奈落を刻む

折り鶴

それはいつでもそばにある

 祭りの夜のことだった。僕は、妹の手を引いて、あかりに照らされた屋台のあいだを歩いていた。僕は十歳で、妹は八歳だった。

 金魚すくい、ヨーヨー釣り、射的、コイン落とし。綿菓子、林檎飴、たこ焼き、ベビーカステラ。

「どれか、いっこだけやからな」

「うん」

 僕の言葉に、妹は、神妙な顔で頷いた。

 妹は、きょろきょろとあたりを見まわし、真剣な顔で、ひとつひとつの店を見た。獲物をさがしているかのようだった。そしてそれは、ある意味で正解だった。なぜなら僕らは、ふたりとも、一円だって持っていなかった。どれかひとつだけ。ひとつだけ、思い出にしてたのしんで、それから逃げるつもりだった。僕も妹も、こういった、ひとの多い場所での逃げ足に自信があった。つまりは、常習犯だった。

「あれがいい」

 地域のちいさな祭りだった。会場の公園は、子どもの足でも、一周するのにたいした時間はかからなかった。妹が視線で示したのは、そんな会場のはしっこ、もう少しでも進めば、闇に溶けてしまいそうな、薄暗い屋台だった。

 それは、食べものの店ではなく、射的といったゲームの店でもなかった。似顔絵を描いてもらうような、そういった類の店だった。ただし、描いてもらうのは似顔絵でなく、キャンパスは色紙ではなかった。

 ボディペイント、とでもいえばいいのか。絵の具のようなもので、顔や腕に、イラストや模様を描いてもらう、そういうサービスのようなものだった。

 少し離れたところで、僕と妹は手を繋いだまま、店の様子をうかがった。僕より少し年上だろう女の子ふたりがいて、片方の子が腕にペイントをしてもらっているところだった。描いている人間、ようするに店の人間は、もうひとりの女の子のかげに隠れてはっきりと見えなかったが、どうやら店番はそのひとひとりのようだった。

 都合がいい。

 やっぱり、逃げるなら、敵は少ないにこしたことはない。

 しかも、どうやら料金は後払いのようだった。腕に模様を描いてもらっていた女の子が立ち上がり、店の人間にお金を渡しているのが見える。

 女の子ふたりが屋台を離れたのと入れ替わりに、僕と妹は歩き出す。すれ違った少女たちの腕には、花が描かれていた。こまやかな、繊細な花だった。

 店先にいたのは、どこか、浮世離れした、そこにいるのに遠いところにいるような、不思議な佇まいの男だった。

「ふたりとも? それともひとり?」

「ひとり」

 男に訊かれたのでそう答えて、妹を、店前に置かれたちいさな椅子に座らせる。

「なにがいい?」

 男に問われて、妹は首を傾げる。男は妹のほうを見やり、たとえば、と例をあげる。花とか蝶とか、ほかにも、月とか。男の声は、静かで、深い場所まで響くような、そんな独特の声だった。

「蝶がいい」

「わかった」

 妹は左腕を伸ばし、男のほうへ差し出した。男の手が、妹の手を取る。そうだ、と思いついたように、男が続けて妹に問う。

「すぐ消えるほうと、消えないほう、どっちがいい?」

「消えないほう」

 妹は、これは、即答だった。たいがいの場合において、彼女は迷わない。

 男は傍らのテーブルに置かれた筆をとり、妹の左腕へと、蝶を描いてゆく。僕はそれを、隣で立ったまま見守った。

 見事なものだった。

 ものの数十秒のあいだに、妹の左腕で、蝶が舞う。

 僕は、すっかり男が手を動かす様子にみとれていた。しばらくして、できたよ、と男が妹の腕を離す。僕もだが、妹も、逃げることをすっかり忘れていた。感心しきっていたのだ。

「……きみも、なんか描いてやろうか」

 なぜだか、僕はうなずいてしまった。

 妹が椅子から立ち上がったので、入れ替わりで座る。

「なにがいい?」

 男に訊かれて、考える。なにがいい? わからない。僕は、こういった質問が苦手だった。なにがいい、とか、なにがしたい、とか。正直、いまでも、あんまり得意じゃない。

 黙りこんだ僕を、促すように男が言う。

「なんでもいいよ。さっき言ったみたいな、花とか、月とか、そういうものでもいいし、もっと曖昧な、かたちのもたないものでもいい。もちろん、架空のものでも、ここにないものでも」

 そう言われて、僕のなかに、ふとひとつの言葉が浮上する。考えることなく浮かんだままに、僕はそれを口にする。

「奈落」

 瞬間、男が顔を上げる。

 視線が合う。髪の隙間から、黒い目がのぞく。改めてはっきり顔を見ると、案外、若い男だな、と思った。おかあさんが、いつのまにか家に連れてくる男たちよりも、ずっと若い。子どもの僕がこんなふうに思うのは変だと思うが、むしろ、幼い、とすら思った。ときどき、妹がする目と似ていたのだ。ただ、純粋な驚きだけで、あふれて揺らぐ目。

「——きみには」

 たっぷり数秒の沈黙のあとで、男が静かに口を開く。

「きみには、なにか、信仰があるの?」

 当時の僕は『しんこう』を『信仰』に変換できなかった。それでも、男の訊きたいことは、なんとなくわかった。

「神さまとか、そういうののこと?」

「そう」

「ない」

「わかった」

 うなずいてからの、男の動きは速かった。手が伸びてきて、僕の左腕を掴む。男の手は、細くはあったけれど、それでも、骨ばっていて、僕の手よりずっとおおきかった。

 おとなの手だ。

 そう認識したとたん、お腹のあたりが冷たくなる。おとなに本気で腕を掴まれると、どうやったって逃げられない。もっとちいさいころは、無理に腕を引き抜こうとして、よく肘の関節が抜けた。最近はそれはなくなったけど、でも、逃げられないことにかわりはない。妹に僕の緊張が伝わったのか、隣で身をこわばらせたのがわかった。

「怖がらなくていいよ」

 相変わらずの静かな声で、男が僕に、いや、僕らに告げる。そして、男の手が動く。右手に持った筆を、僕の左腕に走らせる。塗料と筆の感覚が、つめたくて、ちょっとくすぐったい。

「きみたちさ」

 呼びかけられたので、僕と妹は顔を上げて、男のほうを見る。男は顔を上げず、僕の左腕に視線を落としたまま続ける。

「逃げるつもりだっただろ」

 腕を引き抜こうとしたが、からだは凍ってしまったように、動かない。妹が、僕の服の裾を握る。祭りの賑わいが、遠く聞こえる。

「……いいよ、代金、いらない。どうせ、染料あまらせるところだったし、それに」

 男はやはり、顔を上げない。視線は、僕を徐々に浸食する、黒く、複雑で、繊細な、無数の線に注いだまま。

「奈落は、描いたことがなかったから。描いたことがなかったものを、描くのは、たのしい。……だから、ありがとう」

 男の声には、憐れむような色も、同情をにじませた様子も、なかった。ただ、そうであるのだということを、そのままに声に出した、そんな調子だった。

 急に、からだから力が抜けた。僕の服の裾を握っていた妹も、同じだったのか、ふう、と隣で息を吐いたのがわかった。男は、筆の動きを止めることなく話す。

「あと、俺もきみくらいのころは、似たようなことやってたし」

「……それ、ダサいで」

 僕が返した言葉に、男は驚いたように、手の動きを止めた。ゆっくりと顔を上げ、首を少し傾げて僕を見る。僕は言葉を続ける。

「俺がきみくらいのころには、とか、そういうの」

 男はきょとんとした顔で、僕のことを見ていたが、やがて下を向いて肩を震わせた。どうやら、笑っているみたいだった。

「きみ、おもしろいな」

 べつにおもしろくない、と思ったので、僕は黙っていた。笑いもしなかった。妹も、僕と同じく、黙ったまま、笑わなかった。

 しばらく男はひとりで笑い続け、それから、急に、さっきまでの静かな調子に戻って、筆を走らせた。手首の骨からはじまった線は、もう、僕の肘あたりまでを覆い尽くしていた。

「できたよ」

 そう言って男は、僕の腕を離す。

 そこに描かれたものをただしく表現する言葉を、僕は持っていなかった。それでもひとつだけ、自信を持って言えることがある。そのとき僕の左腕に描かれた、刻まれたともいえるそれは、間違いなく奈落だった。

「落っこちちゃいそう」

 妹が僕の左腕を、しげしげと眺めてそう呟いた。そのとおりだ、と思ったので、うなずいた。男は、一瞬、嬉しそうに口角をあげたが、すぐに、表情を消した。無表情に近かったけれど、瞳の揺らぎだけは隠せていなかった。どこか、かなしそうな目だった。

「気に入ってくれたなら、まだ、描けるけど」

 男が僕の顔を見てそう言った。僕が黙っていると、どこか気まずそうに、続ける。

「……さっきのお礼に、おまけする。その、とてつもなくダサい発言をしたことを、指摘してくれたお礼」

「やったら、続き描いて」

 僕はそう言って、座り直す。男と向かい合って座っていたのを、今度は、背中を向けるように。手首からはじまり、肘の少し上、シャツのそであたりまで伸びた奈落の線は、続くとするならば、くびへ、だと思ったのだ。それも頸の後ろ側。

「ええなあ、おにいちゃんだけ」

 妹が口を尖らせる。僕は改めて、妹の左腕で舞う蝶を見る。だけれど、妹の蝶は、これで完成、という感じがした。ここから足すものは、ない。おそらくだけど、男も、同じことを思っていたようだった。

「だったらきみには、これ」

 男は立ち上がり僕らに背を向けると、なにやら荷物が置かれてあるあたりをごそごそとあさり、それからチケットのような紙を片手に戻ってきた。それを、妹に向かって差し出す。

「なに、これ?」

「金券。……えーっと、ここの祭りでだけ使える、お金の代わり。五百円分。店を出すと貰えるんだけど、たぶん、俺、使わないし。よかったら」

 妹が僕のほうを見たので、僕はうなずいた。そうすると嬉しそうに笑い、男から金券を受け取った。

「ありがとう」

「いいえ、ぜんぜん……おまけだから。けっこう気に入ったもの描けたし、描かせてもらった、そのお礼のおまけ。気にしないで」

 妹は、ふーん、と不思議そうに男を見上げ、それから、男の腕あたりに視線を移動させた。真夏の夜、暑さに支配されたなかで、男は長そでのシャツを着ていた。折り返したそで口から、ときどき、なにかはわからないが、繊細な模様がのぞいた。

「それ絵の具ちゃうくて、彫ってるんやろ?」

「うん、そう。よく知ってるね」

 妹の言葉に、男がうなずいた。妹は、この男に対して、かなり警戒心が薄れているようだった。

「知ってる。間宮まみやさんも、そうやもん」

「間宮さん?」男が首を傾げる。

「さいきん、ようおかあさんが連れてくるねん」

萌黄もえぎ

 喋りすぎ、の意味を込めて妹の名前を呼ぶと、萌黄はとたんに、ぱ、と両手を口に当てた。もう喋りません、の意思表示のように思われる。

「それ」

 僕は彼女の手に握られる、チケットのような金券を指差す。

「使っといで。……好きなように、自由に、なんでも」

 僕の言葉に、妹はこくりとうなずいた。くるりと僕らに背を向けて、それから、祭りの喧騒へと駆け出す。そうやって明るいほうへと走る妹の姿は、ふつうの、ただの、八歳の女の子だった。僕は、妹と離ればなれになるのは嫌だけど、でも、このまま、妹が帰ってこなければいいのにな、と思った。どこか僕の知らない、ちゃんとした、ふつうの、明るい場所で暮らしてくれたらいいのに。

 妹の姿が、人混みにまぎれて見えなくなったあたりで、背中から男の声がした。

「続き、描いていい?」

「うん」

 とたんに頸もとに、ひやりとした感触が走った。そのつめたさに身をゆだねると、なんだか、眠たくなってきた。もしかすると、僕は、とてつもなく疲れているのかもしれなかった。

「……妹が、萌黄、で」

 うとうとしかけたところで、男の声に、意識を引き戻される。

「きみの名前は?」

浅葱あさぎ

 僕は自分の名前を口にする。色の浅葱? と続けて訊かれたので、さあ、と僕は答える。僕は、僕の名前の由来を知らない。

「浅葱」

 数秒前に教えたばかりの、名前を呼ばれる。こんなふうに、静かに名前を呼ばれたのは、ずいぶんひさしぶりだと思った。

「なんで、奈落なの」

 数秒の沈黙のあと、僕は答える。

「わかんない」

 ほんとうにわからなかった。自分が、なぜ、奈落などという言葉を知っていたのか、それすらもわからなかった。

 僕がそれきり話す様子がないことに気がついたのか、再び、背中から男の声がする。

「——わからないときは」

 たんたんと、なにかを読み上げるように、男は言葉を続ける。そのあいだも、筆を動かすペースは変わらず、一定だった。

「わからない、を分解する。どうして、わからないのかを考える。知らないからわからないのか、それとも、考えることが足りていないのか。もし後者なら、突き詰めていけばいい。もしくは、組み合わせて、統合する」

 男の言っていることは半分どころかほとんど理解できなかった。ただ、その声は、意味は理解できずとも、音としては、僕のなかに鮮明に残った。

 しかし、この言葉に対する適切な返答は思いつかなかった。なので、ぜんぜん関係ない質問で、話題を変える。

「こうゆうの、いつから描くようになったん?」

「あー……、いつからだっけ」

 少し考えるように、筆の動きが止まったのがわかった。だけど、それはほんのわずかな時間のことだった。

「十六、七くらいかな。浅葱より、ちょっと年上くらいのころ。友達に教えてもらった」

 僕にとって、十六、七歳は、ちょっと年上、ではなくかなり年上、だったのだが、それは言わないでおくことにした。もうひとつの、思ったことを口にする。

「ええな、友だち」

「ん?」

 男が首を傾げた様子が、見なくとも浮かんだ。僕は続けて話す。

「友だち、おらんもん」

「そうなのか」

「うん。ろくなことせんから」

「誰が?」

「僕が」

 そのころの僕は、意味もなくクラスメイトを殴ったり、教師に噛みついたり(比喩ではない)、机を蹴り飛ばしたりしていた。ろくなことをしていなかった。ただ、ひとつ、言い訳をさせてもらうと、意味もなく、と評していたのは僕の周囲の人間たちで、僕にとっては、意味のある行動だったし、理由もあった。

 男はそれきり黙ってしまった。僕も口を閉じる。目も閉じる。そうすると、頸を走る筆の感触が、よくわかる。祭りの賑わいは、遠く、ここだけ、違う世界のようだった。深く、光の届かない、暗いところ。

 そのときとつぜん、僕のなかに、すとんとひとつの言葉が落ちてきた。

 僕はそれを男に告げる。

「なんで、奈落なんかわかった」 

「……どうして?」

「死にたい」

 答えた瞬間、泣きたくなった。

 震えそうになる声を、どうにかしておさえながら続ける。

「どうせ、どこにもいかれへん。ろくなことならへん。きっと、これからも、いいことなんかない」

 なあ、と僕は男に訴える。いちど言葉を見つけると、壊れたように口からあふれでた。なあ、死ねる方法、教えてほしい。男の筆の動きは、完全に止まってしまっていた。

「おとなやろ。おとなやったら、僕と萌黄と、すぐ、かんたんに、死ねる方法教えてや」

 僕の言い分としては『子どもになんか教えたり諭したりできるくらい賢いおとななんやったら、簡単に死ねる方法のひとつくらい知ってるやろう。それを教えてくれ』とまあこういうことだったのだが、改めて考えても、無茶苦茶な要求だった。それでも、男は、僕の足りない言葉を補って、返事をしてくれた。

「ごめん。俺も、知らない」

「なんで? おとなのくせに?」

「うん。おとなだけど、知らない。試してみたことはあるけど、うまくいかなかった。苦しいだけだったから、浅葱には教えたくない」

 ごめんね。そう言って、男はまた謝った。なんでなん、と僕はごね続けた。思い返してみれば、これは、僕にとってははじめての、子どもらしい我儘であったかもしれなかった。内容は、ともかくとして。こんなふうに、おとなに向かってお願いをしたり、駄々をこねたりしたことは、なかった。できる相手が、いなかった。

「……やったら」

 殺してほしい。

 出かけた言葉は、声になるまえに引っこんだ。妹が「おにいちゃーん」と大声で、僕を呼びながら、走ってくるのが見えたから。

「ほら、見て。たこやきと、サイダーもかえた」

「よかったな」

 妹は、両手いっぱいに、パック入りのたこ焼きとサイダーの瓶をかかえていた。よく、落っことさずにここまで走ってこれたなと、褒めてやりたくなるほどに、妹の手はちいさかった。持ってて、と言われたので、立ち上がり、サイダーの瓶をあずかる。妹はたこ焼きのパックを開けると、つまようじでそのうちのひとつを突き刺し、口に含んだ。そして笑う。妹の、左腕の蝶も笑った気がした。

 ひとつ、ふたつ。みっつと続けて妹は食べ、残りみっつの状態で「おにいちゃんのぶん」と言って、パックを僕に向けて差し出す。僕は、首を横に振る。

「これは、萌黄がもらったおまけやろ。僕は、べつのもの、もらったから」

 僕がそう言うと、妹は、見せて、と言って僕を見上げる。僕はしゃがみこんで、妹より頭の高さを低くする。妹は僕のうしろにまわりこみ、頸すじを覗きこんだ。そして、うっとりとした声で、きれい、と呟いた。妹がそう言うのなら、たしかに、僕に刻まれた奈落はうつくしいのだろう。そう思うと、少しだけ、安心した。妹の手元から、ソースの匂いと、熱気が、夏の気配が漂った。男はずっと、黙ったままで、僕らのそんな様子を眺めていた。

 はい、と妹は僕に再度たこ焼きを渡そうとする。僕はそれを受け取って、ひとつずつ口にする。みっつで、お腹はいっぱいになった。ここのところ、ろくなものを食べてなかったから。急にたくさんは、食べられない。

「おにいちゃん」

 戸惑ったような妹の声に、僕は顔を上げる。

「泣いてるん?」

 泣いてない、と答えようとしたけど、それはできなかった。だって、たしかに僕は泣いていた。

「なんで? こいつに、なんかされた?」

 違う、と僕は首を横に振る。どうして、泣いているのか? それを考え出してしまうと、たぶん、もう駄目になる。だから僕は考えない。いままでだって、ずっと、そうやってやり過ごしてきていた。

「萌黄。……それに、浅葱」

 男が僕たちの名前を呼ぶ。妹が男のほうに顔を向ける。僕も、右手で目のあたりを拭って、それから男に視線を向ける。

「なんか……俺にできること、ある? もっと食べたいものとか、欲しいものとか、ない?」

 それはずるい、と僕は思った。そして、男の声の調子が、さっきまでとは微妙に違っていることに気がついた。憐れみも、同情も、僕の嫌いなものだった。もう、男に対する慕わしさのようなものは消えていた。

「ない。いらない」

 男の目を見て、僕は答える。湖のようなその瞳に、傷ついたような波紋を見た。やっぱり、ずるいと思う。もうひとつだけ、僕は男に言葉を投げる。男を傷つけたいわけじゃ、なかった。

「これ以上は」

 妹の手を握り、駆け出す準備をしてから僕は言う。

「もらいすぎ」

 このときも、あきらかに、僕の言葉は足りていなかった。だけれど、男には、それでじゅうぶんだった。あくまでも、お礼で、そしておまけだったはずだった。だからこそ、僕は受け取ったのだ。施しなんか、いらなかった。

 僕は妹の手を引いて、走り出す。最後に見た男の顔は、取り残されたような顔だった。どっちが子どもだかわからない。

 祭りの会場、公園を出る直前のところで、数人の集団とすれ違った。近所のひと。誰かの親。走り抜けようとしたときに、ひとりと腕がぶつかった。なに? 危ないわねえ。ほら、菊井きくいさんとこの子やろ。ああ、あの家か。僕は妹が片手に持っていたサイダーの瓶を抜き取ると、それを思いきりそいつらの足下に向かって投げつける。僕らは、憐憫と同情と、それと侮蔑に対しては、非常に敏感だった。

 瓶の割れる音と、数人の悲鳴が聞こえてくる。妹がそれを聞いて、高い声で笑う。僕は、笑わなかった。

 ほんとは、瓶のなかのビー玉を、取り出して萌黄にあげたかった。かたちに残る、きれいでうつくしいものを、萌黄に持っていてほしかった。僕のうしろで、男の描いた奈落が、そっと笑い声をあげた、そんな気がした。



 次の夏、僕らは祭りに行かなかった。だから、再び男に会うこともなかった。

 僕と妹を取り巻く状況は、ずっと悪くなっていた。

 腕に僕の読めない文字を刻んでいた間宮さんは、母のもとに、つまりは僕らの家に現れることはなくなっていた。かわりに、冴島さえじまさんという男が出入りするようになった。

 思い返してみれば、間宮さんは、風邪を引いた僕に薬だと言って梅酒をすすめてきたり、贔屓の野球チームが勝つと夜中でもおかまいなくはしゃいだり、いろいろと配慮と考えの足りないひとではあったが、底抜けの悪意があったわけではなかった。冴島さんのように、ウィスキーを原液で飲ませようとしてきたり、散髪と称して頸もとに鋏をあててくることはなかったし、洗濯という名目で風呂場で洗剤と冷水を浴びせてくることも、なかった。

 ある夏の午後、畳に頬をひっつけて、うずくまって微睡んでいると、このまま死ねるのではないか、と思った。

 隣で、妹も、似たような姿勢で目をつむっていた。僕が死んだら、妹も、死んでしまうのだろうか。どうだろう。もしくは、ひとりぼっちになるか。——急に、もう忘れたと思っていた、男の顔が浮かんだ。取り残されたような別れ際の顔を。

 まだ、死ねないな。

 このとき僕は、生きることを決めたのだと思う。つたなくはあったけど、きちんと考えて、そのうえで生きることを決めた。男の声と言葉は、まだ僕のなかに残っていた。奈落の気配も、消えてはいなかった。



 夏が過ぎて秋が終わり、凍えるような季節になったころ、僕らのまわりは、急速に忙しくなった。

 このころのことは、あんまりよく憶えていない。ただ、知らないおとながいっぱいいたこと、しばらく、妹と会えない時期があったこと、それから病院で過ごしたことなど、断片的な記憶はある。

 おかあさんとは会えなくなって、かわりに、絶縁したと聞いていた母の妹、つまりは叔母と暮らすことになった。妹も一緒だった。

 正直、叔母との生活にまったく期待はしていなかったのだが、彼女は、叔母夫婦は、信じられないくらい僕らによくしてくれた。十六歳になって、友だちと同じ高校に通うことになったとき、また、忘れていたはずの男の顔を思い出した。友だちができた、と、届くはずのない報告を、桜吹雪のなかで呟いた。



 そうしていま、おとなになって、僕はまた、祭りの夜を歩いている。

 隣にいるのは妹ではなく恋人で、手を繋いでいることだけがおなじだった。

 妹はいまごろ、家で、叔母たちと過ごしているはずだった。ゾンビ映画鑑賞パーティーをしているらしい。なんであれ、妹がたのしそうだと、僕は嬉しい。

 妹はすっかり、あの祭りのことも、男のことも忘れていた。ただ、彼女が買うアクセサリーや化粧品には、蝶モチーフのものが多い。

「けっこう賑わってるねえ」

 恋人の言葉に、僕はうなずく。あたりを見まわすけど、とうぜん、男の姿は見つからない。

 昔、僕に刻まれた奈落は、まだ、僕のなかに巣食っている。

 いまは、満たされた日々を過ごしているけれど、だからといって、僕や妹がされたことがなかったことになるわけじゃないし、痛かった記憶も完全に消えてはなくならない。ときどき、ぜんぶ、手放してしまえ、と声がする。なにもかもめちゃくちゃにしてやりたくなるときもある。奈落はいつでも、僕のそばにあり、そこからときどき僕を呼ぶ。

 だけれど、こんなことも思う。

 あなたに刻んでもらった奈落のおかげで、僕はいま、こうして息をしている。

 かたちをあたえてもらい、閉じこめたことで、なんとか飼い慣らせているのではないか。そういったことを、僕はよく考える。言葉にあてはめてみたりもする。それがいつのまにか、物語のかたちになっていることもある。

 あ、見てほら、綿菓子だ。

 恋人の指差すほうを僕も見る。そこには、口にふくんだとたんに消えてゆく、甘い、ちっぽけなしあわせがある。僕は、そちらへ向かって歩き出す。夜はどこまでも暗いけれど、橙色のやさしいあかりは、いたるところで僕を照らしてくれている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

奈落を刻む 折り鶴 @mizuuminoue

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ