木曜日の彼の手
西しまこ
はじまり
いつの間にか、木曜日は、湯沢さんと駅で待ち合わせて英会話スクールに行くようになっていた。同じ車両で会うときもあるし、ホームで湯沢さんが待っていてくれるときもある。湯沢さんがわたしを見つけて手を挙げる瞬間が好きだ。
手。
湯沢さんの手を見ると、いつもどきどきしてしまう。
わたしが急ぎ足で行くと、「慌てると転んでしまいますよ」と言って、少し笑って、わたしを支えるようにしてくれる。
「ご、ごめんなさい」
「どうして謝るんですか?」
太陽みたいに眩しい笑顔。
「今日、大丈夫ですか?」
「あ、はい!」
「よかったです! 気が変わったらどうしようかと思っていました」
「そんな……」
気が変わるなんて、あるはずがない。ずっとずっと楽しみにしていた。
今日の英会話のレッスンが終わったあと、食事をする約束。時々、お茶はしていた。でも慌ただしくて。
「今度、ゆっくりお話ししたいですね。時間がもっと欲しいです」
コーヒーカップを置く、その指先。見惚れてしまう。
「わたしも……」
もっといっしょにいたい。話したい。
「じゃあ、次の英会話のレッスンの後、食事に行きませんか?」
「はい……!」
気づいたら頷いていた。嬉しくて。
湯沢さんが予約してくれていたのは、雰囲気のいい落ち着いたレストランだった。
「ここならゆっくり話が出来ると思いまして。それにおいしいんですよ」
湯沢さんがメニューを取ってくれる。
ゆっくり食事をする。
おしゃべりをしながら食事をする。
久しくしていなかったことだ。
*
食事をしながらもスマホを見ていて、こちらを見ようともしない。もう正面から顔を見たことがなかった。
食べたいだけ食べて、席を立つ。お皿に食べ残された物たち。お茶碗に薄汚く残る白米。流しにすら持って行かない。
息が詰まりそうだった。
「今日、友だちと食事して帰るね。ごはんは冷蔵庫に用意してあるから」嘘ではない。
「うん」スマホを見たままの答え。
*
「肉がいいですか? それとも、魚?」
湯沢さんはちゃんと聞いてくれる。わたしの気持ちを。
「お肉にしようかな」
「いいですね。ぼくも同じのにしよう」
湯沢さんが注文をしてくれて、わたしたちは食事は来るのを待つ。
「それで、さっき話が途中になっていた、相良さんが観たおもしろい映画というのは?」
自分がおもしろいと思ったものを聞いてくれる。なんて嬉しいのだろう。
「じゃあ、ぼくも観てみようかな――それとも、何かいっしょに観に行きますか?」
*
多分、いいときもあったのだ。
だけど、もういい、と思った。
もうわたしは頑張ることはやめようと思った。
くらくてつめたい砂の中で、声を出さずに泣くのもやめよう。
*
「はい」
視線が絡む。
思い出す、この感じ。
料理が運ばれてきて、食べる。
目と目。
口に吸い込まれていく、肉。
ほほえみ。
肉を切る、手。
わたしの指には指輪はない。
指輪はしまってある。ずっと前から。
湯沢さんにもない。
指輪が存在するのかどうかは知らない。でも、そんなことは問題ではない。
あの手に触れたい。
そして、あの手が、あの指先が、わたしに触れるのを想像する。
想像しながら、わたしは肉を咀嚼した。
了
一話完結です。
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木曜日の彼の手 西しまこ @nishi-shima
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