第10話 とあるシェイプシフターの一生②
ボロボロの布切れのような服を着ていた「自分」に対して、黒い男は自分の着ていたコートを羽織らせ、しかし後ろ手に縛りながら、自身の車の後部座席へと乗せた。
その時「自分」は、生まれて初めて、母親以外の人間の前で、泣いていた。
抑制しようとしても、次から次へと、涙が溢れてくる。感情が高ぶり、とてもではないが、制御出来そうも無かった。
悲しみという感情はやがて黒く濁っていき、次第に「自分」の心を、黒いものに変色させようとしていた。
「母親が憎いか?」
黒く、少しだけ大型のワゴン車を運転し始めて数分後、黒い男は「自分」へと話しかけてきた。
その声は「自分」を攻撃してきていた時と同じように、低く冷たい声色であったのだが、何故だか「自分」の心に、スッと入り込んできた事を覚えている。
だから「自分」は素直に「はい」と、答えた。
「食い殺したいほどに憎いか?」
首を上下に激しく動かしながら、「自分」は「はい」と、返事をする。
「本気で食い殺したければ、車から飛び降りて、そうすればいい。俺は止めない」
「……貴方に切られた傷が」
「ほ。何言っている。もう治ってるだろ」
そう言われて、初めて気が付いた。傷はふさがり、血が止まっている。満足に動かす事が出来なかった腕や足、顎なんかも、普段と変わらない感覚へと、戻っていた。
痛みなんて感じないので、分からなかった。傷が、癒えている。
「お前に悔いが残らないのなら、それもまたいい。食い殺せ。だが、人間に危害を加えた化け物は、処分する決まりだ。その時は俺が相手をしてやる。覚悟を決めて、食い殺す事だな」
男の言葉に、反論も肯定も、出来なかった。何一つとして、言葉が浮かんでこなかった。そしていつの間にか「自分」の心は変色をやめ、フラットな状態へと、戻っている事に気が付いた。
「……あんな腐った母親なんか、どうでもいいだろ。忘れろ。これからお前は、人として生きろ。生まれて何年なのか知らねぇが、幸いお前はシェイプシフターだ。生まれつき賢く力もあり、見た目すらどうとでもなるんだ。他の化け物に比べたら、随分と恵まれてるよ。生肉の渇望はスーパーの鶏むね肉で補え。人間として生きろ」
黒い男は、語った。
車の運転をしながら、相変わらずの低く冷たい声色で、長く長く、語った。冷たい声色なのに、熱が、伝わってきた。この男の言葉、そのひとつひとつを、聞き逃してはいけないと思った。
この男は「自分」に、生きるための術を教えてくれた、初めてにして唯一の、人間だった。
そして、呼ばれなくなって、いつの間にか忘れていた「自分」の名前を、新たに付けてくれた、人物でもある。
母親の所を抜け出してから三日後「自分」の呼び名は「ホープ」となった。
名前を付けられた当初「自分」はホープの意味について、知らないフリをしていた。知らないフリをして、名付け親である黒い男ことフロルドを、恥ずかしがらせたかった。そして、フロルドの真意を知りたかった。
「自分」を「希望」と名付けたフロルドは、どんな気持ちで、どんな想いで、名付けたのだろう。
未だにそれは、わからない。
「化け物を狩るという仕事をしている以上、危険が付きまとう。いつ死んでもおかしくねぇ」「お前は人間として生きろ。こんな生活、人間らしさの欠片もねぇ」という理由で、フロルドは「自分」を突き放そうとしていた。警察署の前で「自分」を車から引きずり出し、中に連れて行こうとしていた。
しかし「自分」はフロルドの傍に居たかった。どうしても、離れたくなかった。
フロルド以外の人間が怖かった。「自分」をナイフで傷付けた人間だというのに、フロルドの事は怖くなかった。むしろ、フロルドからは、暖かさを感じていた。「自分」の正体を知るまでの母親のような、暖かさだった。
だから「自分」は泣きじゃくり、フロルドの体にしがみついた。
冷たい声で「離れろ」「クソガキ」と罵ってきたが、最後の最後、フロルドは舌打ちをした後「死んでもしらねぇぞ」と言いながら車の助手席のドアを開き、「自分」の背中を押しながら、車に乗せてくれた。
その時に「自分」の名前を、付けてもらった。ホープと、呼んでもらった。
化け物や悪魔、悪霊を狩りながら日本全国を一人で回っているフロルドにとって、黒いワゴン車が家替わりとなっていた。
生活費はというと、化け物や悪霊を退治した際に、助けた人から厚意として頂く、わずかな報酬でやりくりしている状況。厚意なだけあって、くれない人も大勢いるし、ハンター側から金銭を要求する事は、禁止という訳ではないが、恥とされているらしい。
ルドルフという、日本在住のハンターから「父」と呼ばれている人物から、時々口座にお金が振り込まれる事があるが、大した金額ではなかった。つまり、フロルドはいつでも貧乏だ。
お風呂は二日に一度入れればいいほう。悪ければ一週間以上、体を洗う事が出来ない事もある。食事も質素で、半額惣菜を狙って深夜のスーパーを徘徊する毎日。
フロルドは何も言わなかったが「自分」という厄介者が増えたせいで、家計にかなり打撃を与えていたと思う。
申し訳無い……と「自分」がいくら思っていても、家計に対して「自分」に出来る事は、なかった。
だからせめて、フロルドの狩りを手伝いたいと、何度も申し出ていたのだが、それも許可されなかった。
フラストレーションが、溜まっていた。自分の無力を嘆く毎日だった。
フロルドと一緒に全国を回って数か月が経過したある日の事、フロルドの携帯に、ルドルフからの着信が入った。その事自体はいつもの事なのだが、連絡の内容が、いつもと違っていた。
どうやら、人に害を及ぼすシェイプシフターが現れたようだ。シェイプシフターの事件をルドルフがフロルド宛に知らせてくるのは「自分」が知る限り、初めての事だった。
フロルドはこの依頼を受けて直ぐに「シェイプシフターはな」と、初めてシェイプシフターについて語ってくれた。
シェイプシフターという化け物は数が多く、吸血鬼に次いで二番目に多い怪物だと言われているらしい。
それにも関わらず事件が少ないのは、シェイプシフターという化け物は頭が良く、人間社会に上手く溶け込んでいるからだそうだ。
生肉を好み、その渇望はタバコ以上、覚せい剤未満と言われているが、渇望を抑えるには人肉でなければいけない訳では無く、肉であればなんでも良いので、入手も摂取も現代では楽なもの。
さらに付け加えると、シェイプシフターは基本的に非暴力主義らしく、アメリカでは人間との共存を願ったシェイプシフターが団結し、様々な業種の派遣会社を起業し成功を収めている、なんて噂も耳にした。
しかし、それでも全てのシェイプシフターがそういった志を持っている訳では無い。
幼少の頃、親の愛に飢えたり、人間の子供からイジメを受けたりしたシェイプシフターは精神を病み、人間に反感を抱くケースがあるそうだ。
「ホープもそうなってたかもな」
街灯の無い深夜の道を、片手でハンドルを握りながら運転していたフロルドの表情は、少しだけ寂し気に見えた。
フロルドの車は現場までの二百キロの道を、一度も休む事無く走り続けた。
現場のすぐ近くにあるコインパーキングに車を停めたフロルドは「少し寝る」と言いながらシートを倒して、腕を組み、目をつぶった。
「自分」はフロルド……というより、人間と比べて眠る時間が短く、覚醒している時間が長い。二日に一回、三時間ほど眠れば十分であった。
なので、少しだけ暇な時間が出来てしまった。
車のドアを開き、外に出る。そしてフロルドから貰ったコートを身にまとい、散歩をする事にした。
場所はそこそこ栄えた都会。時刻はサラリーマンが帰宅するような、夕刻時。
その時の「自分」の見た目は、母親のファッション雑誌に載っていた、二十代中盤の、とても美しいモデルのもの。
服はフロルドの真っ黒いパーカーとスエットのズボンを着用していて、かなり野暮ったいのだが、それでも顔の美しさからか、「自分」に話しかけてくる男が居た。
いわゆる、ナンパである。流石、ナンパが文化と言われている地域なだけある。
人が怖いという理由もあり、「自分」はそんな男達の事の一切を無視し、暗くなりつつある繁華街を早足で通り抜けた。
人が怖いのだが、人に慣れなくてはいけない……一人での散歩はそのためのトレーニングとして、時々行っていた。
そしてこの頃には、すでに気づいてはいた。
本当に怖いのは人ではなく、人の中にある意識だ、と。
この頃の「自分」は生まれてからまだ七年か八年であったが、脳の発達が人間よりも優れているらしく、思考や精神面はすでに人間の成人と同程度。もしくは超えていただろうと思う。フロルドに言わせると「嫌に落ち着いたマセガキ」だったらしい。
「俺が言った言葉のせいかも知れないが、ホープは嫌な事も嬉しい事も、心の奥底に引っ込めている。もっと笑え。悲しめ」
フロルドのこの言葉は、今でもハッキリと思い出せる。
そして「そんな事はない」と反論した時の、フロルドのクシャリとした悲痛な表情も、思い出せる。
思い出して、泣きそうになる。泣きそうになって、また心を奥底に引っ込めて、泣くのを我慢してしまう。
嘘ついてごめんなさいと、今更ながらに伝えたい。
短い散歩を終え、フロルドが待つコインパーキングへと帰ってきた。遠目から見たフロルドは未だに眠っているらしく、「自分」はゆっくりと車へと近づいていく。
しかしその時、おもむろに「自分」の肩を後ろから強く、引っ張られる感覚に襲われる。
「ひっ!」
母親とフロルド以外の誰かに「自分」の体を触られた経験が無いためか、全身に鳥肌が立つ。そして咄嗟に腕を振り払い逃げようとするのだが、今まで感じた事の無いほどの強い力で「自分」の体は後ろに引っ張られ、脇の下に腕を入れられ、投げ飛ばされた。
浮遊する感覚に襲われる「自分」の体は、数メートル先でようやく地面へと落ち、ナイフで切られても痛くなかった自分の体に、ほんの少しの鈍痛が走ったのを、感じた。
地面にうずくまり、身を預けている「自分」の顔面に、投げ飛ばした奴が小走りで助走をつけ、思い切り蹴りを入れる。その衝撃により「自分」の頭は固いアスファルトに叩きつけられてしまった。
目の前が、歪んで見えていた。
「ハンターか」
男の声が、聞こえていた。
とても低い、男の声だった。
現代ハンター複音書 時系列順版 ナガス @nagasu18
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