探偵さんですなぁ」

「小百合さんは京都でお仕事をなさっていたのでしたね?辞められた理由とか、こちらに帰ってきたいと思ったわけとかは、ご存知ですか?」

「ああ、あの時は驚きましたよ。急に、こちらで世話になっていいか?って電話をしてきましてね。理由を訊くと、今働いているお宅の事情でクビになりそうだ、京都では暮らし難いから、田舎暮らしがしたい、仕事はなんでもする、水商売でも……、というので、こちらも、働き手の嫁が、この子の母親が亡くなって、この子の縁談も滞ってしもうて、風呂屋を辞めようか、と思うてたところでしたき、風呂屋の手伝いしてくれるか?と訊いたら、喜んで、やらせてくれ、というもので、帰ってくることになったがです」

「その、クビになる理由は、お訊きになりましたか?」

「いえ、そこまでは……」

「その働いていたお宅のことは?」

と、語尾を曖昧にいって、ボンは視線を加奈子に向ける。祖父には話さなかったことも加奈子には語ったのではないか、と思うのだった。

「さあ、ワシは訊いていないが、加奈子、お前はなんぞ訊いちゅうろう?」

祖父もボンと同じように、歳の近い同性の従妹には、祖父に言いにくいことも話していただろうと考えていた。

「ええ、名前は忘れましたけど、かなり有名な映画俳優さんのお宅で、家政婦をしていたと、家政婦といっても家事だけではなくて、息子さんの家庭教師の役も仕事だったというてました」

「その息子さんのことは?それ以外でも、京都での暮らしに関して……、例えば、恋人の話とか……?」

ボンは次第に確信に迫っていく。祖父の顔が一瞬、曇った。加奈子も言葉を口に出しかけて、祖父の顔色を伺う仕草をする。

ボンと勇次がアイコンタクトをする。ここは時間をかけても、相手が──金雄か加奈子かはわからないが──話を切り出すのを待とう、と、ふたりの意志が一致したのだ。

金雄が、座卓の上の湯飲みに手を伸ばし、持ち上げようとして、手の震えに気づく。コトンと音をたてて、湯飲みが元に戻った。

「おじいちゃん、この子には隠さんと話してエイがやない?小百合ちゃんもきっと、許してくれると思うよ」

加奈子が、祖父の左腕を掴んでそういった。

「うん、そうや、ワシも墓場まで持ってゆくつもりやったけんど、小百合が先に亡うなったがやき、話してもエイろう……、刑事さん、探偵のボク、小百合の恥になることやき、ここだけの話にしてよ」

年寄りの真剣な眼差しに、刑事と探偵?は姿勢を正して、深く頷いた。

「小百合が帰ってきた時……、小百合のお腹には、ヤヤコが居った。誰の子か、小百合は頑として、ゆわんかったが、小百合と関係を持つ者は、ひとりしか居らん。役者の嵐山長十郎よ……」

長十郎と小百合の関係を知っている、勇次とボンはそれほど、驚く内容ではない。妊娠している可能性もあって然るべしだった。

「そのお子さんは?小百合さんは産まないという選択をなさったのですか?」

現状、小百合に幼子がいる様子はない。勇次は小百合が子降ろし=中絶=をしたと思ったのだ。

「いや、小百合は産む気だったんじゃ。だが、月が満ちてきたのに、仕事をし続けて、早産になった。息子やったが、死産となってしもうた。ワシの所為や。ちょうどその頃、腰を痛めて、番台に長いことは座われんかったがよ。ホンで、小百合が無理をしたがよ……」

「じいちゃんの所為やない!わたしも富夫(とみお)さんとの結婚のことで、店の手伝いがお留守やったがやき……女のわたしが気をつけちゃらんとイカンがやったがよ……」

祖父と孫はお互いを庇いあっていた。

「小百合は、そりゃあ、子が欲しかったがやろ、それから、半年は泣いて暮らした。ワシはエイ縁談でも見つけて、また、子を授かったらどうや、と小百合にゆうたが、小百合は早産の手術の所為で、もう子供が産めん身体になっちょったがよ……」


19

「坂本先輩、どこへいっちょったがです?南署の桑野さんが探しちょりましたよ。急いでいたのか、野上(のがみ)先輩に代わりにいってくれ、といって、野上さんが出かけましたよ」

ボンを寿湯から、刻屋へ送っていって、県警本部の刑事課に帰ってくると、後輩の河西(かさい)刑事が声をかけてきたのだ。

「野上が代わりに?どこへいったんや?どのくらい前や……?」

「まだ、十五分くらいかな?先輩の行きつけ、ゆうか、ブレーンゆうか、美人の若女将が居るところですよ。インマさっき、杉下さんも勇次は居らんのか?って捜しに来て、その話をしたら、なんで、ワシを呼ばんがや!ワシの大事な若女将に野上なんかを用事に遣るな!って、坂本先輩のことは忘れて、出かけましたよ。たぶん、刻屋へいったがやないですかね?僕も千代さんに逢いたいなぁ。睦実さんは、大阪の人らしいですね?また一緒に宴会したいなぁ。今度は、酒が飲める状況にしてくださいね」

「おい、河西、おまえしゃべりすぎや。ところで肝心なことを訊くけど、桑野さん、オレに何の用があって、野上は何をしに、刻屋へいったんや?」

「あっ、そうでした。桑野さんの用は、お届けものです」

「お届けもの?歳暮には早いんと違うか?」

「先輩、ケチで有名な桑野さんが、贈り物なんかするわけないでしょう?」

「けど、おまえ、お届けもの、ゆうたやないか……」

「お届けものゆうたのは、手紙ですき。なんでも、桂浜水族館のコインロッカーに一週間、入れっぱなしの荷物があって、今朝、合鍵使うて開けたそうです。そしたら、手紙が入っていて、その宛先が、『高知市井口町朝日湯近所の少年名探偵殿』やったそうです」

「朝日湯の近所?そりゃあ、刻屋のボンのことやいか!」

「ええ、そうでしょう?けんど、水族館の人間は知りませんよね?」

「ああ、マッちゃんが桂浜まで噂を拡めんかぎりは、な」

「マッちゃんって誰です?」

「そんなことはエイき、その手紙の差出人は?」

「差出人の名前はないんですが、そのロッカーが最後に使われたのが、あの心中事件の日ながです。女のほうは水族館には入ってないから、ひょっとしたら、海に飛び込んだ男が置いていったがやないかと……。それで、事件の担当だった桑野さんに届けた……」

「嵐山長十郎からボンへ?そりゃあ、嵐山の遺書かもしれんやいか!河西、課長に訊かれたら、俺は急な発熱で、早退した、ゆうといてくれ!」

勇次はそういい残して、刑事課のドアを派手な音を立てて、飛び出していった。

「さかもっちゃん、熱が出たって?また、刻屋へ手柄の種を、もらいにいったがかよ……」

「か、課長!そこに居ったがですか……?」

「あら、どうゆう風の吹き回し?県警の刑事さんが続けて三人も……、しかも、一時間の間に……」

勇次が刻屋の玄関から飛び込んできたのを見つけて、千代がそういった。

「千代さん!ボンは?」

「あら、勇さんも息子に用なの?さっき、カッコいい、青年刑事さんが、息子に手紙を届けにきたのよ。たぶん、それを読んでいるわ。ラブレターやないろうし、事件の依頼かな?それとも『事件から手を引け』って、脅迫状かな?けど、手紙一通のことで、なんでマル暴の杉下さんまできたんやろう……?」

「千代さん、今日の千代さん、顔回さんに見放されていますよ。野上が持ってきた手紙は、嵐山長十郎の遺書かもしれんもんです。杉さんがきたのは、ただ、千代さんに逢いたかっただけ。野上を出汁にしただけです」

「ええっ!嵐山長十郎の遺書?なんでそんなもんが今頃出てきて、警察がうちの子に届けなアカンの?顔回でもわからんワ!」

「そりゃあ、そうですね。遺書かどうかはわからんがですけど……、嵐山長十郎の手紙かも……」

「なんやの?ホイタラ、嵐山長十郎の遺書、ゆうんは、勇さん、アンタの想像?マッちゃんの病気が移ったんと違う?」

「母ちゃん、勇さん、名刑事に近づきゆうよ」

柱時計のある座敷に息子が手紙を手にして現れた。

「名刑事?勇さんが……?」

「ボン、手紙、読んだんか?」

ボンの登場に玄関口で立ち話していたふたりが同時に短い問いかけをした。

「まあ、座って話そうよ。長くなりそうやから、特に母ちゃんには……」

そういって、三人でいつものテーブルに腰を降ろす。

「アテも仲間に入れてよ」

と、お寅さんがお盆に湯飲みを乗せてやってきた。

「アッシもお仲間に、お願いします」

惣菜売場の扉を開けて、角刈り頭が顔を覗かせる。白い理容師の衣装を身に着けたまま。仕事中に駆けつけてきたのは、一目瞭然だった。

「いえね、警察の車が続けて来やしたからね。客を慌てて、済ませて、飛んで来ましたよ。店は臨時休業の看板を掛けてますから、長い話でも、オッケイですぜ」

マッちゃんはテーブルに近づきながら、定休日でもないのに、やってきた言い訳をいつもの下手な江戸弁で語った。

「まあ、マッちゃんも今回の事件には協力してもろうてるし、変な噂を拡めんと約束するなら、仲間に入れてあげる」

「アッシも男ですぜ、話しちゃあいけないことは、口が裂けても……」

「そのセリフ、朝日湯で最初に訊いたよ」

「アテが訊いたき、マッちゃん、誓いを破ったら、江ノ口川のドブの中……、やでぇ……」

お寅さんが、怖い眼でマッちゃんを睨む。マッちゃんは怯えたように、深く頷いた。

「まず、勇さん、この手紙がここに届いた経緯を話してよ。野上さんが説明しかけた時に、杉下さんがやってきて、母ちゃんと話を始めて、野上さん、なんもしゃべれんかったがよ。杉下さん、野上さんが母ちゃんと話するのを邪魔しにきたみたいだったよ」

「ボンの推理、絶対正解やな……。そしたら……」

と、勇次は桂浜水族館のコインロッカーからの話を語り始める。

「ふうん、それだけでは、嵐山長十郎の遺書だとは、いい切れないわね?『事件から手を引け』の可能性もあるし……、でも、その勘が当たっていたのね?さっき勇さんが『名刑事に近づいた』っていってたから……」

「そういうこと」

 といって、ボンは白い封筒をテーブルの上に差し出す。表の宛先は『井口町 銭湯 朝日湯 近所に住む 少年名探偵 殿』そして、『親展』と書かれていた。

「中を見てもいい?」

 と、千代が遠慮がちにいう。

 息子が頷く。

 千代が中の便箋を開いて、無言で読み始める。

「千代さん、ひとりで読まんと、声を出して読みや」

 お寅さんが文句をいった。

「あっ、はい……、前略、朝日湯で会った名探偵くんへ、この手紙が今、君の手元にあるということは、わたしがこの世にいないということだろう……」

「遺書といえば、遺書よね」

手紙を読み終えて、千代が感想を述べる。

「癌やったがやね……」

と、お寅さんが呟く。

「けど、小百合さんと心中するとは書いてないんですね?」

と、勇次が確認するようにいった。

手紙には、長十郎が銭湯で演じた狂言の理由、小百合と息子を探す目的を明(あきら)かにしたあと、小百合との別れと、息子の失踪が説明されていた。そして、小百合に逢えたら、過去のことを謝りたい。長太にも謝りたかった。静かに死にたい。高知へくる前に受けた健康診断で末期の癌(がん)とわかった。苦しみたくない。高知の空の下で最後を迎えたい。君には迷惑をかけた。弟子のふたりには罪はない、許してやってくれ。

そういった内容だった。

「ひとりで死にたい、って感じですぜ?」

と、マッちゃんも勇次に同調する。

「アンタ、何か引っ掛かることでもあるの?浮かない顔をして……」

千代が正面に座っている息子をうかがうように尋ねた。

「まあ、昨日、弟子の康志さんから訊いた内容が多いから、癌以外はそれほど驚く内容ではないけど……、ひとつ、小百合さんに謝りたいことって、具体的に何なのか?妊娠させたことなのか?それなら、遅すぎる気がするんだ。そして、もうひとつ……、長太さんに謝りたかった、って、過去形で書いてあるでしょう?もう、長太さんに逢わないという意志の現れなのか?逢えない、という、諦めの意味なのか……?」

「それ、どう違うがぞね?」

「ひょっとしたら、長太さんが亡くなっていると考えていたんじゃないかと……、死に場所を高知にしたのは、長太さんが亡くなった土地だったからじゃあなかったのかと……」

「アンタ、それ、また、『ルパンの生まれ替わり』の直感?最近、多いけど……」


20

「あのう、昨日、お目にかかった、探偵さんですね?」

翌日、早めに学校から帰ってきたボンは、玄関先に彼の帰りを待ちわびていた、ジョンと散歩に出ようと、ジャンバーに着替えて表に出る。すると、若い女性から声をかけられたのだ。

「ワン!」

と、ボンが答える前に、ジョンが「イエス!」と、答えた。

「ジョン、オスワリ!」

と、犬に吠えられて、身を縮めた女性を気にかけるように、ジョンに命じる。

「はい、加奈子さんでしたね?昨日はご迷惑をおかけしました」

「いえ、祖父の愚痴をお聞かせしたみたいで……。あのう、お時間、頂けますか?昨日、祖父の前ではお話できなかったことと、今日、わかったことがあるんです。小百合ちゃんが、死んだ訳がわかるのではないかと……、でも、とても、恥ずかしいことなので、警察にはもちろん、あなた以外には、お話したくないんです……」

加奈子は思い詰めた顔でそういった。

「わかりました。ここが僕の実家の刻屋旅館なのですが、ここはマズイ。そうだ、そこに散髪屋さんがあるでしょう?あそこのご主人は気さくな人で、二階の部屋を貸して貰いましょう。主人はお客さんの相手で忙しいから、誰にも聞かれる心配はありませんから……」

そういって、ボンはマッちゃんの店のドアを開けて、二階を借りたい旨を話す。マッちゃんは、お年寄りの髪にハサミを入れており、もうひとり、小学生が漫画を読みながら、次の順番を待っているようだった。

遠慮なく、二階への階段を上がる。ジョンは店の隅っこにおとなしく寝そべった。

二階の部屋は四畳半、奥には六畳の寝室がある。居間兼食卓として使われている、四畳半の部屋は、壁際に箪笥(たんす)があるくらいだ。食事をする時は、丸いちゃぶ台を使っているのだろう、箪笥の横に立て掛けてある。

そのちゃぶ台を座敷の中央に足を広げて、置き、箪笥の横に重ねてあった、座布団を敷いた。

「お茶は出せませんが、気兼ねなく……。小百合さんのことでしたね?恥ずかしいことと、おっしゃいましたが、やっぱり、男女のことですか?」

まずは、ボンのほうから、話し始めた。その言葉に、加奈子の大きな眼が、更に大きくなった。小百合に似て加奈子も美人なのだ。小百合の顔は写真でしか知らないが、小百合より明るく見える。

「あなたを小学生、いや、少年と思ってはいけないのでしたね?ええ、そう、男女の仲の話しです。本来は子供に聞かせられる話ではないのですが……祖父にも話せないほどの恥ずかしく、そして、イヤラシイ話です……」

加奈子は、最後のほうは声が小さくなり、うつむいていったのだ。

「最初に、小百合ちゃんの口から、直接訊いたことをお話しします。祖父には内緒だったふたりの秘密の話です」

そういって、加奈子はボンに視線を向ける。覚悟を決めた表情になった。ボンは無言で頷いた。

「小百合ちゃんの妊娠のことなのですが、祖父は俳優の嵐山長十郎だと断定していましたけど、嵐山さんでは、決してありません。小百合ちゃんがいうには、嵐山さんは、パイプカットしていたというんです。つまり、去勢している。子供ができないように……。なんでも、初めての息子さんが知恵遅れで、もう子供は作らないと決めたそうです」

「では、誰の子供なのですか?長十郎さん以外に小百合さんがほかの男と関係があったってことなのですか?」

「そうなりますね、子供ができる行為をしたことに……」

「小百合ちゃんから直接訊いたことは、ここまでです。ただ、あの日──亡くなる日──の朝のことですが、出かける時に、とても気になることをいったのです」

一旦言葉を切ったあと、加奈子は話を現在に──現在近くに──進めた。

「小百合ちゃんが『何かあったら、キョウダイに訊いて』と、いって出ていったのです。兄弟なんて、小百合ちゃんにも、わたしにもいないのに、誰のことをいっているのだろうと思いました」

「キョウダイ?鏡台、鏡の鏡台ではありませんか?訊いて、というのは、鏡台に何かを隠しておいたからという、謎掛けかな?」

ボンが、さりげなく、謎解きをする。加奈子がまた、瞳を大きく見開く。

「なんて、すごい推理力なの?そのとおりなんです。昨日、あなた方がお帰りになったあと、小百合ちゃんに報告しようと、小百合ちゃんの使っていた部屋に入ったんです。そしたら、夕陽の所為だと思うのですけど、鏡台の鏡がキラリと光ったのです。それでピンと閃いて、小百合ちゃんの言葉の意味がわかったのです。鏡台の引き出しの奥に手紙が入っていました。現物は見せられません。とても、他人には……、いえ、祖父にも見せられません。小百合ちゃんだけでなく、わたしの恥にもなることですから……」

加奈子はうつむいて、少し、涙ぐむ。それから、意を決したように、きっと、唇を噛みしめて、話を再開した。

「小百合ちゃんが帰ってきた時、お腹に子供がいたことは、お話しましたね?でも、小百合ちゃんの身体はそれだけではなかったのです。身体中に傷がありました。いえ、嵐山長十郎のスキャンダルになった、暴行事件でできた傷以外にも、です。うちは風呂屋ですから、お風呂はお客さんが帰ったあとの終い湯に入ります。小百合ちゃんはわたしにも身体を見せたがらなかったのですが、早産のあと、ひとりでは、お風呂に入れなくてわたしと一緒に入りました。その時、初めて、傷を見たのです」

「その傷は、誰に、どんな状況で付けられたのですか?」

「お風呂で気づいた時には、答えてくれませんでした。でも、鏡台の引き出しに入っていた手紙には、傷の理由も書かれてありました」

「傷の理由、『も』なのですね?では、ほかにも、小百合さんは告白していたということですね?我々が知らない秘密の出来事を……」

「はい、それも後程お話いたします。まずは、小百合ちゃんの身体の傷についてです。傷をつけたのは、嵐山長十郎です。嵐山はサディストだったんです……あっ!いくらあなたが普通の小学生とは違うといっても、ここまで、大人ではありませんよね?サディスト、つまり、長十郎は、女性をいたぶって、興奮する、その、変態なのです……」

ボンがいくら『耳年増』だといっても、特異な男女の行為までは知らない。もし、知っていたら、お寅さんに『江ノ口川のドブに放り込まれて』浦戸湾まで流れていっているだろう。

ボンは唖然として、部屋には静寂がおりる。その静けさの中で、コトリと襖に何かが当たる音がした。

「マッちゃん!廊下に居るの?」

と、ボンが襖に向かって声をかける。

「ボ、ボン、す、すまねぇ!お客が帰ったんで、お茶でも淹れようと上がってきたら、とんでもねぇ話をしていなすったもんで……。松岡勝次、今訊いたことは口が裂けても、殺されても、洩らしませんぜ。お嬢さん、いや、若奥さんだったか、男の約束ですぜ……」

襖を開けて、敷居の向こうで、マッちゃんは土下座をして、そういった。

「マッちゃん、お客さん、終わったの?あと一人、小学生がいたんやない?」

ボンは下の店の状況から考えて、仕事の終わる時間が早すぎると思ったのだ。

「ああ、漫画を読んでいたボクですか?あの子は、ボンが入ってきた時、髪を切っていた年寄の孫ですよ。客じゃあなくて、漫画を読みたくて、ジイさんについてきただけでさあ」

と、事情を話す。

「じゃあ、マッちゃん、店は臨時休業にして、ここで僕と一緒に加奈子さんの話を訊いて欲しいんだ。加奈子さん、このマッちゃんも探偵団の一員で、当初から事件に関わっています。さっき本人がいったように、口は固い。加奈子さんのお話を他人に洩らすことはありません。ここからの話は子供の僕ひとりでは、理解できないかもしれない。このマッちゃんと一緒にうかがってもよろしいですね?」

お願い、というより、命令のようにボンが加奈子にいった。マッちゃんは急いで、店先に『臨時休業』の札を掛けて、階段を上ってきた。

「マッちゃん、加奈子さんの話をようく訊いてよ。僕の代わりに名探偵の役を演じてもらうからね……」


21

その翌日のことである。その日、朝日湯は月に一度の休業日。客のいない、男湯の脱衣場に、座布団と縁台のような簀の子の長椅子が並べられている。各々、座り易いほうに腰を下ろしているのだ。

そのメンバーは多彩だった。朝日湯の主人と女将、刻屋旅館の『ハチキンさん』と『顔回の生まれ替わり』、アラカン先生、県警からは、勇次と杉下警部──この男は招待客ではない。刻屋の若女将に関係したことなので、勇次についてきたのだ──。寿湯の主人と孫がいる。そして、もうひとり、勇次以外は誰も知らない人物が、後ろの長椅子に座っていた。

男湯の入り口の暖簾をかき分けて、角刈り頭が入ってくる。皆の視線がそちらに集中する。

マッちゃんの服装に、彼をよく知る井口のメンバーは唖然として、開いた口が塞がらない。マッちゃんはモーニング風の裾の長いスーツの上下。フリルのついた白いワイシャツ。首回りには、窮屈そうなカラーがあり、黒い蝶ネクタイをしていた。おまけに、似合わない、口髭、カイザー髭のようだが、触り過ぎたのか、歪んでいる。顎髭があれば、例の長十郎が扮した『大久保利通』か?とも思えるのだが、顎髭はない。

マッちゃんは口髭を右手で摘まむようにしながら、脱衣場に歩みを進め、一同に向かって、

「お待たせしましたな、一同、お揃いのようで、けっこう、けっこう……」

と、いった。

「若女将、アイツは誰や?ホンで、あの格好はどうゆう意味や?」

脱衣場の中央、会場の設定上なら最前列の座布団に胡座をかいて座っている、レイバンのサングラスにバーバリーのスーツ、一見ヤクザの幹部と誰もが確信する、杉下警部が、隣に無理やり座らされた千代に耳打ちする。

「あれが、散髪屋のマッちゃん。あの格好は誰かに化けているんでしょうね?うちのどら息子の差し金でしょうけど……」

「誰に化けているんやろう?それより、ボンはどうしたんや?今日の主役はボンやないがかえ?」

「なんか、悪いもんでも憑いたがやろか?熱がある、ゆうて、学校を早引けして寝ているんです。みっちゃんと、十兵衛さんが看病してくれてます」

「ふうん、そりゃイカンな、あとで見舞いに寄るワ」

ふたりのそういう会話が耳に入ったのか、

「お静かに願えますかな、今から大切なご報告を皆さまにご披露いたします。静寂にお聴き願います」

と、誰に扮しているのかわからないマッちゃんが、大道芸人の口上のような言葉を切り出した。

「この朝日湯さんで発生し、心中事件として、片付けられた、謎多き事件の真相を、本来であれば、ルパンのごとき、直感と名推理にて、あっと驚く解決をお届けする、刻屋の名探偵がご披露するところですが、わけがありまして、ルパンに代わり、不肖、マツさんこと、ポアロ・マツがお相手いたします。最後まで、暖かいご支援をお願いいたします」

(エルキュール・ポアロのつもり?アガサ・クリスティの……?)

と、千代は驚いてしまった。

「前置きはエイきに、早う本題にはいりや」

と、お寅さんが急かせた。

「は、はい……」

と、今までの芝居めいた態度をハチキンさんの一言で台無しにされて、マッちゃんは、ゴホンと咳をした。

「最初にいっておきますが、事件は解決しております。今更、真相を暴露しても誰かが得するわけでもありません。かえって、不幸になる方がいるかもしれません。しかし、真実に蓋をすることはできない!これが我々、井口探偵団の結論です!」

「若女将、アイツが探偵団の一員なんか?探偵団の質を落とすことになるぞ?」

最前列で、杉下警部が千代に囁く。勿論、マッちゃんにも聞こえているのだが、修行を積んだ──ハチキンさんに鍛えられた──彼は、何事もない振りで話を続ける。

「もう、皆さまご存知と思いますが、ここ、朝日湯において演じられた、人間喪失の狂言。作者ならびに主演は東映時代劇でもお馴染み、嵐山長十郎。脇役に弟子のふたり。この弟子を使っての早変わりにより、大久保利通がただの作業員に変身する。ところが、そのトリックを観てもないのに、早々に見破ったのが、我が探偵団のルパン君。驚く長十郎、慌てて宿を払います。ところが、ルパンの追跡は弟子たちを通じ、本丸に迫って参りました」

「若女将、こいつ、本当に床屋か?講談師とちゃうか?」

またまた、バーバリーの男が囁く。千代は、ハァ、とため息をつくしかなかった。

マッちゃんの講談調の話は、タクシー会社から、南海荘、桂浜へと場面が移る。

「さて、ここからが、謎解きでございます。皆さま方が事実と思っていらっしゃいますことが、実は錯誤であったことをルパン君は突き止めました」

「錯誤?ということは、あの事件は心中ではない、との結論かい?それなら、誰もがそう思っているよ。長十郎が小百合を殺して、自殺したってね」

レイバンのサングラス越しに、馬鹿にした表情がありありと読み取れる。

「そう、皆さまの考える真実は、警部さんのおっしゃるとおりでゴザンしょうね?だが、我々が調査の結果、出した回答は、その逆」

「逆?ははは、逆なら、小百合が長十郎を殺して、自殺したっていうのかい?」

と、警部が再び、呆れた口調でいった。

「さすが、天下の鬼警部さん、正にそのとおりでゴザンすよ……」

「もう一度、龍王岬での目撃証言を検証してご覧なせぇ。長十郎が海に飛び込んだのが、最初の目撃。誰も小百合が刺された場面は見ちゃあいませんぜ。いや、小百合が鳥居の側に倒れかかったところを見たのは、まわりの観光客が、飛び降り自殺だと騒ぎが起こった後のこと。小百合が長十郎の自殺を見届けて、自分で胸を刺したほうが、時間的にも、目撃証言にも合致していやしませんかえ……?」

「た、確かにそうです。あの時、飛び降りた男が刺したがやろう、といったのは、現場にはいなかった、水族館の職員。まわりの人は、その言葉を否定しなかっただけで、誰も男が刺したと証言していないのですよ……」

千代の後ろの長椅子に座っていた、勇次が、目撃証言について、思い出したように喋った。

「しかし、長十郎が自殺する理由も、それを見届けて、小百合が自殺する理由も全くわからんぞ?」

「わかっております。それが、本日、皆さまにご披露いたします、真相でございます……」

途中で、素の下手な江戸弁が飛び出したマッちゃんが、再び、つけ髭に右手をやって、ポアロを気取り始めた。

「若女将、今、思い出したが、井口に名物が居って、『ハチキンおばあさん』と『顔回の生まれ替わり』もうひとりが『センミツのマツ』この男がその法螺吹きかよ?」

「うん!顔回は要りません。確かに彼がそのマッちゃんですよ。でも、今日のマッちゃんは、うちのドラ、やない、正義感の強い、息子に代わって探偵役を演じているんです。なんでも、これから披露される真相は、とても子供の口からいえる内容ではない。大人でも、女のわたしでは勤まらないことだそうです」

「そいたら、過激過ぎる話か?暴力団かそれ以上のテロリストが絡んじゅうがか?」

「そっちやのうて、男女の……ドロドロですよ……」

「エート、あっ、こっちやったか……」

ポアロのつもりの男はスーツの左右の内ポケットを探って、白い封筒を取り出した。それを一同の前でヒラヒラさせる。

「これは、一昨日ルパン君に届けられた、嵐山長十郎からの手紙です。坂本刑事もお読みになって、内容は長十郎の遺書に等しいものと確信しております。手紙の入手経路につきましては、ご存知でない方もいらっしゃいますが、省略して、まず、この手紙が書かれた時間について、申し上げます。手紙が書かれたのは、桂浜の水族館の中、つまり、長十郎が自殺する、半時間以内に書かれたものです。昨日、長十郎の弟子のひとり、うどん屋の康志さんに確認したところ、桂浜の売店で、便箋(びんせん)を買われたとのこと。その便箋の透かし絵の柄が、証言と一致しております」

「前振りが長いちや!それより、アンタ、さっき、長十郎は小百合さんに殺された、かのような話をせんかったかね?長十郎はその手紙に書いてあるとおり、癌にかかって、死期を知って、苦しむより、早う、死にたかったがやろがね?」

せっかちなお寅さんが結論を急かせる。

「左様、この手紙を書いた時点では、お寅さんのおっしゃる、とおりでしょうな……」

「と、いうと……?」

「そのあとで、小百合さんに逢っておりますな。何か会話をしていたことは、目撃されております……」

「その会話が長十郎の気持ちを変えた、とゆうんかえ?」

「ふたりの会話がどのようなものであったか?それは永遠の謎ですな。しかし、推測はできます。ひとつは、小百合の当日の行動によって。いまひとつは、小百合が出かける前に書き残した、手紙によってです。小百合は前夜、近所の同業者から、ここで起きた、人間喪失事件を教えられます。小百合には、その狂言の作者もその意図も理解できました。その夜、彼女は二通の手紙を書きます。一通は長十郎宛て、もう一通は従妹の加奈子さん宛てでした。ここに届けられた、長十郎宛ての手紙は残念ながら、長十郎と共に、波間に消えたと思われます。しかし、もう一通にその長十郎宛ての手紙の内容に触れた箇所があったのです……」

そういって、ポアロ役の男は、勇次の横に座っている加奈子に眼を向けた。

「その手紙──加奈子さん宛て──には、他にも、たくさんの告白が綴られております。後程、事件の真相に関わる箇所をお話しいたしますが、ここでは、長十郎宛ての手紙の内容部分をお話しします。小百合は長十郎の目的を察していた。長十郎が息子の長太の行方を探していることを……、その手掛かりを得るため、自分──小百合──を探しているのだと……。そこで、連絡の取れる居場所の電話番号を知らせます。宮崎という、元同業者が入院している『白梅園』という病院の電話番号でした」

「元同業者の宮崎さん?それは火事を出した、朝倉(あさくら)の松乃湯(まつのゆ)さんのご主人のことですかな?」

と、加奈子の隣に座っている、老人が尋ねた。

「小百合は宮崎さんとは、面識はないはずじゃが?火事があった時は小百合は入院していたし……。何をしに、宮崎さんに逢いにいったがやろう?」

と、最後は独り言のように呟いた。

「ご老人、良い質問ですな。小百合さんが宮崎さんに逢いにいった理由、それは間違いなく、長十郎さんに関わること。としたら、答えはひとつ、長太君の行方についてであります」

「宮崎さんが長十郎の息子のことを知っている?そんなことがあるわけがない。宮崎さんと嵐山長十郎はなんのつながりもないはずですよ」

「だが、お風呂屋だった。長太は小百合さんを探して、お風呂屋を訪ねていたんです。宮崎さんのお風呂屋にたどり着いたときに、腹を空かして倒れてしまう。宮崎さんは、親切に、長太さんの面倒を見てくれた。家族の一員同様に……」

「ほいたら、松乃湯さんに五年ほど前から働きだした、親戚の子、ゆうとったのが、長十郎の息子やったがかえ?」

「そうゆうことですね」

「小百合はそのことを知っちょったがですか?」

「さて、どうでしょう?我々は推測しかできませんが、小百合さんは松乃湯さんに新しく家族ができたことは知らなかったでしょうね。何故なら、小百合さんが高知に着いたときには、その新しい家族は誕生していたのですから……」

「そうや、松乃湯さんが親戚の子やゆうてたのは、小百合が帰ってくる前の日やったワ……」

「そしたら、小百合さんが宮崎さんを訪ねる理由がのうなるやない?」

「お寅さん、良い疑問ですな。小百合は前夜までは知らなかった。前夜、長十郎の狂言を詳しく訊くために訪れた、近所の銭湯で、五年ほど前に、十六歳くらいの知恵遅れの男の子を雇った風呂屋を知らないか?と尋ねてみたのですよ。ほんの思いつきでね。そしたら、火事で今は商売してないけど、朝倉にあった、松乃湯さんに、そのくらいの歳の無口な子がおった。ただ、火事でどうなったか知らん、と教えられたのです。宮崎さんが白梅園に入院していることもその時、訊いたのですよ。これは、その銭湯のご主人に確認しています。ただ、ここで、間違いが起こります。小百合は古い新聞記事を探して、火事の記事を見つけます。その切り抜きが小百合さんの鏡台で見つかりました。火事の記事は小さく、亡くなった人は男女二名、とだけしか書かれてありませんでした。第一報で、遺体の身元が判明していなかったのです。小百合さんはその男女の男のほうを長太さんと勘違いしてしまったんです。小百合さんは、長十郎さん宛ての手紙にそのことを書きました。つまり、長太君は四年前、火事で亡くなったと……」

(ああ、そうやったがや。一昨日、長十郎さんの手紙を読んで、うちの息子が、長十郎さんは長太さんが亡くなったと思っていたのやないか?って推測したのは、正解やったがや。ルパンの生まれ替わりの直感、恐るべしやな……)

と、千代はマッちゃんの謎解きより、息子の直感に感動していた。

「手紙を読んだ長十郎さんは癌の申告を受けた以上にショックだったでしょうね。高知にきた目的は癌で死ぬ前に息子に逢って、跡を託したかったのでしょうから……。長十郎の自殺する理由ははっきりしています」

「けんど、それやったら、やっぱし、長十郎の自殺に小百合が後追いをしたことになるがやないかえ?小百合さんが長十郎を殺す理由もないし……」

「お寅さんの疑問に答えるためには、小百合の当日の行動と、遺された告白文をお話ししないといけませんね。ただ、告白文のほうは詳しくは話せませんので、ご了承していただきたい……」

マッちゃんは、そこで話を止めて、一同に視線を巡らした。

「小百合は当日の朝、地味な格好で出かけます。この地味な格好が、小百合のそれからの行動計画を表しています。久しぶりに再会する、元愛人に逢う服装ではありません。小百合はまず、ここ、朝日湯に立ち寄ります。長十郎が今日も大久保利通の扮装でやってくる、役知町では、一週間きたそうですから、六回目があると考えていました。だが、この予想は良いほうにハズレます。朝日湯のご主人がすぐに届けます、といってくれて、遣いの人──堅太君──に手紙をもたしたのです……」


22

「さて、ここからは……」

ポアロに扮した、急拵(きゅうごしら)えの探偵さんは、それからの小百合の行動について、確定的でないことがらも交えて語る。

小百合は朝日湯に手紙を託すと、その足で『白梅園』に向かう。その途中、闇市で、細身の包丁を購入した。それが、小百合の命を奪う凶器となった。

小百合が白梅園で宮崎老人に確認したかったのは、火事で亡くなった男性が長太であった、という確証だ。そして、長太の松乃湯での暮らしぶりだった。宮崎老人は、火事により、妻とひとり息子を亡くす、という悲劇にあって、精神錯乱状態だったのだが、病院での治療と歳月の経過により、言葉は不自由であったが、筆談等による、意志の表現はできるようになっていた。小百合は事前に、病院に電話して、そのことを確認し、面会の了承を得ていたのだった。

だが、小百合が病院に着いたときには、宮崎老人は危篤状態で、とても、長太のことを訊ける術はなかった。ただ、偶然ではあったが、死期を見守る役目を受け持った。

宮崎老人の容態が悪化している時、長十郎から、電話がはいった。それで、桂浜の水族館前で落ち合う約束を交わした。

そのあと、病室での沈黙の時間の中、窓越しに何者かの視線を感じて、その方向に眼を向けた。そこに、死んだと思っていた、長太の姿を見出だしたのだ。ただし、長太は女性の顔をしていた。服装はグレーの作業着、下はスラックスなので、完全な女性ではなかった。小百合は長太の家庭教師をしており、長太に女性への変貌欲があること、時々、口紅を塗り、女性用のカツラを被る場面にも出くわしていたのだった。

「ご臨終です……」

と、いう、宮崎老人の脈拍を確認していた、白衣の医師の声に小百合は我に帰った。

その後、応接室で、宮崎老人の葬儀や、持ち物の整理について、説明を受けたが、自分の立場を──宮崎老人との関係を──説明し、これ以上立ち入ることは拒否したのだった。

そして、最後に、中庭で見た、女性について、さりげなく尋ねたのだ。

(間違いない!あれは長太だ。火事で亡くなった男性は宮崎老人の息子だったのだ)

と、看護婦──勇次が逢った美智子とは違う女性──の話を訊きながら、小百合は自分の勘違いが長十郎に与えた衝撃には、この時、考えることはなかった。

結局、小百合と長太は逢うこともなく、永遠の別れとなった。

病院を出た小百合は、バスで種崎まで行き、渡船に乗って、浦(うら)戸(ど)湾(わん)を渡り、長浜(ながはま)の梶ヶ浦(かじがうら)にたどり着く。また、バスに乗って、桂浜に着いたのだ。

その、行程の時間の中で、小百合は長十郎や長太と過ごした京都での出来事を回想し、今の自分を見つめていた……

小百合は半月ほど前、銭湯の常連客から、求婚された。相手は、近所の米屋の次男坊で、見た目は太り気味の、どこか西郷(さいごう)隆盛(たかもり)を想わせる男だった。

返事はしていない。ただ、相手の小百合に対する気持ちは以前から、察していたし、近所でも、長男より働き者で、親孝行だと評判の人物だった。見合いの話もあるのに、全て断っていたのは、小百合の存在があったからだ。

だから、結婚相手として、不足はない。ただ、小百合はもう、子供が産めない身体だった。そのことを相手に正直に伝えた。

 一度、結婚を考えた相手があり、子供ができたとわかる前に別れた。子供は早産で死んでしまい、自分は子供が産めない身体になったと……

「それは、知っちょった。ワシは次男坊で、跡取りではないから、子供ができんでも構わん。もし、小百合さんが、子供を育てたいなら、姉が子沢山やき、ひとり養子にもろうてもエイ。ワシとふたりで寂しうないなら、ワシは小百合さんが傍に居ってくれるだけでエイがじゃ……」

歳のわりに童顔の次男坊は、汗をかきながら、小百合に愛を告白したのだ。

だが、小百合の幸せな気持ちは、別の出来事で無惨に消されることになる。

「非常に申しあげ難い話になります。ある人物を責めることになります。ただし、情状酌量していただきたい一面もございます。そこは、皆さまの価値観が違うように、その人物に対する評定──これが裁判で皆さまが陪審員(ばいしんいん)だとすれば、評決でしょうか──はそれぞれにお任せいたします。前置きが長くなりましたが、次なる、小百合さんに起きた悲劇を語らせていただきます……」

それは、小百合が亡くなる数日前の出来事。その日は月に二回の早じまいの日で、午後ハ時には、明かりを消して、小百合は風呂掃除をしていた。いつもなら、小百合が女湯、加奈子が男湯を片付けるのだが、その日、加奈子は学校時代の友達が出産するというので、急にその手伝い──産婆さんによる、自宅での出産──に出かけたのだ。そのため、小百合はひとりで先に女湯を片付け、続けて、男湯のほうに移った。時刻は九時をはるかに回っている。明かりはほぼ消され、湯船は、残り湯に入るためだけのお湯が、微かな明かりに揺れていた。

小百合は裸だ。あとは、残り湯に浸かり、湯船の詮を抜いて、その湯船を磨くだけだからだった。

湯船の横で、石鹸だらけになっていると、いきなり、後ろから抱きしめられた。驚いて、声も出せない。男の大きな両手が、泡だらけの乳房を優しく包み、そして、きゅっと、掴んできた。

背中に男の胸がのしかかり、小百合は、前のめりになって、両手を湯船の縁にかける体勢になる。

乳房を掴んでいた両手が、小百合の腰の辺りに移ったと思うと、いきなり、小百合の大事な場所に異物──男の一物──が……

「なんぞね!イヤラシイ!小百合さんは誰かに風呂場でイタズラされたがかえ?どこの誰ぜよ。アテが、一物、引き抜いちゃる!」

マッちゃんの話がかなり微妙な場面になって、お寅さんは、慌てて、口を挟んだのだ。何せ、ここには、小百合の祖父と従妹がいるのだから……

だが、千代は別のことを考えている。この話は、小百合の告白の手紙に書かれていたこと。ならば、加奈子の口から、マッちゃんだけでなく、自分の息子も訊いたことになるのだと……

息子が訊いた話はこんな程度ではない。小百合と長十郎との異常な性行為、そして、小百合に子供を授けた、もうひとりの男がいることも、小百合はそれとなく告白しているのだ。それをボンは訊いている……

「おいおい、ポアロの出来損ないの探偵さんよ、そいつは犯罪だぜ!婦女暴行、情状酌量なんて、ありゃあしないぜ」

と、強面の警部がポアロ擬きを問い詰める。マッちゃんは、その犯人が、加奈子の夫の富夫であり、富夫は小百合と加奈子を間違えて、性交に及んだのだ、と語った。

「間違えた?そいつは犯罪者の必ずいうセリフだぜ。夫婦の寝室なら、ともかく、商売している、浴場だぜ。浴場(よくじょう)で欲情(よくじょう)なんて、洒落(しゃれ)にもならんやろうが……」

ところが、間違える理由があった。小百合はいつもは、女湯を担当して、男湯はほぼ、加奈子が担当していた。その日、加奈子が出かけたことを富夫は知らない。富夫は職場の女性の寿退社の送別会に出席していて、お酒がはいっていた所為で──よく似た従姉妹同士とはいえ──妻と従姉を間違うという、大失態を犯してしまったのだ。

「加奈子と富夫の夫婦は、時々、終い湯の浴場で、夫婦の行いをしていたようです。ベッドの上より、感じるそうでね」

マッちゃんの話はそこまでで、結局、この事件の所為なのか、小百合は米屋の次男坊の求婚を正式に断ったのだ。

だが、本当の理由──求婚を断った──をボンとマッちゃんは訊いていたのだ。

富夫は後ろから挿入すると、

「加奈子、出すぞ!」

といって、呆気なく行為を終わらした。

「加奈子、おまんのここは最高じゃ」

といいながら、精液が溢れ出している場所を指でなぞった。

結局、富夫は最後まで、小百合を加奈子と思い込んだまま、残り湯で、ざっと身体を流して、浴場を出ていったのだ。

小百合は、富夫が去った浴場で、泣き笑いをしていた。富夫に人違いで犯されたことが悔しいのではない。富夫なら、ふつうにやらせてやってもよかったのだ。それほど、純情でも、貞操(ていそう)、貞淑(ていしゅく)でもないのだ。

小百合は、富夫との行為にまったく、快感を感じなかった、快感も不快感も、痛みすら、感じなかったのだ。それが哀しかった。長十郎との異常な性行為により、自分はふつうの女性としての行為ができない身体になってしまったと思い込んだのであった。それは、間違いだったと思う。富夫の一物はふつうの男性に比べ、かなり小さい。しかも、早漏(そうろう)だった。

「短小(たんしょう)、包茎(ほうけい)、早漏、男の三大劣等感の持ち主なのよ、うちの亭主。ベッドではなく、浴場でするのも、ベッドじゃあ、わたし、全然、感じないからなの……」

と、加奈子は昨日、床屋の二階で、ボンとマッちゃんに告白したのだ。

小百合は自分の身体をこんなに変え、幸せな結婚さえできないようにした男に対して、メラメラと復讐の炎を燃やし初めていた。同時に、復讐が達成したら、こんな世の中から、おさらばしよう、と決めていた。

その矢先、朝日湯での出来事を知ったのだ。

なんという、好機。『鴨(かも)が葱(ねぎ)を背負(しょ)って』きてくれた……


23

「ボン、具合はどうや?」

ちょうど、ポアロ擬きの話が過渡期にさしかかった頃、朝日湯の隣、道路を挟んで建っている『刻屋旅館』の二階の客間、窓越しに朝日湯の浴場──男湯のほう──が覗ける一室。発熱した、この家の長男が、妹や弟に感染(うつる)といけない──インフルエンザかもしれない──という理由で、隔離されていた。

往診にきてくれた、電車通りで開業している宅間(たくま)先生は「ただの風邪じゃ」といって、風邪薬を置いていった。

看病していたのは、みっちゃんと、この日、大阪へ帰る前に挨拶にきた、『進藤英太郎』似の男だった。

そこへ、しばらく、仕事の都合で、顔を見せてなかった、顔役さんの片腕、『山長の軍師』といわれている、小政──本名、政司(まさし)──が訪れて、ボンの発熱を知り、見舞いの言葉をかけたのだ。

「うん、ただの風邪やって。ちょっと、働き過ぎかな?」

と、布団の中からボンは弱々しい声で答えた。

「働き過ぎ?なんぞ、わたしが居らん間に、勇さんが泣きついてきたがかよ?」

(はは、アラカン先生とおんなじこといいゆう)

「勇さんやないけど、ちょっとした依頼があってね……」

「ほう、事件か?それで、解決したがかよ?」

「うん、一応は……、後味が悪い結果だった……」

と、ボンは小政には、今回の事件の顛末は話さないことにした。どうせ後程、母か勇さんから聴くだろう。

「そうだ、今回の事件の後味の悪さが、この熱の原因ながよ。大人、男女の、しかもふつうやない、異常な……その……性行為、性癖かな……?が、僕には理解できんがよ。母ちゃんやばあちゃんには、絶対話せんし、みっちゃんにも……」

「異常な性行為?変質者が絡んだ事件やったがか?そりゃあ、ボンには理解できんろう?話せる範囲でエイき、わたしに話してみいや?あっ!みっちゃん、席をはずすか?」

「いえ!わたしも訊きます!わたしの大事なボンをこんな目に合わした、変態は許せません!」

「いや、僕の発熱は直接、その人の所為ではないし、その人はもう死んでいるし……」

「ははは、みっちゃんの気持ち、ようわかる。それに、今のみっちゃんのセリフで、ボン、元気が出てきたみたいやで?顔色、ようなったワ」

「ええっ?あっ、ホンマや!熱、下がったワ」

「前にも、いいましたが、この刻屋さんは、ホンマに羨ましい、エイ家族ですねぇ。血の繋がりより、大事なもんを皆さんが持ってはる……、わたしも引退したら、ここで暮らしたいですワ……」

無口な男が会話に入って、しみじみとした口調でそういった。

「なるほど、嵐山長十郎という役者はサディストの変態野郎だったがか?いや、完全なサドやない。行為のあと、浴室に小百合を連れていき、身体を洗ってやりながら、泣いて謝るとは、通常のセックスができん、異常性欲者やな」

ボンの赤裸々(せきらら)な小百合の告白を又聞きした小政が、長十郎の性癖をそう解説した。

「そんなことされて、小百合さん、何で早う逃げんかったがやろう?わたしやったら、絶対、逃げ出します!」

「まあ、小百合も小百合やったがやろね。みっちゃんには理解できんことやろうけど……。あっ、わたしも経験はないよ。小説で読んだだけや……」

「けど、小百合さん、妊娠したがでしょう?パイプカットしても、妊娠するがやろか?」

「うん、ゼロではないが、小百合さんは否定しているようやから、長十郎の子ではないな。小百合には、心当たりがあった。つまり、長十郎と別の男と、した、ってことやろうな……」

「そんな男、居ります?役者仲間やろうか?」

「うん、えっ!ボン、心当たりがあるんか?」

黙って小政とみっちゃんのやり取りを聴いていたボンの表情が変わったのを見て、小政がボンに言葉をかけたのだ。

「別の男なら、ひとり、すぐ傍に居った!」

「ちょっと待ってくれ!ボン、それはないろう?」

「えっ?ふたりで、何をゆうてるんです?」

「十兵衛さん、どう思う?この中では、一番年上やし、経験も豊富やろう?」

「ボン、何いいゆうか、わからんのに、十兵衛さんが答えられるわけないろう?まだ、熱があるがやろ?」

「みっちゃん、大丈夫ですよ、ボンの問いに答えましょう。ボンの考えている男が、小百合さんのお腹の子のテテ親です。十六歳なら、充分可能です。頭と身体は別もん。しかも、その男は小百合さんを愛していたはずです」

「十六歳?ええっ!その男って、長太君のこと……?」

「これは、長太君に訊くしかないけど、あの、小百合さんに対する暴行事件。あれは、ただの説明不足による、長太君の知的障がい者としての発作的な行動ではなく、恋人同士の別れ話のもつれ、やったんやと思う。何故なら、長太君は周りが思っているほど、知恵遅れではなかった。そして、その前から、ふたりには、性的交渉があった。長太君はその行為が子孫を残す行為ではなく、母親が子供に教える行為だと思っていたはずです。昔、若(わか)殿(との)に乳母(うば)がそうして、教えたみたいに……。長太君は宮崎さんに母親を捜している、といっているんです。偽りではなく、本心でそういったのだと思います……」

「ひとつ屋根の下で、父親とその愛人が派手な行為をしていたら、何度か、現場を見たでしょうね。父親は夢中で気づかないが、小百合は見られいることに気づいていた。そして、父親とはできない、ふつうの性行為をその息子に求めたのでしょうね。そちらのほうが、快感、いや、女性の幸福感を得られたのでしょうね……」

無口な男が、饒舌(じょうぜつ)になった……


24

「桂浜の水族館で手紙を書き、それをロッカーに入れ、鍵をかける。そして、長十郎は小百合と数年振りの再会を果たします」

ポアロ擬きが、長十郎と小百合の最後の場面を語っている。

水族館の入口で落ち会ったふたり。おそらく、長十郎のほうから、言葉をかけただろう。久しぶり、元気にしてたか?と……

小百合は、無言で頷くような会釈をする。殺意を覚られないように……

長十郎は人目を忍ぶように、足を龍王岬へと運ぶ。浜辺には、季節外れにも関わらず、祭日で、観光客が目立っていたのだ。

小百合の手紙で、長太が火災により死亡したことを知らされていた──誤報だったのだが、それは知らない──長十郎は、この旅の目的を失くしていた。最後の希望は小百合にもう一度、求婚し、承諾を得ること。それが叶えば、余命数ヶ月でも、幸せだった。長太に残すつもりだった財産を小百合に全てやってもよいと思っていたのだ。

小百合は長十郎を隠し持ったナイフのような包丁で、刺し殺す計画は変わりなかったが、ただ、長太のことを知らせるか否かを迷っていた。

「オカヤン(母親)の実家の風呂屋で働いてるんやて?仕事、キツうあらへんか?どうや?長太がノウなったんや。ワシともう一度、一緒に暮らさへんか?」

長十郎の言葉を小百合はどう捉えただろうか?

(この人にとって、あの可愛い長太君はお荷物でしかなかったんや!高知まできたんも、長太君を連れて帰って、施設に入れるつもりだったんだ!)

        ※

《小百合にとって、長太は──彼女の一方的な感情ではあるが──生涯でたった一人の恋人だった。そして、女としての快感を知ったのも、長太との行為だった。お腹の子は、あの時授かったと信じている。だから、産みたかったのだ。子供ができない身体になったことは、諦めがついた。どうせ、結婚はできないと思っていたからだ。だが、こんな女でもいいといってくれる男がいた。子供ができなくてもいいといってくれた。結婚しようと思った。ところが、そんな夢を蜃気楼のごとく消し去る出来事、従妹の亭主に人違いで犯されて、何にも感じなかった……結婚は諦めた……

自分の一生を考えると、役者の嵐山長十郎に出会ったことが分岐点。そこから、不幸が始まったのだ……だから、人生の最後は長十郎と一緒に終わらそうと決めた……》

        ※

小百合は長十郎の求婚をさりげなく、躊躇している振りをしながら、龍王岬の石段を登っていった。

龍王岬は数名の観光客がいたが、誰もがカップル、もしくはグループであり、地味な服装の小百合たちに注意をはらう者はいなかった。

「わたしの返事はこれよ!」

人目のない、鳥居の横で、小百合は隠し持ったナイフを突き出した。切っ先は長十郎の右手の甲を掠めただけだった。

「あなたを殺して、わたしも死ぬのよ。ずっと、あなたに復讐することを考えて生きてきたのよ……」

と、小百合は最後の嘘をいった。

「そうか、ワシはそんなに恨まれていたのか?小百合、ワシはもう、長うは生きられん身体や。末期癌やて。それで、おまえに断られたら、死ぬ気やったんや。おまえが手を出す必要はない。嵐山長十郎、最後の場面を演じるよって、おまえ、見届けておくれや……!」

そういうと、長十郎は崖に設けられた、転落防止の柵を乗り越え、ターザンのごとく、海に翔び込んだのだった。

「きゃあ!」

という悲鳴。

「男が海に飛び込んだぞ!」

という男の声。

小百合は、手にしたナイフを逆さに持ち替え、左胸に刺し込んだ……、微かに笑みを浮かべて……

「以上が今回の事件の顛末でございます。我が探偵団の頭脳というべき、『ルパンの生まれ替わり』が集めましたる事実と推理力により、たどり着きましたる真相。ルパン君に成り替わり、彼の右腕というべき、我輩、ポアロ・マツが、ご披露いたしました。最後まで、ご静聴、まことにありがとうございました……」

そういって、ポアロ擬(もど)きは深々と頭を下げる。同時につけ髭が脱衣場の木の床に、ポタンと落ちた……

ただし、前記の《 》で囲んだ部分は、彼には披露できなかった。そこは、のちに語られる……

「うむぅ、見かけ倒しかと思うたが、立派な推理、理路整然としている……」

最前列のサングラスの警部が、感心した言葉を発する。

「でも、推理したのは、ボンですよ。マッちゃんは、しゃべりが上手いから、代役をしただけ……」

そのすぐ後ろに座っていた、勇次がネタをばらす。

「でも、まだ、謎が……」

と、千代がいいかけると、

パチパチパチ、と手を叩く──拍手であろう──音がした。

寿湯の主人か孫か?と視線を送ると、爺さんは肩を震わせ涙をこぼし、孫はその肩を抱くように寄り添い、涙顔だった。

拍手の主は、最後尾に座っていた、千代の知らない人物だった。千代がそれに気づいて振り返った時には、その人は椅子から、立ち上がっていた。

「素晴らしい、お話でした。嵐山の最後の芝居、ターザン役のジョニー・ワイズミューラー、を彷彿いたしました。嵐山は学生時代、水泳の選手でしたので、さぞかし、見事な翔び込みだったでしょうね?」

ゆっくりとした口調で、その人は女性のアルトの声で、マッちゃんの謎解きを讃えたのだった。

「ただ、ひとつ、残念なことは、小百合さんのお腹の子の父親が誰であったかの謎が解けていませんね?」

千代が今、いおうとしていた、《 》の部分。残っている謎のことを、その人は指摘したのだった。

一同の視線がその人に注がれる。

その人は、勇次以外は見知らぬ人。千代以外の者は、外見から、女性だと思っている。千代と、あるいは、お寅さんには、何故か、違和感があった。女性でもなく、男性でもない、中性的な……、それは旅館を営んできた経験、たくさんのお客に接してきた所為だ。そして、もうひとり、よく似た人物を、千代は知っている。先日、婚約が決まった、真だ。彼女は、幼いころ、女の子として生きることを辞め、男装をして暮らしてきたのだ。その真と、空気感が似ている?と、しかし、どこか違う?と、千代は感じていた。息子が聴いたら、『顔回の生まれ替わりの直感』だと、ゆうやろうなぁ、と、自分でも可笑しかった……。

一同の視線を浴びて、その人は身を強張らせる。次の言葉が出てこない。

「その父親があなたなんですね?」

突然、男湯の暖簾をかき分け、小柄だが、イケメンの男が入ってくる。

「小政さん!」

と、千代が驚きの声をあげる。

「おう、『ホームズの生まれ替わり』の登場かよ?なかなか、凝った演出やのう、まだ、謎解きは終わってなかったがや!二部構成で、真打ちの登場やったがかよ……」

強面警部が勝手な想像を披露してくれたおかげで、小政の登場に違和感がなくなった。千代は小政が事件に関与していないことを知っている。だが、今さっき、息子から、事件の一部を彼が聴かされたことは知らない。

「突然、現れて、申し訳ない。ご存知でないかたもおられますが、わたしも探偵団の一員、ルパン君と共に、謎の解明にあたっている者でございます」

小政がマッちゃんのいる、壇上とされる場所に立って、一同に自己紹介をする。

「おう、よう知っちゅうぜ、『山長の軍師』の噂は。井口の名物やきのう」

と、最前列から、サクラ(・・・)のような声がかかる。

小政の視線が、立ったままの最後尾の人に注がれる。

「まあ、もう一度、お座りなさい。謎解きを続けますから……」

と、小政がその人に優しくいった。

「さっき、あなたは、妙なことをいいましたな?小百合のお腹の子の父親が、そこにいる、女性のかたのように聞こえましたが、そんなわけ、ありませんよね?」

そう尋ねたのは、寿湯の爺さんだった。

千代は黙っている。本当は、何故、小政がここに現れて、たぶん、マッちゃんも知らない、謎解きをするのか?息子の差し金なのだろうけれど、それを訊きたい欲望を押さえていた。

(それに、あの人は何者?さっき、長十郎が水泳の選手だったなんて、誰も知らんことをしゃべったし……)

「あっ!ああぁ……」

千代は真相を見つけたのだ。そして、その衝動で、おかしな声を発してしまった。

「若女将!どうした?気分が悪うなったか?あんな変態の男の話を訊いて、純真無垢な若女将には、そりゃあ、ショックやったやろ……?」

隣の警部が、またまた、勘違いをして、千代を気遣う。千代が純真無垢なわけがない。三人の子持ちなのだから……

「いえ、気分が悪うなったがやありません。小百合さんのお腹の子の父親がわかったがです。ショックはショックですき、杉下さんの推理も半分は合うてます……」

「父親がわかった?さっきの小政の兄ちゃんの言葉でか?さすが、顔回の……いや、いわれんがやった……」

「そこはエイですき、小政さんの話を訊きましょう。きっと、そこの人の正体と、父親の正体を語ってくれます。しかも、論理的に……」

「我が探偵団の広報係というべき、マツさんが、どこまで、詳しく、お話したか、わたしにはわかりません。重複する部分があるかもしれませんが、お話できなかった、小百合さんのお子さんの父親について、確信を得ましたので、ご披露いたします」

小政はそう前置きして、特に、寿湯のふたりに視線を向けた。

「小百合さんがそのお腹にお子さんを身籠ったのは、逆算して、例のスキャンダルになった、暴行事件の一、二週間前のこと。長十郎はパイプカットの手術を受けており、生殖機能──能力──はなかった。ならば、その時期にほかの男性と小百合さんは関係をもったことになる。そんな男がいたでしょうか?誰かに無理やり、つまり、強姦されたのではないことは、小百合さんのお子さんを産みたい、その後の気持ちでわかります。つまり、そこに、愛が、それに似た感情があったはずです。しかし、小百合さんはその時期、長十郎との異常ともいえる性行為をしていた。愛などない、ただの欲望だけのセックスです。そんなふたりの間に入れる男がいたでしょうか?います。ただひとりだけ……、その男は、長十郎とは比べものにならない、純真無垢な男でした。歳はわずか、十六歳、見かけはもっと幼かったはずです……」

「おい!小政の兄ちゃん、まさか、十六歳の純真無垢な男というのは、長十郎の息子、長太のことやないろうにゃあ?」

と、最前列の強面がいう。

「さすが、県警の鬼警部さん!それ以外、考えられませんよね?」

「い、いや、ワシは……、おい、若女将!小政の兄ちゃんのいうことが、合うちゅうがかよ?十六歳の知恵遅れの子が、子供を作れるかよ?」

「杉下さんの十六歳の時はどうでしたか?昔なら、中学生、今なら、高校一年生。発情期、っていい過ぎですけど、もう、その部分は大人ですよね?それと、知恵と肉体は別物ですし、長太さんは周りが思っているほど、知恵遅れではないはずですよ?ほら、さっきも、きちんと、マッちゃんの話に賞賛の拍手も送っていたし、謎が残っていることも指摘したでしょう?」

「な、何いっているんや、若女将!そこに居るんは、女やでぇ!長太なわけないろう……?」

「後ろの後輩刑事さんに確認したらどうです?長太さんの顔を知っているのは、この中では、その人だけですよ……」


25

「あの綺麗な娘さんが長太やったなんて、この道三十年のアテもビックリ仰天。しかも、小百合の子のてて親やったなんて、二重のビックリや!千代さん、あんた、ようわかったね?さすが、顔回さんやない、老舗旅館の女将に近づいちゅうねえ……」

朝日湯の事件の顛末が明らかになった、数日後の日曜日。すっかり、体調のよくなったボンを囲んで、刻屋のいつもの玄関脇のテーブルに探偵団のメンバーがすわっている。

お寅さんの言葉で、事件を振り返る会話が始まったのだ。

「だって、お母さん、わたしもお母さんも、長太さんが妖艶な女性姿で写真に写っているって、息子から訊いていたでしょう?」

「ああ、確かに……。けんど、あれほどとは思わんろう、ふつうは……。アテらぁ、実際に写真は見てないし、子供のいう、妖艶やで?まさか、女優さんより、綺麗やったやないの……」

そうなのだ。あの日の長太──実は勤めているバーでは蝶子(ちょうこ)と名乗っていた──は化粧を少しはしていたが、妖艶というより、妖精のように美しく、且つ、可愛いかったのだ。数年前に銀幕に登場した、『ローマの休日』の女優のように……

「しかし、小政の兄さんが、さっそうと登場した時はビックリしましたでェ」

と、同じビックリ話をマッちゃんが語りだす。

「台本にはないことですし、小政の兄さんは、全然事件は知らなかったはずですぜ。出張してたんでしょう?しかも、外国へ……」

「マッちゃん、あの謎解きには、台本があったがかよ?」

「先生、そっち?わたしも小政さんの登場には、ビックリしましたよ。まさか、うちの息子が、小百合さんのお腹の子の父親を考えついて、自分が行けないから、今度は小政さんを代役にするなんて、顔回さんでもわかりませんよ」

「しかし、ボン、よう考えついたな、大人でも思いつかんことやぞ」

「いや、大人やない、純真な少年やからこそ、少し歳は上やが、長太君の気持ちがボンには理解できたがですろう。大人はセックス、ゆうたら、すぐ、イヤラシイほうを考えますき……、あっ!わたしはボンに近いですよ。すぐにボンの考えがわかりましたき……」

「なんも、小政さんがイヤラシイ大人とは思うたりせんよ。小政さんは紳士やもん。あっ!いやや、先生もマッちゃんも紳士よ……」

「千代さん、アッシに気を遣うこたぁありませんぜ。アッシは人並みにスケベェですから……。うちの二階で、寿湯の孫娘から、小百合さんの赤裸々な告白を聴かされた時やぁ、あそこが疼きましたぜ」

「コラ!マツ、子供の居る場所でいう話やないろう?ホンマにスケベェやとようわかったワ」

「ばあちゃん、マッちゃんの今の話くらいやったら、なんちゃあないよ。マッちゃんのいうとおり、加奈子さんの話は衝撃的やったけど、ようわからんかった。これから、本を読んで勉強するワ。小政さんも小説の中で知った、っていうてたから、読書は大事ながや……」

「小政さん!何を吹き込んだの?あんた、そっちの勉強はせんでもエイ、読書は大事やけど、学校の勉強に役立つ本を読み!漫画ばっかり、読まんと……」

女性ふたりに、男四人、全く、太刀打ちできない。恐るべし、ハチキン魂……

「ワシは、朝日湯の脱衣場と、エッちゃんところで、弟子のふたりに会うただけで、あとを知らんき、あれやけんど、ボンはいつ、あの心中は小百合から仕掛けたもんや、と気づいたんや?」

「白梅園から帰って、ばあちゃんと話をしていた時……」

アラカン先生の疑問にボンが答える。

「弟子の康志さんには、長十郎が自殺する理由が思いつかん、っていうてた。芸能プロダクションを立ち上げる計画もあるって……。そんな人が、急に自殺、しかも元愛人といっても、数年間、音信不通だった女性と無理心中する、その理由が思いつかんかったがよ……。そしたら、ばあちゃんが、小百合さんに何か強うに、いわれたがやないかと……」

「なるほど、原因は小百合のほうにあるか……、さすが、年の功ですね?」

「小政の兄さん!あんたまで、アテを年寄扱いするがかね?」

「い、いや、人生経験が豊富やと……、旅館の女将さんとして、ですよ……」

小政は慌てて、フォローというより、いいわけをして、金田一耕助のごとく、髪の毛をかき回した。

「ばあちゃんの言葉で、小百合さんの臨終の言葉、『これは心中です』といったのは、真実だったんじゃあないか?ナイフを刺したのは、長十郎やのうて、小百合自身だったがやないか?そう考えたら、目撃者がいないことに気づいたんよ。誰も長十郎が小百合を刺したところを……」

「ああ、警察が心中としたのも、小百合の胸の傷が、刺されたとも、自分で刺したともとれる微妙な刺し傷やったそうや。勇さんがもう一度確認したって……。ナイフの柄は、指紋がつきにくいタイプで、検出できなかったそうや。闇市で小百合が買ったことも、ボンの予想どおりやった、と勇さんに訊いてる」

小政は事件の全貌を知らないままだったので、勇次から、詳しく聞き出すために、勇次と逢っていたのだ。そして、ボンの解明を裏付ける、証拠や証言をもう一度確認してきたのだった。

「けんど、おんなじ『心中』でも、警察は長十郎から持ちかけたもん。ボンが暴き出した真実は、小百合に殺意があった。長十郎は小百合を殺人者にしとうのうて、自ら、海に翔び込んだ……。マッちゃんが最初にゆうたように、真実を知って、寿湯の爺さん、ショックやったろう?泣いてたで……」

「けど、今は立ち直っていますよ」

と、アラカン先生の心配を小政が否定した。

「小政さん、それ、どうゆうこと?」

と、一同を代表して、千代が尋ねる。

「新しい、家族でもできたかな?」

と、ボンが小政が答える前に推測を語った。

小政は、驚いて、言葉につまる。

「新しい家族?加奈子さんに子供ができたの?」

と、千代がいう。

「それはないろう?短小で早漏の亭主を追い出して、再婚するやったらわかるけんど……」

お寅さん、自分でいった『子供の居る場所でいう話やない』を忘れている……

「いやぁ、参ったなぁ」

と、いいながら、金田一耕助になった小政が照れ笑いを浮かべた。

「絶対、誰にも想像できないことやと思いよったに、ボンにはわかったがか……、ルパン以上の直感力やね」

「えっ?千代さんとお寅さんは自分の考えゆうたけんど、ボンはなんちゃあゆうてぇへんでぇ?」

と、先生が驚く。

「ほら、ボン、答えを教えちゃり」

と、小政が照れ笑いから、本当の笑顔になっていった。

「長太君、いや、蝶子さん、彼女が寿湯で働きたい、っていうたがやろう?小百合さんが居らんなって、お風呂屋を続けていけんなった寿湯と、元々、小百合さんの母親の実家を探していた蝶子さんやき、互いにありがたい申し出やったと思うよ」

「さすが、ルパンの生まれ替わりや、大正解!勇さんとわたししか知らんことやったのに……、実は勇さんと一緒に寿湯へいったんよ。さっき、先生がゆうたように、爺さんがショックを受けたろうき、心配して、様子を伺いにね。それと、お寅さんがゆうた、短小、早漏の亭主のその後も気になるしね?まあ、養子やき、追い出されても、文句はいえんろうけんど……」

小政がそういっても、お寅さんは例の『子供の居る……』とは、突っ込まなかった。ハチキンさんも男前には甘いのだ。

「そこに、長太君から蝶子さんに替わった娘さんがいたのね?」

「ええ、長い髪を後ろで束ねて、割烹着着て、若い頃の千代さんそっくりな、それは可愛い、美少女ですよ。寿湯、男湯が満員になること、請け合います。勇さん、見惚れて、挨拶、忘れてましたから……」

「ちょっと、小政さん!わたしの若い頃って、わたしがもう、若うない、ってゆうてるの?」

「い、いや、千代さんは実年齢より、ずっと若う見えますよ。充分、可愛いですき……」

「実年齢より?それ、歳がいっているって意味よね?」

「母ちゃん、本当のことやいか、二十二歳の娘と比較されたら、三十年を超えた子持ちが、ひがんでもイカンちや。小政さん、それでも、母ちゃんを可愛い、ゆうてるのやき、感謝しいや」

「はあ、あんたのゆうとおりや、十歳も下の娘と張り合うてもイカンワ。小政さんに可愛いと思われてることに感謝するワ、三人の子持ちとして……」

「千代さん、わたしは、ずっと、千代さんが好き、いや、ファンですき……」

「ああ、あの強面の警部さんに負けんようにね……」

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